35、FISH
24日の夜はクリスマス会がある。
教会はないのでミサとは異なるのだが、時計塔の一階ホールで限りなく聖歌隊に近い合唱部の面々が限りなく聖歌に近いお歌を素敵なパイプオルガンの演奏に乗せて披露してくれる学園屈指の高尚な文化的イベントである。年末なので帰郷しても問題はないのだが、学園でクリスマスを過ごしたいと考える生徒は大変多く、寮生のほとんどがこのクリスマス会に出席する。必要な持ち物は一本のキャンドルと胸に秘めた温かい心だけだ。
「明日はクリスマス会かぁ」
ちなみにクリスマス会の最後に時計塔の鐘が鳴るのだが、この瞬間に見つめ合っていたカップルは結ばれるという逸話がある。弓奈には全く関係のないお話だが、自分が暮らす学園にこのようなロマンチックな物語があるという事実に彼女は無邪気にはしゃいでいる。
「楽しみだね。紫乃ちゃん」
弓奈はマフラーを首に巻く紫乃に言った。
「そう・・・ですね」
「どうかしたの」
何やら引っかかることがある様子である。
「いいえ・・・大したことではないんです。私の妹のことです」
「雪乃ちゃん?」
「はい。まあ気にすることでもないと思うのですが、聴いて頂けますか」
二日前のことである。紫乃の妹雪乃は、母と二人で市内北部の渓谷へ雪を見に行った。教育熱心な鈴原家の母は少しでも娘に広い世界への興味を持って欲しかったのだろう。雪乃も母とお出かけすることにまんざらでもなく、日傘とお気に入りのぬいぐるみを抱きしめて母のクラシックカーに乗った。
雪化粧の山道を抜けて小さなイギリス式サウナを母と共に楽しんだ雪乃は、帰りがけに一本の橋の上で立ち止まった。朱塗りの手すりの隙間から見下ろした谷底は、そこへ向かってしんしんと舞い降りる雪ん子たちの壮麗なダンス会場となっており、雪乃の小さな胸の中の芸術的感性を優しく揺さぶった。雪乃は母のカバンのポケットから小さなフィルムカメラを引っ張り出した。お気に入りの景色の中に自分の宝物を一緒に収めたくなるのは大人も子どもも同じである。雪乃は腕に抱えていたぬいぐるみを橋の手すりの上に優しく乗せてカメラを構えた。
この世界の悲しみはその訪れに前触れを用意していないことが多い。雪乃がシャッターを切るよりわずかに早く、一陣の北風が谷を駆け抜けたのだ。
「あっ」
雪乃の親友は一度橋桁にお腹をぶつけてから深い谷底の白色の中にその姿を消してしまったのだった。
「それで昨日もずっと部屋にこもって泣いていたらしいです。なんていうか・・・困った妹で」
「紫乃ちゃん!」
「な、なんですか」
弓奈は紫乃の手を取ってうるんだ瞳をぐっと彼女の顔に近づけた。
「探しに行こう。そのぬいぐるみ」
「いや・・・でも谷底の川に落ちたらしいので、無理です」
「そうなの?」
「ずっと下流の川底とか、山のキツネに拾われてその巣の中とか・・・いずれにしても私たちでは探せません」
たぶんキツネは無いなと弓奈は思った。
「でも・・・このままじゃ可哀想」
その時不意に曇りガラスの彼方から微かなクリスマスキャロルの調べが聞こえて来た。そう、弓奈たちはタイミングに恵まれていた。
「紫乃ちゃん! じゃあクリスマスプレゼントにしよう。明日の夜に、雪乃ちゃんの枕元へそのぬいぐるみを置いておくの」
「ですから・・・見つけられないので」
「同じぬいぐるみを私が街で探して買ってくる。お小遣い少しだけ残ってるから」
紫乃は弓奈にアツい視線を注がれてたまらず目を反らした。
「そこまでして頂かなくても・・・」
「どんなぬいぐるみか詳しく教えてくれる?」
「・・・バニウオっていうキャラクターご存知ですか」
「え?」
バニウオ。フランスのフルゥール社が生み出した虹色の巨大魚のキャラクター。ウサギそっくりの大きく長い耳を持っているのが特徴で、そのふてぶてしい表情が欧州のお嬢様方から大変な人気。日本で訳された「バニウオ」という呼称はウサギを意味するバニーと魚のウオを連結させたものである。
「聴いたことないけど」
「春に隣り街の店舗で買ったみたいです。今も売っているかどうかは分からないですけど・・・」
弓奈は桃色の手袋をはめた両手をグーパーしながら紫乃に決意表明をした。
「明日、隣り街に行ってくる。必ずそのバニウオ見つけてくるから!」
「ま、待って下さい」
紫乃もカバンから紫色の手袋を取り出して手にはめ、弓奈の真似をして手をグーパーした。
「私も一緒に行きます」
「ほんと? じゃあ一緒に行こうね」
二人は無言で見つめ合ったまま一緒に手をグーパーした。
紫乃の頬が少し赤くなった。




