28、聴く女
翌日は雨が降っていた。
弓奈は放課後また駅前まで行くと紫乃に言ったら何をしに行くのかとしつこく問われたので母への電話の続きと答えて学園を出て来た。紫乃はとても硬派な少女なので弓奈が一般の若い女性と親しくしているなどと知ったら「なんて不埒な!」と怒られてしまいそうだし、変な誤解を生みたくなかったのだ。
楽器のケースを抱えたまま弓奈は駅前でバスを降りた。楽器は湿度に敏感らしいので濡らさないように細心の注意を払って歩く。昨日使っていた公衆電話の周辺には石津さんの姿はない。彼女が電車を使っているのであればこの辺りで待ってみるのもいいが、やはりドーナツ屋の前がいいだろう。弓奈は水たまりをぴょんぴょん跨ぎながら店へ向かった。
「ん!」
ドーナツ屋の前に信じられない光景が広がっていた。なんと石津さんが傘も差さずに道にうずくまって震えているのだ。弓奈は大慌てで彼女に駆け寄った。
「石津さん! 大丈夫ですか」
石津さんは髪から靴まで全身びしょ濡れで、昨日よりさらに悲哀に満ちた眼差しで弓奈を見た。
「君は・・・昨日の」
「石津さん風邪引いちゃいますよ!」
弓奈が傘を差し出すと、石津さんは弓奈の抱えているヴァイオリンケースにしがみついた。
「マリア・・・マリア! もう会えないと思っていた・・・」
石津さんはヴァイオリンケースにそう呼びかけながらわんわん泣き始めた。
「は、はい。マリアちゃんは無事ですから、あんまり泣かないで下さい! おまわりさん来ちゃいますから!」
傘もない石津さんをこのまま放っては置けなかった。仕方なく弓奈は近所にあるらしい石津さんの自宅まで傘を差して送っていくことにした。
「私の部屋は最上階にある。とても眺めがいいんだ」
「わー! うらやましいです」
二階建てのアパートだった。踏み込む度にギシギシいう錆び付いた外階段を上ってたどり着いた石津さんの部屋の扉は、立て付けの悪さによって生じた隙間をタオルで塞いだとても庶民的で味のあるものだった。
「なかなか・・・素敵そうなお部屋ですね」
弓奈はお世辞がヘタである。
「おお、分かるか。マリアに再会させてくれた上に傘にまで入れてもらった礼をしたい。入ってくれ」
石津さんは悪い人ではなさそうなのだが、どことなく危ない人の香りがする。少し迷ったが寮の門限までは時間もあるしお言葉に甘えて少し部屋に上がらせてもらうことにした。
「足下に気をつけるんだ」
「は、はい」
石津さんの部屋はまるで魔法にかけられたようにごっちゃごちゃに散らかっていた。洗濯物とドーナツ屋の箱と手書きの楽譜が所狭しと散乱し、ベッドの上ではギターが一台スヤスヤと寝ている。このような部屋に例えば紫乃のような几帳面な子がやって来たらきっとすぐに病気になってしまうだろう。石津さんは弓奈のために10倍くらいに薄めたレモンティーを湯のみで出してくれた。
「石津さんは何のお仕事をされてるんですか」
「私はミュージシャンだ。作詞も作曲もし、歌も歌う」
言われてみれば石津さんは見た目のかっこよさに反してちょっぴり可愛い声をしている。幸の薄そうな瞳をしているが、音楽の女神さまからは微笑まれているのかも知れない。だがそんな才能や努力が必ずしも実績に結びつかないのが人の世であり、石津さんの部屋を見ればそれが概ね証明されてしまう。
「けっこう大変なお仕事なんですか」
10倍くらいに薄めたレモンティーはほんのり水道水の香りがする。
「大したことではない」
石津さんは下着が覗くセクシーなタンクトップ一枚になってベッドに腰掛けた。
「金を得るためにはライブで活躍する必要があり、そのためには素晴らしい曲と詞を書き、なおかつ歌唱力のアップに努めることを要求される。だがそれらは全て満腹という名の原始的な幸福感の下にのみ発揮される。そしてなにかを食うためには金がいる・・・」
石津さんは突然に泣き崩れた。
「八方塞がりなんだぁあ!」
「な、泣かないで下さい! 大家さんとか来ちゃいます」
弓奈がリンドウ柄のハンカチを差し出すと石津さんはそれで鼻をかんで弓奈に返却した。
「・・・私は金の使い方を知らないんだ。せっかくライブで稼いだ金も自分の信じた過去の幻のために、そのほとんどをはたいてしまう」
意味が分からない。
「君は・・・不思議な人だな」
石津さんのほうがよっぽど不思議である。
「今度私の悩みを聴いてくれるか」
「ナヤミ、ですか」
お金の相談だけは勘弁してほしい。
「ああ。寮の門限があるだろうから今日はもう帰ったほうがいい」
石津さんはなぜかサンキストの寮の門限を知っているようである。
「そ、それじゃあ私帰りますね」
「待ってくれ」
濡れた石津さんの瞳は、弓奈ではなく弓奈の向こう側にいる誰かを見つめているような、淋し気で深いものだった。
「いや、なんでもない。さよならだ」
石津さんはヴァイオリンケースをぎゅっと抱きしめたままそう言った。




