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24、雪乃の夏休み

 

 とても不思議な人だった。

「雪乃ちゃんはお花好き?」

 弓奈というその人は姉の友達で、今では雪乃の友達でもある。彼女は雪乃が何も言わずともだいたいの事を察してくれるすごい人だ。

「・・・好き」

「そっかぁ。私も大好き。こんなに大きなヒマワリ畑初めて来たから嬉しくって」

 そもそも雪乃は他人からこんなに話しかけてもらった経験が皆無である。雪乃がまだ学校に通っていた頃、彼女は先生から行動の全てが遅いと言われ、クラスメイトからはまるで幽霊みたいだと言われていた。雪乃にとって学校は何もかもが早く、色艶のない場所だった。

「雪乃。ちゃんと日傘に入らなきゃだめです」

 姉だ。ちょっぴり厳しいが本当はとても優しくて綺麗な自慢の姉である。

「うん」

 物心ついた頃から雪乃と太陽の間にはいつも日傘があった。雪乃にはよく分からないが何かの病気らしい。

「ねぇ紫乃ちゃん。もっと奥に入っていい?」

「え・・・」

 姉の体温が上がったのを感じた。どうも弓奈と一緒にいる時の姉は様子がおかしい。

「じ、じゃあみんなで行きましょう」

 右手を姉に、左手を弓奈にあずけた雪乃は、立ち並ぶヒマワリの間を進んでいく。雪乃は頬と肩に日傘の軸を挟んだまま、こっそり左手の先を追って顔を上げた。弓奈のきらめく笑顔の向こうにまるでソフトクリームのような大きな雲が立ち上がっていて、空の青とヒマワリの黄色が雪乃の瞳の中で一枚の絵になった。雪乃は弓奈の横顔に胸が締め付けられるような美しさを見たのだ。

「ひまわり。かーわいいねぇ」

 弓奈が彼女の顔ほどもある大きなヒマワリの頭をなでている。どんなものかと雪乃は背伸びをしたが今ひとつ見える世界は変わらない。弓奈はそんな雪乃の様子にすぐに気がつくと、日傘ごと雪乃を抱き上げた。

「ほら!」

 青空の下に幾百の太陽の花が海原のごとく広がっていた。憧れと諦めの対象だった太陽が、初めて雪乃に微笑んだのだ。

「すごいねぇ。雪乃ちゃん」

 雪乃はすぐ隣りまでやってきた弓奈の顔を見つめた。昨夜見た星空のような瞳が雪乃を見つめ返している。この人と一緒にいれば幸せになれる・・・この時雪乃はそう感じた。

「雪乃ちゃん、くすずったい」

 雪乃は弓奈の柔らかい体にしがみつき、その温かい首元にゆっくりと頬擦りした。こんなことをしたら姉に叱られそうだとそれとなく彼女は気づいていたが、雪乃の相棒である白い日傘が二人の姿を隠してくれたので姉にはばれなかったようだ。雪乃は弓奈の肌の温もりの中で、遠い丘から響く蝉の声をじっと聴いていた。

「雪乃、弓奈さんに甘えすぎです。降りて下さい」

 姉に注意された雪乃は弓奈の腕を離れるとひまわり畑の奥へ駆け出した。じっとしているにはあまりに胸の鼓動が早すぎたのだ。彼女は畑の隅に立つ一本の杉の木の根元にしゃがんだ。腰を下ろしてしまえばヒマワリ畑の中からは容易に雪乃の姿を見つけることはできない。雪乃はヒマワリと青空を見上げながら胸の高鳴りが収まるのを待った。

「・・・うーたーをわーすれーたー」

 雪乃の記憶の隅にその歌はあった。

「・・・わーすれーたー、かーなりーやーはー」

 足下を散歩しているアリにしか聴こえないようなひそひそ声で、雪乃は大好きだった歌を口ずさんだ。雪乃は怖い先生も知らん顔のクラスメイトもいない放課後の音楽室で、昔の教材の古いカセットテープを聴いて過ごしていた。

「・・・うーたーをわーすれーたーかーなりーやーはー」

 大好きなぬいぐるみを持っていけない学校において、この歌は彼女の唯一の友達だったと言って過言ではない。

「・・・うーたーをわーすれーたー」

「あんた、そこしか知らないの?」

 雪乃は飛び上がった。慌てて日傘を拾い上げてその中に身を隠しながら、恐る恐る相手の様子を窺った。姉や弓奈と同い年くらいの彼女はテニスのユニフォーム姿で杉の木の陰に隠れており、口元から尖った歯が覗いている。

「あんた、どっちかの妹? 学長の娘のほう? それともあいつ?」

「舞・・・この子びっくりしてるじゃん。可哀想だよ」

 よく見るともう一人ユニフォームの少女がいる。雪乃は今すぐ逃げ出したかったが、足がすくんで動けない。

「あんたさ、あの倉木弓奈っていう女と随分親しそうだけど、あいつをここへ呼んで来てくれない?」

 雪乃は怖くて返事が出来ない。

「舞・・・自分で行けばいいじゃん」

「だから、私はこういう所が苦手なの。歩く度にあのザラザラした葉っぱが腕に当たって・・・あー考えただけでもゾワゾワする」

「舞・・・私練習戻るね」

「ま、待って! 一人にしないでよ」

 二人がもめ出した。味方ではないようだが特別悪い人でもなさそうなので、雪乃はどうしていいか分からず立ち尽くした。

「あいつをここにおびき出したら、このロケット花火でドン! これであいつの驚いた顔と悔しがる顔が見られるわけ」

「舞・・・学園のすぐ裏で花火なんて上げたら怒られるよ」

「うるさい。あいつには体育祭での貸しがあるんだから」

 舞と呼ばれているほうの少女が背負っていたナップザックから花火を三本取り出し、ライターを指先でくるくると回した。雪乃はなぜか彼女たちにあまり脅威を感じなかった。

「とにかくうちはあいつが来るまではここで粘るから。日が暮れるくらいまでは粘る」

「・・・来ないからってやけになってぶっぱなさないでよ」

「なに、うちがそんな無計画で感情的な女に見えるの?」

「うん・・・割と」

「あんたちょっと調子に乗ってるでしょ。どうするの来年私が部長になったら。あなたボール拾い専属部員とかに任命しちゃうよ」

「・・・じゃあもし私が部長になったら同じこと舞にさせるけど、いい?」

「え! それは・・・反則でしょ」

 雪乃はこっそりその場を去った。

 姉たちの元に戻った雪乃はヒマワリ畑の隅で待ち構える二人のことを告げるべきか迷ったが、うまく言葉にできないので諦めた。三人は風の通り道にシートを敷き、一本の日傘に三人で入ると持って来た冷え冷えのオレンジティーを飲んで午後を過ごした。雪乃は姉と弓奈に挟まれて彼女たちの話をずっと聴いていたが、学園に関する難しい話ばかりだったので今ひとつ分からなかった。二人が自分の知らない世界に住んでいることを思い知らされたようでちょっと淋しかったが、弓奈は自分の友達であるという確かな自信が雪乃の小さな胸を満たした。雪乃は終始弓奈のことを見つめながら、途中までしか思い出せないあの歌を心の中で繰り返し歌った。こんなに楽しい気分は本当に久しぶりなのだ。


「そろそろ帰らないと」

 空は茜色に染まっていた。雪乃はいつの間にか抱きついていた弓奈の腕をしぶしぶ放した。この時が来てしまうことは分かっていたからだ。

「えーと、こっちから出ようか」

 弓奈たちの足が先程の怪しい二人組が待ち構えている方へ向いた。

「・・・まって!」

 久々に声を出したら思っていたより大きな声が出てしまった。自分の声が姉のものに少しだけ似ていることに雪乃はこの時初めて気がついた。

「こっちから・・・帰ろ」

「わかった。じゃあそっちから」

 ヒマワリ畑を出て学園沿いの道をしばらく辿っていると姉が雪乃の日傘を畳んでくれた。東の空に月が現れたので必要が無くなったのだ。雪乃は空いた両手で二人の手を握って歩いた。弓奈が楽しそうに笑っている。彼女の素敵な表情をこっそり雪乃も真似してみたが、今は下の歯がグラグラしているし頬の辺りがぎこちないのでやめた。けれどいつか弓奈のようなまぶしい笑顔が出来る・・・ぎゅっと握ればぎゅっと握り返してくれる彼女の手がそれを教えてくれているような気がした。

 その時突然、学園の塀の向こう側からヴァイオリンの音が聴こえてきた。誰が弾いているのかは分からないが、なんとそれは雪乃の大好きなあの歌だったのだ。雪乃は二人の手を握ったままヴァイオリンの奏でるメロディに心を預けた。

「・・・うーたーをわーすれーたーかーなりーやーはー」

 姉と弓奈が振り返る。弓奈という人は本当に不思議な人だと雪乃は改めて思った。近くにいるだけで全てが星のようにキラキラ光って見えるのだ。

「・・・ぞうげーのーふーねーにーぎんのーかーいー」

 この出会いがこれまでの辛い毎日を耐え忍んだご褒美なのか、あるいは明日へのエールなのか、雪乃には神様の考えていることはわからない。

「・・・つきよーのーうーみーにーうかべーれーばー」

 ただひとつ雪乃が確かに感じたのは、手をつなぎ合って道を歩く幸せだった。

「・・・わすれーたーうーたーをーおもいーだーすー」


 遠くで花火が三発打ち上がった。

 

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