18、会長とクロフネ
「ゆ、弓奈さん」
「なぁに紫乃ちゃん」
会長の淹れる紅茶はお店が開けそうなくらい美味しい。
「夏休みは、どうされるんですか」
「んー。とりあえず家には帰るかな」
次の試験が終われば夏休みだ。寮は夏休み中もずっと機能しているため学園に籠る生徒もいるらしいが弓奈は実家に顔を出すつもりである。実家の庭に咲くはずのモミジアオイの花が恋しいのだ。
「ずっとご実家で過ごされるんですか」
「まあ、他に行くところないからねぇ」
そう言って弓奈がまた紅茶を飲もうとすると、紫乃は身を乗り出して弓奈に迫った。
「それなら! 私の家に遊びに来てもいいですけど!」
「え、紫乃ちゃんの・・・家?」
紫乃は学園長の娘である。なんだか家族全員もの静かで真面目そうだ。紫乃のそういうところに憧れていることは確かだが、自分のような田舎者が行って失礼なことをしないとも限らず弓奈は迷った。
「でも悪いから・・・」
「近所に綺麗なひまわり畑もありますけど」
「行く! 私行くよ紫乃ちゃん!」
弓奈の返事を聴いて紫乃は思わず笑いそうになった。クールな振りをするために笑顔はそう頻繁に見せるわけにはいかないが、花をちらつかせるだけでいとも簡単に弓奈が釣れたので可笑しかったのだ。紫乃とて本当は弓奈の前でも素直に笑えるようになりたいのだが、この夢が叶うのは相当な未来か来世のどちらかだろう。しかしとりあえずこれで長い夏休みの間ずっと弓奈の顔を見られず、その淋しさに気を病んでしまう心配はなくなった。
「あら。どうして私は誘ってくれないのかしら」
議長席に腰掛け本人たちに内緒で二人をスケッチしていた小熊会長がつぶやいた。今日の会長の髪はフォワード巻きだ。
「お忙しい小熊先輩は夏休みに京都へ出張じゃなかったんですか」
「あらバレてたの。そうよ。あなたのお母様と一緒に姉妹校の親善訪問だわ」
会長はコンテを置いて指を拭き紅茶を一口飲んだ。
「でも構わないわ。可愛い弓奈ちゃんは隙を見て私が別途デートにお誘いするから」
「駄目です。なーにがデートですか。弓奈さんがあなたとデートなんてするわけないじゃないですか」
相変わらず紫乃と会長は相性が悪いらしい。
「んもぅ、冗談よ。そんなに怖いお顔なさらないで。お二人で遊んでいらっしゃい。お土産は買ってきてあげるわ。遠足の時のお返しにね」
残念ながら人の世においてお返しと仕返しの区別は当事者にのみ可能なのである。ちなみに遠足のお土産であるぬいぐるみ珍獣クロフネは今日も元気に会長のひざの上に乗っている。彼女は開き直ってクロフネを可愛がり始めたようだ。
「それはいいとして」
会長が席を立ち弓奈の椅子の背後に回る。
「夏服とってもお似合いよ」
会長の手が弓奈の肩から腕へゆっくりと滑り、彼女の手を握った。実に唐突なスキンシップである。会長はそのまま弓奈の耳元に唇を寄せた。
「弓奈ちゃん、いいおっぱいしてるのね」
「・・・お、お、お」
「会長。本気でひっぱたきますよ」
紫乃に噛み付かれる前に会長は弓奈から離れた。
「んもぅ。ちょっとくらいいいじゃない」
彼女は蝶のような優雅なステップで自分の席に戻ると何事も無かったかのように再びコンテを手に取りデッサンを始めた。目立つことを嫌う弓奈に「こっち向いて」と言っても無駄であることを会長は分かっているので、手荒な手段でモデルの向きを調節したのだ。先ほどまで弓奈は紫乃と向かい合うように椅子に腰掛けていたが、今では斜め四十五度という理想的な角度で会長に体を向けている。すべて彼女の計算通りだ。
なんとなくお分かり頂けたかと思うが、小熊会長はある種の天才なのである。彼女は誰にも知られることなく暗躍して自分の好きなことをしたり、問題事を丸く収めたりしてしまう。ただのエッチなハーフではないのだ。
「それじゃあ小熊先輩。また明日来ます」
「一晩でせいぜい頭をお冷やしになってください」
「お二人ともおつかれさま」
二人が寮へ帰ってしまうとまたいつもの静かな生徒会室だ。会長はこの静寂の中ひとりで半年間仕事をしていた。青い桜の枝々を駆けるヒバリの声を聴きながら、彼女はカップの紅茶に映る自分をじっと見つめた。
「アンナちゃん、このチョコレート私のために作ってくれたの?」
「そうよ」
「ありがとう。すっごく嬉しい。でもねアンナちゃん。女の子はね、男の子を好きにならなきゃいけないの」
「え、どうして」
「どうしても。まだアンナちゃんには難しいお話かもしれないけどね」
「小熊ちゃん、全然男子としゃべんないよね」
「ちょっと変わった子だもんね。目も青いし」
「知らないの? 小熊さんは女の子が好きなんだよ」
「好きって、どういう意味で?」
「いやぁ、よくわかんないけど。卒業したらランドセル交換しようとか、そんな感じかな」
「私のこと好きって、冗談やめてよ。女同士でしょ」
「・・・いえ、その」
「わかった、何かの罰ゲームで来たんでしょ。あなたも大変ね」
「・・・ち、違うわ。そんなんじゃなくて」
「こんなラブレターまで作って。イヤなことはイヤって言わなきゃだめだよ。私もう帰るから。じゃあね」
「今年の生徒会長選挙に立候補したのが一名のみで、それも一年生なのですが、信任投票の前にスピーチをしてもらいたいと思います。一年E2組の小熊アンナさんです。どうぞ」
「愛のバカ野郎おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」
「どうされましたか小熊さん!?」
「バカバカバカバカあああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
「小熊さん! いつもの丁寧な言葉づかいは!?」
「うわああああああああああああああああああああああああああああああん!!!!!!」
「どうしてあなた達も泣いてるの!? 何に共感したの!? 誰か先生に教えて」
会長はデスクのひんやりした感触で目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたのだ。彼女はハンカチで目元をぬぐい、すっかり夕暮れ時になってしまった誰もいない会長室を見渡した。
紫乃が弓奈に特別な感情を抱いていることに会長はもう気付いていた。そして肝心の弓奈のほうは女性に興味がなく、しかも紫乃のことを自分に恋をしない安心安全な硬派少女だと信じているらしいことも。つまりそこにあるのは些細なことがきっかけで全て壊れてしまうような、嘘と本当が背中合わせになって結ばれた友情である。
「どうしようかしら。ねえ、クロフネちゃん」
クロフネを抱きしめたまま会長はさっきまで描いていたデッサンを眺めた。
「邪魔しちゃおうかしら。それとも・・・」
スケッチブックの中の二人は笑顔だった。




