16、午後の部
『赤いフラフープ』
紫乃はカードの手書き文字をじっと見つめる。
確か借り物競争の前にフラフープをバトン代わりに使う団体競技があったはずだ。紫乃はすぐさま本部脇の用具置き場に向かって走り出す。そこには様々な体育用具が並んでいて確かにフラフープもあったのだがどこを見ても赤いフラフープが見つからない。紫乃は曲がった事が大嫌いで、例えそれがささやかな一競技であったとしても面倒だからといって途中で放棄するような軽薄な少女ではない。紫乃は次の走者がスタートしようとしているのも承知で、赤いフラフープを探して体育館の側にある体育倉庫へ行くことにした。
なぜか倉庫には鍵がかかっていなかった。一応レース中なので紫乃は急いで重い扉を開けて中へ飛び込んだ。天井の小窓だけが唯一の光源で、足下は暗くて何も見えない。ともかく手探り状態でフラフープを探す事にしたその時である。紫乃の背後で倉庫の扉が大きな音を立てて閉まったのである。
「誰ですか!」
外から鍵をかけられたらしい。冷たい鉄の扉はびくともしなくなっていた。
「成功成功」
扉の向こうから微かに声が聴こえた。弓奈でも小熊会長でもない別の誰かの声であるが、紫乃はこの声をどこかで聞いた覚えがあった。
「開けて下さい! 誰か開けて下さい!」
借り物競走応援の途中で紫乃の姿を見失ってから早15分。弓奈はだんだん不安になってきた。次の競技が終わると例のクラブ対抗リレーが始まるからである。もう団体ごとに入場ゲートへ集合する時間なのだ。とりあえず弓奈は本部席にいる会長を迎えにいくことにした。
「あれ、会長さんは」
さっきまでパイプ椅子に腰掛け優雅にふんぞり返っていたはずの小熊会長が見当たらない。近くで一足遅いお弁当を食べていた体育教師香山里歌が弓奈の疑問に答える。
「倉木さんあのねぇ、小熊さんなんだけどぉ、ついさっき保健室に行っちゃったの」
「ええ!」
「お弁当食べてる途中で急に気分がわるくなったみたいでね。同じお弁当先生も食べてるんだけど私は平気なんだよねぇ」
「ほ、保健室ってどこですか!」
「すぐそこ。ホントは駄目だけど窓から入っちゃうと近いよぉ」
「ありがとうございます!」
弓奈は走った。保健室で休んでいる先輩をリレーに呼ぶつもりはないのだが、他になにをしていいか分からなかったのだ。
「小熊先輩!」
先輩は美しい横顔を青白くして窓際のベッドに横たわっていた。
「あら、弓奈ちゃん。ついに愛の告白かしら」
「冗談言ってる場合じゃないですよ・・・。大丈夫ですか」
弓奈は外から保健室の中を覗き込んでいるので会長の手も握ることが出来ずもどかしかった。ちなみに弓奈は看病=手を握ることだと幼い頃から勘違いしている。
「リレー、出られないかも知れないわ・・・」
「そんなのいいんです! 生徒会の宣伝なんていつでも出来るじゃないですか! それに私と紫乃ちゃんだけでも走ろうと思えば・・・」
弓奈は紫乃が行方不明であることを思い出した。
「小熊先輩。紫乃ちゃん見ませんでしたか」
「んー借り物競争で本部の近くに何か探しに来てるの見たけど」
「その後どこへ行ったかご存知ないですか」
「・・・わからないけど、体育用具を探してたとしたら、倉庫かしら」
「倉庫って、体育倉庫ですか」
弓奈はなにやらイヤな予感がした。
「私行ってきます!」
「え、あら、気をつけてね」
弓奈は走った。柵を乗り越え花壇を飛び越え、体育倉庫目指して駆け続けた。もう弓奈の頭は紫乃のことでいっぱいだ。
息を切らして体育倉庫の前までやってきたが辺りは静まり返っている。やはりここに紫乃はいないのだろうかと思いつつ扉に手をかけたとき弓奈は異変に気がついた。
「・・・なにこれ」
倉庫の扉を開ける取っ手に針金のハンガーが巻き付けられていたのだ。外からなら誰でも開けることができる施錠、そこには内側から開けられないようにする意味しかない。
「紫乃ちゃん! 紫乃ちゃんそこにいるの!?」
「・・・弓奈さん! ここです」
弓奈が扉を叩きながら名前を呼ぶと確かに中から紫乃の返事があった。弓奈は針金のハンガーを力一杯引っ張って真っ直ぐにし扉の取っ手から引きはがした。
「紫乃ちゃん!」
重い扉を開けると倒れ込むようにして紫乃が出て来た。はやり誰かに閉じ込められていたのだ。
「誰がこんなこと!」
「声しか聴いてませんが・・・たぶん、この前寮の入り口で弓奈さんを突き飛ばした人だと思います」
弓奈は紫乃の体を抱きしめるようにして支えた。猫のような柔らかい抱き心地だ。
「紫乃ちゃん、応援席戻ろう」
「それが・・・中が暗かったから物につまずいて、足首をひねっちゃったんです」
紫乃は右の足首を引きずっていた。
「・・・痛い」
紫乃の悲痛なささやきを耳元で聴いた弓奈は、自分の胸になにやらアツいものがこみ上げてくるのを感じた。
「倉木さぁーん。どこぉー」
香山先生の声である。保健室の会長から弓奈の行き先を聞いて体育倉庫までやってきたのだ。
「あ、いた。ねぇどうする? もうリレーの時間だけど。生徒会はパスしますって伝えてきてあげよっか?」
「香山先生。紫乃ちゃんを保健室に連れて行って下さい」
「あらあらお怪我? わかった任せて。倉木さんはどうするの?」
「私、リレーに出てきます」
「え?」
「リレーに出てきます」
弓奈はいつになくクールにそう言い残すとグランドに向けて駆けて行った。
「舞。ほんとに生徒会の子たち来てないよ」
「成功成功。大成功」
舞という名前らしいその生徒はテニス部のエース。綺麗なストレートヘアと口元から覗いた犬歯がチャームポイントだ。
「舞は倉木さんが気に入らないんでしょ。なんで会長とかにもいたずらしたの?」
「あいつに現実の厳しさってものを見せてやったの。うちらみたいな運動部も出場してる5人リレーに3人で出場して勝とうなんて甘すぎるよ」
「それで学長の娘さんを倉庫に閉じ込めて生徒会長を保健室送りにしたの?」
「な、なに・・・文句あるの?」
現実の厳しさを教えたいなら普通にリレーをして圧勝してみせればそれでいいのにと舞の友達は思った。
「別に。その行動力ほかで活かそうね」
「う、うるさい」
紫乃の正面の借り物カードを自作の「赤いフラフープ」カードにすり替えたり、会長のお弁当にからしを仕込んだのは彼女なのだ。大真面目と評判の紫乃が自分から遠く離れたカードにわざわざ手を伸ばすはずはないし、借り物を探して遥々体育倉庫までやって来ると踏んだのだ。そして小熊会長が稀代のからし嫌いであるという情報を舞は精確な事前調査で手に入れていた。作戦は大成功である。
しかしリレーに出られず悔しがる弓奈の表情が見られないのでは楽しくないので舞は彼女の姿を探した。神様はいたずら好きらしく、舞たちテニス部と弓奈たち生徒会メンバーは同じ組で競争することにクジで決まっていたので、参加するつもりならばすぐ近くで並んでいるはずなのだ。
「んー。友達を探しに行ったきり帰ってこないケースかな」
舞はご機嫌な調子で肩をすくめた。
まもなく順番がやってくる。生徒会メンバーは誰も来ていない。敵はかくれんぼ研究会、シンガーソングライターAkaneファンのための同好会、そしてフェンシング部である。一年生なのにアンカーを任されている舞は余裕の笑みを浮かべた。が、その時思いがけない声援が彼女の耳に届いた。
「あ! 倉木さん!」
「キャー女神様ー!」
舞は驚いて振り返る。そこにはスタートラインに立つ弓奈の姿があった。
「あいつ・・・走るの?」
半周向こうのバトン受け渡し地点に生徒会の他のメンバーがいる気配もない。
「位置について!」
舞はアンカーなので位置にはつかず弓奈の横顔をじっと見つめた。何かいつもと雰囲気が違う気がした。他のメンバーにいたずらをした犯人が競争相手であるテニス部員だと気づいたのだろうか。
「よーい」
だがたった一人でリレーに参加してもビリ確定、恥をかくだけだ。舞は勝利を信じて疑わなかった。
「ドン!」
スタートした瞬間、午前中から少しずつ緩んでいた弓奈のヘアゴムがほどけて落ちた。生徒達は弓奈の髪の長さを初めて知った。走り出したその姿は目で追えぬほど早く、まるで流れ星のようである。
「・・・その元気、交代なしでどこまで続くかな」
舞は腕を組みながらつぶやいた。彼女はテニス部員ではなく弓奈ばかりを見つめている。弓奈は一位で走るテニス部員の後ろに張り付くようにして走っていた。毎日運動しているテニス部員たちに弓奈ははたしてどこまでついていけるのだろうか。
「舞、もう二人目だよ」
「あいつ本当に交代なしで走るんだ・・・」
「じゃ私いってくるね」
「あなた、ちゃんとあいつ引き離してよ」
「はいはい」
第3走は先ほどから舞とおしゃべりをしていた少女だ。テニス部は依然トップを走っているがそのすぐ後ろに弓奈がいるのが見える。舞はバトンを受けとって走り出す友人に見向きもせず弓奈を見ていた。だから気づいたのだ。目の前を通過する弓奈が一瞬横目で舞を見たことに。彼女と目が合った瞬間舞は背筋がゾクっとした。
3走の少女は見た目以上に運動ができることで有名な部員だが、やはり弓奈はそのすぐ後ろに張り付いている。舞はイライラして爪を噛んだ。
「もう四人目走り出すから舞も準備しなよ」
「う、うん」
2走目だった少女に促され舞はラインに立った。そこへ見覚えのある二人がゆっくりと近づいてきた。今にも吐きそうな顔をした小熊会長と、彼女に肩を借りて歩く鈴原紫乃である。弓奈の応援に来たに違いない。舞は彼女たちに合わせる顔がないので慌ててそっぽを向いた。
4走の少女が徐々に迫ってくる。その後ろには弓奈の姿がある。いったいどんな体力をしているのだろうかと不思議でしょうがない舞は弓奈のその姿に恐怖に近い感情を覚えた。しかし一人でここまでついてくるのに弓奈は精一杯のはずで、運動神経抜群の安斎舞様が本気で400メートル走れば弓奈も敵ではない・・・舞は自分にそう言い聞かせた。
「舞!」
「はいよ」
舞はバトンを受け取るとすぐに猛ダッシュした。アンカーは半周ではなく一周だからペース配分も少しばかり意識すべきところではあるが、自分ならば大丈夫だろうと思ったのだ。弓奈は5メートルほど後ろである。
「弓奈さん! これ!」
足を捻挫した紫乃が力いっぱい声をあげて弓奈に向かってたすきを投げた。弓奈はアンカーのたすきを受け取ると紫乃の瞳を見ながらウインクをした。紫乃はいつか自分が妄想した通りの弓奈のウインクに胸の高鳴りが押さえられなかった。
弓奈にはどうしても許せなかったのだ。自分に恨みがあるのなら自分にひどいことをすればいいのに、その友達を狙う卑怯な手口はとてもスポーツガールの為す所行とは思えない。こんな人たちに自分たち生徒会の友情が負けるわけがないのだ。
舞は走る。あと半周の辛抱、次のコーナーを抜ければ舞の勝利だ。この足についてくるほどの体力は、たった一人で走り続けている弓奈に残っているはずがない。舞は念のため一瞬だけ首を左に回して後方を確認した。そこにはやはり誰もいなかった。弓奈と思われる二番手のランナーはまだ一つ目のコーナーだ。舞はニヤっと笑った。
だが次の瞬間、舞は自分の目を疑った。自分のすぐ右側に並んで弓奈が走っているのだ。さっき確認したとき二番手だと思ったランナーは三番手の生徒だったのだ。弓奈は髪を風に乱しながら猛烈な勢いでスピードを上げて行く。
(カーブで外側から追い越そうなんて・・・甘いよ!)
舞も負けじとスピードを上げる。だがしかし、ここにきて太ももの辺りが急に重く感じられてきた。舞は無計画にしょっぱなから飛ばしすぎたのである。
(そんな・・・)
ゴールテープまで数メートルというところで弓奈が完全に前に出た。『生徒会☆』と書かれたたすきを肩にかけたその姿がどんどん遠ざかっていく。ゴール地点には片足で飛びながら泣いて喜ぶ紫乃と青い顔のまま優雅に拍手する小熊会長、そして神がかった弓奈の活躍にはしゃぎまくる大勢の生徒たちが見えた。
弓奈の髪のほうが自分のものよりずっと綺麗だ・・・弓奈の後ろ姿を見ながらゴールした舞は最後にそんなことを考えていた。
後にこの日の体育祭は伝説の体育祭と呼ばれ、多くの生徒たちの恋心と共にサンキスト女学園史に刻まれたのだった。




