12、シークレット・ガーデン
窓際へウグイスがやって来た。
なかなか発車しない電車の窓に興味を持って飛んで来たに違いない。めぐみは読みかけていた本に押し花のしおりを挟んで閉じるとウグイスの艶やかな羽に指を伸ばした。ウグイスはしばらくめぐみの指先を優しくつついて戯れていたが、車掌のホイッスルを聴くと電車が動き出すより先に窓際を飛び立ち、再び春の空へ帰っていった。
めぐみは今年で二十歳になるのでこうして故郷へ帰って来たのはおよそ13年ぶりとなる。なにしろ7才の誕生日を前に引っ越してから一度も訪れていないため、車窓から見える景色には懐かしさよりも新鮮味のほうが強かった。だがこの町には大切な思い出がある。幼い頃のあの人との思い出が。めぐみはチケットに印字された故郷の名前を見つめながら、あの人との思い出を追い始めた。
めぐみが15才の時、あれは高校一年の遠足。サンキスト女学園で奇跡的に再会し、同じクラスになったあの人はめぐみのことを覚えていなかった。
「めぐみちゃんも食べる?」
弓奈が天使のような笑顔でめぐみに緑色の中華まんをちぎって差し出した。
「あ・・・ありがとう」
ぼーっと波を数えていためぐみは弓奈の声に振り返った。班長である紫乃の作戦通り、海浜公園の最も東側の防波堤付近にはサンキストの生徒は誰もおらず、ベンチの据えられた木製のテラスはF班の三人の貸し切り状態だった。
「肉まんはすっかり冷めてしまいましたが、ここまで来た甲斐はありましたね」
紫乃が二人の間に腰掛ける。彼女のいう通り三人の眼前に広がる海原の輝きの美しさといったら心を奪われるほどだ。ここへわざわざ足を運ばなければこの光景をF班で独り占めすることは出来なかっただろう。
「あ」
弓奈が何かに気がついたらしい。弓奈の声は鈴の音のように澄んでいるので波音の間にも二人の耳によく届く。
「どうしたんですか弓奈さん」
「紫乃ちゃん大変だよ。私たち飲み物持ってないじゃん」
華やかな中華街の雰囲気に浮かれていた一行はどこかでお茶を調達してくるのをすっかり忘れていたのだ。弓奈の前では硬派でいたい紫乃は、ここで慌てては名が廃ると思い努めて冷静に答える。
「も、もちろん分かっていました。飲み物は重いのでなるべく海に近いところで買おうと思っていたのです。船着き場の手前にあった自販機で買ってきます」
「じゃあ私たちも」
一緒に立ち上がろうとする二人を紫乃は小さな手のひらで制した。ここで三人そろって船着き場まで戻っていては、班長である自分の計画に不具合があったことが二人に気づかれてしまうと思ったのだ。
「いえ、私だけで充分です。お二人はこの場所を確保しておいて下さい。すべて予定通りなんです。お茶でいいですよね。お茶。そう、中華にはお茶です。お茶」
財布を握った紫乃はそう呟きながら自販機を目指して赤いレンガの道をパタパタと駆けていった。
潮風が弓奈とめぐみの間を穏やかに過ぎて行く。弓奈は中途半端に開いてしまった二人の距離を埋めるためにめぐみの方に一歩ずれて座った。
「めぐみちゃんは海が好きなんだね」
めぐみは「え」と言って顔を上げた。
「いやぁ、先週の話し合いのとき海に行きたいって言ったのもめぐみちゃんだったし」
めぐみは少し頬を赤らめてから海を見つめた。彼女の視線を追って弓奈も遠い水平線を眺める。
「昔、私の大好きな人が言ってたんです。海はカッコイイって」
「わお、そうなんだ。確かに海ってカッコイイ。私もそう思う」
ずっと内陸で育った弓奈は幼い頃から海に憧れてたので、海はカッコイイなどという一見つかみ所のない意見にも素直に同意できる。そんな弓奈の言葉を聴いてめぐみはクスっと笑った。そしてその深く優しい瞳を波間に向けたまま、弓奈の知らない『誰か』の思い出を語り始めた。
「小学校に入る前の話なんですけど、私少し変わった遊びをしてて」
「変わった遊び?」
「自分だけの秘密の場所を探して、そこに自分の宝物を集めるの。宝物っていっても自分の好きなビー玉とか小さなガーデンオーナメントとか、そういうやつなんですけどね」
めぐみの声は弓奈の耳にとても温かく響いた。
「それでいつだったか私、テニスボールがすごく欲しい時期があって、近所の公園のフェンスから隣接する高校のテニスコートをじーっと眺めてたんです」
「なんだか可愛い」
その時のめぐみの姿を想像して弓奈はクスクス笑った。
「そこへあの人が来たんです。遊ぼって言って」
「その時に初めて会ったの?」
「うん。というか、幼稚園は同じだったはずなんだけど一度も話したことなかったの。でもあの人は・・・暗くて変わり者だった私に面白い話をたくさんしてくれた。私の知らないことをいっぱい教えてくれたの」
めぐみの声がかすむ。
「嬉しかったの・・・すごく嬉しかったの。自分の居場所がなかった私に、やっと・・・心の拠り所ができたの。私を認めてくれた・・・初めての人なの」
めぐみの頬に涙が一筋伝うのを見て弓奈はどうしていいか分からなかったが、とりあえずもう一歩めぐみに寄って彼女の頭をなでてやった。
「小学校が違ったし、7歳になるとき私が引っ越しちゃったからすぐに会えなくなっちゃったんだけど、最後に私・・・あの人を私の秘密の場所に呼んだの。教会の敷地に背が低い木が集まってできた葉っぱのトンネルがあって、そこの一番奥が私の秘密の場所だったの。今はなくなっちゃったらしいんだけどね。そこはあの頃の私が入っただけでいっぱいになるような狭い場所だったけどあの人はすごく喜んでくれた。私・・・あの人になにかお礼がしたかったから、宝物をなにかあげようと思ったんだけど・・・」
弓奈はめぐみにそっとハンカチを差し出した。
「あ・・・あの人は私の持ってるどんな宝物よりも、そこに咲いてる花に夢中だったの。ブドウみたいな、他の木に寄り添って伸びて行く植物で、薄紅色の大きな花で・・・」
花屋で育った弓奈の脳裏にはその花の姿がありありと浮かんだ。きっとクレマチスの花に違いないと弓奈は思った。いつからかは分からないが弓奈の大好きな花である。
「難しいことは当時分からなかったけど、苗みたいな感じでひとつその花をあげたの。・・・あの人は天使みたいに笑ってた。自分も私の大切な秘密の場所にこの花咲かせるんだーって言って」
「・・・素敵な子だね」
「うん。・・・きっとすぐ枯れちゃったと思うんだけど、それでもあの人が私の秘密の場所の一部を、あの人の家の裏庭とかに植えてくれたりしたのかなと思うと・・・今でも涙が出るくらい嬉しいの」
めぐみの涙が海と同じ色できらめいた。
「あの人は・・・今も昔も私にとっては高嶺の花だから。・・・片思いだけど、あの人はずっと、ずっとずっとずーっと・・・私の心の居場所なの。大切な人なの・・・」
不意に二人は背後に靴音を聴いて振り返る。
「ふえぇぇん!」
しばらくベンチの陰からめぐみの話を聴いていたのだろう。そこに立っていたのはお茶を三本持ったまま涙で顔をひどい有様にした紫乃だった。
これがめぐみと弓奈の最後の思い出となった。なぜならめぐみは高校一年の夏前に両親の転勤が理由でサンキスト女学園から転校してしまったからである。どうせ寮暮らしなのだから私は行かないとめぐみは最後まで抵抗したが、あまりに距離があることを理由に結局学校から連れ戻されてしまったのだ。
駅前広場の様子はすっかり変わってしまっていた。唯一覚えていた八百屋もすっかり改装してしまって当時の面影はない。幼少時代を過ごした町とはこんなものなのかも知れない。めぐみは特に行く当てもなく坂道を登った。
遠足の日、めぐみはついつい本人の前で色々なことを話してしまったが、結局弓奈はそれが自分の話だとは最後まで気づかなかったらしい。しかしそれで良かったとめぐみは思った。弓奈のことを想っている人はたくさんいて、それに弓奈が戸惑っていることはめぐみも知っていたのだ。そこで重要なのは、弓奈が誰を想うのかということである。確かに幼い頃の弓奈はめぐみにとても優しくしてくれたが、それもひと時のお遊びだったに違いない。めぐみにとって弓奈は何ものにも代え難い宝物だが、弓奈にとってめぐみは大切なものなんかではなかったのだ。
そんなことを考えながらめぐみは小さな高校の前へやってきた。サンキスト女学園のような特徴的な外観を持つ学校のほうが珍しく、世の高校の校舎などどれも似たようなものなので、こうして通ってもいない故郷の学校を見てもそれほど懐かしいとは思えない。だが昔テニスボール欲しさに眺めていた例のテニスコートを少し見てみたい気になり、めぐみはその学校の塀をゆっくりと伝っていった。
公園も残っていた。思い出の中のものより遥かに小さく、びっくりするほど寂れていた。しかしこれでもめぐみにとって忘れられない大切な場所だ。なぜならここはめぐみと弓奈が初めてしゃべった場所、言わば二人の思い出の始まりの場所なのだから。あの学校のテニスコートを眺めるために、小さな滑り台の奥の、古びたブランコの裏にあるあのフェンスにしがみついて・・・
「え」
めぐみは足を止めた。
「・・・嘘」
錆び付いたフェンスに咲く一面の薄紅色の花。
もうテニスコートが見えぬほどに咲きこぼれたその花は、かつてめぐみの秘密の場所に咲いていたものと同じクレマチスの花だった。14年ものあいだ人知れず毎年咲き続けたその花たちが、弓奈の大切な場所をめぐみに教えてくれているのだ。
めぐみは涙にかすんでいく視界の中で、遠い日のあの人の笑顔を思い出していた。




