02.それがだれなのかは、
「上原榛馬、特進二年一組。ひと月前に転入してきたばかり」
「うんうん」
「身長は約百八十センチで、体重は……推定六十五キロ」
「果歩ちゃんは物知りだねえ。でもまたのびたよー。いま百八十二くらいある」
「でもセンパイ、体重は減ってますよね? つかやせすぎですよ! ウラヤマ!」
「夏バテだと思うよー? それにほら、いまはこんな状態だし」
ホームルーム終了後の教室。
真後ろで聞こえる声、ふたつ。
「かな! これはセンパイのためにひと肌脱ぐべきだよ! お弁当とかさ、手作りとかさ! うひゅうひゅ!」
「いいよー、悪いよー。かなかな、おれ、だいじょーぶだからねえ」
「ハルく、……は、榛馬先輩」
間延びした話し方。
丸めた背中に細長い手足。薄板のような肩、腰。
伸びっぱなしの前髪。
当たり前のように掛け違えたシャツのボタン。
腰履きのゆるい制服のズボンは、ただたんにサイズが合ってないだけのはずなのに、なんでこう、それなりの雰囲気を醸し出しているのか。
これでは、一部の女子が勘違いしてしまうのも分からなくもない。
「なあに? かなかな」
真白い包帯の巻かれた右足に、かかとの潰れた上履きをぶら下げて。
果歩の席に座っていたハルくんは、小首をかしげてあたしを見た。
いや、だから。
ハルくんが、そんなふうだから。
まったく、この男は――――
「いい加減にしなさい! もう授業はじまるでしょーが! でもってご飯はちゃんと食べなさいってあれほどいったの忘れたの!? そんなんじゃ治るケガも治らないわ! あとシャツ! ボタン掛け違えてる! それにズボンはシャツ入れてしっかり履くのが校則でしょ! ネクタイは!? どこやったの!? 髪の毛だって無造作を越えてそれじゃただの寝グセ! それにかなかなって呼ばない! 果歩がマネするって何度もいったでしょうが!!」
いい終えたあとには、すっかり息切れをしていた。
はずかしいとかそんなことの前に我を失っていた。
ああ、またやってしまった。
このひとはほんとうに、どれだけあたしをイラつかせればいいのか。
「かなかな」
そんなあたしの苛立ちをよそに、目の前の本人はというと。
「ごめんねえ、かなかな。おれ、気をつけるー」
なにもわかっちゃいないのだった。
** *
「かなかな、怒ってる」
「怒ッテナイデス」
「怒ってるよー! そのカタカナ発音!」
教室の窓の外。青。
開け放たれたガラスの向こう側。
その真下から、子どもみたいな甘え声。
いまは授業中で、うちのクラスは自習で。
他のクラスは当たり前だけど授業をしているはず。
なのに、なんでこのひとはこんなところにいるのか。
「かなかなはすぐカタコトみたいなカタカナ発音しますよね」
「そうだよねえ、こまったこだよねえ、かなかなは」
窓枠から身を乗り出して、ハルくんと会話する果歩。
あたしと窓下を交互に行き来するその視線は、にやにやとした含み笑いを持っていた。
「ってか、なんでハルく、……先輩はここにいるんですか?」
課題プリントに目を向けながら、姿の見えないひとへ当然の疑問を投げかける。
すると。
「やだよー」
「は?」
「だからー、その呼び方。それになんで敬語にするの?」
影。窓を覆い隠す制服の白。
消えゆく青。
右足をかばってなのか、ゆっくりと立ち上がったハルくんが、窓枠から上体を乗り出してあたしに近づく。
「ふたりのときにみたいに、呼んで」
縮まる距離。伸ばされる手。
頬に触れる瞬間の、見たこともない表情。
「他人行儀でさみしい。だから、」
息がつまった。まるで酸素が消えたみたいに。
時間が、コマ送りのように進んでいく。
セカイの法則から反して、あたしのまわりだけ。
「うん、っていって」
長い中指が、人差し指が、かすめる。
体温が伝わって、熱に染まっていく。
「――――う、」
「上原! お前そこでなにしているんだ! 授業はどうした!」
息を吸って、音になりかけたそのとき。
重なる怒鳴り声。
どうやら、窓の外側では修羅場になっているらしい。
声の方向から察するに、隣の教室の窓からハルくんの姿が見えたんだろう。
しかもこの声の主は、生徒指導が厳しくて有名なあの先生のような気がする。
「ああー、見つかっちゃった。またあとでね、かなかな」
間の抜けた声が、通り抜ける。
一目散に消える熱。影。
あたしに戻ってきたのは、隠されていた空の青。
足を引きずって、窓の外から校舎沿いにゆっくりと歩きだしたハルくんが捕まるのは、時間の問題だろう。
まったくほんとうに、どうしようもないひとだ。
「んんん、かなちゃーん」
「……ナンデスカ」
「あれー、どうしたのかな? 顔赤いよ? カゼかな?」
あたしをのぞきこむ、にやにやした顔の果歩が心底憎らしい。
冷静に、いつもどおりに。
なんてできるはずがない。
ざわめく鼓動と呼吸。
熱い何かがあたしのなかをぐちゃぐちゃにしている。
名前を呼ぶように言われただけなのに。
あんなにだらしなくて無気力でどうしようもないひとなのに。
ちゃんとわかっているのに、どうしてこんなに動揺しているんだろう。
「う、ううるさい!」
めまいを起こす視界。
青と白がまざりあって、くるくるとまわる。
ハルくんが降ってきたあの日から、この空は静かなものではなくなってしまった。
「そんなことよりも、かなかな」
「だからその呼び方はやめてって、」
「ゴシュウショウサマ」
ばっちり決められたウインク。
そして正面に向けられた指先。
後ずさりして遠のいていく果歩の足音と、張り付いた笑顔。
「ちょ、果歩? どういう意味、……え」
時すでに遅し。
逃げ場も隠れ場もないこの場所。
教室の窓側、後ろから二番目の特等席に詰め寄る無数の影。
「やっぱ付き合ってるんだって」
「ぜったいそうだと思った」
「いつからそうなってたわけ」
「まあわかってたけどね、べつに」
「でもさあ、本人の口からはっきりききたいよね」
突き刺さんばかりと視線。
クラス中に反芻する荒い息。
満場一致したらしい意見が姿を変えて向けられる。
「え?」
黄色い声と真っ黒な影が花のにおいをさせて食らいつくまで。
あと、わずか。
「先輩、足引きずりながら逃げてたけど。だいじょうぶかなあ」
ハルくんはあとで注意しておくとして。
それより。
この状況をフォローしてはくれないのでしょうか、果歩さん。