extra.真夏の魔法使いが降らせる雨を(前編)
「は、ははは、ハルくんのばか! 追いかけてきたら嫌いになるから!」
放課後の教室を飛び出し、廊下を駆け抜け。
脱いだ上履きを揃えることもなく走り出した昇降口。
そして、あたしの真上に降りそそぐ雨。
それでも足を止めることなく、なまぬるい灰色のしずくを掻き分けて校門を出た。
こんなふうに彼を突き放したのは、はじめてかもしれない。
いままでハルくんは足に怪我をしていたからその速度に気をつけていたし。
なんとなく隣を並んで歩くのが、くせになっていたから。
「……ああ、やっちゃったよ」
肩口まで伸びた髪をしたたり、制服を染めていく透明。
アスファルトに溜まった水をよけることもなく踏み出すローファー。
この空模様のように暗雲立ち込める胸に、罪悪感。
(なんで、こんなことになったんだろう。)
普段の梅雨なら、少しは肌寒いだろうに。
今年の梅雨は、暑くて、熱くて、嫌になる。
『だいすきだよ、かなかな』
彼の唱えた最強呪文は、あたしを真夏へ引き込んだ。
あの青が見えない空でも、太陽が雲隠れしていても、その効果は絶大で。
雨に打たれているはずの身体からいつまでも熱が引かない。
さっき彼の指先がつついた頬は、赤く熟れて腐り落ちる寸前だ。
何気ないハルくんのしぐさが、あたしにかけられた魔法を発動させる。
手間のかかる先輩。
空から降ってきた変人。
だらしなくて、無気力で、ぼんやりしてて。
あたしがいないとだめだめな、そんなひと。
「なんで、こうなっちゃったんだろう」
彼が笑うと、頬が勝手に緩む。
彼が触れると胸が跳ね上がる。
名前を呼ばれると耳が熱くなって。
その視線があたしを動けなくさせるようになった。
さっきも教室でふたりきりで話していただけだった。
それなのに、あきらかにあたしはおかしかった。
目を見ることができない。言葉が出てこない。
早鐘を鳴らし続ける心臓をごまかすことに必死で、会話が成立しない。
『かなかな?』
向かい側に座っていた彼の指が、頬に触れた瞬間。
椅子ごとそのままひっくり返ってしまった。
大げさじゃなくて、ほんとうに。
頭を床に打ち付ける前に腕を引かれて、転がったのは椅子だけだったけれど。
『び、っくりしたあ。だいじょうぶ?』
『は、ははは、ハルくんのばか! 追いかけてきたら嫌いになるから!』
お礼をいうこともなく、残してきた捨て台詞と思いきり振り払った腕に頭を抱える。
ハルくんはなにも悪くないのに。
あたしが、おかしいだけなのに。
罪悪感の雨雲が広がりつづけて、全身を覆いつくす。
降り出す寸前、ようやく足が止まった。
「なんでこう、」
何度も繰り返す情けない言葉が地面に落ちて、溜まっていく。
彼が引っ張ってくれた腕がくっきりとその感触を残していて、ますます泣きたくなる。
ばかだばかだ。
あたしは大ばかだ。
ハルくんはきっと、わけもわからず途方にくれているに違いない。
もしかしたらへんなふうに誤解して、悩んで傷ついているかもしれない。
謝らなくちゃ。
そうは思うのに、止まってしまった足が動かない。
こんなあたしをすきだって、いってくれたのに。
怪我した足を一生懸命治して、あたしと歩きたいっていってくれたのに。
ばかみたいに意識して、いつもどおりにできなくなって。
これじゃ嫌われたって、おかしくない。
そうしたらあのときみたいにまたあたしの前から姿を消してしまって、会えなくなるかもしれない――――。
その考えが深く胸を突き刺した反動で、濡れた手が頬を打った。
水をも弾く衝撃と、目の前をちらつく小さな星。
うまく力の加減ができなくて痛みに目がくらむ。
立ち止まっていた足が、走り抜けてきた跡をたどりはじめる。
じんじんとひりつく痛みは突き刺さった胸への痛みと重なって、あたしを突き動かす。
雨が音を立てて落ちてくる。
大粒が肩を打って、足を打って、赤く腫れ上がった頬をさらに打つ。
もう、あきれて帰ったかもしれない。
そんなことを考えはじめたときだった。
あたしを打ちつけていたはずの雨が止んだのは。
「あ、かなかな! 見つけた!」
いつもの、あの間延びした声。
振りつづけるものがまつげを伝って視界を奪うものだから、目をこすった。
雨音にまざって、耳に届く靴の音。
細くてやたら上に伸びているその黒い影が近づいてくる。
「え、……ハル、くん?」
「なんか急に強く降ってきたねえ! 風邪引いちゃうよ?」
制服のブレザーを傘の代わりにした彼が、ゆるんだ顔で笑う。
それがあまりにもいつもどおりのものだったから、なんだか拍子抜けしてしまった。
「よかった。見つけられて」
傘代わりのブレザーがあたしの頭にのせられて、その腕が肩に回された。
近すぎる距離に息が詰まって、思わず声を上げそうになる。
「かなかな、こっち! 雨やどりしよう」
肩に回された腕が背中を押すから、そのまま駆け出すしかなかった。
恥ずかしいとかどうしてとか、いろいろな感情が渦を巻いていたけれど。
ハルくんにしたがって一本細い路地に入った。
路地を駆け抜けた先に、ひらけた通りがあった。
それを左に曲がると駄菓子屋のような寂びれたお店が見えて、そこを目指して足を前に進めた。
隣のハルくんの息遣いが制服ごしに届いて、なんだか気恥ずかしい。
顔を上げてその表情を確認することもできなくて、ただひたすら走った。
** *
「はー、突然強く降ってきたからびっくりしたねえ。だいじょうぶ? かなかな」
駄菓子屋は本日休業らしく、錆びついたシャッターが下りていた。
所々穴の開いたビニールの屋根から、雨が隙間なく落ちてくる。
つま先から向こうはアスファルトの水面が幾重にも輪を描いていた。
「だ、だいじょう、ぶ」
「これ使って。未使用だからだいじょうぶだよ。体育のあと使うかと思って持ってきて正解だった」
なかなか整わない呼吸に悪戦苦闘していると、目の前にタオルを差し出された。
あたしよりも自分のほうが濡れているだろうに。
ハルくんの優しさに、自分がますます情けなくなってそれを押し返した。
「ハルくんが使いなよ! 風邪ひくよ! あたしはだいじょうぶだから、ここまで濡れちゃったらもうしょうがないっていうか、ほら身体は丈夫だし、風邪なんてひかないから! あ、このブレザーもありがとう。すごく濡れちゃったけど。というか、まずそもそも自業自得だし、って、……あの、あたしが勝手に走っていったせいだから、気にしないでほんとに! ハルくんが使いなよ、ね!」
その目を見ることができなくて、身振り手振りで全力で断る。
助けてもらったのにお礼も言わずに捨て台詞吐いて逃げ出して。
しかもこんな雨の中、追いかけてきてもらって。
恥ずかしいことこの上ないのに、これ以上は甘えられない。
「あたしのことは気にしないで。へいきだか、」
「いいから」
やわらかいタオル地が顔に押しつけられて、言葉が止まる。
めずらしく強引な物言いに思わず目を向けると、顔をそらされた。
結構、思いっきり。
「とりあえずこれで拭いて。で、濡れちゃってるけどこれも着たままでいて」
「いやだから、そんな迷惑は、」
「これはかなかなのためを思っていってるんだよ? あとおれの精神衛生上の問題なんだ」
「はい?」
押し付けられたままのタオル。
受け取り拒否のしめったブレザー。
思いきりそむけられた顔。
なんとなく、自分の身体に目線を落とすと。
「……!!」
すっかり濡れて張りついたシャツから見える桜色に、声にならない声が、出た。