epilogue.「だいすきだよ」
「おっはよ、かなかな!」
「……果歩」
「そんなに怒ってるとシワよっちゃうよ? 血圧あがっちゃうよ? 嫁の貰い手がなくな、あ、もう貰われちゃったんだった! てへ!」
自分の頭を叩いて舌をぺろっと出すいかにもなポーズを目にしながらため息をついた。
あいかわらず、あたしの友人は朝からハイテンションだ。
ホームルーム前の、人もまばらな教室はきょうも暑い。
ようやく衣替えを迎えて袖が短くなった分、気持ちは楽だけれども。
「ヤナセンパイ、きょうから復帰かなー。あのひと、様子おかしいと思ったら熱あったとかウケるー! 教頭先生もそれで許してくれたしねー!」
「掃除サセラレマシタケドネ……」
「まあまあ、ヤナセンパイもいろいろあったんだよー! こうストレス的な! こうジェラシー的な!」
「はあ? なんで嫉妬?」
あたしの知らないうちに、果歩は柳原メガネ先輩とずいぶん仲良くなったらしい。
やたらかばうし、妙に肩を持ちすぎじゃないだろうか。
「いや、別に、ほら! あ、そろそろおでましじゃない?」
「果歩? なんかあんた変じゃない?」
「そ、そそそ、そんなことないって! あ、きたきたきたー!」
果歩の指先に、教室の扉。
開け放ったそこに耳をすませても、あの足音は聞こえない。
耳に届くのは、女子クラスに縁遠い低音の喧騒。
そして、背の高い影の群れから現れるいつもどおりのだらしない姿。
「おはよー、かなかな」
高鳴るものと、急上昇する温度に戸惑う日々。
あの日以来、あたしはどうも平常心じゃいられなくて取り繕うのに必死だ。
いつもどおりってどうするんだっけ。
そんなことを考えている時点で、もういつもどおりになんてできないのはわかってる。
「……おは、」
「おっはよー! 後輩ちゃん! 果歩ちゃーん! クラスのみんなもおはよー!」
「お兄さんたち参上! きょうも暑い! だれど目の保養、夏服眼福だなー!」
「今度みんなで海いかね!? バーベキューとかしよーぜ! 夏休み最高!」
振り絞った挨拶の言葉は、優等生の先輩方にかき消され。
ハルくんとちゃんと目を合わせることもできずに、ふさがれた。
なだれ込んでくる男の群れ。
その中に一際目立つ、不機嫌そうに眉をしかめたメガネの姿があった。
「熱、下がったんですか?」
「……お蔭様で」
当然のように隣の席を陣取ったクソメガネは、頬杖をついてあさっての方向を見ていた。
休んでいるあいだに眉間のしわがさらに深くなったような気がするけれど。
あえてつっこむまい。
「センパイたち夏休みは塾とか講習とかで大変なんじゃないですかー?」
「何言ってんだよ! 果歩っちとみんなのためならよゆーだぜ!」
「お前、最近成績落ちたっていってたじゃねえか!」
クラスの女子ももうすっかり慣れたもので、果歩を含めにぎやかに会話を楽しんでいるようだった。
夏休みの計画をもう立てているみたいだけれど、その日は腹痛になる予定にしておこうと思う。
夏休みまでまだ二ヶ月はあるというのに、まったく気の早い話だ。
「もう夏休みなんだねえ。かなかなはどこいきたい?」
あたしと隣のメガネ席を割って入ってきたハルくんは、小首をかしげて椅子にその手を回した。
近すぎる距離に心臓が尋常じゃない動きを見せたけれど、視線を外すことでなんとか押さえつける。
『だいすきだよ、かなかな』
突然の告白に対する返事は、保留のまま。
だからだろうか。
こんなにも、意識してしまうのは。
「かなかな?」
「え、えええ、えっと、あんまり暑いのはちょっと、やだな、とか」
「おれもすぐバテるから、涼しいとこがいいなー。そうだなあ、おれんちにおいでよ」
「は!?」
意識的に逸らしていた視線が思いっきり交差して、取り繕えない顔を思いっきり見られた。
予想外のことを口にされて、過剰な反応をしてしまった自分がうらめしい。
二の句が告げずに、あうあうと口を動かしていれば。
へらっといつものように笑ったハルくんの手が、あたしの髪に触れた。
「だいじょうぶだよー。まだなにもしないよ? いっしょに宿題しようね」
よしよしとあやすように撫でられる髪と頭。
触れられたところから体温が上りつめて、うなずくことしかできない。
宿題するのはいいことだし、勉強は大事だし。
あとは、いっぱいいっぱいで、よくわからない。
まだなにもしないとか聞こえたのは、気のせい、だと思う。
「……上原、てめえなにおかしなこと口走ってんだよ」
「おかしなことー? なにが?」
「い、家とかいってただろ」
「柳原くんは夏期講習で夏休みなんて遊ぶ暇ないし、残念だねえ!」
なんだろうこのふたり。
仲がいいのか悪いのかわからないけれど、話はよくしている気がする。
内容はまったくかみ合っていないけれど。
クソメガネがハルくんの話につっこんで、それをハルくんがかわす、みたいな。
まあ、喧嘩するわけじゃないからほおっておこう。
いまは、とにかく自分のことが第一だ。
「お、そろそろ予鈴鳴るぞー!」
「んじゃ行くか。また昼休みになー!」
「ヤナ、行くぞ」
前のほうで話し込んでいたらしい先輩たちが動き出す。
隣の椅子が音を立てたので、メガネは言い合いをやめて素直に従ったらしい。
こういうところはちゃんと優等生なんだと素直に感心する。
「ほ、ほら! ハルくんも」
「うーん。わかった。次の休み時間もくるから」
「イイデス。ケッコウデス」
同じクラスで優等生のはずのハルくんを促すと、名残惜しそうにその手が離れた。
これでやっと、落ち着ける。
そう、思ったときだった。
「かなかな」
顔を上げた先。
落ちてくる影に、思わず目をつむった。
ハルくんの寝癖のついたやわらかい髪が、右頬をかすめていく。
「まだなにもしないっていったけど、五十数えなかった分はするからね?」
耳元でささやかれたものに、呼吸が止まった。
「あー、ないしょ話ですか! センパイ!」
「そうだよー? 夏休みの話」
「やだやだ! これだからリアルが充実しているひとたちはー!」
「果歩ちゃんもいっしょにどこかいこうねえ。じゃあね、かなかな。今度こそやくそくだよ?」
果歩の突っ込みと同時に離れていった熱は、あたしに残ったまま。
遠ざかっていく足音すら、耳をくすぐって体が跳ねる。
「かなー? かなかな? あらー、まっかっかですよ! ぐふふ!」
にやけ顔の果歩の言葉に、反論もできない。
ただ、目の前のつめたい机に顔を伏せることだけで精一杯だった。
耳が熱い。頬も、首筋も、全部。
どうしてこんなふうになってしまったんだろう。
「ほら、さっさと席つけ! またあいつら来てんのか」
鳴り響く予鈴。先生のあきれた声。
顔を傾けると見える、窓の外の青。
夏空に広がる薄雲が伸びて消えていく。
きょうはいったいなにが降ってくるだろうか。
どうせなら、涼しげできれいなものがいい。
なんて。
止まない鼓動に耳を塞ぎながら、そんなことを思った。
「夏休み、どうしよっか! あー、たのしみだね!」
ああ、ほんとうにどうしよう。
お願い助けて、かみさま!
――end.