last.おれを想ってるってことなんでしょう?
偶然なのか必然なのか。
ホームルームが終了して、掃除が終わっての放課後。
まるで示し合わせたかのように、教室にはだれひとり残っていなかった。
『ごっめーん! きょう用事があるから先に帰るねー! ぐへへ、ばいばーい!』
いつも一緒に帰るはずの果歩は、あきらかに含みのある笑いを残して早々に去っていった。
どうやら、あの特進の先輩たちともすっかり打ち解けたらしく。
きょうもまた昼休みにあのくだらない賭けをこそこそとやっていたようだった。
そういえば、クソメガネこと柳原先輩の姿はその中になかった気がする。
きのうはあの大量のジュースを不機嫌そうに周辺に押し付けていたけど、結局自分で飲んだのだろうか。
『見んなっていってんだろ!』
ハルくんと会ったときの会話といい、行動といい。
勉強のしすぎで、情緒が不安定になっているんじゃないだろうか。
強くつかまれた手首は、いまだに小さな痛みを持って疼いていた。
『あしたの放課後、窓の外をみて。やくそくだよ』
クソメガネのせいで目にすることができなかった、ハルくんの姿。
その約束どおり、自分の席から窓の外をぼんやりとながめているけれど、妙に胸がざわめく。
「はあ……」
ため息が大きくなって。
黒板の上の時計の秒針が不安定な鼓動と重なって。
オレンジに焦げついていく空を、仰いだ。
予感はあった。
きっと、なにかが降ってくるだろうそんな予感。
でもそれが、いつものようにあたしを胸躍らせてくれるものなのか。
もしかしたらすべてに終わりを告げるものなんじゃないか、なんて。
夕焼けの端から侵食する夕闇のような、そんな思いを拭えずにいた。
『五十数えてから目をあけて。うそついたら、ちゅーするから』
目を閉じると、まぶたの裏でハルくんの声がする。
耳元に残るその息遣いがいつまでも反芻して、熱をおびる。
なにが五十数えて、だ。
あたしの前から消えるためのカウントダウンを、あたしに数えさせるなんて。
「……数えずに振り返ったんだから、ちゅーでもなんでもしにきなさいよ。ばか」
うるんだまぶたをこじあけると、オレンジの向こうになにかがひかった。
かすむ目を擦って、窓の外を食い入るように見る。
きらきらとしたそれは、次々に上から落ちてはコンクリートに散っていった。
「なに、これ」
手を伸ばして一枚つかみ取ると、てのひらの熱に歪んで溶けていく。
ハートの形をしたそれは、透きとおる薄紅の色をしていた。
「液体のり乾かして、一生懸命つくったんだよ」
その声に振り返れば、教室の後ろの扉にいつもの姿が見えた。
着崩した制服のシャツ。よれた襟。
掛け違えたままのボタン。
長すぎる前髪。
寝癖のついたままの毛先。
だらしなくへらっと笑った、締まりのない顔。
「クラスの男子と果歩ちゃんが協力してくれて、いま上から降らせてるんだ」
一歩、その足が教室の床を踏みしめた。
一歩、その足があたしのそばに近づいた。
薄汚れた上履きは引きずられることなく、力強く地を踏みしめていた。
「その、足、」
ハルくんは窓から飛び降りたせいで怪我をして、いつも足を引きずっていたのに。
病院で治療するのも、固定するのも、松葉杖も嫌がって聞かなかったのに。
それが、治っている。
「きょうでリハビリが終わったんだよ。治るのに二週間もかかっちゃったんだ」
二週間。
それは、あたしの前からハルくんがいなくなった期間。
「松葉杖で歩いてるの見られたくなかったんだよー。かっこ悪いから」
「なにそれ、そんなの……!」
「ちゃんと治して、かなかなに会いにいきたかったんだ」
ハルくんの気持ちがわからないわけではない。
だけど、残されたあたしは。
あたしは、ハルくんのがんばっている姿をかっこ悪いなんて思わないのに。
「食堂でかなかなに手を引かれて歩いたとき、これじゃだめだなと思ったんだよ」
「……なにが、だめなの」
「自分がほんとにかっこ悪くて、恥ずかしくて。こういうときはおれがかなかなの手を引いて、走れなきゃだめだなって。そんなこと生きててはじめて思った」
あたしの前にたどり着いた影は、その手を差し出してきた。
ためらいながら触れて、立ち上がる。
椅子が鳴って、胸が鳴った。
彼の視線が、あたしから窓の外へ移っていた。
「かなかなは、こんなふうにおれの作ったものを見てくれていたんだね」
あたしの後ろでは、きっとあのハートが夕焼けに色づいて。
きらきらと舞っては落ちているんだろう。
地面では雪のように、熱を受けて溶け出しているんだろう。
それは、あたしが大事にしてきたものすべてだった。
「あのとき、」
ハルくんの口からこぼれるものを、取りこぼすことのないように。
その一音一音を忘れてしまわないように、耳をすませて、目を凝らした。
きっとまた大事なものひとつになると、そう思ったから。
「飛ぶならいまだって、だれかがいったんだ。それがだれなのかは、よくわからないけど」
空の青。落ちてきた彼。
あの日の、にがいなみだ。
「でもね、きみに会えたよ。ばかだってみんな笑うけど、おれを笑わないきみに会えた」
触れていた手を握りしめられた。
ゆっくりと、きつく。
「あの空も、あの青もおれを見下して笑ってるって思ってた。だけど」
細められた目から、いまにも涙がこぼれてきそうで。
それがあの日を思い出させて、力がこもる。
「きみはとうめいななみだを落として怒ってた」
目が熱い。くちびるがふるえる。
「怒ったっていいよ。だってそれは、おれを想ってるってことなんでしょう?」
思わずこぼれ落ちたものに彼が微笑む。
折れてしまいそうな長い指が、あたしの頬を撫でていく。
「……ばか、じゃないの。うぬぼれないでよ。ハルくんのばか。なにがかっこ悪いから、よ。あたしの前じゃ、いつもかっこ悪い服装とか身だしなみしてるくせに。いっしょうけんめい、怪我治そうとしているひとをあたしがかっこ悪いとか思うわけないでしょ。リハビリだって、いっしょに、いったってよかったのに。手なんか引いてもらわなくたってあたしは、ひとりで走れるし、ハルくんのことだって離さないに決まってるのに。ひとりで、大変だったでしょう。ほんとに。あたしが怒ってるのはハルくんのせいであって、これが想ってるとかいわれればそうかもしれないけど、でも、とにかく、ばかじゃないの!?」
ぼろぼろと、言葉といっしょにあふれてキリがない雫を、彼が丁寧にすくい取っていく。
大事なものみたいに、ひとつずつ。ひとつずつ。
「あのね、かなかなに会うまでは、なんでもいいやって、どうでもいいって思ってたんだ。みんなが笑ってくれるなら、おれなんてなにしたっていいやって。でも、もうやめる」
「うん、」
「かなかなが想ってくれるおれを、おれ自身が大事にしなきゃだめだよね」
「あ、たりまえでしょ」
いつまでもこぼれる涙がうっとおしくて、乱暴に拭った。
それから、ハルくんのおなかに濡れたこぶしを押しつけた。
「ほんとにばか。大ばか。せめてなんか一言いってからいなくなるとかにしてよ! 突然、姿も見えなくなったからいったいなにが起きたのかと思って、余計なことばっかり考えたじゃないの! 意味深に謝られたりとかあったし。あのクソメガネに言われたことがそんなにあれだったのかとか、あたしが保健室でナカちゃんに頼まれたことショックだったかなとか、なんかそういうのでいろいろいやになっちゃったんじゃないかとか、とにかくほんとなんなの! 勇気出してハルくんのクラスにいけば変なひとたちに絡まれるし、昨日ようやく会えたのに、顔も見せないとか! ほんと、もう、なんなの、ばか!」
細くて薄くて余計な肉なんてまったくないだろうおなかを、ぼすぼすと殴る。
力は入れてないから、痛くはない、はず。
でも、なにかしないとこの気持ちがおさまらなくて。
「おれ、かなかなは足が治ったら相手にしてくれないんだと思ってたんだよ。だからあんまり治したくなくて。でもそうじゃなかったみたいで、ほんとによかったー」
「……は? なにそれ?」
「あのときも言ったけど、おれ知ってたんだ。保健室の先生がかなかなにおれのこと頼んだの。実はドアの外で立ち聞きしちゃって」
「は、い?」
「かなかないつもの調子で全力で断ってたけど、そのあと足が治るまでは心配とかなんとかいってたから、ああ、足治さなきゃいいのかとか思ってたんだよねえ……っつ、ぐ、」
その言葉に、思わず力が入ってしまった。
念のためにいっておくけど、ほんとうにわざとじゃない。
と思う。たぶん。
それにしても、あんなに嫌がってたのはそんなくだらない理由だったなんて。
なんというばかなんだろう。このひとは。
「ハルくんはほんとにばかだよ!」
「ごめんてばー。怒らないで、かなかな」
「さっき怒っていいっていったじゃないの! 思う存分、これからも怒りますとも!」
ばかだばかだと思っていたけれど、ここまでだとは。
深呼吸する。
彼がくれた液体のりのハートを、その薄紅を思いっきり吸い込む。
頬が熱い。ささやかれた耳も、泣き濡れた目も。
真っ赤なのは空であって、断じてあたしじゃない。逆光だけど。
このひとは、ちゃんと話さないとわからない。
目を見て、言葉にして伝えないと、だめらしい。
「あたしだって会いたいんだから、よけいなことは考えなくていいの!」
言い切った、と達成感と羞恥心でいっぱいになっていたら。
ハルくんが豆鉄砲食らったような顔をしていて、そうしてからはじけるように声を上げて笑ってくれた。
それだけでもう、なんだかすっかり満たされてしまって、あたしまでつられて笑ってしまった。
「うん、そうする。だいすきだよ、かなかな」
そして。
その突然の告白に、すべてが停止。
ひと呼吸おいて、時間が動き出す頃。
あたしは夕焼けよりも赤く、夏よりも暑くなっていた。
「え、は、ちょっと、な、なな、なにをとつぜん!」
「かなかなもおれのことすきでしょう?」
「なっ、なな、なにいって!」
「ちがうの?」
「ちがくないけど、ってちょ、もうほんとにばかー!」
もう声を上げるしかないあたしの叫びに呼応してかなんなのか、真後ろで鈍い音がした。
そして次の瞬間には何かが激しく弾け、噴出しているのがわかった。
「え?」
思わず振り返れば、窓の真下には破裂したような缶の残骸。
それを観察する間もなく、第二弾が落ちて破裂し、甘ったるいにおいを放っては噴き出した。
「なに、これ!?」
急いで窓の外から顔を出せば。
上に見えたのは、身を乗り出して第三弾をスタンバイする柳原先輩と。
それを必死で抑えようとしている果歩と特進の先輩たち、だった。
「あ、かなー! かなかなー! ヤナセンパイが暴走しはじめちゃったよー! ってかくっついた!? ついにくっついたか、このやろー! センパイ、おめでとうございますー!」
「上原ー! ちゃんと男みせたかー!? 後輩ちゃん大事にすんだぞ! しあわせになれよー!」
「俺ら、お前が怪我治してがんばりたいって相談しにきたときからダチだかんな! いままでごめんなー!」
「ヤナ! あぶねえからやめろって! 上原、邪魔してすまーん! 応援してっからな!」
「ちょ、落ち着けって、な! ふたりに幸あれー! 俺にもしあわせわけてくれええええ!」
「……ハルくん。いつのまにあのひとたちと仲良くなったの?」
「昨日の敵は今日の友ってやつだよー? まあ、柳原くんとは敵のままかな」
その表情は、だらしないゆるんだもののはずなのに。
なんだかどうもいつもと違うような、そんな気がして。
もしかして、じつはあまりばかじゃないのかも――。
と、あたしはハルくんに対する認識を改めたのだった。
「騒がしいと思ってきてみれば……! お前ら! なにやってんだ!」
ごめんなさい、教頭先生。
でも犯人は勉強でストレスの溜まっているらしいあのクソメガネです。