泥酔リーマン
金曜日の終電2本前の車内。薄い酒の臭いと、一週間の労働を終えた人々の重苦しい疲労感で満ちていた。車両奥の座席の隅、吊り革に掴まりながらも電車が揺れる度に頭を釣り棚の金属バーにぶつけそうなほど激しく揺れる、一人の若いサラリーマンが立っていた。新卒2年目といったところだろうか。髪は汗で額に張り付き、ネクタイはだらしなく緩んで第一ボタンが外れている。足元には、口の開いたビジネスリュックから書類がはみ出していた。彼は完全に泥酔しており、時折「うぇ……」「うう……」と大きなうめき声を漏らしながら、目の前に座る乗客の方へ何度も倒れそうになっていた。その度、彼の前に座っている乗客は露骨に嫌そうな顔をして、しかしせっかく座れた満員電車では体をのけ反らせるしかない。
泥酔した男は、自分が周囲にどれほど迷惑をかけているかも気づかず、ただ自分の不快感だけに支配されていた。呂律の回らない声で「……俺だって、頑張って…るのに……クソ上司が……」と、そのクダを巻き始めた声を聞いた途端、車内の空気は一気に冷え込む。誰もが「関わりたくない」「早く降りてくれ」と冷ややかな視線を送るが、関わって絡まれるのを恐れて誰も口には出さない。
その様子を、少し離れた位置から静かに見つめる若い女性がいた。彼女は携帯電話をバッグにしまうと、小さくその手を、うつむいて揺れる若いサラリーマンに向けそっと指さした。男が何かを察したように、トロンとした濁った目を気だるげに上げた瞬間――女性の指が、パチンと小さく音を鳴らした。
次の瞬間、男のうわ言がピタリと止まった。
「うわ、金曜の終電間際にいる一番最悪なタイプ。吐かれたらどうしよう」
「自分の限界も分からないで飲むなよ。自己管理能力ゼロだな」
「若いのにみっともない。会社でもこんな風に上司や先輩の愚痴ばっかり言ってんだろうね」
「頑張ってる、だって。泥酔してて声に出る、そして自分は聞かれているなんて夢にも思ってない」
「ネクタイもだらしないし、あんな風に潰れるまで飲むなんて、仕事も大してできないんだろうな」
「あそこまで飲ませる上司もなぁ…会社の程度も知れてるよなぁ」
「凄い、良く立ってられるな…前の席の人、危険アラーム鳴りぱなしだわな」
「今時こんなんなるまで飲む若いのがいるんだ…こいつの上司こういうヤツ大好物でないか?昭和歌謡とか好きそう」
「うわーやだやだやだやだっ。とにかくこっちに寄ってこないでほしい」
「頑張ってるって、頑張ってんのはお前だけじゃねえよ。みんな我慢してんだよ」
「こんな狭い電車の中で迷惑かけて。あんな息子に育ってたとしら…自分の子供だったら泣く。情けない」
「頑張ってます、やってますと言う人間に限って、実はなんもしてない口先人間」
「愚痴る暇があるならさっさと仕事覚えろよ。無能のくせに態度だけはいっちょ前かよ」
「明日目が覚めて、自分の醜さに絶望して欲しいけど、覚えてなんだよなぁ。すべてが残念」
周囲の乗客たちが、心の奥底で押し殺していた容赦のない冷徹な「本音」が、濁流となって男の脳内へと、ダイレクトにドバドバと流れ込んできたのだ。自分が「必死に耐えている可哀想な被害者」ではなく、ただの「自己管理ができない、目障りで不潔な無能」として軽蔑されている残酷な現実。何十人分もの生々しい嫌悪と罵倒が直接脳みそを殴りつける恐怖に、男の酔いは一瞬で吹き飛んだ。顔面は土気色になり、ガタガタと震えながら慌てて自分のバッグを抱きしめ、小さく身を縮める。そして、降りるつもりもなかった次の駅でドアが開いた瞬間、彼はホームへとふらつきながらも転がるように降り、ホームの壁にぶつかり突っ伏してしまっていた。
開いたドアから、夜の冷たい風が車内へと吹き込む。男が降りた駅は他にも降車した乗客が多く、男が去った後の空間はぽっかりと空いていた。指を鳴らした女性は、その空いた場所へゆっくりと歩み寄り、ぽつりと言った。
「……皆の声を聞いて欲しかっただけなのに」
それは、逃げ去った若いサラリーマンへの言葉なのか。それとも、心の中で罵倒しながら決して本音を口にしない、この終電間際の電車に乗っていた乗客全員に向けられた言葉なのか。彼女は静かに微笑み、別の空いた席へと腰を下ろした。
「あそこで降りてよかったのかしら…あ、まだ電車はあるわね」




