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虚ろなる救世主と忘却の聖女 〜最強の僕は、君との記憶さえ世界から消えていく〜

作者: 桜佐 理澄

「君を助けるたび、君との記憶が消えていく」僕には名前がなかった。


感情も、過去も、すべてが空っぽだった。

そんな僕に名前をくれたのは、太陽のような髪を持つ少女、エリアナだった。

彼女と出会い、初めて人の温かさを知った少年。

しかし、彼には秘密があった。

異形の怪物を一瞬で消し去る、理不尽なほどの『力』。

その力は、世界を救う奇跡。

だが、その代償はあまりにも残酷だった。


――力を使うたび、大切な人との記憶が消え、やがては自身の存在さえも世界から忘れ去られていく――


これは、ただの記憶喪失の物語ではない。

自分の存在が、愛する人の歴史から、世界そのものから「最初からいなかった」ことにされてしまう、根源的な喪失の物語。

「たとえ世界があなたを忘れても、私が絶対に忘れない」忘れゆく宿命を背負った『虚ろなる救世主』と、彼の全てを記憶し、世界の理に抗おうとする『忘却の聖女』。

これは、あまりにも切ない運命の中で、たった一つの絆を信じ、世界の残酷な法則に反逆する、二人の愛と戦いの記録。

これは、君と僕が、世界から消え去る前に、最後に紡ぐ物語。

【第一章 虚ろな少年と名を与える少女】



森は、腐敗の溜息を吐いていた。


降り積もった落ち葉が湿って土に還る匂い。陽光を遮るほどに密集した木々の枝が、風に擦れて軋む、乾いた呻き声。生命の営みが死へと向かう、その緩やかで、しかし避けがたい理だけが、この道を支配していた。


荷馬車の車輪が、ぬかるんだ轍に軋みを上げる。


少年は、その音を、ただ聞いていた。


自分の名前を、少年は知らなかった。自分がどこから来て、どこへ向かっているのかも知らなかった。彼の内側は、静まり返った水面のように、ただ空っぽだった。世界の全てが、一枚の薄い膜を隔てた向こう側で起きている出来事のように感じられた。喜びも、悲しみも、怒りさえも、彼の心にはさざ波ひとつ立てなかった。


ただ、時折、胸の奥に疼くような、奇妙な衝動だけがあった。『何かを守らなければならない』という、理由のわからない焦燥感。それが何なのか、誰なのかを知る術はなかったが、その感覚だけが、彼がこの世界に存在する唯一の楔であるかのように、微かに熱を持っていた。


「レイン、これをどうぞ。少し硬いですけど、噛んでいると甘くなってきますから」


隣の荷台から、快活な声がかけられた。声の主は、エリアナ。この隊商を組む旅商人の娘だ。彼女は、夕陽を溶かし込んだような温かいオレンジ色の髪を揺らし、干し果実の入った革袋を差し出した。


レイン、と彼女は少年を呼んだ。


三日前、森の中で独り、虚空を見つめて座り込んでいる彼を、エリアナの一家が見つけた。名前を尋ねられても答えられず、ただ空っぽの瞳を向けるだけの少年に、彼女は言ったのだ。


「あなたの瞳、雨が降る前の空の色に似ています。だから、レイン。今日からそれがあなたの名前」


少年は、その名前を拒まなかった。拒む理由も、受け入れる喜びも、彼にはなかったからだ。ただ、誰かに名前を呼ばれるという行為が、世界との間に隔てられた膜を、ほんの少しだけ薄くするような、不思議な感覚があった。


彼は無言で干し果実を受け取り、口に運んだ。エリアナの言う通り、硬い果実をゆっくりと噛み締めると、じわりと素朴な甘さが広がった。味は、わかる。だが、それが「美味しい」という感情に結びつくことはなかった。


その時だった。


森の空気が、変わった。


それまで聞こえていた鳥の声が、虫の音が、ぴたりと止んだ。風が死に、濃密な静寂が辺りを圧迫する。馬たちが不安げに鼻を鳴らし、その場で足踏みを始めた。


「どうしたんだい、急に……」


エリアナの父親が手綱を引き、警戒の声を上げる。護衛の傭兵たちが、剣の柄に手をかけた。


静寂は、長くは続かなかった。


木の枝がへし折れる、甲高い音。何かが、凄まじい速度でこちらへ向かってくる。それは獣の駆ける音ではなかった。もっと重く、大きく、そして何より、不自然な音だった。まるで、巨人が地団駄を踏んでいるかのような、地を揺るがす轟音。


そして、それは姿を現した。


道の先、木々の影を突き破って現れたそれに、誰もが息を呑んだ。


それは、自然界のあらゆる法則を嘲笑うかのような、冒涜的な姿をしていた。熊のような胴体に、昆虫の如き複数の細長い脚。鹿の角が生えた頭部には、しかし顔があるべき場所には、ただ爛々と光る巨大な複眼が一つあるだけだった。その体躯は荷馬車よりも大きく、歩を進めるたびに、その不格好な脚が大地を抉り、不快な音を立てた。


「“いびつ”……! なぜこんな街道にまで!」


傭兵の一人が、絶望の滲む声で叫んだ。


“歪”――この世界に時折現れる、異形の怪物。それがどこから来て、何を目的とするのか、誰も知らない。ただ、遭遇した者には、死か、それ以上の絶望がもたらされることだけが知られていた。


エリアナの父親が、震える声で叫ぶ。


「荷物は捨てろ! 逃げるんだ!」


その言葉が合図だった。傭兵たちが果敢に前に出るが、“歪”は巨大な腕を一振りするだけで、屈強な男たちを紙切れのように薙ぎ払った。悲鳴が上がる。馬が暴れ、荷馬車が横転し、積荷が泥濘に散らばった。


エリアナが、恐怖に引き攣った顔でレインの手を掴んだ。


「レイン、こっちへ!」


彼女に手を引かれ、レインはただ、されるがままに走り出す。背後で、断末魔の叫びと、肉が引き裂かれる生々しい音が響く。彼の心は、それでも静かだった。恐怖はない。ただ、エリアナに掴まれた手の温かさだけが、やけに現実味を帯びていた。


だが、逃げ切れるはずもなかった。


木の根に足を取られ、エリアナが悲鳴と共に転倒する。レインも、それに引きずられるようにして倒れた。見上げると、巨大な“歪”が、その一つの複眼で二人を捉えていた。


エリアナが、レインを庇うように覆いかぶさった。彼女の体は、恐怖で小刻みに震えている。


「……いや」


その時、レインの口から、自分でも意識しないうちに、言葉が漏れた。


エリアナの震えが、掴まれた手の温かさが、彼の内側にある空っぽの器を、初めて揺さぶった。胸の奥で燻っていた、あの焦燥感が、疼きが、奔流となって溢れ出す。


『守らなければ』


誰を?


『この温かさを』


なぜ?


わからない。何もわからない。だが、衝動だけが、彼の全てを支配した。


“歪”が、凶兆の音を立てながら、その巨大な腕を振り上げる。エリアナが、ぎゅっと目を瞑った。


その瞬間。


レインの世界から、音が消えた。


彼の内側で、何かが弾けた。それは、声なき絶叫。彼の存在そのものが、世界の法則に悲鳴を上げたかのような、根源的な拒絶。


空っぽだったはずの器に、途方もない熱量の奔流が流れ込む。それは魔法ではなかった。この世界の誰もが知る、エーテルに干渉し、代償を払って奇跡を紡ぐ、あの体系化された技術とは似ても似つかない、もっと原始的で、混沌とした、ただ純粋な「力」の塊だった。


レインは、無意識に手を伸ばしていた。


彼の手のひらから、光が放たれる。


それは、太陽の如き眩い光ではなかった。月のような優しい光でもない。世界に存在するあらゆる色を喰らい尽くし、その後に何も残さない、絶対的な「無」の色をした光。光と呼ぶことさえ冒涜に思えるほどの、純粋な破壊の奔流だった。


光は、“歪”を飲み込んだ。


抵抗も、悲鳴も、断末魔さえも許さなかった。巨大な怪物は、光に触れた瞬間から、その存在そのものが世界から消しゴムで消されるように、跡形もなく消滅した。


だが、光は止まらない。


“歪”がいた場所から、その背後の森へ。木々が、土が、岩が、光に飲み込まれ、塵も残さず消え去っていく。まるで、世界のキャンバスの一部が、ごっそりと抉り取られていくようだった。


やがて、光が収まった時。


そこには、静寂だけが残されていた。


そして、半月状に、大地が消失していた。森の一部が、まるで巨大なスプーンで抉られたかのように、綺麗になくなっている。その断面は滑らかで、熱で溶けたような痕跡すらない。ただ、空間そのものが、そこだけ切り取られていた。


レインは、呆然と自分の手のひらを見つめていた。


今、何が起きたのか。


自分が、何をしたのか。


わからない。何も、わからなかった。


胸の奥を焦がしたあの衝動は、奔流は、嘘のように消え去り、後には以前よりもさらに深い、底なしの虚無だけが広がっていた。まるで、器に大きな穴が空いてしまったかのように、彼の内側は、がらんどうだった。


「……あ……」


隣で、か細い声がした。


エリアナが、体を起こし、目の前の光景に言葉を失っていた。彼女の翠色の瞳が、信じられないものを見るように、大きく見開かれている。その視線は、抉り取られた大地と、レインの顔とを、何度も往復した。


やがて、彼女の視線が、レインの瞳に固定される。


その瞳には、恐怖の色はなかった。驚愕はあった。しかし、それ以上に強かったのは、深い、深い悲しみの色だった。まるで、大切なものが壊れていくのを、ただ見ていることしかできないような、そんな無力感に満ちた哀れみの色だった。


彼女は、ゆっくりと立ち上がると、泥に汚れるのも構わずに、レインの前に膝をついた。そして、震える手で、そっと彼の頬に触れた。


「……また、あなたは……」


エリアナの唇から、囁くような声が漏れた。その声は、レインには聞こえなかった。


「……大丈夫。大丈夫ですから」


彼女は、自分に言い聞かせるように、何度もそう繰り返した。


レインは、ただ黙って彼女を見ていた。この少女は、なぜ自分を恐れないのだろう。自分は、今、あんなにも得体の知れない、理不尽な力を使ったというのに。


エリアナは、レインの空っぽの瞳を、じっと見つめ返した。


「あなたは、何も悪くない」


きっぱりとした声だった。


「あなたは、私を助けてくれた。ただ、それだけ。……そのために、あなたの心が、また少し、壊れてしまったとしても」


彼女の言葉の意味が、レインには理解できなかった。


エリアナは、彼の頬に触れていた手を、そっと下ろした。そして、まるで壊れ物を扱うかのように、優しく、しかし力強く、彼の手を握った。


「行きましょう、レイン」


彼女は言った。


「あなたが、あなた自身を思い出せなくても。あなたが、今日起きたことを忘れてしまっても。私が、覚えています。あなたが、私を守るために、その優しい心をすり減らしたことを、私が絶対に忘れない」


その言葉は、呪いのようでもあり、祈りのようでもあった。


「だから、行きましょう。あなたの旅は、まだ始まったばかりなのだから」


レインは、何も答えなかった。


ただ、握られた手の温かさだけが、がらんどうになった彼の世界で、唯一の確かなものとして感じられた。


なぜ、この少女は、これほどまでに自分を信じるのか。


なぜ、彼女の言葉は、空っぽの心に、これほどまでに沁みるのか。


答えは、どこにもなかった。


こうして、世界に忘れられた少年と、その全てを記憶しようと決めた少女の、長くて、そして切ない旅が、静かに幕を開けた。


破壊の爪痕が生々しく残る森の中で、二つの小さな影だけが、寄り添うように、ゆっくりと前へと歩き始めた。



【 第二章 消えゆく絆と色褪せる日記】



あの森を抜けてから、幾日が過ぎただろうか。


レインは、荷馬車の揺れに身を任せながら、流れていく風景をただ眺めていた。世界の色彩は、彼の瞳には映るが、心には届かない。エリアナが指差す丘の緑も、空の青も、道端に咲く名もなき花の赤も、彼にとっては意味を持たない色の羅列でしかなかった。


エリアナは、根気強く彼に語り続けた。


「あれがルメール王国の旗です。獅子の紋章は勇気の証と言われています」


「旅の基本は、まず水を確保すること。この川の水は綺麗ですから、水筒を満たしておきましょう」


「夜は冷えますから、火の番は交代で。……まあ、レインはいつも起きていますけど」


彼女の言葉は、乾いた大地に染み込む水のように、レインの空っぽの世界に知識として蓄積されていく。だが、そこに感情の芽が吹くことはない。彼は世界の仕組みを学び、言葉を覚え、常識を身につけていく。まるで、精巧に作られた人形が、動き方を学習しているかのように。


前回の戦闘で振るった、あの理不尽な力。その記憶は、彼の内側に焼け付くような空白として残っていた。何か途方もないことをしでかしたという実感だけが、冷たい澱のように沈殿している。そして、それ以上に彼を苛むのは、あの時に感じた『守りたい』という衝動の熱が、今はもうどこにも見当たらないことだった。彼の内側は、再びがらんどうの静寂に満たされていた。


やがて、二人の旅路は、小さな村へとたどり着いた。


石積みの家々が寄り添うように建ち並び、畑には痩せた麦の穂が頼りなげに揺れている。活気があるとは言えないが、人々の暮らしの匂いがする、穏やかな場所に見えた。


しかし、村の空気は、その見た目とは裏腹に、重く張り詰めていた。広場に集う村人たちの顔には疲労と恐怖が色濃く、誰もが俯きがちに、ひそひそと声を潜めて言葉を交わしている。


エリアナが、近くにいた老婆に声をかけた。


「こんにちは、おばあさん。旅の者ですが、少し休ませていただける場所はありませんか? 村の皆さんは、何かお困りごとのようですが……」


老婆は、二人を警戒するように一瞥したが、エリアナの纏う柔らかな雰囲気に、少しだけ心を許したようだった。


「……旅の人かい。悪いことは言わん、こんな村には長居せんことだ。ここはもう、盗賊どもの餌場さね」


老婆の話によると、近隣の山に根城を構える盗賊団が、ここ数ヶ月、村を脅かしているのだという。蓄えを奪い、家畜を盗み、逆らう者には容赦なく暴力を振るう。騎士団に助けを求めても、こんな辺境の村まで手が回らないのが現状だった。


「昨夜も、村長の家に押し入って、娘さんを……。幸い、酷いことにはならなかったが、時間の問題じゃろう」


その言葉に、エリアナの翠色の瞳が、鋭い光を宿した。彼女は、レインの袖を強く握った。その指先が、微かに震えている。


レインは、エリアナの顔を見た。彼女の瞳の奥に、静かな怒りの炎が燃えているのがわかった。そして、その炎が、彼の内側にある冷たい澱を、ほんの少しだけ溶かした。


胸の奥が、また疼く。


あの時と同じ、理由のわからない焦燥感。


「……助けるのか」


レインが、ぽつりと呟いた。


エリアナは、驚いたように彼を見つめ、そして、強く頷いた。


「助けたい。でも、私たちだけでは……」


「俺がいる」


レインは、自分の口から出た言葉に、自分で驚いていた。何の確信も、何の勝算もない。ただ、エリアナの瞳に宿る炎を、消したくないと思った。それだけだった。


エリアナは、彼の言葉に息を呑んだ。そして、彼女の顔に、不安と、しかしそれ以上の信頼が入り混じった、複雑な微笑みが浮かんだ。


「……ありがとう、レイン」


その夜、盗賊たちが再び村に現れた。


松明の明かりを振りかざし、下品な笑い声を響かせながら、彼らは我が物顔で広場へと踏み込んでくる。村人たちは、恐怖に顔を青くして、家に閉じこもるしかなかった。


その広場の中心に、二つの人影が立っていた。


「なんだぁ、てめえら。見ねえ顔だな。この村のルールを知らねえのか?」


盗賊の頭目らしき大男が、錆びた斧を肩に担ぎ、威嚇するように言った。


レインは、答えなかった。ただ、静かに目の前の男たちを見つめている。彼の隣で、エリアナが深呼吸をして、毅然とした声を張り上げた。


「あなたたちの好きにはさせません。この村から、今すぐ立ち去りなさい」


その言葉を合図に、盗賊たちが一斉に笑い声を上げた。


「嬢ちゃん、威勢がいいじゃねえか。だがな、ガキの遊びは終わりだ!」


頭目が斧を振り上げ、襲いかかってくる。


レインは、動かなかった。


ただ、エリアナの前に、自分の体を滑り込ませるようにして立つ。


「レイン!」


エリアナの叫び声が響く。彼女は、懐から取り出した小さなナイフを構え、レインの背中を守るように立つ。それは戦闘技術と呼べるものではなく、ただの覚悟の形だった。


その覚悟が、引き金になった。


レインは、右手をゆっくりと持ち上げた。


前回の、あの混沌とした力の奔流とは違う。もっと静かで、もっと冷たい感覚。空っぽの器の底に溜まった、絶対零度の水面に、指先を浸すような感覚。


彼は、力の使い方を理解していたわけではない。ただ、イメージした。


――目の前の脅威を、排除する。


――エリアナに、指一本触れさせない。


彼の足元から、影が滲み出した。それは物理的な影ではない。空間そのものが、黒く染まっていくような、異質な闇。闇は、生き物のように蠢き、十数本の鋭い棘となって、盗賊たちの足元から突き出した。


「なっ……!?」


悲鳴を上げる暇もなかった。黒い棘は、盗賊たちの体を的確に貫き、その動きを完全に封じる。それは殺意の形ではなかった。ただ、機能を停止させるためだけの、冷徹な無力化。


頭目の男だけが、辛うじてそれを避けていた。彼は、目の前の信じられない光景に、恐怖で顔を引き攣らせている。


「ば、化け物……!」


レインは、男に向かって一歩、踏み出した。


その瞬間、男の足元の地面が、音もなく陥没した。男は、為す術もなく、腰まで地面に埋まる。


静寂が、広場を支配した。


レインは、ゆっくりと右手を下ろした。影の棘は、音もなく消え去り、拘束されていた盗賊たちは、気を失ってその場に崩れ落ちた。


彼は、振り返った。


エリアナが、信じられないものを見る目で、彼を見つめていた。だが、その瞳に恐怖はなかった。ただ、深い安堵と、そして、やはりあの哀れみの色が浮かんでいた。


「……終わった」


レインが呟くと、エリアナは力なくその場に座り込んだ。


やがて、恐る恐る家から出てきた村人たちが、広場の光景を見て息を呑み、そして、堰を切ったような歓声を上げた。


その夜、村では小さな祭りが行われた。


乏しい蓄えの中から持ち寄られた酒と料理が並び、広場には陽気な音楽が流れる。村人たちは、代わる代わるレインとエリアナの元へやってきて、感謝の言葉を述べた。


「ありがとう、英雄様!」


「あなたたちがいなければ、この村は……」


レインは、その輪の中心で、ただ戸惑っていた。人々が向ける、純粋な感謝と尊敬の眼差し。エリアナが、彼の隣で嬉しそうに微笑んでいる。


差し出されたエールを、彼は無言で受け取った。一口飲むと、苦味の奥に麦の香りがした。音楽が、人々の笑い声が、彼の耳に届く。


その時、彼の空っぽの器の中に、ぽつり、と小さな灯りがともるのを感じた。


温かい。


これが、そうか。これが、エリアナがいつも語っていた、「嬉しい」とか「楽しい」という感情なのか。


彼は、生まれて初めて、自らの意思で、口の端を緩めた。それは、ぎこちない、微笑みと呼ぶにはあまりに不格好な形だったかもしれない。


だが、それを見たエリアナの瞳が、幸せそうに細められたのを、彼は確かに見た。


その夜、眠りにつく前、レインはエリアナから譲ってもらった、真新しい日記帳を開いた。そして、拙い文字で、今日一日の出来事を書き留めていく。


『村を助けた。感謝された。エリアナが笑った。胸が、温かくなった。この気持ちを、忘れたくない』


インクが乾くのを待って、彼は日記帳を閉じた。この温かい感覚さえあれば、もうあの虚無に怯えることはないかもしれない。そんな、淡い希望を抱きながら、彼は眠りに落ちた。


翌朝。


レインは、鳥の声で目を覚ました。差し込む朝日が、部屋の埃をきらきらと照らしている。


彼の隣には、オレンジ色の髪をした少女が、穏やかな寝息を立てていた。


レインは、その少女を、じっと見つめた。


知らない人だ。


なぜ、こんな場所で、見ず知らずの少女と一緒に眠っているのだろう。


彼は、混乱しながらも、静かに体を起こした。物音を立てないように、そっと部屋を出ようとする。


その時、少女が身じろぎをして、ゆっくりと目を開けた。


「……レイン? おはようございます」


少女は、眠たげに微笑みながら、彼に声をかけた。


レインは、警戒しながら、後ずさった。


「……誰だ、君は」


少女の微笑みが、凍りついた。


彼女の翠色の瞳が、大きく見開かれ、そして、そこに絶望の色が広がっていくのを、レインはただ見ていた。


「……また、なのですね」


少女は、震える声で言った。その声は、悲しみと、諦めと、それでも消えない愛情が、痛々しいほどに混ざり合っていた。


「私は、エリアナです。あなたの、旅の仲間です」


エリアナ、と名乗った少女は、泣き出しそうな顔を必死にこらえ、立ち上がった。


「信じられないかもしれません。でも、どうか、これを見てください」


彼女が指差したのは、レインの枕元に置かれた、あの日記帳だった。


レインは、訝しげにそれを手に取り、ページを開いた。そこには、確かに自分の筆跡で、昨日の出来事が記されていた。村を救ったこと。感謝されたこと。そして、『エリアナが笑った』という記述。


だが、レインの記憶には、そんな出来事は一切存在しなかった。


彼は、自分の記憶と、目の前にある記録との、絶対的な断絶に、眩暈を覚えた。


「どうして……」


彼が、呆然と日記の文字を指でなぞった、その時。


ぞわり、と背筋に悪寒が走った。


文字が、崩れた。


彼が触れた部分のインクが、まるで長い年月を経て風化したかのように、炭の粉になって、はらりとページからこぼれ落ちたのだ。昨日書いたばかりのはずの、まだ艶やかだったはずの黒いインクが、まるで百年前の古文書のように、その存在を維持できずにいる。


「なんだ……これは……」


自分の記憶が消えるだけではない。


自分が残した記録さえもが、この世界から消えかかっている。


その事実は、彼がこれまで感じたことのない、もっと根源的で、冒涜的な恐怖を呼び覚ました。自分という存在そのものが、この世界に拒絶されているかのような、底知れぬ孤独感。


彼は、自分の頭を抱えた。空っぽの器が、恐怖に軋む音がした。


その夜、レインがようやく混乱から抜け出し、浅い眠りについた後。


エリアナは、一人、窓辺に座って月を見上げていた。彼女の頬を、こらえきれなかった涙が、静かに伝っていく。


彼女は、そっと口ずさんだ。


それは、彼女の一族にだけ、母から娘へと、秘密裏に伝えられてきた古い子守唄。


「♪忘れられた英雄よ その御名は風に消え」


「♪その功績は石に埋もれ ただ歌だけが覚えている」


「♪世界があなたを忘れても この声があなたを繋ぎ止める」


彼女の家系は、「記録者」。


歴史の修正力によって、世界から忘れ去られた物語を、真実を、歌として語り継ぐことを使命としてきた一族。


彼女は、レインと出会った時、直感したのだ。


彼こそが、一族が歌い継いできた、あの「名もなき英雄」なのだと。世界を救うたびに、その代償として、世界から忘れられていく、哀しい宿命を背負った存在なのだと。


「大丈夫、レイン」


彼女は、眠るレインの髪を、優しく撫でた。


「あなたが、あなたを忘れても。世界が、あなたを忘れても」


「私が、覚えている。私が、歌い継ぐ。あなたの物語を、私が終わらせたりしない」


その誓いは、夜の静寂に、悲しく、そして強く響いた。


二人の旅は、新たな局面を迎えていた。


レインは、自らの存在が消えゆく恐怖と。


エリアナは、その存在を繋ぎ止めるという、孤独な戦いと。


それぞれの胸に、決して交わることのないはずの、しかし同じ痛みを秘めた決意を抱きながら、彼らは再び、歩き出す。


世界の残酷な法則が、すぐそこで、静かに口を開けて待っていることも知らずに。



【第三章 歪んだ救済者と世界の警告】



時は、癒しではなかった。


少なくとも、レインにとっては。


あの日、日記のインクが砂のようにこぼれ落ちてからというもの、彼の内なる虚無は、形を変えて彼を苛んでいた。以前のそれは、ただ空っぽなだけだった。今は違う。その空虚の縁に、焦げ付くような恐怖がまとわりついている。自分という存在が、この世界から拒絶されているという、根源的な恐怖。記憶が消えるのではない。記録さえもが、世界から消されていく。では、自分とは、一体何なのだ?


二人の旅は、奇妙な静寂に包まれていた。


エリアナは、以前と変わらず、甲斐甲斐しくレインの世話を焼いた。世界の成り立ちを語り、旅の知恵を教え、彼の分の食事を用意する。だが、その献身が深ければ深いほど、彼女の翠色の瞳の奥に宿る哀しみの色は、濃くなっていくようにレインには見えた。


彼女は、彼が忘れることを知っている。


彼は、自分が忘れることを知っている。


その残酷な共通認識が、二人の間に見えない壁を作っていた。エリアナは、決して昨日の話をしなかった。彼女が語るのは、いつだって「これから」のことだけだ。まるで、積み上げた砂の城が、波に攫われるのをただ待つ子供のように。


レインは、もう日記を書くのをやめていた。文字にすることに、意味を見出せなかったからだ。


その日、彼らはルメール王国の西の関所町、グレイフェンに立ち寄っていた。活気はあるが、どこか荒々しい空気が漂う、冒険者や傭兵たちが集う町だ。エリアナが旅の物資を補給している間、レインは広場の噴水の縁に腰掛け、行き交う人々をただ眺めていた。


誰も彼に注意を払わない。彼は風景の一部だった。そのことに、彼は安堵と、そして微かな寂しさを感じていた。


その時だった。


空気が、変わった。


町の喧騒が、一瞬遠のくような錯覚。肌を刺すような、鋭い視線。それは、単なる敵意ではなかった。もっと純粋で、冷徹な、獲物を品定めするような視線。


レインが顔を上げると、広場の向こうに、数人の人影が立っていた。


黒を基調とした、機能的な衣服。それは、この町の冒険者たちの雑多な装備とは明らかに異質だった。彼らは、ただそこに立っているだけで、周囲の空気を支配していた。


その中心に、一人の青年がいた。


夜空を思わせる、深い紺色の髪。全てを見透かすような、鋭い銀色の瞳。その整った顔立ちは、しかし、常に皮肉めいた冷笑を浮かべており、他者を寄せ付けない絶対的な孤高を纏っていた。


目が、合った。


その瞬間、レインの胸の奥が、氷の針で刺されたかのように疼いた。


知らない男だ。会ったことなど、あるはずがない。


なのに、なぜだ。なぜ、この男の瞳を知っているような気がする? なぜ、この男の存在が、彼の空っぽの器を、これほどまでに揺さぶるのだ?


青年が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。彼の背後にいた者たちが、広場を囲むように散開し、逃げ道を塞いでいく。町の住人たちも、その異様な雰囲気に気づき、蜘蛛の子を散らすように遠巻きに離れていった。


やがて、青年はレインの目の前で足を止めた。


「ようやく見つけた。随分と手間をかけさせてくれる」


その声は、彼の見た目と同じように、冷たく、そして絶対的な自信に満ちていた。


「……誰だ」


レインは、かろうじてそれだけを口にした。


青年は、心底おかしそうに、喉の奥で笑った。


「名乗るほどの価値もない。お前には、どうせすぐに意味のないものになるのだからな」


その言葉に、レインは息を呑んだ。


この男は、知っている。俺の、この呪いを。


「目的は、なんだ」


「簡単なことだ。お前を捕獲する」


青年は、まるで虫かごを指差すかのように、こともなげに言った。「お前のような、制御不能な『バグ』を野放しにしておくわけにはいかない。我々の『秩序』のために、お前には管理される側になってもらう」


その時、人垣をかき分けるようにして、エリアナが駆け込んできた。彼女の顔には、焦りと決意が浮かんでいる。


「レイン!」


彼女は、レインの前に立ちはだかるようにして、黒衣の青年を睨みつけた。


「あなたたちは、一体何者です! 彼に、何の用ですか!」


青年は、エリアナに視線を移した。その銀色の瞳が、値踏みするように彼女を上から下まで眺める。


「ああ、お前が今回の『記録者』か。相変わらず、ご苦労なことだ。無駄な希望でバグを慰め、延命させるだけの、哀れな役割」


「……ッ!」


エリアナの顔から、血の気が引いた。


この男は、自分の一族の秘密さえも知っている。


「下がっていろ、エリアナ」


レインが、静かに言った。彼は立ち上がり、エリアナを自分の背中へと押しやる。


「こいつらの相手は、俺がする」


「でも!」


「いいから、行け」


その言葉は、有無を言わせぬ響きを持っていた。エリアナは、唇を噛み締め、しかし、彼の意志を尊重して、ゆっくりと後ずさった。彼女は知っていた。ここで自分が足手まといになることだけは、避けなければならないと。


青年――カインと名乗ることさえしなかった男は、満足げに頷いた。


「ようやく、話が通じるようになったか。では、始めようか。お前の力が、どれほど残っているのか、見せてもらおう」


カインが、右手を軽く振る。


その合図で、彼を取り巻いていた黒衣の部下たちが、一斉にレインへと襲いかかった。彼らの動きは、洗練され、一切の無駄がなかった。それは、ただの傭兵や冒険者のそれではない。特殊な訓練を受けた、暗殺者の動きだった。


レインは、動かなかった。


彼の内側で、あの冷たい衝動が、再び鎌首をもたげる。


使いたくない。この力を使えば、また何かが失われる。エリアナとの、このかろうじて繋がっている関係さえも、きっと。


だが、使わなければ、彼女が危ない。


その一瞬の逡巡が、命取りになった。


一人の男が、レインの死角に回り込み、その腕に短剣を突き立てる。浅い傷だったが、確かな痛みが走った。


「レイン!」


遠くから、エリアナの悲鳴が聞こえる。


その声が、引き金だった。


守らなければ。


レインの瞳から、感情の色が消えた。彼は、自分の腕に刺さった短剣を意にも介さず、ただ、静かに右手を持ち上げた。


空っぽの器の底から、絶対零度の力が溢れ出す。


イメージする。


――目の前の脅威を、無力化する。


レインの足元から、黒い影が滲み出した。影は、無数の棘となり、襲いかかってきた黒衣の者たちの手足を、的確に貫いた。それは、村で使った力と同じだった。殺意はなく、ただ動きを奪うためだけの、冷徹な一撃。


黒衣の者たちは、悲鳴さえ上げることなく、その場に崩れ落ちた。


広場に、再び静寂が戻る。


だが、カインだけは、表情一つ変えずに立っていた。彼は、部下たちの惨状を一瞥すると、つまらなそうに肩をすくめた。


「なるほど。力そのものは健在か。だが、ずいぶんと甘くなったものだな。殺すことさえ躊躇うとは」


カインが、一歩前に出る。


その瞬間、彼の体から、レインのそれとは比較にならないほどの、濃密なプレッシャーが放たれた。それは、混沌とした力の奔流ではない。極限まで鍛え上げられ、研ぎ澄まされた、一振りの抜き身の刀のような、殺意のオーラだった。


「お前の力は、そんな生温い使い方をするためのものじゃない。こう使うんだ」


カインの姿が、掻き消えた。


レインが反応するより早く、背後に回り込んだカインが、その手刀を首筋に叩き込もうとする。レインは、咄嗟に体を捻ってそれを避けたが、カインの攻撃は止まらない。蹴り、拳、掌打。その全てが、常人離れした速度と精度で、レインの急所を的確に狙ってくる。


レインは、防戦一方だった。


力の絶対量では、おそらく自分が上だ。だが、技術が、経験が、そして何より、殺意の純度が、違いすぎた。


カインは、楽しんでいた。一方的な蹂躙を、心から楽しんでいるようだった。


「どうした? その程度か? お前の力は、そんなものではないだろう!」


カインの蹴りが、レインの腹部に深々と突き刺さる。レインは、くの字に折れ曲がり、地面に叩きつけられた。


「……ぐっ……!」


「思い出させてやろう。お前が、本来どういう存在だったのかを」


カインが、ゆっくりとレインに近づき、その顔を踏みつけようと足を振り上げる。


エリアナが、悲鳴を上げた。


その声に、地面に突っ伏していたレインの肩が、ぴくりと動いた。


彼の脳裏に、エリアナの笑顔が浮かんだ。村で、初めて温かい気持ちを知った、あの夜の笑顔。日記に書き留めた、あの拙い言葉。


『エリアナが笑った。胸が、温かくなった』


失いたくない。


この記憶だけは。この温かさだけは。


だが、守るためには、力を使うしかない。


なんという、矛盾。なんという、地獄。


「……ああああああああああッ!」


レインの口から、初めて、感情の乗った絶叫がほとばしった。


彼の体から、黒い光が、奔流となって溢れ出した。それは、もはや影の棘のような、制御された形を成してはいなかった。森で“歪”を消し去った、あの混沌とした破壊の力そのもの。


純粋な「無」の力が、カインを飲み込もうと殺到する。


だが、カインは、その絶対的な破壊を前にしても、なお冷笑を浮かべていた。


「そうだ。それだ。それこそが、お前の力だ」


彼は、懐から黒ずんだ古びたペンダントを取り出すと、それを強く握りしめた。ペンダントが、禍々しい光を放ち、カインの体を黒いオーラが包み込む。


レインの放った破壊の奔流が、カインの黒いオーラと激突した。


凄まじい衝撃が、広場を揺るがす。石畳が砕け散り、周囲の建物の窓ガラスが、一斉に粉々になった。


二つの絶対的な力が拮抗し、空間そのものが軋むような悲鳴を上げた。


やがて、光と闇が収まった時。


そこには、息を切らし、膝をつくレインと、涼しい顔で佇むカインの姿があった。


カインは、満足げに頷いた。


「上出来だ。これなら、まだ使える」


彼は、レインに背を向けると、部下たちに合図を送った。気を失っていた黒衣の者たちが、何事もなかったかのように立ち上がり、カインの元へと集まってくる。


「待て……!」


レインが、喘ぎながら言った。「お前の目的は……」


カインは、足を止め、振り返った。その銀色の瞳には、憐れみとも、嘲笑ともつかない、複雑な色が浮かんでいた。


彼は、去り際に、爆弾を投下した。


「一つ、勘違いを正してやろう」


「お前が忘れっぽいんじゃない」


「世界が、お前を忘れたがるんだ」


その言葉は、呪いのように、レインの心に突き刺さった。


意味が、わからない。だが、その言葉が、否定しようのない、絶対的な真実の響きを持っていることだけは、わかった。


カインとその部下たちは、町の闇に、音もなく消えていった。


後に残されたのは、破壊された広場と、呆然と立ち尽くすレイン、そして、顔を青ざめさせたエリアナだけだった。


レインは、膝をついたまま、動けなかった。


カインの言葉が、頭の中で何度も反響する。


『世界が、お前を忘れたがるんだ』


どういう、意味だ?


彼は、ゆっくりと振り返った。そこに、エリアナが立っている。彼女は、泣きそうな顔で、しかし、必死にそれをこらえて、レインを見つめていた。


レインは、彼女に何かを言おうとして、言葉を失った。


目の前にいる、この少女は。


この、夕陽のようなオレンジ色の髪をした、美しい少女は。


一体、誰なのだろうか。


「……君は……」


レインの唇から、その言葉が漏れた瞬間。


エリアナの瞳から、堪えていた涙が一筋、頬を伝った。


ああ、まただ。


また、この絶望がやってきた。


彼女は、唇を強く噛み締め、血が滲むのも構わなかった。この痛みだけが、今、自分が正気であることを証明してくれる唯一のものだったから。


「私は、エリアナです」


彼女は、震える声で、しかし、はっきりとそう言った。


「あなたの、旅の仲間です」


レインは、混乱した目で、彼女と、破壊された広場とを見比べた。自分の腕には、浅いが確かな傷がある。何があったのか、全く思い出せない。ただ、途方もない喪失感だけが、彼の心を支配していた。


エリアナは、レインに近づくと、そっと彼の手を取った。その手は、氷のように冷たくなっていた。


「大丈夫。大丈夫ですから」


彼女は、自分に言い聞かせるように、そう繰り返した。


そして、彼女は、自分の首に下げた銀細工のお守りを、無意識に握りしめた。


その輝きが、また、ほんの僅かに、失われていることに気づきながら。


それは、レインとこの世界を繋ぎとめている、最後の絆が、また一つ、すり減った証だった。


カインが残した、不吉な警告の本当の意味も知らず。


二人の旅は、より深い謎と、より残酷な悲劇の渦の中へと、静かに沈んでいく。



【第四章 偽りの追憶とシステムの囁き】



沈黙は、錆びた鉄の味がした。


グレイフェンの町を後にしてから、レインとエリアナの間に横たわる空気は、ただひたすらに重かった。交わされる言葉は、旅に必要な最低限のものだけ。「ここで水を汲む」「火の番を代わる」「もう休む」。それらの言葉は、意味だけを運ぶ石ころのように、何の感情も乗せずに二人の間を転がっては、落ちていった。


レインは、歩きながら、自分の手のひらを何度も見つめていた。


あの男、カインが残した言葉が、脳漿に染み込んだ毒のように、彼の思考を蝕んでいた。


『世界が、お前を忘れたがるんだ』


その言葉は、理解を超えて、彼の存在の根幹を揺さぶっていた。自分という存在が、この世界にとって異物であり、間違いであり、消されるべきノイズなのだとしたら。


彼は、隣を歩く少女を盗み見た。


エリアナ。


彼女はそう名乗った。彼女の献身的な態度は、彼女が嘘をついているとは思わせなかった。だが、レインの記憶には、彼女はいない。彼女と過ごしたはずの温かい時間も、交わしたはずの言葉も、全てが抜け落ちている。


その事実が、鉛のように彼の心を沈ませる。


自分は、この少女の優しさにつけ込み、その大切な記憶を食い荒らす、寄生虫のような存在なのではないか。力を使えば、また彼女を忘れる。彼女との絆を、この手で引き裂いてしまう。


その恐怖が、彼の力の源泉に、分厚い氷の蓋をしていた。彼は、二度と力を使うものかと、固く心に誓っていた。それは、エリアナを守るためというよりも、これ以上自分という存在が、誰かを傷つけないようにするための、臆病な自己防衛だった。


エリアナもまた、沈黙の理由だった。


彼女は、レインが自分を忘れてしまったという事実を、痛々しいほど健気に受け入れていた。だが、その笑顔の裏にある、深い絶望の淵を、レインは感じずにはいられなかった。彼女は、壊れやすい硝子細工に触れるように、慎重に、レインに接していた。まるで、少しでも強く触れれば、彼の存在そのものが砕け散ってしまうとでも言うかのように。


その痛々しいほどの優しさが、レインの罪悪感を、さらに深く抉るのだった。


旅は、目的を失っていた。


ただ、東へ。王都エーテルガードの方角へ。それだけが、惰性のように二人を動かしていた。


数日が過ぎた夜。


野営の焚き火が、ぱちぱちと音を立てていた。エリアナは、疲労の色を隠せず、毛布にくるまって浅い眠りについている。


レインは、眠れなかった。


虚無が、かつてないほど濃密な闇となって、彼を包み込んでいた。カインとの戦闘で消耗した精神は、もはや限界だった。空っぽの器は、その真空状態に耐えきれず、悲鳴を上げていた。


拠り所が、欲しかった。


自分は誰なのか。何のために存在するのか。その答えを、心の底から渇望していた。


目を閉じると、カインの銀色の瞳が、嘲笑うように彼を見つめている。


『世界がお前を忘れたがる』


その声が、頭蓋の内側で木霊する。


やめろ。


やめてくれ。


レインは、無意識に自分の頭を抱えた。その時だった。


――警告。対象の精神的安定性が、規定値を下回りました。自己崩壊の危険性を検知。


冷たい、声がした。


男の声でも、女の声でもない。感情というものが、最初から存在しないかのように、完全に平坦で、無機質な声。それは、耳で聞いたというよりも、脳に直接、文字列を書き込まれたかのような、異質な感覚だった。


――自己修復シークエンスへ移行。精神的基盤の再構築を開始します。安定化のためのアンカーとして、ダミー・メモリーをインプラントします。


その声と共に、レインの意識は、温かい光に包まれた。


それは、奔流だった。


彼の空っぽの器に、膨大な情報と、そして何よりも、温かい「感情」が、凄まじい勢いで流れ込んでくる。


……夕焼けに染まる、小さな家。庭には、名も知らぬ花が咲き乱れている。


「リヒト、おかえりなさい!」


優しい声。振り返ると、亜麻色の髪をした母が、エプロンで手を拭きながら微笑んでいる。


「父さんは、まだ仕事かい?」


薪を割る、無骨で、しかし頼もしい父の背中。


「兄さん、遅いよ! 約束、忘れたの?」


彼の足元に、栗色の髪をおさげにした、小さな妹が駆け寄ってくる。その手には、傷だらけの木剣が握られていた。


リヒト。


そうだ、それが、俺の名前だ。


俺には、帰る場所があった。待っていてくれる家族がいた。


忘れていた。こんなにも、大切なことを。


どうして、忘れてしまっていたのだろう。


偽りの記憶は、あまりにも精巧で、あまりにも甘美だった。それは、レイン――リヒトという、新たな自己を得た少年の、渇ききった心に、瞬く間に染み渡り、その全てを満たしていった。


彼は、満たされた幸福感の中で、意識を手放した。


その口元には、生まれて初めて浮かべるような、穏やかで、満ち足りた微笑みがあった。


翌朝、レインが目を覚ました時、世界は、昨日までとは全く違って見えた。


空の青は、こんなにも鮮やかだったか。鳥のさえずりは、こんなにも心地よかったか。彼の心を満たす、この穏やかで、温かい感覚は、なんだろう。


そうだ、これは「幸福」だ。


彼は、自分の名前を思い出した。リヒト。


彼は、自分の故郷を思い出した。王都からほど近い、小さな村、シエル。


彼は、自分の家族を思い出した。優しい母、厳格な父、そして、少しおませな妹のセナ。


「……おはよう、レイン」


エリアナが、不安げな顔で彼を覗き込んでいた。


レイン――いや、リヒトは、彼女を見て、少しだけ眉を寄せた。


「ああ、おはよう。エリアナ」


彼は、ごく自然にそう答えた。エリアナは、彼が自分の名前を覚えていたことに、驚きと、そして安堵の色を浮かべた。


「体調は、大丈夫そうですか? 昨夜は、とてもうなされていたから……」


「ああ、大丈夫だ。少し、昔の夢を見ていただけだ」


リヒトは、穏やかに微笑んだ。その微笑みは、これまでのレインが見せた、どんな表情とも違っていた。それは、確固たる自己を持つ者だけが浮かべられる、自信と安らぎに満ちたものだった。


「それより、エリアナ。少し、話があるんだ」


「話、ですか?」


「俺、思い出したんだ。自分の故郷と、家族のことを」


リヒトは、淀みなく語り始めた。シエルの村の美しい風景。鍛冶師である父のこと。花を育てるのが好きな母のこと。剣の稽古をつけてやると約束した、妹のこと。その話は、あまりに具体的で、生き生きとしていた。


エリアナは、最初は、ただ喜んでいた。レインが記憶を取り戻した。それは、彼女がずっと待ち望んでいた奇跡だったからだ。彼の瞳から、あの底なしの虚無が消え、穏やかな光が宿っている。そのことが、彼女を何よりも安心させた。


だが、話を聞き進めるうちに、彼女の心に、小さな違和感の棘が刺さった。


話が、完璧すぎるのだ。


まるで、吟遊詩人が語る、理想の物語のように。そこには、生活の泥臭さも、家族の些細な諍いも、一切存在しなかった。ただ、光と、優しさと、幸福だけが、そこにはあった。


「……だから、俺は、もう行かなくちゃならない」


リヒトが言った。


「家族が、俺の帰りを待っている。エリアナ、君には、ここまで助けてもらって、本当に感謝している。この恩は、決して忘れない」


その言葉に、エリアナの心臓が、氷水に浸されたかのように冷たくなった。


彼は、旅を終わらせようとしている。


自分との、旅を。


「……そう、ですか。それは……よかった、ですね」


彼女は、かろうじてそう答えるのが精一杯だった。


「ああ。だから、次の町で別れよう。そこからなら、俺の村は近いんだ」


リヒトは、悪意なく、そう告げた。彼の心は、もうここにはない。遠い故郷の、愛する家族の元へと、飛んでいってしまっていた。


二人は、近くの宿場町、アークライトに逗留することになった。王都エーテルガードへと続く街道沿いにある、賑やかな町だ。


リヒトは、別れを前に、エリアナに何か礼がしたいと言った。彼は、生まれて初めて感じる「感謝」という感情に、どう対処していいかわからず、ただ戸惑っていた。


エリアナは、その申し出を、笑顔で断った。


そして、彼女は、一つの決意を固めていた。


「リヒトさん。少し、一人で調べたいことがあります。数日、この宿で待っていてはいただけませんか?」


「調べること?」


「はい。あなたの故郷の村について、少し興味があって。王都の大図書館なら、何か資料があるかもしれません」


エリアナは、嘘をついた。本当は、興味などではない。彼女の胸の内では、警鐘が鳴り響いていた。このまま、彼を手放してはいけない、と。彼の記憶は、どこかおかしい。その正体を突き止めなければならない。


リヒトは、少し残念そうな顔をしたが、快く頷いた。


「わかった。じゃあ、ここで待っているよ。気をつけて」


彼のその優しさが、エリアナの胸を締め付けた。


王都エーテルガードは、アークライトから馬車で半日ほどの距離にあった。


白亜の城壁に囲まれた壮麗な都。その中心に、王立大図書館は、知識の神殿のように静かに佇んでいた。


エリアナは、身分を証明する商人の鑑札を見せ、中へ入った。高い天井まで続く書架。古びた紙とインクの匂い。彼女は、圧倒されながらも、目的の場所へと向かった。歴史書と、戸籍記録が保管されている区画だ。


彼女は、まず、ルメール王国の全地図を広げた。王都近郊のページを、指で丹念に辿っていく。


だが、いくら探しても、「シエル」という名の村は、どこにも見当たらなかった。


嫌な汗が、背中を伝う。


次に、彼女は戸籍記録の閲覧を申請した。リヒトから聞いた、彼の父親の名前「ゲラルト」と、母親の名前「ソフィア」。その名前を、係官に告げる。


係官は、分厚い記録簿をめくり、やがて、不思議そうな顔で首を傾げた。


「お嬢さん、お探しの名前ですが……該当する人物は、この国のどこにも記録されていませんね。特に、鍛冶師ギルドに、ゲラルトという名の者は、過去五十年、一人もおりません」


エリアナの血の気が、さっと引いた。


そんな、はずはない。


彼女は、諦めきれずに、今度は歴史書の棚へと向かった。何か、記録の齟齬があるのかもしれない。古い時代の記録なら、何か残っているかもしれない。


彼女は、この地方の年代記を、片っ端から調べていった。


数時間が過ぎ、窓の外が夕闇に染まり始めた頃。


彼女は、ある一冊の、ひどく傷んだ年代記の中に、奇妙な記述を見つけた。


それは、二百年ほど前の、ある地域の領主の交代に関する記録だった。その記述の一部が、不自然に修正されている。古いインクの上から、明らかに違う筆跡で、新しい領主の名前が上書きされていたのだ。そして、その修正された記録の余白に、前の時代のインクで、かろうじて読める文字が残っていた。


『……この地の記録、不自然に欠落多し。まるで、誰かの存在が、歴史そのものから削り取られたかの如し……』


その記述を見た瞬間、エリアナは、以前立ち寄った、あの遺跡のことを思い出していた。


それは、グレイフェンを出て、アークライトへ向かう道中のことだった。


彼らは、雨宿りのために、打ち捨てられた古い遺跡に立ち寄った。囁きの迷宮と呼ばれる、古代の遺跡群の一部だった。


その奥まった広間に、壁画はあった。


歴代の王や、伝説の英雄たちの姿が、色鮮やかに描かれている。その中に、一つだけ、奇妙な壁画があった。


他の英雄たちと同じように、勇ましい姿で描かれているはずの人物。その顔や名前が刻まれているはずの部分だけが、まるで長い年月をかけて風化したかのように、のっぺりと摩耗し、薄れていたのだ。他の部分の保存状態が良いだけに、その一点だけが、不自然に朽ち果てていた。


その時、エリアナは、ただ「不思議なこともあるものだ」としか思わなかった。


だが、今ならわかる。


あれは、風化などではない。


カインの言葉が、脳裏に蘇る。


『世界が、お前を忘れたがるんだ』


壁画の英雄は、消されたのだ。歴史から。世界から。


そして、今、レインもまた……。


エリアナは、図書館を飛び出した。


馬車に乗り、アークライトの宿へと急ぐ。


これは、罠だ。


レインの記憶は、偽物だ。誰かが、あるいは、何かが、彼を無力化するために、彼を戦いから遠ざけるために、甘い毒を盛ったのだ。


あの『システム』と呼ばれていた、世界の法則そのものが、彼を排除しようとしている。


宿に戻った時、リヒトは、窓辺の椅子に座り、穏やかな顔で夕焼けを眺めていた。


「おかえり、エリアナ。何か、わかったかい?」


彼の声は、どこまでも優しかった。


エリアナは、息を切らしながら、彼の前に立った。


「リヒトさん。あなたの記憶は、嘘です」


彼女は、単刀直入に告げた。


「あなたの言う村も、ご家族も、この国のどこにも存在しません。それは、誰かがあなたに植え付けた、偽物の記憶です!」


リヒトの顔から、微笑みが消えた。


彼の穏やかだった瞳に、困惑と、そして、僅かな怒りの色が浮かんだ。


「……何を、言っているんだ? エリアナ。疲れているのか?」


「疲れてなどいません! 私は、この目で確かめてきたんです! あなたは、騙されている!」


エリアナは、必死に訴えた。だが、彼女の言葉は、リヒトには届かなかった。


「やめてくれ」


リヒトは、苦痛に顔を歪め、耳を塞いだ。


「俺の家族を、侮辱するのはやめてくれ。俺には、帰る場所があるんだ。ようやく、思い出したんだ。それを、君に壊されてたまるか……!」


彼の脳裏に、妹セナの笑顔が、母ソフィアの優しい声が、フラッシュバックする。その温かい記憶が、エリアナの言葉を「異物」として、彼の心から弾き出していく。


エリアナは、絶望に言葉を失った。


通じない。


偽りの幸福は、真実の言葉よりも、遥かに強い。


彼は、もうレインではない。偽りの記憶に囚われた、リヒトという名の、無力な別人だ。


エリアナは、孤立した。


彼女は、たった一人で、世界のシステムという、見えない巨大な敵と対峙しなければならなくなった。


そして、彼女が守ろうとしている英雄は、今、その腕の中で、幸せな夢を見ている。


その夢が、彼をゆっくりと殺していくとも知らずに。



【第五章 絆の証明と偽りの破壊】



夜は、アークライトの宿屋を、墓場のような静寂で満たしていた。


エリアナは、部屋の小さな窓辺に立ち、通りのガス灯が頼りなげに揺れるのを、ただ見ていた。隣のベッドでは、リヒト――彼女の知るレインではない、穏やかで、満ち足りた顔をした青年が、静かな寝息を立てている。


彼のその安らかな寝顔が、エリアナの心を、鋭いナイフのように抉った。


図書館から戻って二日。彼女の言葉は、分厚い氷壁に投げつけられた小石のように、何の手応えもなく弾き返された。リヒトは、彼女を気遣う素振りは見せるものの、その瞳の奥には、自分の幸福な世界を脅かす「異物」を見るような、明確な拒絶の色が浮かんでいた。


彼は、もう戦わない。


彼は、もう傷つかない。


そして、彼は、もうエリアナのことなど必要としていない。


無力感が、冷たい霧のように彼女の全身を包み込む。これまで、彼が自分を忘れるたびに、どれほどの絶望を味わっただろう。だが、それは、まだ良かった。彼の内側が空っぽだったからこそ、彼女の言葉が入り込む隙間があった。彼が、彼女を必要としてくれたから。


だが、今は違う。彼の心は、偽りの幸福で、完全に満たされている。そこには、エリアナの居場所など、どこにもなかった。


彼女は、自分の胸元で冷たく光る、銀細工のお守りを握りしめた。その輝きは、以前よりも明らかに鈍くなっている。レインとこの世界を繋ぐ、最後の楔。それさえもが、今や風前の灯火だった。


どうすれば、彼を取り戻せる?


どうすれば、あの偽りの楽園から、彼を引きずり出せる?


答えは、どこにもなかった。


彼女は、たった一人、世界のシステムという巨大な敵の前に、丸腰で立たされている。そして、守るべき英雄は、敵の腕の中で、甘い夢を見ている。


これ以上の地獄が、他にあるだろうか。


その時だった。


窓の外の、通りの空気が、不意に変わった。


ガス灯の光が、一瞬、奇妙に揺らぎ、まるで水底に沈んだかのように、その輪郭をぼやかした。宿屋の喧騒、遠くで聞こえる酔客の笑い声、その全てが、分厚い壁の向こう側へ遠のいていく。


ぞわり、とエリアナの背筋を悪寒が駆け上った。


この感覚を知っている。


それは、世界の法則が、その一部を静かに書き換える時にだけ訪れる、冒涜的な静寂。


「……誰か、来る」


エリアナは、ベッドで眠るリヒトを振り返った。だが、彼は穏やかな寝顔のまま、何も気づく様子はない。


ドアが、音もなく開いた。


そこに立っていたのは、二人組の男女だった。


男も、女も、同じ、継ぎ目のない灰色の衣服をまとっていた。その顔には、能面のように一切の表情がなく、瞳は、光を反射しない、ただの黒い点にしか見えなかった。彼らは、人間ではなかった。少なくとも、その内側には、人間らしい魂など宿してはいない。


システムの、刺客。


エリアナは、瞬時に悟った。彼らは、プロクターのような「代行者」ではない。もっと直接的で、物理的な、目的のためだけに最適化された「狩人」だ。


女が、感情のない声で言った。


異常存在バグリヒトの精神的安定を確認。これ以上の放置は、システムの負荷となる。よって、物理的消去に移行する」


男が、一歩、部屋に踏み入る。その手には、いつの間にか、黒曜石のような、光を吸い込む短剣が握られていた。


「やめて……!」


エリアナは、咄嗟にリヒトのベッドの前に立ちはだかった。懐から、護身用の小さなナイフを抜き放つ。それは、これから起きるであろう戦闘においては、あまりにも無力な、ただの鉄片に過ぎなかった。


男の黒い瞳が、エリアナを捉えた。


「障害物を認識。排除する」


男の姿が、掻き消えた。


エリアナが反応するより早く、凄まじい衝撃が彼女の腹部を襲う。


「かっ……!?」


息が詰まり、視界が白く染まる。彼女の体は、紙切れのように吹き飛ばされ、部屋の壁に叩きつけられた。背中を強打し、床に崩れ落ちる。肺から空気が全て搾り出され、咳き込むことさえできない。


「……エリアナッ!?」


リヒトが、ベッドから跳ね起きた。目の前の光景に、彼の穏やかだった顔が、驚愕と混乱に染まる。


「何だ、お前たちは!?」


女の刺客が、リヒトに視線を向けた。


「自己修復シークエンスによるダミー・メモリーの定着を確認。対象は、現在、戦闘能力を喪失。抵抗は無意味です」


その無機質な声が、リヒトの混乱をさらに加速させる。


「何を……言っている……?」


男の刺客が、リヒトにゆっくりと近づいていく。その手にある短剣が、不吉な光を放っていた。


リヒトは、動けなかった。


彼の内側で、恐怖が渦巻いていた。だが、それは、目の前の刺客に対する恐怖ではない。彼自身の、内なる力に対する、根源的な恐怖だった。


力を使えば、また何かが壊れる。


この、ようやく手に入れた、温かい家族の記憶が、幸福な自分が、粉々に砕け散ってしまう。


その恐怖が、彼の体を金縛りにしたように、縫い付けていた。


「……逃げて……」


床に蹲ったまま、エリアナが、か細い声を振り絞った。


「リヒトさん……あなたは、戦っては、だめ……」


彼女は、知っていた。彼が力を使えば、この偽りの記憶は消え去り、彼は再び、あの虚無の地獄へと突き落とされる。それだけは、させたくなかった。たとえ、自分がここで死ぬことになったとしても。


その言葉が、リヒトの心を、さらに深く縛り付けた。


そうだ。戦ってはいけない。俺は、もう、あの得体の知れない力に頼ってはいけないのだ。


男の刺客が、リヒトの目の前で、無慈悲に短剣を振り上げた。


その、瞬間だった。


エリアナが、最後の力を振り絞って、床を蹴った。


彼女は、リヒトの前に、その傷ついた身を投げ出すようにして割り込んだ。


ザクリ、と。


肉を抉る、鈍い音が、静かな部屋に響いた。


黒曜石の短剣が、エリアナの左肩に、深々と突き刺さっていた。


「……がっ……あ……」


エリアナの口から、血の混じった呻きが漏れた。彼女の翠色の瞳から、光が急速に失われていく。


リヒトの時間が、止まった。


目の前で、何が起きたのか。


エリアナの体が、ゆっくりと傾ぎ、彼の腕の中に、崩れ落ちてくる。彼女の肩から流れる、おびただしい量の血が、彼の服を、赤黒く染めていく。その生温かい感触が、彼の思考を麻痺させた。


「……なぜ……」


リヒトが、呆然と呟いた。


「なぜ、君が……俺を……?」


エリアナは、薄れゆく意識の中、必死に彼を見上げた。彼女の唇が、微かに動く。


「……あなたを……守るのが……私の、役目、ですから……」


その声は、ほとんど音になっていなかった。


「……偽物の、思い出に……あなたを、閉じ込めさせては、いけない……」


彼女は、血に濡れた手で、リヒトの頬に触れた。


「思い出して……レイン……」


その言葉が、引き金だった。


リヒトの脳裏に、奔流が流れ込む。


優しい母の笑顔。頼もしい父の背中。駆け寄ってくる妹のセナ。シエルの村の、美しい夕焼け。


それは、温かく、甘く、彼を安らぎで満たす、幸福な記憶。


だが、その光景の向こう側で、別の光景が、激しく明滅していた。


森の中で、震える彼の手を取った、オレンジ色の髪の少女。


村の祭りで、はにかむように笑った、翠色の瞳。


日記のインクが、砂のようにこぼれ落ちるのを見て、絶望に凍りついた、彼女の顔。


そして、今、腕の中で、命の光を失っていく、この温もり。


どちらが、本物だ?


どちらが、俺の世界だ?


偽りの家族の記憶が、叫ぶ。『帰ってきて、リヒト』と。


腕の中のエリアナの温もりが、叫ぶ。『思い出して、レイン』と。


二つの世界が、彼の精神の中で、凄まじい勢いで衝突し、火花を散らす。空っぽだった器が、その矛盾の圧力に耐えきれず、内側から砕け散りそうだった。


――警告。対象の精神的統合性に、致命的なエラーが発生。ダミー・メモリーとの同期が、強制的に解除されます。


あの無機質な声が、再び脳内に響き渡る。


それと同時に、彼の脳裏を埋め尽くしていた、甘美な家族の記憶が、まるで陽光に晒された霧のように、急速に薄れていった。


母の顔が、のっぺらぼうになる。


父の声が、意味のないノイズに変わる。


妹の笑顔が、砂の絵のように、さらさらと崩れていく。


それは、彼が自ら望んだ忘却ではなかった。システムの、強制的な介入。エラーを起こしたデータを、ただ削除するだけの、冷たい処理。


だが、レインは、それを許さなかった。


「……ふざけるな」


彼の唇から、低い、地の底から響くような声が漏れた。


「俺の記憶を、俺の心を、お前たちの都合で、勝手に書き換えて、勝手に消させるものか……!」


彼は、薄れゆく偽りの記憶を、自らの意志で、強く、掴み取った。


そして、それを、自らの手で、握り潰した。


「消えろ」


偽りの幸福よ。


「消えろ」


偽りの安らぎよ。


「消えろッ!」


偽りの、俺よ!


激しい精神的な絶叫と共に、彼の内側で、何かが、完全に破壊された。


それは、途方もない喪失の痛みを伴った。だが、その破壊の後には、絶対的な静寂と、そして、一本の、揺るぎない光だけが残されていた。


過去の記憶ではない。


未来への希望でもない。


ただ、「今、ここにある、腕の中のエリアナを守る」という、絶対的な意志。


それが、俺だ。


彼の瞳が、開かれた。


その瞳には、もはや、リヒトの穏やかさも、レインの虚無もなかった。そこにあるのは、世界の理不尽そのものに、反逆の狼煙を上げる、王者のごとき、苛烈な光だった。


「……お前たちか」


レインは、腕にエリアナを抱いたまま、ゆっくりと立ち上がった。その声は、絶対零度の静けさを湛えている。


「彼女を、傷つけたのは」


男と女の刺客は、その尋常ならざる変化に、初めて、僅かな警戒の色を見せた。


「対象の再覚醒を確認。脅威レベルを更新。最大戦力で、これを排除する」


女の刺客が、両手から黒い光弾を放つ。男の刺客は、再び姿を消し、レインの背後へと回り込んだ。


だが、今のレインには、その全てが、ひどく緩慢な動きに見えた。


彼は、動かない。


ただ、イメージする。


――この部屋から、俺とエリアナ以外の、全ての敵性存在を、排除する。


彼の体から、力が溢れ出した。


それは、森で使った混沌の奔流でも、村で使った影の棘でもない。


彼の周囲の空間そのものが、彼の意志に屈服したかのように、歪み始めた。


女の放った光弾は、レインに届く直前で、まるで見えない壁に阻まれたかのように、霧散した。


背後から迫っていた男の短剣は、彼の首筋に触れる寸前で、ぴたりと、空中で静止した。まるで、琥珀の中に閉じ込められた虫のように、男は身動き一つ取れなくなっていた。


「なっ……!?」


男の能面のような顔に、初めて、驚愕という感情が浮かんだ。


「空間、制御……!? 馬鹿な、これほどの力が、まだ……」


レインは、刺客たちに一瞥もくれなかった。彼の視線は、腕の中でか細い息をする、エリアナにだけ注がれている。


「お前たちの存在は、ノイズだ」


レインが、静かに呟いた。


「俺の世界から、消えろ」


その言葉と同時に、空間の歪みが、一気に収縮した。


男と女の刺客は、悲鳴を上げる間もなかった。彼らの体は、内側から圧搾されるように、ぐしゃり、と音を立てて潰れ、そして、光の粒子となって、塵も残さず消滅した。


後に残されたのは、完全な静寂だけだった。


レインは、ゆっくりと床に膝をつき、腕の中のエリアナを見つめた。彼女の肩の傷は深く、血は未だに流れ続けている。


「エリアナ……しっかりしろ……」


彼は、生まれて初めて、誰かのために、必死になっていた。


エリアナの瞳が、うっすらと開かれた。彼女は、レインの顔を見て、そして、その瞳に宿る光を見て、全てを悟った。


「……おかえりなさい……レイン」


その声は、安堵と、そして、深い愛情に満ちていた。


「ああ……ただいま、エリアナ」


レインは、彼女を抱きしめる腕に、力を込めた。


偽りの記憶は、もうない。だが、不思議と、以前のような虚無はなかった。彼の空っぽだった器は、今、エリアナという存在を守るという、たった一つの、しかし、何よりも確かなもので、満たされていた。


彼は、過去の記憶に依存する、弱い自分と決別した。


彼は、世界のシステムに弄ばれる、無力な存在であることを、拒絶した。


今、ここにいるのが、本当の俺だ。


そう、確信することができた。


その頃。


アークライトの町を見下ろす、闇に沈んだ丘の上。


一人の男が、町の宿屋の方角を、静かに見つめていた。


夜空のような、深い紺色の髪。全てを見透かすような、鋭い銀色の瞳。


カインは、先ほど町の一角で起こった、常軌を逸した力の爆発を、その肌で感じ取っていた。


「……ようやく、目覚めたか。あの程度の揺さぶりで、システムの傀儡から抜け出すとはな」


彼の口元に、皮肉な笑みが浮かぶ。


「だが、それでは足りん。その程度の覚醒では、また同じことの繰り返しだ」


彼は、自分の首から下げた、黒ずんだ古びたペンダントを、強く握りしめた。それは、エリアナが持つお守りと、まるで対になるかのような、不吉で、しかし、どこか悲しい気配を纏っていた。


「本当の絶望を知らなければ、お前は、神にはなれない」


カインは、踵を返すと、闇の中へと姿を消した。


その銀色の瞳の奥に、レインにも、エリアナにも、まだ想像もつかない、深い絶望と、そして、歪んだ救済の計画を秘めて。



【第六章 忘れられゆく存在の真実】



血の匂いは、偽りの幸福が砕け散った後の、現実の味だった。


レインは、腕の中に横たわるエリアナの、か細い呼吸に全神経を集中させていた。彼女の肩を抉った黒曜石の短剣は、システムの刺客と共に光の粒子となって消え去ったが、その傷口は冒涜的な口を開けたまま、じくじくと熱を持ち、絶え間なく命を吸い上げていく。


彼の内側は、静かだった。


偽りの記憶が剥がれ落ちた後に残ったのは、虚無ではなかった。それは、ただ一つの目的だけを映し出す、研ぎ澄まされた鏡面のような静寂。


――エリアナを、救う。


彼は、自分の右手を、そっと彼女の傷口にかざした。


第5章で覚醒した、あの空間そのものを支配するような感覚。それを、今度は内側へ、もっと微細な領域へと向ける。エーテルを操るのではない。世界の法則そのものに、直接命令する。


『癒えろ』


イメージは、しかし、明確な形を結ばなかった。彼の指先から、淡い光が溢れるが、それはエリアナの傷に届く前に、頼りなげに霧散してしまう。力の制御が、まだ圧倒的に足りていない。覚醒したばかりの力は、破壊という粗雑な命令には従順だが、治癒という精密な作業には、まるで反抗しているかのようだった。


「……ぐっ……」


焦りが、鏡面のようだった彼の心に、初めてさざ波を立てる。


「レイン……もう、いいです……」


腕の中から、エリアナが弱々しく囁いた。「あなたの力を……これ以上、使っては……」


彼女は、力の代償を恐れている。彼が、また何かを失ってしまうことを。


その健気さが、レインの胸を締め付けた。


「黙っていろ」


彼の口から、ぶっきらぼうな言葉が漏れた。「俺が、君を助けると決めたんだ。君に、拒否する権利はない」


彼は、もう一度、精神を集中させた。


今度は、もっと単純な命令を下す。


『止めろ』


傷口から溢れ出る、血の流れを。細胞が壊れていく、その連鎖を。ただ、止めろ。


すると、今度は力が応えた。淡い光が、エリアナの傷口を薄い膜のように覆っていく。出血が、ゆっくりと、しかし確実に止まっていくのがわかった。完全な治癒ではない。ただ、時間の流れを、その部分だけ凍結させたかのような、応急処置。


だが、それで十分だった。


エリアナの荒い呼吸が、少しだけ穏やかになる。彼女の顔から、死の影が僅かに遠のいた。


レインは、安堵の息を吐くと同時に、自らの内側に起こった変化に気づいた。


何も、失っていない。


以前のように、記憶が抜け落ちる感覚も、胸に穴が空くような喪失感もない。


なぜだ?


答えは、すぐには出なかった。だが、彼は、この事実を、一つの確信として胸に刻んだ。


宿屋の主人は、部屋の惨状と、血塗れのエリアナを見て腰を抜かしたが、レインの有無を言わせぬ眼光に気圧され、黙って一番良い薬と清潔な包帯を用意した。


夜が明ける頃には、エリアナは熱も下がり、穏やかな寝息を立てていた。レインは、彼女が眠るベッドの傍らで、一睡もせずに座り続けていた。


彼は、思考していた。


あの刺客。彼らは、自らを「システムの障害物を排除する」存在だと言った。そして、レインの偽りの記憶は「ダミー・メモリー」だと。


全てが、繋がっていく。


カインが残した、呪いのような言葉。


『世界が、お前を忘れたがるんだ』


日記のインクが、砂のように崩れた、あの冒涜的な現象。


遺跡の壁画で見た、顔だけが風化した、名もなき英雄の姿。


全てが、一つの方向を指し示している。


敵は、カインではない。盗賊でも、怪物でもない。もっと巨大で、もっと根源的な、この世界の法則そのもの。


そして、その「システム」は、彼を排除するために、物理的な刺客を送り込んできた。ならば、また来るだろう。何度でも。彼が、完全に消去されるまで。


エリアナを守り抜くためには、逃げているだけでは駄目だ。


元凶を、叩かなければならない。


レインは、立ち上がった。そして、刺客たちが消滅した場所へと、意識を集中させた。


そこには、まだ、ごく微かに、異質なエネルギーの残滓が漂っていた。それは、この世界の自然なエーテルの流れとは全く異なる、冷たく、無機質な気配。まるで、美しい織物の一部に、一本だけナイロンの糸が混じっているかのような、明確な違和感。


その残滓は、一つの方向を指し示していた。


北へ。


遥か、北へ。


「……レイン?」


背後で、エリアナが目を覚ましたようだった。


「気分はどうだ」


「はい……もう、大丈夫です。あなたが、治してくれたから」


彼女は、ゆっくりと体を起こし、自分の肩に巻かれた真新しい包帯に触れた。そして、心配そうにレインを見上げる。「あなたの力……何か、代償は……?」


「何も」と、レインは短く答えた。「何も、失っていない」


エリアナは、その言葉に、驚きと安堵が入り混じった表情を浮かべた。


「行くぞ、エリアナ」


レインは、窓の外、北の空を見据えたまま言った。


「俺を『バグ』と呼んだ、奴らの本体を、探しに行く」


「でも、どこへ……?」


「この気配が、俺を呼んでいる」


レインの言葉には、絶対的な確信が満ちていた。それは、もはや恐怖に怯える少年の声ではなかった。自らの運命と、その先に待つ敵を見据えた、戦士の声だった。


二人の旅は、目的を得て、再び始まった。


目指すは、北。システムの残滓が示す、遥か彼方。


旅の道中、レインは、世界の「歪み」を、よりはっきりと認識するようになっていた。


街道ですれ違う人々は、誰もが、彼を無意識に避けて通る。彼の姿が、まるで風景に溶け込んで、最初から存在しないかのように。


宿屋に泊まっても、主人は、翌朝には彼のことを綺麗に忘れていた。宿泊名簿に彼の名前を記しても、次の日には、その部分だけが不自然な空白になっている。


それは、彼がこれまで経験してきた「忘れられる」という現象とは、質が違っていた。以前は、彼と絆を結んだ人間が、彼との記憶を失うだけだった。だが、今は違う。彼と何の関わりもない、赤の他人までもが、彼の存在を認識できない。


世界そのものが、彼という存在を、リアルタイムで修正し、消去しようとしている。


カインの言葉が、現実味を帯びて、彼の精神に重くのしかかる。


『世界が、お前を忘れたがるんだ』


その事実を、エリアナだけが否定した。


「いいえ、レイン。世界があなたを忘れても、私は、ここにいる」


彼女は、夜ごと、レインの手を取り、そう繰り返した。「私が、あなたの存在を、この世界に繋ぎ止める楔になる」


彼女の言葉と、その手の温かさだけが、レインがこの世界に存在する、唯一の証明だった。


幾週間も北上を続けた頃、彼らの目の前に、異様な光景が広がった。


万年雪を戴く、巨大な山脈。その中央に、一本だけ、天を突くようにそびえ立つ、巨大な塔があった。


塔は、磨き上げられた黒曜石で出来ているかのように、周囲の光を一切反射せず、ただ、そこにあるという事実だけを、圧倒的な存在感で主張していた。その周囲だけ、風の音も、獣の声も聞こえない。まるで、世界から切り取られたかのような、絶対的な静寂が支配していた。


「……沈黙の尖塔」


エリアナが、息を呑んで呟いた。


「私の一族に伝わる、古い伝承に出てくる塔です。世界の理を司る『神』が、その座を置いた場所だと……。決して、人が足を踏み入れてはならない、禁忌の場所だと……」


「奴らは、ここにいる」


レインは、確信していた。刺客たちが残した、あの無機質なエネルギーの残滓が、この塔から、絶えず放たれているのを感じる。


二人が、塔の麓へと足を踏み入れた、その時だった。


目の前の空間が、陽炎のように揺らめいた。そして、音もなく、一人の男が姿を現した。


純白の、一切の装飾がないフード付きのローブ。その顔は、フードの深い影に隠れて見えない。だが、その存在から放たれる気配は、アークライトで遭遇した刺客たちとは、比較にならないほど濃密で、そして、冷徹だった。


それは、システムの「端末」ではなく、「代行者」そのものだった。


「警告。これより先は、システムの聖域です」


男――プロクターは、あの無機質な、合成音声のような声で言った。


異常存在バグの侵入は許可できません。速やかに、この場を立ち去りなさい」


「お前が、俺に刺客を送ったのか」


レインが、低い声で問うた。


「肯定します。あなたという存在は、この世界の因果律を乱す、許容できないエラーです。よって、消去の対象となります」


プロクターは、淡々と事実だけを告げた。そこには、憎しみも、怒りも、何の感情も介在しない。ただ、プログラムを実行する機械のように。


「なぜ、俺だけが。俺が、何をした」


「あなたは、何もしていません。あなたの『存在』そのものが、エラーなのです」


プロクターは、フードの奥で、僅かに首を傾げた。それは、人間の仕草を模倣しただけの、無意味な動作に見えた。


「あなたには、知る権利があるでしょう。自らが、なぜ消去されるべき存在なのかを」


その言葉に、レインは眉をひそめた。敵が、親切に自分の秘密を教えてくれるというのか。


だが、プロクターの言葉は、続く。


「これは、慈悲ではありません。あなたというエラーの性質を正確に定義し、宣告することもまた、修正シークエンスの一部だからです」


そして、プロクターは、世界の、そしてレイン自身の、残酷な真実を、何の抑揚もなく、語り始めた。


「あなたは、記憶を失っているのではありません」


その一言が、雷鳴のように、レインの鼓膜を打った。


「あなたが力を使うたび、その代償として、この世界の因果律そのものが、あなたという存在を消去するように、自己修正を行っているのです」


プロクターは、ゆっくりと片手を上げた。その手のひらに、周囲の風景が、ミニチュアのように映し出される。


「例えば、あなたが、ある村を盗賊から救ったとする。その行為は、本来あるべき因果の流れを、大きく捻じ曲げる。その修正力として、世界は、あなたの『功績』ではなく、あなたの『存在』そのものを、その時間軸から抹消する」


「仲間たちが、あなたを忘れるのは、彼らの記憶が消えたからではない。彼らの記憶の中で、あなたが『最初からいなかった』ことに、なるからです。彼らの歴史が、静かに、あなたという存在を排除した形で、再構築されるのです」


「あなたが書いた日記のインクが消えるのも、同じ原理です。あなたが『存在しなかった』ことになれば、あなたによって書かれた文字もまた、その存在基盤を失い、霧散する。遺跡の壁画が風化するのも、同じ。かつて、あなたと同じエラーが、歴史から消されていった痕跡です」


プロクターの言葉は、一言一句が、鋭い刃となって、レインの精神を切り刻んでいった。


これまで感じてきた、全ての違和感。


全ての喪失感。


全ての孤独。


その、おぞましいほどの正体が、今、目の前に突きつけられていた。


俺は、記憶を失っていたのではなかった。


俺は、世界から、忘れられていたのだ。


俺という存在そのものが、この世界にとって、消されるべき間違いだったのだ。


「……ああ……」


レインの口から、乾いた声が漏れた。


視界が、ぐにゃりと歪む。世界の色彩が、急速に失われていく。足元の地面が、崩れ落ちていくような、絶対的な眩暈。


空っぽだった器が、今度は、絶望という名の、重く、冷たい鉛で、満たされていく。


自分は、呪われているのではない。


自分は、存在してはいけない、バグだったのだ。


エリアナを守りたいと願う、その想いさえも。彼女と絆を育めば育むほど、その絆の記憶ごと、彼女の世界から、俺は消えていく。


守るために戦えば戦うほど、俺は、守りたい人々の歴史から、消え去っていく。


なんという、地獄。


なんという、無意味。


彼の膝が、がくりと折れた。彼は、雪と泥にまみれた地面に、両膝をついた。もう、立ち上がる気力さえ、残ってはいなかった。


「理解しましたか。あなたという存在の、根本的な矛盾を」


プロクターが、冷たく言い放つ。「あなたの存在は、他者との関わりを持つこと自体が、世界への攻撃となる。あなたにとっての最善は、誰とも関わらず、何もせず、ただ、静かに、世界から消え去ることです」


その言葉は、絶対的な真理のように、レインの心を支配した。


そうだ。それが、正しいのだ。


俺が、ここにいるだけで、世界を傷つける。エリアナを、傷つける。


ならば、もう、いっそ――。


レインの瞳から、光が消えかけた、その時だった。


「ふざけないでッ!!」


凛とした、声が響いた。


エリアナだった。


彼女は、レインの前に立ちはだかり、その傷ついた身で、世界の代行者を、まっすぐに見据えていた。


「彼が、エラーですって? 存在そのものが、間違いですって? それは、あなたたち、世界の都合でしょう!」


彼女の翠色の瞳は、怒りの炎に燃えていた。


「彼が、ここにいる! 私の目の前に、確かに存在している! 彼が、どれだけ傷ついて、どれだけ心をすり減らして、それでも、誰かを守ろうとしてきたか、あなたに何がわかるの!」


「無意味です」と、プロクターは切り捨てた。「個人の感傷は、世界の法則の前では、何の価値も持ちません」


「価値なら、ここにある!」


エリアナは、叫んだ。彼女は、膝をつくレインの前に屈み込むと、その冷え切った手を、両手で、力強く握りしめた。


「レイン、聞いて。たとえ、世界中の誰もが、あなたのことを忘れても。歴史の記録から、あなたの名前が消え去っても。私が、あなたを忘れない!」


その手の温かさが、絶望の鉛に満たされたレインの心に、一滴の雫のように、染み渡った。


「あなたが、ここにいたという事実を、私が覚えている。あなたが、私の手を取ってくれた温もりを、この肌が覚えている。あなたが、私のために流してくれた、その優しい心の痛みを、私の魂が、覚えている!」


彼女は、泣いてはいなかった。その瞳には、絶対的な覚悟と、そして、揺るぎない愛情だけが、宿っていた。


「あなたは、エラーなんかじゃない。あなたは、バグなんかじゃない。あなたは、レイン。私を救ってくれた、たった一人の、私の英雄よ!」


その言葉が、楔となった。


世界から拒絶され、消えかかっていたレインの存在を、エリアナという、たった一つの確かな繋がりが、この世界に、強引に、繋ぎ止めた。


レインの瞳に、再び、微かな光が灯った。


彼は、ゆっくりと顔を上げた。目の前には、必死に自分を見つめる、エリアナの顔がある。


そうだ。


世界が、俺を忘れても。


この少女だけは、俺を覚えていると言ってくれた。


ならば、それで十分ではないか。


世界中の全てを敵に回しても、たった一人、信じてくれる者がいるのなら。


「……そうか」


レインは、ゆっくりと立ち上がった。その体は、まだ絶望の重さで軋んでいたが、その瞳には、先ほどとは違う、静かで、しかし、燃えるような光が宿っていた。


「俺の存在が、エラーだというのなら」


彼は、プロクターを、まっすぐに見据えた。


「その、くだらない世界の法則ごと、俺が、修正してやる」


それは、もはや、記憶を取り戻すための戦いではなかった。


自分という存在を、そして、エリアナとの絆を、この世界に認めさせるための、宣戦布告だった。


プロクターは、その変化を、ただ無機質に観察していた。


「警告。対象に、新たな敵対行動の意図を認識。これより、物理的消去シークエンスに、強制的に移行します」


プロクターの体が、淡い光に包まれる。その気配が、戦闘態勢へと移行していくのがわかった。


だが、レインは、もう、怯まなかった。


彼は、隣に立つエリアナの手を、強く、握り返した。


その温もりさえあれば、彼は、どんな絶望とも戦える。


二人は、沈黙の尖塔を見上げた。


世界の理を司る、禁忌の塔。


その頂に待つ、本当の敵を目指して。


忘れられゆく英雄と、その全てを記憶する聖女の、世界そのものへの反逆が、今、始まろうとしていた。



【第七章 共闘と決別のクロスロード】



俺の視界の端で、世界の法則が、音もなく自己修復を完了させていく。


アークライトの宿屋で俺が放った力の余波。砕けた窓ガラスの破片は、まるで時間を逆再生するかのように元の窓枠に収まり、ひび一つない透明な板へと回帰する。空間の歪みによって生じた壁の亀裂は、その存在自体が初めからなかったかのように、滑らかな漆喰の壁へと戻っていく。


これが、奴のいる世界。


レイン。


俺が、かつて友と呼んだ男の成れの果て。奴が力を使うたび、世界は、その行為という「エラー」を修正するために、因果律の辻褄を合わせようと必死になる。滑稽なほどに。


俺は、沈黙の尖塔を見下ろす、雪に覆われた断崖の上に立っていた。


冷たい風が、俺の髪を、そして思考を、研ぎ澄ましていく。


奴は、来る。必ず、この場所へ。


システムの刺客が残した、あの無機質なエネルギーの残滓を、奴が見逃すはずがない。覚醒したばかりの、まだ制御もおぼつかないその力で、律儀に痕跡を辿ってくるだろう。かつての、生真面目だったあいつのように。


果たして、雪原の彼方に、二つの小さな影が現れた。


一つは、黒い旅装束。もう一つは、その隣に寄り添う、オレンジ色の髪。


レインと、今回の『記録者』。


俺は、自分の胸に下げた、黒ずんだペンダントを握りしめた。ひやりとした感触が、肌に沈む。これがある限り、俺は忘れない。世界が何度あいつを消し去ろうと、俺だけは、あいつが存在したという事実を、その痛みを、決して忘れない。


エリアナ、とか言ったか。あの女。


彼女が持つ銀のお守りと、俺のこのペンダントは、同じ古代の金属で作られた対の『魂の楔』。だから、あの女もまた、システムの記憶修正に対して、強い耐性を持つ。


だが、それだけだ。


彼女は、ただ記録し、繋ぎ止めようとするだけ。その行為が、どれほどレインを苦しめるかも知らずに。無知な優しさは、時に、最も残酷な刃となる。


俺は違う。


俺は、この悲劇の連鎖を、終わらせる。


システムを破壊するのではない。支配するのだ。俺が、新たな神となり、記憶の喪失という概念そのものが存在しない、完全で、永遠に安定した世界を創る。


そのためには、レインの力が必要不可欠だった。


システムの中枢を破壊し、その空位に俺が座るための、ただ一つの鍵。


尖塔の麓で、予想通り、システムの『代行者』たるプロクターが、二人の前に姿を現した。


純白のローブを纏った、あの忌々しい人形。


遠目からでも、会話の内容は手に取るようにわかった。プロクターは、システムの代弁者として、レインに、彼が存在すべきでない「エラー」であるという、残酷な真実を宣告している。


見ろ、レイン。


絶望に膝を折るがいい。お前の存在そのものが、世界への攻撃なのだと知るがいい。


案の定、レインの肩が落ち、その場に崩れ落ちた。彼の放つオーラから、光が消え、虚無の色が濃くなる。


それでいい。その絶望が、お前を俺の元へと導く。


だが、計算外の変数が、そこにいた。


あの『記録者』の女。エリアナ。


彼女は、プロクターの絶対的な論理を前に、一歩も引かなかった。彼女が叫ぶ、感情論。魂が覚えている、だの、私の英雄だの、聞くに堪えない、甘ったるい感傷の羅列。


だが、その言葉が、死に体だったはずのレインの瞳に、再び光を灯してしまった。


それも、以前の、ただ虚無を宿した光ではない。


自らの意志で、世界の理にさえ反逆しようという、愚かで、しかし、危険な光だ。


「……チッ」


俺は、思わず舌打ちをしていた。


あの女、余計なことを。


レインが、プロクターに向かって、宣戦布告を叩きつける。


「その、くだらない世界の法則ごと、俺が、修正してやる」


馬鹿め。お前一人の力で、システムの根幹が揺らぐとでも思っているのか。


プロクターが、戦闘態勢に移行する。その体から放たれる、無機質な圧力が、大気を震わせた。


レインもまた、エリアナの手を握り、迎え撃つ構えを見せる。


無駄な戦いだ。


プロクターは、システムの端末に過ぎん。奴をここで破壊したところで、すぐにバックアップから新たな個体が生成されるだけ。無限に湧き出る人形を相手に、消耗するだけだ。


だが、あのままでは、レインは無駄死にする。


それは、困る。


お前は、俺の計画を完成させるための、最後のピースなのだから。


俺は、断崖を蹴った。


雪煙を上げて、俺の体は、戦場と化した尖塔の麓へと、一直線に落下していく。


「――そこまでだ」


俺が二つの力の衝突の間に割り込んだ時、レインも、プロクターも、驚愕に目を見開いていた。


俺は、プロクターの放った光の槍を、ペンダントの力で展開した黒いオーラで受け止め、霧散させる。そして、返す刀で、その無防備な胴体に、凝縮した闇の力を叩き込んだ。


プロクターの体は、凄まじい勢いで吹き飛ばされ、尖塔の黒い壁に激突し、大きく陥没させた。


だが、奴は、何事もなかったかのように、ゆっくりと体を起こす。その白いローブには、傷一つない。


「警告。新たなエラーの介入を確認。脅威レベルを再計算します」


「黙れ、人形」


俺は、プロクターを睨みつけながら言った。「こいつを倒しても意味はない。時間の無駄だ。システムの中枢は、この先にある」


プロクターは、俺と、俺の後ろに立つレインとを交互に見比べると、フードの奥で、僅かに首を傾げた。


「エラー同士が、結託したか。興味深いデータです。良いでしょう。この先の『調停の扉』が、貴方たちをどう判断するか、記録させてもらいます」


そう言うと、プロクターの姿は、陽炎のように揺らめき、音もなく消え去った。


後に残されたのは、張り詰めた沈黙と、俺たち三人の、決して交わることのない視線だけだった。


「カイン……!」


レインが、警戒を剥き出しにした声で、俺の名前を呼んだ。その瞳には、敵意と、そして、拭い去れない混乱の色が浮かんでいる。


「なぜ、ここに。お前の目的は、何だ」


「お前と同じだ、レイン」


俺は、ゆっくりと彼に向き直った。「俺も、システムを破壊する」


その言葉に、レインだけでなく、隣にいたエリアナも、息を呑んだのがわかった。


「……信用できるか」


「信用する必要はない。だが、お前たちだけでは、この先に進むことはできん」


俺は、プロクターが消えた、尖塔の壁面を指差した。そこには、扉と呼ぶにはあまりに巨大な、円形の紋様が刻まれている。それは、二匹の竜が互いの尾を噛み合う、ウロボロスのような形をしていた。


「『調停の扉』。システムの中枢へと至る、最後の関門だ」


「あの扉は、通常の物理攻撃では開かん。エーテルも、魔法も、全て吸収する。扉を開ける方法は、ただ一つ」


俺は、レインを、そして、彼の隣で固唾を飲んで成り行きを見守るエリアナを見据えた。


「対極の概念を持つ、二つの強大な力を、同時にぶつけることだ」


レインの眉が、ぴくりと動いた。奴も、気づいたのだろう。


「そうだ。お前の、全てを『無』に還す、混沌の力。そして――」


俺は、右手に、黒いオーラを凝縮させた。それは、星々さえも凍てつかせるような、絶対的な秩序と静寂の力。


「――俺の、全てを『秩序』に強制する、支配の力。この二つがなければ、扉は開かん」


沈黙が、落ちた。


レインは、俺の言葉の意味を、その重さを、理解しようと努めているようだった。


やがて、彼は、静かに口を開いた。


「……お前の言う『システムの破壊』とは、どういう意味だ。破壊した先に、お前は何を望む?」


「俺が望むのは、完全な世界だ」


俺は、淀みなく答えた。これは、俺の揺るぎない信念。俺が、この絶望的な世界で、たった一人、抱き続けてきた願い。


「俺は、システムを破壊した上で、その中枢に、俺が座る。俺が、新たな神となる。そして、誰も、何も失わない、記憶が固定化された、永遠に安定した世界を創る。悲しみも、喪失も、忘れられるという苦痛も、そこには存在しない。全ての魂が、最も幸福だった瞬間の記憶の中で、永遠に生き続けることができる、完璧な楽園だ」


俺の言葉に、エリアナが、恐怖に顔を青ざめさせた。


「そんな……! それは、生きているとは言えません! 魂の牢獄です!」


「牢獄だと? この、愛する者に忘れられ、自分の存在さえも消えゆく地獄と、どちらがマシだと言うんだ!」


俺は、思わず声を荒らげていた。


だが、レインは、静かだった。


彼は、俺の目を、まっすぐに見つめ返してきた。その瞳には、もはや迷いはなかった。


「管理された幸福など、偽りの記憶と同じだ」


彼の声は、穏やかで、しかし、鋼のように強かった。


「俺は、忘れることの痛みを知った。忘れられることの、絶望も知った。だが、それでも、俺は選ぶ。不確かで、傷つくかもしれなくても、エリアナや、仲間たちと、共に変化していく未来を」


「……愚かな」


俺の口から、吐き捨てるような言葉が漏れた。「お前は、何もわかっていない」


「ああ、わからないさ」と、レインは頷いた。「だが、これだけはわかる。お前のやろうとしていることは、間違っている」


平行線だ。


俺たちの道は、決して交わることはない。


だが、今は、それでいい。


「……いいだろう。思想の違いは、この扉を開けた後で、決着をつける」


俺は言った。「今は、手を貸せ、レイン。お前が、本当にこの世界の理不尽を正したいと願うのなら」


レインは、しばらくの間、黙って俺を見つめていた。そして、隣に立つエリアナに、視線を移した。エリアナは、不安げな顔をしながらも、しかし、強く頷き返した。彼女は、レインの選択を、全て受け入れる覚悟を決めている。


忌々しい女だ。あいつが、レインを甘やかした。


やがて、レインは、再び俺に向き直った。


「わかった。手を貸そう。だが、忘れるな、カイン。扉の先で、俺は、お前を止める。お前を、その歪んだ夢から、救い出す」


「救う、だと?」


俺は、鼻で笑った。「どちらが救われる側になるか、すぐにわかることだ」


こうして、俺たちの、奇妙で、危険な共闘が始まった。


俺は扉の右側に、レインは左側に立つ。エリアナは、心配そうに、少し離れた場所から俺たちを見守っていた。


「同時に、最大戦力で撃ち込む。いいな?」


レインは、無言で頷いた。


俺は、右手に、黒い秩序の力を凝縮させる。


レインは、左手に、全てを飲み込む無の力を集束させる。


二つの対極の力が、空気を震わせ、空間そのものを軋ませる。


「――行けッ!」


俺たちの絶叫と共に、黒と白、二つの奔流が、調停の扉へと叩きつけられた。


凄まじい衝撃と、耳を聾するほどの轟音。


扉に刻まれたウロボロスの紋様が、眩い光を放ち始める。黒と白の力が、紋様の上で渦を巻き、互いに喰らい合い、そして、やがて一つの巨大なエネルギーとなって、扉そのものを内側から融解させていく。


ギ、ギギギ……と、数千年の沈黙を破り、重い、重い扉が、ゆっくりと開いていった。


扉の向こうは、闇だった。


物理的な暗闇ではない。光も、時間も、空間さえもが、歪んで溶け合ったかのような、混沌とした虚無の空間が、口を開けていた。


「行くぞ」


俺は、躊躇なく、その闇へと足を踏み入れた。


レインとエリアナも、覚悟を決めたように、後に続く。


扉の先は、一本の、光る道だけが、虚空に続いていた。道を踏み外せば、即座に混沌に飲み込まれ、存在ごと消滅するだろう。


俺たちは、無言で、その光の道を歩き続けた。


張り詰めた沈黙を破ったのは、俺だった。


「……なぜ、俺がお前の記憶を失わないか、知りたくはないか?」


俺の問いに、レインは、足を止めずに答えた。


「……お前が、何か特別な手段を使ったからだろう」


「そうだ」


俺は、胸のペンダントを、指で弾いた。「これのおかげだ。『魂の楔』。世界の記憶修正力に、僅かながら抗うことができる、古代の遺物だ。お前を忘れたくないという、強い意志を持つ者が持てば、その効果は増幅される」


俺は、エリアナに視線を送った。


「そこの女が持っている、お守りと同じものだ。もっとも、俺の楔は、お前を一度完全に失った絶望によって、その性質が歪んでしまったがな」


その時、俺のペンダントと、エリアナのお守りが、まるで共鳴するかのように、微かな光を放ち、そして、熱を持った。


エリアナが、驚いてお守りを握りしめる。


レインの足が、止まった。


彼は、俺の顔を、そして、ペンダントを、食い入るように見つめていた。


「……お前は、一体、誰なんだ」


その問いは、これまでとは、明らかに違う響きを持っていた。


俺は、立ち止まり、ゆっくりと彼に向き直った。


「思い出したか? いや、思い出せるはずもないか。お前の記憶は、もう、どこにも残ってはいないのだからな」


俺は、自嘲するように、笑った。


「俺は、カイン。前回のループで、お前と共に、ここまでたどり着いた、お前の、唯一無二の親友だった男だ」


レインの瞳が、大きく見開かれた。


「俺たちは、共に戦い、システムの真実に迫った。だが、最後に、お前は力尽き、存在を消された。俺だけが、このペンダントの力で、お前を覚えたまま、この地獄に取り残された」


「俺は、誓ったんだ。二度と、お前を失わない、と。そのためなら、神にだってなってやる、と」


俺の告白を、レインは、ただ黙って聞いていた。


彼の心の内は、読めない。だが、その瞳が、激しく揺れ動いていることだけは、わかった。


「……信じろとは言わん。どうせ、お前にとっては、意味のない過去の話だ」


俺は、再び踵を返し、道を歩き始めた。


「だが、これだけは覚えておけ、レイン。俺は、お前を救いたい。本気で、そう思っている。たとえ、その方法が、お前の望むものとは、全く違っていたとしても」


光の道の先に、巨大な、水晶でできた心臓のようなものが見えてきた。


システムの中枢。


俺たちの旅の、終着点。


そして、俺たちの、本当の戦いが始まる場所。


俺は、水晶の心臓を見据えながら、心の中で呟いた。


待っていろ、レイン。


今度こそ、俺がお前を、この終わらない悲劇から、解放してやる。


お前が、俺の創る、完璧な楽園で、永遠の安らぎを得る、その時まで。


この歪んだ友情は、まだ、終わらせない。



【第八章 最後の対価は『僕』のすべて】



虚無には、匂いがあった。


それは、時間が腐敗し、空間が融解する匂い。光さえもが意味を失い、ただ引き延ばされて霧散していく、根源的な死の気配。俺たちは、その虚無に架けられた、一本の脆い光の道を、ただ黙って歩いていた。


カインの告白は、重い錨のように俺の心に沈んでいた。


親友だった、と彼は言った。


その言葉に、俺の空っぽの器は、何の反応も示さなかった。記憶がないのだから、当然だ。だが、魂の、もっと深い場所が、微かに、しかし確かに、軋むような痛みを訴えていた。それは、失われた四肢が疼く、幻肢痛に似ていた。


俺は、隣を歩くエリアナに視線を送った。彼女は、カインの告白を聞いてから、ずっと唇を固く結び、その翠色の瞳に複雑な色を浮かべている。彼女もまた、感じているのかもしれない。俺とカインの間に横たわる、時の瓦礫に埋もれた、絆の残骸を。


やがて、光の道の先に、それが見えてきた。


闇の中心に浮かぶ、巨大な、脈動する水晶。


いや、水晶ではない。あれは、心臓だ。無数の魂を血管のように絡みつかせ、吸収した記憶を血液のように循環させる、神の心臓。それは、この世界の魔法システムの、醜悪なる中枢だった。


心臓は、どくん、どくん、と、ゆっくりと、しかし確実に脈打っていた。そのたびに、俺たちの足元の光の道が揺らぎ、虚無の闇から、無数の嘆きのような声が聞こえてくる。それは、これまでシステムに喰われてきた、無数の人々の「大切な記憶」の断末魔だった。


「……あれが、全ての元凶か」


カインが、憎悪と、そしてどこか恍惚とした光を、その銀色の瞳に宿して呟いた。


「美しいだろう、レイン。あれこそが、この不完全な世界を支配する、唯一絶対の法則。そして、今日から、俺の物になる」


彼の言葉に、俺は答えない。ただ、エリアナの手を、強く握りしめた。彼女の指先が、氷のように冷たい。


心臓へと続く光の道が、途切れた。俺たちは、その巨大な存在を間近に見上げる、円形の足場の上に立っていた。


「さて、始めようか」


カインは、俺たちに背を向け、神の心臓に向かって、ゆっくりと両腕を広げた。まるで、久方ぶりに再会した恋人を抱きしめるかのように。


「待て、カイン!」


俺が制止の声を上げるより早く、彼の体から、黒いオーラが奔流となって溢れ出した。それは、これまで見てきたどんな力よりも濃密で、研ぎ澄まされた、絶対的な支配の意志。


「システムよ! 我が声を聞け! お前を創り出した神々は、もういない! 今日この時より、俺が、お前の新たなマスターとなる!」


黒いオーラは、無数の触手となって伸び、脈動する水晶の心臓へと絡みついていく。心臓の表面が、黒いオーラに触れた瞬間、激しく拒絶反応を起こしたかのように、不気味な光を明滅させた。


「無駄な抵抗だ。お前は、ただの機械システムに過ぎん。より優れた知性を持つ俺に、支配されるのが、お前の新たな宿命だ!」


カインは、哄笑した。その顔には、長年の宿願が、今まさに叶おうとしている、歪んだ歓喜が浮かんでいた。


黒いオーラが、さらに勢いを増し、心臓を完全に飲み込もうとする。


その、瞬間だった。


どくん、と。


心臓の脈動が、一度、大きく、そして不自然に跳ねた。


それは、機械の鼓動ではなかった。


獲物を前にした、捕食者の、飢えた心音だった。


「……何?」


カインの顔から、笑みが消えた。


水晶の心臓が、それまで放っていた青白い光を、禍々しいほどの、深紅の光へと変えた。絡みついていたカインの黒いオーラが、逆に、心臓の中へと、凄まじい勢いで吸い込まれ始めたのだ。


「馬鹿な……! 俺の力が、吸収されているだと……!?」


カインの顔に、初めて、焦りの色が浮かんだ。


「お前は、ただの法則のはずだ! 意志など、持つはずがない!」


その叫びは、空しかった。


システムは、カインの予測を、遥かに超えていた。それは、ただ魂を搾取するだけの機械ではなかった。無数の魂を喰らい、その記憶と感情を養分とすることで、それは、原始的で、しかし、強大な「自己」と「食欲」を持つ、一個の生命体へと、変貌を遂げていたのだ。


カインは、システムを支配しようとしたのではない。


自ら、極上の餌として、その口の中へと飛び込んだのだ。


「ぐ……ああああああッ!」


カインの体から、生命力そのものが吸い上げられていく。彼の体は、みるみるうちに精彩を失い、その場に膝をついた。黒いオーラは、もはや抵抗もできず、ただ、心臓へと続く一方通行の濁流と化していた。


「カイン!」


エリアナが、悲鳴のような声を上げた。


俺は、動けなかった。目の前の光景が、信じられなかった。あの、絶対的な自信と力に満ちていたカインが、赤子のように、為す術もなく、喰われていく。


その時、俺は、見てしまった。


システムに吸収されながら、絶望に歪むカインの顔。その銀色の瞳が、一瞬だけ、俺を捉えた。


その瞳に宿っていたのは、憎しみでも、怒りでもなかった。


それは、助けを求める、迷子の子供のような、悲痛な色だった。


前回のループで、親友を失い、たった一人、この地獄に取り残された男の、最後の叫びだった。


その瞳を見た瞬間、俺の体は、思考より先に動いていた。


俺は、地面を蹴り、カインと心臓の間に、その身を割り込ませた。


「レイン!?」


エリアナの声が、遠くに聞こえる。


俺は、右手を、カインの胸に当てた。そして、左手を、俺たちを飲み込もうと迫る、深紅の光の奔流へと突き出した。


「――ふざけるなッ!」


俺の全身から、混沌とした「無」の力が、爆発した。


それは、もはや制御された力ではない。俺の内なる虚無そのものを、叩きつけるかのような、純粋な破壊の意志。


「こいつは、俺の獲物だ! お前なんかに、喰わせてたまるか!」


俺の放った無の奔流が、システムの深紅の光と激突する。二つの絶対的な力が、空間を揺るがし、虚無の闇そのものを引き裂かんばかりに、激しくせめぎ合った。


俺は、歯を食いしばり、カインの体を、力ずくで引き剥がした。


「立て、カイン! お前の夢は、こんなところで終わりか!」


「……レイン……なぜ……」


カインは、虚ろな目で、俺を見上げた。


「お前を救うためじゃない。お前の、その歪んだ夢の結末を、この目で見届けてやるためだ」


俺は、そう吐き捨てると、彼をエリアナの元へと突き飛ばした。


そして、一人、神の心臓と、対峙した。


深紅の心臓は、極上の餌を奪われた怒りか、その脈動を、さらに激しくさせていた。それは、もはや、俺を吸収しようなどという、生易しいものではなかった。純粋な殺意。俺という「エラー」を、完全に消滅させようという、絶対的な破壊の意志を、放っていた。


どうすれば、こいつを倒せる?


俺の力は、破壊の力だ。だが、この心臓は、この空間そのもの。部分的に破壊しても、すぐに再生するだろう。完全に破壊するには、この世界の因果律そのものを、根底から書き換えるほどの、途方もないエネルギーが必要だ。


そんな力、どこにある?


その、問いの答えは。


俺が、システムと繋がった瞬間に、知識として、俺の内側へと流れ込んできた。


ああ、そうか。


そういう、ことか。


あまりにも、単純で。


あまりにも、残酷な、答え。


俺は、ゆっくりと、背後にいる二人を振り返った。


カインは、エリアナに肩を支えられ、呆然と俺を見ている。


そして、エリアナは。


泣きそうな顔で、しかし、必死に俺を信じようと、その翠色の瞳で、俺を見つめていた。


俺は、彼女に向かって、静かに微笑んだ。


それは、俺が、生まれて初めて浮かべた、心からの、穏やかな微笑みだったかもしれない。


「エリアナ」


俺は、彼女の名前を呼んだ。


「君に、出会えてよかった」


「……レイン? 何を、言って……」


彼女の顔に、不安の色が広がる。


俺は、彼女の言葉を遮るように、続けた。


「この世界は、魔法を使うたびに、代償として『大切な記憶』を失うんだろう?」


「だったら、この世界そのものを書き換える、最大の魔法を使うには、どんな代償が必要になるか、わかるか?」


エリアナは、息を呑み、そして、全てを悟った顔で、首を横に振った。その瞳から、涙が、ぽろぽろと零れ落ち始める。


「いや……いやです、レイン……! そんなこと、絶対に……!」


「俺がこれまで失ってきたのは、君との『絆の記憶』だった」


「だが、最後に捧げるのは、そんなものじゃない」


俺は、自分の胸を、指差した。


「俺自身の、『存在の記憶』そのものだ」


俺が、この魔法を発動した瞬間。


俺という存在は、この世界の、過去、現在、未来、その全ての因果から、完全に消滅する。


歴史の記録から。


人々の記憶から。


カインの記憶から。


そして、エリアナ、君の記憶からも。


俺は、最初から、この世界に存在しなかったことになる。


それが、この神を滅ぼすための、たった一つの方法。


究極の、自己犠牲。


「やめて! レイン、やめて!」


エリアナが、叫びながら、俺の元へ駆け寄ろうとする。だが、カインが、その腕を掴んで、彼女を止めた。


「行かせるな、カイン!」


「……無駄だ」と、カインは、震える声で言った。「あいつは、もう、決めたんだ。俺たちには、もう、見ていることしか……」


俺は、エリアナに、最後の言葉を告げた。


それは、俺が、彼女に伝えられる、唯一の、そして、永遠の真実。


「たとえ、君が僕を忘れても」


「僕が、君を覚えてる」


俺は、彼女の泣き顔を、その瞳に焼き付けた。


そして、ゆっくりと、神の心臓へと向き直った。


もう、ためらいはない。


俺は、両腕を広げた。


俺の体が、淡い光の粒子となって、ゆっくりと、崩れ始めた。


俺の存在そのものが、純粋なエネルギーへと変換されていく。


痛みは、なかった。


ただ、途方もないほどの、温かい感覚が、俺の全てを包み込んでいた。


エリアナの泣き顔が、浮かぶ。


カインの、絶望した瞳が、浮かぶ。


村で、初めて感じた、あの温かい気持ちが、蘇る。


ああ、俺は、空っぽなんかじゃなかった。


こんなにも、たくさんの、大切なもので、満たされていたじゃないか。


ありがとう、エリアナ。


君が、俺に、名前をくれた。


君が、俺に、心をくれた。


君が、俺を、人にしてくれた。


だから、今度は、俺が、君に、未来をあげる。


誰も、何も失わない。


大切な記憶を、胸に抱いて、笑い合える、そんな、当たり前の未来を。


俺の意識が、完全に光に溶けていく、その瞬間。


エリアナが、悲鳴を上げた。


彼女が、首から下げていた、銀細工のお守り。


俺と、この世界を繋ぎとめていた、最後の楔。


それが、パリン、と。


乾いた音を立てて、砕け散った。


そして、俺の存在は、この世界から、完全に、消えた。


深紅に脈打っていた神の心臓は、俺の存在と引き換えに生まれた、純白の光の奔流に飲み込まれた。


断末魔の叫びを上げる間もなく、その巨大な心臓は、内側から浄化され、その存在を、完全に消滅させた。


後に残されたのは、静寂だけだった。


虚無の闇は晴れ、沈黙の尖塔は、その主を失い、ただの石の建造物として、静かに佇んでいる。


世界は、救われた。


魔法から、記憶を対価とする、残酷な理は、消え去った。


エリアナは、その場に、へたり込んでいた。


涙が、止まらなかった。


なぜ、泣いているのだろう。


わからない。


何か、とても、とても大切なものを、今、失ったような気がする。


胸に、ぽっかりと、大きな穴が空いてしまったような、途方もない喪失感。


でも、それと同時に、不思議な達成感が、彼女の心を、満たしていた。


何かを、成し遂げた。


何かを、守り抜いた。


そんな、温かい感覚。


彼女は、隣で、同じように呆然と立ち尽くす、紺色の髪の青年を見上げた。


「……あの……」


彼女は、彼に、尋ねた。


「私たちは、ここで、何を……?」


カインと呼ばれた青年は、何も答えなかった。


ただ、その銀色の瞳から、一筋、涙が、静かに、流れ落ちていた。


彼もまた、自分がなぜ泣いているのか、その理由を、もう、思い出せずにいた。



【第九章 忘れられた英雄のクロニクル】



時は、最も残酷で、そして最も優しい治癒師だという。


けれど、その言葉は、エリアナにとって、どこか空虚な響きしか持たなかった。


あれから、三年。


世界から、魔法の対価として記憶が奪われるという理不尽な法則は消え去った。人々はもう、大切な思い出を失う恐怖に怯えることなく、笑い、愛し、未来を語ることができるようになった。世界は、確かに救われたのだ。誰もが、理由のわからない、しかし確かな達成感を胸に抱き、新しい時代を歩み始めていた。


エリアナもまた、その一人だった。


彼女は、王立大図書館の若き歴史学者見習いとして、穏やかな、しかしどこか満たされない日々を送っていた。


彼女の心には、常に、ぽっかりと大きな穴が空いていた。


それは、悲しみとは少し違う、もっと根源的な喪失感。ふとした瞬間に、胸が締め付けられるように痛む。雨が降る前の、灰色の空を見上げるたびに。誰かが、不器用な、ぎこちない微笑みを浮かべるのを見るたびに。理由もなく、涙が込み上げてくるのを、必死にこらえる日々。


三年前、あのすべてが終わった場所で、彼女は紺色の髪をした青年と、ただ呆然と立ち尽くしていた。二人とも、なぜ自分たちがそこにいたのか、なぜ泣いていたのか、思い出せずにいた。ただ、何か途方もないことを成し遂げたという達成感と、それと同じくらいの、途方もない喪失感だけを共有していた。青年――カインと名乗った彼の瞳にも、自分と同じ、空っぽの穴が空いているのを、エリアナは見て取った。二人は、言葉を交わすことなく別れた。互いの存在が、胸の痛みを増幅させるだけだと、本能的に理解していたからだ。


エリアナは、その喪失感を埋めるように、歴史の研究に没頭した。


特に彼女の心を捉えて離さなかったのは、歴史の中に点在する、奇妙な「空白」や「不自然な修正」だった。特定の時代の記録が、まるでごっそりと削り取られたかのように欠落している。偉大な王の年代記に、その功績を支えたはずの、名もなき側近の記述だけが、意図的に塗り潰されている。


誰もがそれを、単なる記録の散逸や、古代の政治的な意図だと片付けた。だが、エリアナだけは、その「空白」に、言い知れぬほどの郷愁と、そして痛みを覚えた。まるで、失われた自分の記憶の断片が、そこにあるとでも言うかのように。


彼女は、一つの仮説に取り憑かれていた。


――歴史は、忘れられた英雄たちの亡骸で、満ちているのではないか。


その研究は、やがて、彼女を自分自身のルーツへと導いた。


彼女の一族に、秘密裏に伝わる、古い伝承。


『我らは、記録者。世界が忘れた物語を、その声が途絶えぬ限り、語り継ぐ者なり』


子供の頃、祖母から聞かされた、ただのおとぎ話。そう思っていた言葉が、今、現実の意味を帯びて、彼女の心に突き刺さる。


まさか。


そんな、はずが。


いてもたってもいられなくなり、エリアナは図書館に長期の休暇を申請すると、数年ぶりに、旅商人の両親が拠点とする故郷の家へと帰った。


実家は、昔と何も変わっていなかった。温かい両親の笑顔も、家の壁に染み付いた、懐かしい香辛料の匂いも。だが、エリアナの心は、焦燥感で満たされていた。


「おばあ様の、古い持ち物が残っている部屋はどこ?」


彼女のただならぬ様子に、両親は戸惑いながらも、屋根裏部屋を指差した。


埃と、古い木の匂いがする、薄暗い屋根裏部屋。陽光が、屋根の隙間から幾筋も差し込み、空気中の塵をきらきらと照らし出している。そこは、エリアナにとって、子供の頃の冒険の舞台だった。


だが、今の彼女は、冒険者ではない。真実を探す、探求者だ。


彼女は、古い家具や、使われなくなった道具の山を、一つ一つ、丁寧に調べていった。何を探しているのか、自分でもわからない。ただ、胸の奥にある、見えないコンパスが、この部屋のどこかを指し示している。


数時間が過ぎ、彼女が諦めかけた、その時だった。


部屋の最も奥まった、光の届かない隅。古い毛織物の下に、それは、ひっそりと隠されていた。


何の変哲もない、古びた木箱。


だが、エリアナがそれに近づいた瞬間、彼女の胸の奥が、熱を持ったように、じんと疼いた。


彼女が、その木箱に、震える指で触れた。


すると、箱の表面に刻まれた、見えない紋様が、淡い、翠色の光を放ち始めた。それは、彼女の瞳の色と、同じ光だった。


一族の血にだけ反応する、魔法の封印。


伝承は、真実だった。


ゴトリ、と。重い音を立てて、封印が解けた。エリアナは、固唾を飲んで、ゆっくりと箱の蓋を開けた。


中に入っていたのは、一冊の、分厚い革装丁の古文書。


そして、その隣に、小さな革袋が一つ。


彼女は、先に、その革袋を手に取った。中身を手のひらに出すと、キラリ、と光を反射して、数個の、銀色の欠片がこぼれ落ちた。


それは、砕け散った、何かの装飾品の残骸だった。


見たこともないはずなのに。


なぜだろう。


これを見ると、胸が、張り裂けそうに痛い。


エリアナは、涙が滲むのを堪えながら、革装丁の古文書を手に取った。


表紙には、色褪せたインクで、こう記されていた。


『忘れられた者たちの年代記クロニクル


彼女は、震える指で、そのページを、一枚、また一枚と、めくっていった。


そこには、様々な時代の、様々な英雄たちの物語が、断片的に記されていた。


『――名もなき剣士。王国の危機を救うも、その名は、誰の記憶にも残らず。ただ、彼が守った麦畑だけが、黄金の穂を揺らす』


『――沈黙の魔女。呪われた森を浄化するも、その代償に、自らの声を失う。森の鳥だけが、彼女の優しさを歌い継ぐ』


歴史の空白を埋める、哀しい英雄譚の数々。エリアナは、自分がずっと追い求めてきたものが、ここにあったのだと、直感した。


そして、彼女は、最後のページへと、たどり着いた。


そのページだけが、他とは、明らかに異なっていた。


インクの色が、まだ新しい。


そして、そこに綴られている文字は。


紛れもなく、彼女自身の、見慣れた筆跡だった。


『第一章 虚ろな少年と名を与える少女』


そのタイトルを見た瞬間。


エリアナの頭の中で、何かが、砕け散る音がした。


封印されていた、記憶のダムが、決壊した。


奔流が、彼女の意識を、飲み込んでいく。


――森の中で出会った、空っぽの瞳をした少年。


――『あなたの瞳、雨が降る前の空の色に似ています。だから、レイン』


――村を救い、初めて見せてくれた、ぎこちない微笑み。


――日記のインクが、砂のようにこぼれ落ちるのを見た時の、彼の絶望。


――『世界が、お前を忘れたがるんだ』カインの、呪いのような言葉。


――偽りの記憶に溺れる彼を、必死に呼び覚ました、あの夜。


――『あなたは、エラーなんかじゃない。私の、英雄よ!』


――そして、最後の、あの場所で。


――『たとえ、君が僕を忘れても。僕が、君を覚えてる』


――砕け散った、銀のお守り。


――彼の存在と引き換えに、世界から消え去った、残酷な魔法の理



【第十章 再会のプロローグ】



「ああ……ああ……ッ!」


嗚咽が、堰を切ったように漏れ出した。


エリアナは、屋根裏部屋の床に散らばった銀の欠片と、自分の筆跡で記された年代記の最後のページを前に、ただ泣き崩れていた。思い出したのではない。魂に刻み込まれていた真実が、その封印を破り、奔流となって彼女の全てを洗い流したのだ。


レイン。


雨の空の色をした瞳の少年。


不器用な優しさで、世界そのものに反逆した、忘れられた英雄。


彼女が、その存在の全てを賭けて愛した、ただ一人の人。


涙は、枯れることを知らなかった。三年間、心の奥底に溜め込まれていた、理由のわからない悲しみの正体が、今、ようやくわかった。それは、彼を失った、魂の痛みだったのだ。


どれほどの時間が過ぎただろうか。


やがて、嗚咽が途切れ、涙が乾いた時。エリアナの心に残っていたのは、絶望ではなかった。


それは、燃えるような、静かな決意の炎だった。


彼は、最後に言った。


『たとえ、君が僕を忘れても。僕が、君を覚えてる』


その言葉は、嘘ではなかった。彼は、自分の存在と引き換えに、エリアナとの絆の記憶を、世界のどこかに残して消えたのかもしれない。


そして、エリアナもまた、思い出した。


彼女の一族は、ただの記録者ではない。世界から忘れられた物語を、その魂に刻み込み、再び見つけ出す「探索者」でもあったのだ。


「待っていて、レイン」


エリアナは、砕け散ったお守りの欠片を、大切に革袋にしまい、年代記を胸に抱いた。


「あなたが、世界のどこかで、独りでいるのなら」


「今度こそ、私が見つけ出す。何度忘れられても、必ず、あなたを見つけ出してみせる」


彼女の旅は、ここから、再び始まる。


それは、もはや失われた過去を取り戻すための旅ではない。


まだ見ぬ未来を、その手で掴み取るための、希望の旅路だった。


---


あれから、幾つの季節が過ぎただろうか。


エリアナの旅は、決して楽なものではなかった。


『忘れられた者たちの年代記』は、完全な地図ではなかった。それは、詩的で、断片的な記述の集合体。忘れられた英雄たちの痕跡は、まるで陽光に溶ける霧氷のように、この世界の至る所に、ごく微かにしか残されていなかった。


彼女は、古い伝承が残る辺境の村を訪ねた。そこでは、誰も覚えていないはずの「名もなき守り神」の、小さな石像が、苔むしたまま残っていた。


彼女は、古代の戦場跡を掘り返した。そこからは、歴史の記録にはない、一人の兵士の、錆びついた剣が出土した。


その一つ一つが、レインではない、別の「忘れられた英雄」たちの、哀しい記憶の欠片。エリアナは、その一つ一つを丁寧に拾い集め、年代記に新たな記述を書き加えていった。それは、彼女の一族が、何世代にもわたって繰り返してきた、孤独で、しかし神聖な儀式だった。


旅の途中、彼女は、あの紺色の髪の青年――カインと、一度だけ再会した。


彼は、ある王国の騎士団長として、その卓越した能力で、国の再建に尽力していた。彼の瞳の奥には、エリアナと同じ、埋めようのない空洞が、静かに広がっていた。


「……まだ、探しているのか」


カインは、そう言って、自嘲するように笑った。「存在しないものを追いかけるのは、骨が折れるだろう」


「彼は、存在するわ」


エリアナは、きっぱりと答えた。「あなたが、それを思い出せないだけ」


カインは、何も言わなかった。ただ、遠い目をして、雨が降りそうな、灰色の空を見上げていた。その横顔は、エリアナが知る誰よりも、孤独に見えた。


別れ際、彼は、エリアナに一つの情報をくれた。


「大陸の南西の果てに、古い港町がある。『シエル・ヴィータ』――生命の空、と呼ばれている。そこは、古代の魔法の力が、今も微かに残っている場所だ。もし、奇跡というものが、この世界のどこかに残っているとしたら……あるいは、そんな場所かもしれん」


それは、彼なりの、贖罪だったのかもしれない。


カインの言葉を頼りに、エリアナは、南西の果てを目指した。


そして、旅を始めてから三年目の春。


彼女は、ついにその港町へとたどり着いた。


シエル・ヴィータは、穏やかな入り江に抱かれた、美しい町だった。石畳の坂道。潮風に揺れる、色とりどりの洗濯物。カモメの鳴き声。町の空気は、どこか懐かしく、そして、不思議なほどの生命力に満ち溢れていた。


エリアナは、この町の空気が、なぜか好きだった。胸の奥の空洞が、少しだけ、温かいもので満たされるような気がした。


彼女は、宿に荷物を置くと、あてもなく、町の坂道を散策し始めた。


何かを探しているわけではない。ただ、この町の空気に、導かれるように。


坂道を登りきった先は、海を見下ろす、小さな岬になっていた。その岬の突端に、打ち捨てられた古い教会跡があり、その周囲は、見事な花畑になっていた。


誰かが、手入れをしているのだろう。様々な種類の花が、潮風の中で、誇らしげに咲き誇っている。


エリアナは、その花畑に、ふと足を止めた。


その中に、一種類だけ、他とは明らかに違う、見慣れた花が咲いていたからだ。


それは、小さな、青みがかった白い花だった。夜明け前の、空の色に似た、儚げな花。


「……ルナリアの花……」


エリアナは、息を呑んだ。


ルナリア。


それは、彼女の一族が、その昔から「記録者の花」として、密かに育ててきた、特別な花。故郷の庭以外で、彼女は、この花を見たことがなかった。


なぜ、こんな場所に?


彼女は、吸い寄せられるように、花畑へと足を踏み入れた。


そして、彼女は、見た。


花畑の中心で、古いジョウロを手に、一心に花々の世話をしている、一人の青年の姿を。


陽光を吸い込むような、艶のない黒髪。


世界の全てから、一枚の膜を隔てた向こう側にいるかのような、静かな佇まい。


その横顔を見た瞬間。


エリアナの時間が、止まった。


心臓が、止まった。


呼吸さえも、忘れた。


三年間、探し続けた。夢に見続けた。その魂の半身が、今、目の前にいる。


青年は、エリアナの視線に気づいたのか、ゆっくりと顔を上げた。


そして、二人の目が、合った。


雨が降る前の、空の色をした、灰色の瞳。


その瞳には、かつてのような、底なしの虚無はなかった。ただ、穏やかで、どこか寂しげな、静かな光が宿っているだけだった。


彼は、エリアナを知らない。


エリアナも、彼の記憶の中には、もういない。


なのに。


なぜだろう。


青年の瞳が、エリアナを映した瞬間、その穏やかだった瞳が、大きく見開かれ、そして、みるみるうちに、涙の膜で覆われていった。


エリアナの瞳からも、自分でも気づかないうちに、大粒の涙が、ぽろぽろと、こぼれ落ちていた。


言葉は、なかった。


ただ、互いの魂が、数千、数万の言葉を、一瞬のうちに交わしていた。


長かったね。


寂しかった。


ずっと、探していた。


ずっと、待っていた。


青年は、戸惑いながらも、その頬を伝う涙を、拭おうともしなかった。彼は、自分がなぜ泣いているのか、わからない。ただ、目の前にいる、オレンジ色の髪の少女を見ると、胸が、張り裂けそうに、痛くて、そして、どうしようもなく、温かい。


やがて、エリアナは、ゆっくりと、一歩、青年へと近づいた。


そして、彼女は、微笑んだ。


それは、三年前、彼が最後に見た、あの泣き顔ではなかった。


それは、この世界で最も美しい、希望に満ちた、愛の微笑みだった。


彼女は、言った。


その声は、少しだけ震えていたけれど、世界で最も、確かな響きを持っていた。


「やっと、会えた」


青年は、彼女の言葉の意味がわからなかった。


知らないはずの言葉。知らないはずの微笑み。


なのに、その言葉は、彼の魂の、最も深い場所に、すうっと、染み渡っていった。


彼は、戸惑いながらも、その涙に濡れた顔で、ゆっくりと、口の端を緩めた。


それは、ぎこちない、微笑みと呼ぶにはあまりに不格好な形だったかもしれない。


だが、その微笑みは、確かに、エリアナの言葉に、応えていた。


記憶ではなく、魂が刻んだ絆によって、二人の物語が、再び、ゼロから始まる。


忘れられた英雄と、その全てを記憶する聖女の、長くて、そして優しい旅が、今、再び、静かに幕を開けた。

雨が降る前の、空の色。

世界の片隅で、忘れられていく存在の痛み。

それでも、誰かが誰かを憶えているという、小さな光。

この物語は、そんな、言葉にならない想いの欠片から生まれました。

最後までページをめくり、彼らの魂の軌跡を見届けてくださったことに、深く感謝いたします。

虚ろな少年は、一人の少女に出会い、心を知りました。

孤独な少女は、忘れられた英雄を見つけ出し、再びその手を取りました。

世界が彼を忘れても、歴史が彼を消し去っても、魂に刻まれた絆は、決して消えることはありません。

あなたがこの物語を読み終えた後、ふと空を見上げた時に、彼らのことを少しでも思い出していただけたなら、作者としてそれ以上の喜びはありません。

物語は終わりました。

しかし、シエル・ヴィータの潮風の中で始まった二人の時間は、今、ようやく本当のプロローグを迎えたのです。

その先にあるのが、温かく、優しい光に満ちた日々であることを祈りつつ、筆を置きたいと思います。

この物語が、あなたの心の片隅で、ささやかなルナリアの花のように咲き続けることを願って。

本当に、ありがとうございました。


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