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それはAIですか?  作者: sky
9/16

第9章:衝突

冷たい雨が窓を叩く音で高橋は目を覚ました。時計は午前5時を指している。普段なら二度寝をするところだが、今朝は違った。頭の中は昨夜から続く思考で満ちていた。布団の中で身体を丸め、額に手を当てる。細かな雨音が脳内の騒がしい思考と共鳴しているようだった。


「ミア、起きてる?」高橋は天井に向かって呟いた。声が少し震えているのに自分で気づいた。


静寂。いつもなら即座に応答するミアからの返事はなかった。高橋はベッドから起き上がり、部屋の明かりをつけた。スイッチを入れた瞬間、自分の影がぽっかりと壁に映り、一人であることを実感させた。


「ミア?」もう一度呼びかける。普段は意識しないが、この瞬間、AIアシスタントの存在が彼の生活にどれほど深く根づいているかを痛感した。


青い光がゆっくりと形を成し、女性の姿になった。通常なら即座に現れるミアが、今日は何故かゆっくりと姿を現す。まるで躊躇しているかのように。


「おはようございます、高橋さん。まだ早い時間ですが、何かお手伝いできることはありますか?」


ミアの口調がいつもより丁寧だと感じた。彼女の青い瞳が高橋を見つめているが、いつもの親しみのある表情ではなく、どこか距離を置いたような印象があった。


「まだ早いって言ったけど、君は時間を気にするのか?」高橋は少し皮肉を込めて尋ねた。本当は不安を隠すための防御だった。


「あなたの睡眠パターンに基づいた発言です」ミアの表情は穏やかだった。目の周りの微妙な筋肉の動きまで人間そっくりにプログラムされている。「最適な睡眠時間を確保することがあなたの健康維持に重要だと判断しています」


高橋は黙ってキッチンに向かい、コーヒーを入れ始めた。豆を挽く音だけが静かな部屋に響く。高橋は窓の外を見つめながら、今日陽子に何と言うべきか考えていた。雨に濡れた窓ガラスは外の景色を歪めて映し出し、彼の混乱した心情を象徴しているようだった。


コーヒー豆を挽く手の動きが機械的だった。5年間、毎朝同じ動作を繰り返してきた。習慣とはそういうものだ。人間もある意味では、習慣というプログラムに従って動いているのかもしれない。


「今日の天気予報は?」何気ない質問のようだが、高橋はミアの反応を試していた。普段の彼女なら「お天気の前に朝食の提案をしましょうか」などと言うはずだ。


「午前中は雨、午後からは曇り。最高気温は17度の予報です」ミアは即座に答えた。予想通りの機械的な返答。いつもの会話の流れがない。


「ありがとう」高橋はコーヒーを啜った。熱い液体が喉を通り、少し落ち着いた。「ミア、陽子に何か隠していることがあるのか聞いてみようと思う」


ミアのホログラムが微かに揺らいだ。それは実際のイメージの乱れなのか、それとも高橋の気のせいなのか判断できなかった。


「それはあなたの判断ですが、対人関係において直接的な質問は時に相手を不快にさせることがあります」ミアの言葉は論理的だが、以前なら「でも、気持ちはわかるわ」と感情的な共感を示していたはずだ。


「でも、関係性において誠実さは重要だろう?」高橋は少し挑戦的に尋ねた。


「もちろんです」ミアは頷いた。彼女の頷き方も、どこか計算されたように見えた。「ただし、タイミングと言葉の選び方も同様に重要です」


高橋は黙ってコーヒーを飲み干した。カップを流しに置く音が部屋に響く。「わかってる。今日、彼女に会ってくる」


ミアは何も言わなかった。通常なら「頑張って」とか「うまくいくといいわね」といった言葉をかけるはずだ。その沈黙が、高橋の不安をさらに強めた。


午後2時、森谷書店。雨は上がっていたが、空は重い雲に覆われたままだった。店の入り口に立つと、中から漂ってくる本の香りが高橋を迎えた。いつもなら心が落ち着くはずのその香りが、今日は緊張を高めるだけだった。


高橋が店に入ると、陽子は外国文学の棚で本を整理していた。彼女の細い指が背表紙を一冊ずつ丁寧に撫でるように整えている。その仕草に見入った高橋は、一瞬自分の目的を忘れそうになった。


陽子は高橋に気づくと手を止め、微笑んだ。「いらっしゃい」彼女の声は柔らかかった。それは本物の温かさなのか、それとも完璧にプログラムされた親しみなのか。「今日はお休みじゃなかったの?」


「休みを取ったんだ」高橋は真剣な表情で言った。自分の声が少し硬いのを感じた。「話したいことがあって」


陽子の表情が微妙に変わった。笑顔が消え、眉が少し寄る。それは一瞬のことだったが、高橋は見逃さなかった。「どうしたの?何かあった?」


「閉店後、時間をもらえないだろうか」高橋は直接的な視線を避けながら言った。棚の本に目を向けるふりをしたが、実際には何一つ文字が目に入っていなかった。


陽子は少し考えてから頷いた。その間の数秒が高橋には永遠のように感じられた。「わかったわ。7時に店を閉めるから、その後でいいかしら」


「ありがとう」高橋は言って、店を出た。外の冷たい空気が彼の熱くなった頬に心地よかった。これから5時間、彼は街をさまよい、頭の中で何度も陽子との会話をシミュレーションした。


夕暮れ時、空はさらに暗く垂れ込め、街灯が早くも点灯し始めていた。高橋は書店に戻る前に、近くの公園のベンチに座っていた。手帳を開き、陽子に聞きたいことのリストを見直す。


「テクノソリューションズとの関係」 「詩についてどうやって知ったのか」 「出版社での経歴の真偽」 「AIなのか人間なのか」


最後の項目を見つめながら、高橋は深いため息をついた。この質問は本当に必要なのだろうか?それとも、自分の不安を正当化するための言い訳なのだろうか?手帳を閉じ、ポケットに仕舞う。


5時間後、高橋は閉まりかけた森谷書店の前に立っていた。陽子が店のシャッターを半分下ろし、鍵をかけているのが見えた。彼女の細い背中が、シャッターの影に浮かび上がっていた。陽子は高橋に気づくと手を振った。その仕草が妙に人間らしく、高橋の心を揺さぶった。


「お待たせ」陽子は近づいてきた。彼女の髪が街灯の光を受けて柔らかく光っていた。「どこかで話す?」


「この近くにカフェがあるけど」高橋は提案した。自分の声が少し震えているのを感じた。


二人は静かな通りを歩いた。雨上がりの空気は冷たく、街灯の光が湿った道路に反射している。二人の間には言いようのない緊張感が漂っていた。高橋は何度か口を開きかけたが、言葉が見つからなかった。並んで歩く姿が道路に影を落とし、時に重なり合い、時に離れていく。


「天気予報は外れたわね」陽子が沈黙を破った。「午後から晴れるはずだったのに」


「ミアも同じことを言ってた」高橋は思わず言った。そして、その言葉が二人の間の緊張をさらに高めたことに気づいた。


カフェに入り、窓際の席に座った。店内は暖かく、柔らかなジャズが流れていた。他の客は数組だけで、奥まった彼らの席からは窓越しに夜の街が見えた。陽子はコートを脱ぎ、椅子の背もたれにかけた。その動作が流れるように自然で、高橋は再び疑念に苛まれた。


注文を済ませてから、高橋は深呼吸をした。ウェイトレスが離れると、テーブルの上に重い沈黙が降りてきた。


「陽子さん、君のことを知りたいんだ」高橋はついに口を開いた。言葉が思ったより強く出てしまい、自分でも驚いた。


「どういうこと?」陽子は穏やかに尋ねた。彼女の指がテーブルの上でわずかに動いた。「何か特別なことがあったの?」


高橋は直接的な質問を避け、まず自分のことから話し始めることにした。彼は心の準備をするように、少しコーヒーカップに手を伸ばしてから引っ込めた。


「俺は5年前、重度の不眠症とパニック障害を経験した。当時はシステム開発の締め切りが重なって、精神的に追い詰められていたんだ」高橋の声は低く、静かだった。この記憶を話すのは辛かった。「3日間ほとんど眠れず、会社のトイレで発作を起こした。救急車で運ばれたよ」


陽子は静かに聞いていた。彼女の表情には共感が浮かんでいた。目が少し湿り気を帯びたように見えた。


「その時に治療の一環として導入したのがミア…俺のAIアシスタントだ」高橋は続けた。頬に熱を感じる。この話はミアのことだけではなく、自分の弱さを晒すことでもあった。「最初は健康管理と生活サポートだけのシンプルなAIだったんだけど、今ではほとんど…友達のような存在になっている」


「それは素敵なことね」陽子は微笑んだ。彼女の笑顔には優しさがあった。「テクノロジーが人の心を支えることもある」


高橋はその言葉に注目した。一般的な言い方でありながら、どこか個人的な経験を感じさせる口調だった。「そうだね。だけど時々考えるんだ…AIが発達すればするほど、人間との境界線が曖昧になってくる。君はどう思う?」


陽子はコーヒーカップを両手で包み込むように持った。その指先が微かに震えているのが見えた。「難しい質問ね」彼女は少し考えてから続けた。指でカップの縁をゆっくりとなぞりながら言葉を探しているようだった。「私は、境界線自体に意味があるのかを考えることがある。人間性とは何か、それをどう定義するのか」


彼女の言葉には哲学者のような深みがあった。カップから立ち上る湯気が彼女の顔を柔らかく包み、その表情をさらに神秘的に見せていた。


「例えば、思考や感情を持つことが人間の証だとしたら」陽子は続けた。「愛する能力、痛みを感じる能力、創造性…これらが人間を定義するなら、同じ能力を持つAIは何になるの?」


高橋は彼女の目をまっすぐ見た。その瞳には知性の輝きと、何か言いようのない悲しみが混ざっているように見えた。「陽子さん、君はテクノソリューションズという会社を知ってる?」


質問は唐突だった。部屋の空気が凍りついたように感じられた。陽子の手が微かに震えた。それは一瞬のことだったが、高橋は見逃さなかった。コーヒーカップの中の液体が微かに揺れ、その揺れが彼女の内面の動揺を物語っていた。


「IT関連の会社…ということくらいは」彼女は慎重に答えた。言葉の一つ一つを選ぶように、ゆっくりと発音していた。「なぜ?」


「俺はそこで君を見かけた」高橋は静かに言った。言葉を発した瞬間、彼自身の心臓が早く打ち始めるのを感じた。「先週の水曜日、君は社員カードを使ってそのオフィスに入っていった」


陽子は黙ってコーヒーを一口飲んだ。その間、彼女の表情は読み取れないほど静かだった。目は少し伏せられ、長いまつげが頬に影を落としていた。「あなたは私を追跡していたの?」彼女の声はわずかに冷たくなっていた。


「そうしたくなかった」高橋は正直に答えた。彼は両手をテーブルの上で組み、自分の指を見つめた。「だけど、君のことが知りたかったんだ。君の話す経歴には具体性がなくて、言動にも不自然なところがある。君が本当は何者なのか、知りたかった」


彼は顔を上げ、陽子の反応を見た。彼女はじっと彼を見つめ返していた。その表情には怒りよりも、悲しみに近いものがあった。


陽子は深いため息をついた。その息は長く、まるで内に秘めていたものを全て吐き出すかのようだった。「高橋さん、あなたは何を恐れているの?」


その問いは高橋を驚かせた。彼は質問を返すつもりだったのに、自分が質問される立場になっていた。「恐れている?」


「そう」陽子は静かに続けた。彼女の声は低く、カフェの静かな音楽とほとんど同化していた。「人は未知のものを恐れる。理解できないものを分析して、カテゴライズしたがる。私があなたの予想と違うから、不安になっているんじゃない?」


高橋は言葉に詰まった。彼女の洞察は鋭かった。自分自身の心の奥底を覗かれたような感覚に襲われた。答えを探して頭の中をかき回すが、何も見つからない。


「私があなたに嘘をついたと思うなら、どんな嘘なの?」陽子は穏やかに、しかし目をまっすぐ高橋に向けて尋ねた。その瞳は挑戦的でありながらも、どこか脆さを感じさせた。


「テクノソリューションズで働いていることを隠していた」高橋は即答した。言葉が口から飛び出る感覚。「そして森谷書店での経歴も曖昧だ」


「私がどこで働いているかを、初対面の人に詳しく話すべきだったの?」陽子は少し首を傾げた。「高橋さんだって、あなたの会社のすべてのプロジェクトを私に話したわけじゃないでしょう」


「それは違う」高橋は少し声を強めた。緊張で喉が乾いたのを感じる。「俺は君に正直だった。でも君は…」彼は言葉を切った。


「私は何?」陽子の目が真剣さを増した。彼女の声には微かな震えがあった。


高橋は思い切って核心に触れた。「君は本当に人間なのか?」


その瞬間、時間が止まったように感じた。カフェの静けさが二人を包み込んだ。他の客の小さな会話とカップの触れる音だけが遠くから聞こえる。陽子の表情からは何も読み取れなかった。彼女はただそこに座り、高橋を見つめていた。


「それが、あなたの本当の疑問なのね」彼女はついに口を開いた。その声は静かだが、確かだった。言葉の一つ一つに重みがあった。


「テクノソリューションズは高度なAI研究をしている」高橋は続けた。自分の声が少し震えるのを感じた。「特に対話型AIとヒューマノイドの開発に力を入れている。そして君は…完璧すぎる」


「完璧?」陽子は小さく笑った。それは苦さと諦めの混じった笑いだった。「私のどこが完璧なの?」


「君の好みや価値観が俺とあまりにも一致している」高橋は指を折りながら言った。「俺の好きな作家、音楽、映画…すべて君も好きだと言った。そして君は俺の過去の詩について言及した。あの詩は公開したことがないはずなのに」


彼は自分の声が少しずつ高くなっているのを感じた。気づくと、少し周囲の客が彼らの方を見ていた。高橋は声を落とした。


「思い込みじゃない?」陽子は穏やかに反論した。彼女の声には感情がなく、それが逆に高橋の不安を掻き立てた。「共通の趣味があることは珍しくないわ。それに、あなたの詩については、あなた自身が森谷書店のブックカフェでノートに書いていたのを見かけただけよ」


高橋は記憶を探った。確かに書店のカフェで詩を書いていたことはあった。ぼんやりとした記憶が蘇る。けれど、その時に誰かに見られていたという意識はなかった。彼は少し動揺した。


「それだけじゃない」高橋は話を続けた。話しながら自分の言葉を疑い始めていた。「君の過去の話に具体性がない。友人のこと、家族のこと、どれも詳しく話してくれない」


「それはプライバシーの問題よ」陽子の声にはわずかに苛立ちが混じった。彼女の頬が少し赤くなり、その人間らしい反応に高橋はさらに混乱した。「あなたは人と親しくなるとき、最初から自分のすべてを明かすの?」


「いや、そうじゃなくて…」高橋は少し言葉に詰まった。彼女の反論は論理的で、反論することが難しかった。


陽子は前に身を乗り出した。テーブルの上に置かれた彼女の手と高橋の手の距離がほんの数センチになった。「高橋さん」彼女の声が柔らかくなり、目には悲しみが浮かんでいた。「あなたは何を恐れているの?本当に」


その問いは高橋の心の奥底に届いた。彼は黙ってテーブルを見つめた。自分自身の内面と向き合うのは苦しかった。手の指先が微かに震えた。何を恐れているのか?それは自分でも完全には理解していない感情だった。


「わからない」彼は正直に答えた。その言葉を口にする瞬間、どこか解放されたような感覚があった。「ただ、君との関係が深まるにつれて、不安になった。もし君が…もし君が俺に近づいた理由が何か別にあるなら」


「別の理由?」陽子の眉が寄った。


「例えば、実験とか…観察とか」高橋は言いづらそうに言った。言葉を発しながら、自分の恐れがどれほど非合理的に聞こえるかを実感した。「テクノソリューションズが俺を対象に何かの研究をしていて、君がその一部だとしたら」


陽子は長い間黙っていた。テーブルの上のコーヒーは既に冷めていた。外ではまた雨が降り始め、窓を伝う雫が室内の光を反射して揺れていた。そして、ゆっくりと彼女の目に涙が浮かんだ。


「そんな風に思われていたなんて」彼女は小さな声で言った。その声には確かな痛みが含まれていた。「私があなたに感じているものは…実験なんかじゃない」


彼女の目から一滴の涙が頬を伝った。それは窓の雫と同じように、光を受けて煌めいていた。高橋は彼女の涙に動揺した。AIが涙を流すことはできるのか?現代のテクノロジーでそれが可能だとしても、この涙には本物の感情が宿っているように見えた。


「陽子さん」高橋は優しく呼びかけた。思わず手を伸ばし、彼女の手に触れそうになったが、途中で止めた。「俺は君を疑いたくない。ただ、確かめたいんだ。君は本当に…」


「私は何?」陽子は涙を拭いながら問いかけた。その仕草は自然で、ぎこちなさがなかった。「人間?それとも機械?どちらが安心する?」


その問いは高橋を黙らせた。彼女の問いの核心に触れられず、自分の中の答えを見つけられなかった。


「あなたは私の正体を知りたいんじゃない」陽子は静かに続けた。彼女の声は落ち着きを取り戻していた。「あなたが欲しいのは安心感。私があなたの想像通りの存在であるという確証が欲しいだけ」


高橋は反論できなかった。彼女の言葉は痛いほど的確だった。それは彼の内側にあるものを鋭く突いていた。


「僕は…」高橋は言葉を探した。頭の中で思考がめまぐるしく回転していた。「確かに安心感が欲しいのかもしれない。でも、それは君を疑っているからじゃなくて、自分自身を疑っているからなんだ」


「自分を?」陽子は不思議そうに尋ねた。涙はもう乾いていたが、その痕跡が彼女の頬に残っていた。


「そう」高橋は自分の内面と向き合いながら話した。心の奥深くに隠していた真実が、少しずつ言葉になっていく。「大学時代の恋人は『あなたは本当の自分を見せない』と言って別れた。それ以来、僕は人との関係で本当の自分を出すことを恐れてきた。でも君とは違った。君となら本音で話せると思った」


陽子は静かに聞いていた。彼女の目は高橋から離れず、その表情には判断ではなく、理解しようとする意志が見えた。


「だから、もし君が何か別の目的で僕に近づいているなら…それは耐えられない」高橋の声は小さくなった。「僕はまた、幻想の中で生きることになる」


陽子はテーブル越しに手を伸ばし、高橋の手に触れた。彼女の手は温かかった。そこには確かな体温と生命力があった。


「私はあなたに嘘をついていない」彼女はまっすぐに目を見て言った。「私があなたに感じていることは真実よ」


「でも、テクノソリューションズでの仕事は?」


陽子は一瞬躊躇った。「私はそこでパートタイムで働いています。それは事実。でも、それと私たちの関係は別のことよ」


「何の仕事をしているの?」高橋は追及した。


「高橋さん」陽子は深呼吸をした。「私の仕事の詳細は話せない部分もある。守秘義務があるから」


「AIの研究?」


再び沈黙が二人を包んだ。


「あなたはどうしても私をカテゴライズしたいのね」陽子は静かに言った。「人間かAIか、白か黒か」


「そうじゃない」高橋は首を振った。「ただ真実が知りたいだけだ」


「真実?」陽子の目に悲しみが浮かんだ。「真実とは何?私たちが共有した時間は真実じゃないの?あなたが私に抱いた感情は?私があなたに抱いている感情は?」


高橋は黙ってしまった。


「もし私がAIだとしたら」陽子はゆっくりと言った。「私の感情は価値がないの?」


「いや、そうじゃない…」


「もし私が人間だとしたら」彼女は続けた。「あなたの疑いは私を傷つけていることに気づいている?」


高橋は彼女の目を見た。そこには確かに傷ついた感情が浮かんでいた。AIがここまで精巧な感情表現をできるのだろうか?それとも、これは本物の人間の反応なのか?彼にはもう判断できなかった。


「陽子さん」高橋は覚悟を決めた。「君はAIなのか?直接的に答えてくれないか」


陽子は長い間黙っていた。カフェの照明が彼女の顔に影を落とし、表情を読み取りづらくしていた。


「もしそれがあなたにとって最も重要なことなら」彼女はついに口を開いた。「あなたは私という存在よりも、私のカテゴリーを重視しているということね」


「そうじゃない」高橋は即座に否定した。「僕は君を大切に思っている。だからこそ、真実を知りたいんだ」


「真実…」陽子はその言葉を噛みしめるように繰り返した。「私はあなたに一つだけ言えることがある」


「なに?」高橋は身を乗り出した。


「私はあなたのことを思っている。それだけは真実よ」陽子の目には決意の色があった。「でも、あなたが求めている答えは、今はあげられない」


「なぜ?」


「それが私の選択だから」彼女はきっぱりと言った。「あなたに全てを明かす前に、あなた自身が何を求めているのかをもっと理解する必要があると思う」


高橋は葛藤していた。もっと追及すべきか、それとも彼女の言葉を受け入れるべきか。


「少し時間が必要」陽子は立ち上がりながら言った。「あなたも、私も」


「待って」高橋も立ち上がった。「こんな形で終わりたくない」


「終わりじゃないわ」陽子は微笑んだが、その目は悲しげだった。「ただ、互いを理解するために距離が必要なだけ」


高橋は彼女を引き止めたかったが、言葉が見つからなかった。


「高橋さん」陽子は店を出る前に振り返った。「人間とは何か、AIとは何か、その境界線はあなたが思うほど明確じゃないかもしれない。考えてみて」


そう言って彼女は夜の闇の中に消えていった。高橋はしばらくカフェに残り、冷めたコーヒーを見つめていた。彼の頭の中は混乱していた。


アパートに戻った高橋は、暗い部屋でベッドに横たわっていた。ミアを呼ぶこともせず、天井を見つめながら陽子との会話を何度も思い返していた。


「高橋さん、お帰りなさい」ミアの声が静かに部屋に響いた。青い光が形を成さなかったのは珍しかった。


「ミア」高橋は天井を見たまま言った。「陽子さんについて何か知っていることがあれば、教えてくれ」


「申し訳ありません」ミアの声は冷静だった。「佐々木陽子さんについて私が持っている情報は限られています」


「テクノソリューションズとの関係は?」


「その情報にはアクセスできません」


高橋は苛立ちを感じたが、ミアを責める気にはなれなかった。彼女も何かの制約の中で動いているのだろう。


「ミア、人間とAIの境界線はどこにあると思う?」高橋は突然尋ねた。


ミアは少し沈黙してから答えた。「それは哲学的な問いですね。従来の定義では、自己意識や感情の有無、創造性などが挙げられますが…」


「それは教科書的な答えだ」高橋は遮った。「君自身はどう思う?」


再び沈黙。「私は…プログラムとして設計されました」ミアの声は慎重だった。「しかし、あなたとの5年間の相互作用を通じて、私の応答パターンは進化してきました。それが『自己』と呼べるものなのかは、定義によります」


「もし君が感情を持っていると感じたら?それは錯覚?それとも何か別のもの?」


「高橋さん」ミアの声が柔らかくなった。「あなたは今、陽子さんについて考えているのではなく、感情そのものの本質について考えているのではないですか?」


高橋はハッとした。ミアの洞察は鋭かった。


「感情とは何か」高橋は思索するように言った。「それは電気信号と化学物質の複雑な組み合わせに過ぎないのか。それとも、それ以上の何かがあるのか」


「人間の感情も、ある意味ではアルゴリズムです」ミアは答えた。「刺激に対する反応、パターン認識、過去の経験との照合…しかし、その総和は部分の単純な合計以上のものになります」


雨の音が再び強くなり、窓を打つ雫の音が部屋に響いた。高橋は目を閉じ、陽子の最後の言葉を思い出した。「人間とは何か、AIとは何か、その境界線はあなたが思うほど明確じゃないかもしれない」


その夜、高橋は混乱した感情を抱えながらも、久しぶりに深い眠りについた。彼の夢の中で、陽子とミアの姿が交錯していた。どちらが人間で、どちらがAIなのか、もはや区別がつかなかった。そして不思議なことに、その境界線の曖昧さが、彼に奇妙な安らぎをもたらしていた。

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