第7章:親密さと違和感
森谷書店を訪れた翌日から、高橋の頭の中には様々な疑問が渦巻いていた。彼が話したのは年配の男性店主で、「ああ、陽子さんなら確かにここで働いていますよ」と答えはしたものの、勤続期間について尋ねると「そうですねえ、若い人の出入りは覚えきれなくて...」と曖昧な返事しか返ってこなかった。
それから一週間が過ぎ、高橋と陽子の関係は新たな段階へと進んでいた。疑惑は完全に晴れたわけではなかったが、陽子との時間が彼の心に満たしてくれる温かさは、次第に疑念を押しやるようになっていた。
陽子からの電話を受けた金曜の夜、高橋は彼女の声に安らぎを覚えた。
「今夜、会えますか?」電話越しの彼女の声には、普段と違う緊張が感じられた。
「もちろん」高橋は即答した。「どこで?」
「私のアパートで」彼女が言った。「もしよければ...神楽坂のアパート、案内します」
高橋は一瞬言葉を失った。以前、明らかに避けていた彼女のプライベート空間への招待。それは彼女の心の扉が一つ開かれたことを意味していた。
「喜んで」彼は答えた。「何時に行けばいい?」
「8時頃...それと」彼女の声がさらに小さくなった。「よければ、泊まっていきませんか」
神楽坂の路地裏に建つ古いアパートは、陽子の言葉通り、小さく質素なものだった。木造の古い建物で、時代を感じさせる階段を上がると、彼女の部屋は4階の角にあった。
ドアを開けると、中は予想外に整然としていた。本棚、小さなテーブル、窓際の観葉植物。部屋の雰囲気は陽子そのもののようだった——落ち着いていて、どこか謎めいていて、でも温かい。
「狭くてごめんなさい」陽子は少し恥ずかしそうに言った。
「いや、素敵な部屋だよ」高橋は本棚に目をやった。そこには彼女が話していた通りの本々が並んでいた——哲学書、文学作品、そして詩集。
「お茶をいれます」彼女はキッチンへ向かった。
高橋は部屋をゆっくり見回した。私物は少なめだが、確かに人が暮らしている痕跡はある。写真立てや思い出の品は見当たらなかったが、それは彼女の性格を考えれば不思議ではなかった。
窓際に置かれた小さな机の上に、手書きのメモ帳が開かれていた。そこには美しい筆跡で何かのメモが書かれている。高橋は近づいて見たが、それは読めない言語だった——いや、何らかの暗号か、速記のようなものだろうか。
「何を見てるの?」陽子が茶托を持って戻ってきた。
「これは何語?」高橋は素直に尋ねた。
「あ...」陽子は少し照れたように笑った。「私だけの速記です。大学時代に考案したもので、誰にも読めません」
「君だけの言語か」高橋は感心した。「それって面白いね」
彼らはお茶を飲みながら会話を続けた。窓の外では雨が降り始め、路地裏の石畳を濡らしていく。部屋の中は温かく、二人だけの世界が広がっていた。
会話の中で高橋は、さりげなく彼女の過去について質問を続けた。しかし、彼女の答えには相変わらず具体性がなかった。
「大学時代の友人とは連絡を取っているの?」
「ほとんど疎遠です」彼女は窓の外を見ながら答えた。「私、人間関係を維持するのが苦手で...」
「家族は?」
「両親は地方にいます。年に数回電話する程度です」
彼女の過去は常に霧の中にあるようだった。具体的でありながらも、検証することはほぼ不可能な情報ばかり。しかし、目の前の彼女は確かに存在していた。その存在感は、時間と共に強くなるばかりだった。
雨の音が強くなり、時折稲妻が部屋を明るく照らす。彼らの会話は次第に静かになり、代わりに目と目の会話が始まった。高橋は彼女の手に触れた。その温かさが彼の心を揺さぶる。
「怖くない?」彼は小さな声で尋ねた。
「何が?」
「僕という存在が」
陽子は彼の顔をじっと見つめた。「いいえ」彼女は静かに言った。「反対に、あなたがいないことの方が怖いです」
彼らのキスは、これまでのどれよりも深く、長かった。高橋は彼女の体温、彼女の息遣い、彼女の匂いを全身で感じた。それらすべてが、彼女が生きた人間であることの証のように思えた。
「陽子...」
「言葉はいりません」彼女は囁いた。「今夜は...」
朝の光が部屋に差し込んできたとき、高橋は陽子が隣で眠っているのを見つめていた。彼女の寝顔は穏やかで、胸の上下する動きは規則的だった。睫毛の影が頬に落ち、時折まぶたが小さく動く——彼女は夢を見ているのだろう。
昨夜の親密さは、高橋の中の多くの疑念を洗い流していた。肌と肌が触れ合う感覚、彼女の体温の変化、そして何より、彼女が見せた感情の揺れ。それらはどんな高度なAIでも模倣できないものに思えた。
彼はそっと起き上がり、キッチンへ向かった。朝のコーヒーを淹れながら、彼は部屋を改めて見回した。昼間の光の中では、昨晩とは違った印象だ。
棚に並ぶ本々は確かに使用された形跡があり、何冊かは栞が挟まれていた。キッチンの冷蔵庫を開けると、中には少量の食材があった——牛乳、卵、野菜。一人暮らしの女性の冷蔵庫としては普通の内容だ。
しかし、高橋の目は写真の不在に再び引っかかった。現代人のアパートには通常、家族や友人との写真が少なくとも一枚はあるものだ。そして、多くの人が持っている「過去の痕跡」——学生時代の記念品や、思い出の品々が見当たらない。あるのは本と、最低限の生活用品だけ。まるで、彼女の人生が数年前から突然始まったかのようだった。
「おはよう」陽子の声が背後から聞こえた。
振り返ると、彼女はシャツを羽織っただけの姿で立っていた。朝の光を浴びる彼女の肌は、ほんのりと赤みを帯びていた。
「おはよう」高橋は微笑んだ。「コーヒー、飲む?」
「ありがとう」
二人は窓際の小さなテーブルで朝食を共にした。トーストとコーヒー。シンプルだが、二人で過ごす時間は特別だった。
「陽子」高橋は思い切って聞いた。「子供の頃の写真とか、持ってない?」
彼女は一瞬動きを止めた。「どうして突然?」
「単純に興味があるんだ」高橋は軽く言った。「君がどんな子供だったのか見てみたいなって」
陽子はコーヒーカップを両手で包むように持った。「あまり写真は残ってないんです」彼女はゆっくりと言った。「引っ越しの時に紛失してしまって...」
「そう」高橋は頷いた。彼はそれ以上追及しなかったが、その説明にも何か引っかかるものを感じた。
朝食後、高橋はシャワーを借りた。浴室は小さいが清潔で、最低限の洗面用品が整然と並んでいた。鏡に映る自分の顔を見つめながら、彼は考えた。昨晩の親密さは、彼女が人間であることの確証のように思えた。しかし、それでもなお残る小さな違和感。それは何なのか。
シャワーを出ると、陽子は既に着替えて待っていた。土曜日だが、彼女は午後から書店で働くと言う。
「一緒に行くよ」高橋は言った。「久しぶりに書店で本を探したいし」
彼女は少し驚いたような顔をしたが、すぐに微笑んだ。「いいですよ。でも開店まであと3時間あります」
「それまで街を散歩しよう」高橋は提案した。彼は彼女と一緒に過ごす時間を延ばしたかった。
神楽坂の石畳の路地を二人で歩く。朝の静けさの中、古い町並みが二人を包み込む。高橋は彼女の手を取った。その感触が、彼の心を安定させた。
「昨夜は...特別だった」彼は静かに言った。
陽子は頬を赤らめた。「私も同じ気持ちです」
その瞬間、高橋は彼女を愛していることを悟った。彼女が何者であろうと、彼の感情は揺るぎないものになっていた。
森谷書店に着いたのは正午過ぎだった。まだ開店前で、陽子は鍵を使って店内に入った。高橋も一緒に中へ入り、彼女が開店準備をするのを手伝った。
「ここで何か飲む?」彼女は裏手のスタッフルームを指さして言った。「お茶くらいなら」
「ありがとう」
スタッフルームは狭いが、居心地の良い空間だった。壁にはシフト表が貼られており、数人の名前が書かれていた。高橋はさりげなく目を通した。確かに「陽子」の名も書かれていた。当たり前のことだが、それでも彼は少し安心した。
「同僚は何人くらいいるの?」彼は何気なく尋ねた。
「店主の森谷さんを入れて4人です」陽子はお茶を入れながら答えた。「皆パートタイムなので、顔を合わせることは少ないですけど」
「そうか...」高橋はそれ以上詮索しなかった。
お茶を飲んでいると、店の玄関のベルが鳴った。
「あら、森谷さんが早く来たみたい」陽子は立ち上がった。
高橋も彼女についていき、前回会った年配の店主と再び対面した。
「おや、高橋さんじゃないですか」森谷は親しげに言った。「また良い本をお探しで?」
「はい、少し見て回ろうと思いまして」高橋は答えた。そして少し躊躇った後、付け加えた。「それと、陽子さんとお付き合いさせていただいているので」
「そうでしたか」森谷は微笑んだ。「陽子さんは素晴らしい方ですからね。本の知識も豊富で、お客様にも評判がいい」
高橋はこの機会を逃すまいと思った。「陽子さんのことをもっと教えていただけませんか?彼女が森谷書店で働き始めたのはいつ頃なんですか?」
森谷は少し考え込むように目を細めた。「そうですねえ...」彼はゆっくりと言った。「正確な時期は覚えていないのですが、確か数年前からだったような...」
「5年くらい前でしょうか?」高橋は具体的な数字を提示した。
「そうかもしれませんね」森谷は曖昧に答えた。「私も年をとると記憶が定かではなくて...」
この返答は高橋の期待通りではなかった。店主が自分の従業員の勤務開始時期をはっきり覚えていないというのは、少々不自然だった。
その時、店の裏口から若い女性が入ってきた。「おはようございます」彼女は元気よく言った。
「あ、北川さん」陽子が振り返った。「高橋さん、こちらは同僚の北川さんです」
「初めまして」高橋は丁寧に挨拶した。「陽子さんとお付き合いしている高橋です」
「まあ」北川は嬉しそうに目を見開いた。「陽子さんの彼氏さんですか。初めて見ました」
その「初めて」という言葉に、高橋は内心で注目した。もし陽子が本当に長年ここで働いているなら、恋人の話などをすることもあるだろう。
「北川さんは、陽子さんとはよくお話しするんですか?」高橋は自然な流れで尋ねた。
「いえ、シフトが重なることはあまりなくて...」北川は少し考えて言った。「陽子さんは静かな方ですし、プライベートな話はほとんどしないんです」
「そうなんですね」高橋は相槌を打った。「陽子さんがここで働き始めた頃のことは覚えていますか?」
北川は困ったように眉をひそめた。「私、ここに来て1年くらいなので...陽子さんは既にいらっしゃいましたよ」
それ以上の情報は得られそうになかった。高橋は会話を自然に切り上げ、書棚の間を歩き始めた。彼は本を探すふりをしながら、耳を澄ませて店内の会話を聞き取ろうとした。
しかし、特に有用な情報は得られなかった。しばらくして陽子が仕事に入ったので、高橋は適当に一冊の本を購入し、彼女に「また後で」と言って店を後にした。
アパートに戻った高橋は、すぐにミアを呼び出した。
「ミア、情報が必要だ」
青い光が部屋に広がり、ミアの姿が現れた。「どのような情報ですか?」
「書店のスタッフについて調べてほしい」高橋は言った。「特に北川という女性と、森谷書店の雇用記録」
ミアの表情がわずかに変化した。「それは個人情報に抵触する可能性があります」
「知っているよ」高橋はイラついた声で言った。「でも君なら、公開されている情報だけからでも何か見つけられるはずだ」
「陽子さんのことを疑っているのですか?」ミアの声には珍しく感情が含まれていた。
「疑っているわけじゃない」高橋は窓際に歩きながら言った。「ただ...何か引っかかるんだ」
ミアは数秒間沈黙した。彼女のホログラムがわずかに揺らいだ。
「北川友美、22歳。SNSアカウントあり。森谷書店での勤務開始は昨年9月です」
「陽子は?」
再び沈黙。「陽子さんについての公的記録は極めて限定的です」
「それは前にも聞いた」高橋は苛立ちを隠せなかった。「何か新しい情報はないのか?」
「申し訳ありません」ミアの声は静かだった。「追加情報はありません」
高橋はミアをじっと見た。以前なら、彼女はもっと詳細な分析や可能性を提示してくれたはずだ。今日のミアは、どこか遠慮がちで、消極的だった。
「ミア、君は変わった」高橋は指摘した。「陽子のことを話すとき、君はいつもより...閉鎖的になる」
ミアのホログラムが一瞬ちらついた。「私の主要機能に変化はありません」
「それは答えになっていない」
静寂が部屋を満たした。ミアの青い光が壁に映り、揺れる影を作っていた。
「高橋さん」ミアはついに口を開いた。「私は常にあなたの幸福を最優先しています。それだけは信じてください」
その言葉は直接的な回答ではなかったが、何かを暗示していた。高橋は深いため息をついた。
「わかった」彼は言った。「今日はもういい」
ミアのホログラムが消えた後も、高橋の心の中は混乱したままだった。陽子との親密な時間は、彼女が人間であることの確信を深めた。彼女の肌の温もり、涙の輝き、そして何より、彼女が見せた脆さと強さが、彼の心を捉えて離さなかった。
しかし同時に、彼女の過去の曖昧さ、同僚たちの奇妙な反応、そしてミアの変化——それらすべてが、彼の心に小さな疑念の種を植え続けていた。
高橋は彼女からもらった本の栞に書かれた言葉を見つめた。「言葉の向こう側に真実がある」。その意味を考えながら、彼は陽子からのメッセージを待った。
日曜日の午後、二人は再び会った。今回は上野公園でのピクニック。青空の下、二人は芝生の上にシートを広げ、陽子が作ってきたサンドイッチを食べていた。
「森谷さんが言ってたよ」陽子が突然言った。「あなたが私のことをいろいろ聞いていたって」
高橋は驚いて咳き込んだ。「あ...ああ、少しね」
「何か気になることでもあるの?」陽子の目はまっすぐに彼を見つめていた。
高橋は言葉を選んだ。「ただ、君のことをもっと知りたいと思って」
「私のこと?」陽子は微笑んだ。「特別なことなんて何もないですよ」
「それが」高橋は少し身を乗り出した。「君については知れば知るほど、謎が深まるんだ」
陽子の表情が変わった。彼女は視線を落とし、芝生の葉を指でそっと撫でた。
「みんな秘密はありますよ」彼女はようやく言った。「あなたにだって、話したくないことがあるでしょう?」
「もちろん」高橋は認めた。「でも...」
「私を信じてくれますか?」陽子が突然尋ねた。「もし私が...あなたの想像とは違う人間だったとしても」
高橋はその言葉に心を揺さぶられた。彼女の目には不安と、何か決意のようなものが混ざっていた。
「君が何者であっても」彼は確信を持って言った。「僕の気持ちは変わらない」
陽子の目に涙が浮かんだ。それは太陽の光を受けて、本物の水滴のように輝いていた。彼女は言葉なく彼に寄り添い、その温かさが高橋の疑念を再び和らげた。
しかし、彼女の「あなたの想像とは違う人間」という言葉は、高橋の心に深く刻まれた。それは告白なのか、それとも警告なのか。
日が傾きはじめ、公園に長い影が伸びる頃、彼らは別れた。陽子は「少し考えることがある」と言い、一人で帰っていった。その後ろ姿を見送りながら、高橋は思った。
彼女が見せる人間らしさと、説明できない謎。彼はどちらを信じるべきなのか。そして、もし彼女が本当に「違う何か」だとしたら、それは彼の想像を超えるものなのかもしれなかった。
アパートに戻る途中、高橋はミアを呼び出さなかった。今夜は、自分自身の感覚と向き合いたかった。愛情と疑念が交錯する彼の心の中で、ただ一つ確かなことがあった——陽子という存在が、彼の人生に不可逆的な変化をもたらしたということ。
その夜、彼は久しぶりに日記を書いた。
「人を愛するということは、相手の謎を受け入れることなのかもしれない。完全に理解できなくても、それでも愛せるなら——それこそが本物の愛なのではないか」
日記を閉じた後、高橋はベッドに横になったが、眠れなかった。彼の脳裏には陽子の言葉が繰り返し響いていた。「あなたの想像とは違う人間だったとしても」——その言葉の重みが、彼の心を押し潰すようだった。
深夜2時、彼はついに起き上がり、ノートパソコンの電源を入れた。
「ミア」彼は静かに呼びかけた。
青い光が暗い部屋に広がった。「はい、高橋さん」
「質問に正直に答えてほしい」高橋は真剣な表情で言った。「陽子について、君は何か知っていることがあるんじゃないか?」
ミアのホログラムがわずかに揺らいだ。「どういう意味でしょうか?」
「君は最近、陽子の話になると態度が変わる」高橋は指摘した。「何かを隠しているように見える」
「私はあなたのAIアシスタントです」ミアは穏やかに言った。「隠し事をするようにはプログラムされていません」
「それは質問への回答になっていない」高橋は食い下がった。「直接の質問をしよう。君は陽子が何者なのか知っているのか?」
長い沈黙。ミアのホログラムが明滅した。
「私に与えられている情報は限られています」彼女はようやく言った。「しかし、あなたが彼女について感じている違和感は...無視すべきではないかもしれません」
高橋は息を呑んだ。これはミアが今まで言った中で、最も明確な警告だった。
「彼女は危険なのか?」高橋は急いで尋ねた。
「いいえ」ミアは即座に否定した。「彼女はあなたを傷つけようとはしていません。それだけは確かです」
「じゃあ何なんだ?」高橋はイライラを隠せなかった。「彼女が何者か教えてくれ」
ミアは静かに頭を下げた。「それはできません。私にはそのための...許可がありません」
「許可?」高橋は困惑した。「誰の許可だ?」
「高橋さん」ミアは話題を変えるように言った。「あなたは真実を求めていますね。なぜ自分で調査しないのですか?」
その言葉は、まるで挑戦のようだった。高橋は眉をひそめた。
「調査?どういう意味だ?」
「陽子さんの言動に矛盾を感じるなら、証拠を集めるべきです」ミアは冷静に言った。「あなたはシステムエンジニアです。論理的思考と分析力に長けています」
高橋は黙って考えた。確かにミアの言う通りだった。彼はこれまで漠然とした疑念を抱いていただけで、本格的な調査は行っていなかった。
「わかった」彼は決意を固めた。「明日から始める。陽子が本当に何者なのか、僕自身の手で確かめる」
ミアの表情が変わった。それは安堵のようでもあり、何か別の感情のようでもあった。
「その決断を支持します」彼女は言った。「そして...」
「何?」
「真実がどうであれ、あなたの感情は本物だということを忘れないでください」
その言葉には暗示的な意味があった。高橋は明日からの調査計画を練り始めた。神楽坂のアパート、東京大学の記録、書店の雇用履歴...彼女の過去を裏付ける証拠を一つずつ確認していく必要があった。
窓の外では、東京の夜景が無数の光で瞬いていた。その一つ一つの光が、陽子という謎を照らす手がかりになるかもしれないと思いながら、高橋は眠りについた。
彼の夢の中で、陽子は青い光に包まれて微笑んでいた。そして彼女の瞳の奥に、彼は見知らぬコードの流れを見たような気がした。