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それはAIですか?  作者: sky
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第6章:疑惑の始まり

オフィスの蛍光灯が、高橋の頭上で微かに音を立てて明滅していた。コードを書き続けて5時間、彼の目は疲れを訴えていた。キーボードから手を離し、首を回して緊張をほぐす。休憩室に向かう途中、同僚の鈴木と鉢合わせた。


「おう、高橋」鈴木は珍しく親しげな声で言った。「最近、顔色いいじゃないか」


高橋は苦笑した。鈴木とは入社同期だが、これまで特に親しいわけではなかった。互いの仕事を尊重する程度の、専門家同士の距離感があった。


「そうかな」高橋は曖昧に答えた。


「そうさ」鈴木はコーヒーメーカーにカプセルをセットしながら言った。「前までの死んだ魚みたいな目じゃなくなった。何かあったのか?」


高橋はカップに湯を注ぎながら考えた。彼と陽子の関係を、どこまで話すべきか。


「まあ、少し」と彼は控えめに言った。


「女か?」鈴木の直球に、高橋は思わず湯をこぼしかけた。「当たりか。誰だよ?」


「ただの知り合いだよ」高橋はごまかそうとした。「書店で会った人で...」


「ほう」鈴木は興味を持ったようだった。「どんな子だ?写真見せろよ」


「写真は...」高橋は言いよどんだ。確かに、彼の携帯には陽子の写真が一枚もなかった。二人でいるときに撮影することを考えたことすらなかった。「まだ撮ってないんだ」


「へえ?今どき珍しいな」鈴木は眉を上げた。「名前は?」


「陽子。森谷書店で働いてる」


鈴木は何か思い出すように目を細めた。「森谷...ああ、神保町のあの古書店か。行ったことがある。でもそんな子、見かけた記憶がないな」


「彼女は最近入ったみたいだよ」高橋は言った。そう言いながら、陽子が「5年ほど働いている」と言っていたことを思い出した。しかし、この矛盾を鈴木に指摘する理由はなかった。


「で、どんな子なんだよ」鈴木はしつこく尋ねた。「性格とか、趣味とか」


高橋はため息をついた。鈴木の興味は、単なる同僚の好奇心を超えているように思えた。


「穏やかで知的な人だよ。文学や音楽が好きで、特に三島由紀夫とか...」


「ショスタコーヴィチとかも?」鈴木が不意に言った。高橋は驚いて鈴木を見た。


「どうして分かったんだ?」


鈴木は肩をすくめた。「おまえの机の引き出しにはいつもショスタコーヴィチのCDが入ってる。恋愛中の男は女に自分の好きなものを押し付けたがるものさ」


「押し付けたわけじゃない」高橋は少し苛立って言った。「彼女も元から好きで...」


「おいおい」鈴木が笑った。「それって少し怪しくないか?おまえの好みと完全に一致する女性が、偶然書店にいて、偶然出会って...」彼は冗談めかして言った。「完璧すぎる女は幽霊かAIだぞ」


高橋の胸に不快な感覚が広がった。鈴木の言葉が、彼自身の抱いていた微かな違和感に触れたからだ。


「馬鹿なこと言うな」高橋は笑顔を作って言った。「単に趣味が合っただけだよ」


「まあな」鈴木は肩をすくめた。「ただ、あまりにも完璧な出会いってのは、後で何か落とし穴があるもんだ。俺の経験則だが」


「君の女性遍歴は参考にならないよ」高橋は皮肉っぽく言った。


鈴木は大げさに胸を押さえた。「痛いところを突くな。俺だって真剣に探してるんだ、運命の相手をさ」


二人は休憩室を出て、それぞれの席に戻った。しかし、鈴木の言葉は高橋の心に引っかかっていた。


「完璧すぎる女は幽霊かAI」


その晩、高橋はノートパソコンを開いた。ミアのホログラムは現れていなかったが、彼女が見守っていることを知っていた。


「ミア」高橋は呼びかけた。「少し調べものをしたいんだ」


青い光が集まり、ミアの姿が現れた。「どのようなことでしょう?」


「陽子さんについて」高橋は静かに言った。「彼女のことをもっと知りたい」


ミアの表情がわずかに変化した。それは懸念とも、警戒とも取れる微妙な表情だった。


「どのような情報をお探しですか?」


「一般的なこと。経歴とか、SNSのアカウントとか...」高橋は躊躇いながら言った。「変に思わないでくれ。単に彼女のことをもっと知りたいだけなんだ」


「理解しています」ミアの声は冷静だった。「検索を開始します」


高橋は検索窓に「森谷書店 陽子」と入力した。最初に出てきたのは書店自体の情報だった。確かに老舗の古書店として評判はあるようだったが、スタッフについての情報はほとんどなかった。


「Facebook、Twitter、Instagramなど、主要SNSで検索しますか?」ミアが提案した。


「うん、頼む」


ミアの処理は通常のインターネット検索より広範囲に及ぶ。各種SNSプラットフォームを自動的にスキャンし、可能性のある一致を探すアルゴリズムが作動する。結果が表示されるまでの数十秒、高橋は呼吸を止めていた。


「検索結果をお知らせします」ミアが言った。「一致するプロフィールは極めて限定的です」


画面に数少ない結果が表示された。同姓同名の「陽子」は多数いるが、書店員であり、高橋の知る陽子の特徴と一致する人物のプロフィールは見つからなかった。


「これは...珍しいな」高橋は眉をひそめた。「今どき、デジタルフットプリントがほとんどない人なんて」


「可能性としていくつか考えられます」ミアは分析モードで話し始めた。「第一に、彼女がプライバシーを非常に重視している可能性。第二に、別名でSNSを使用している可能性。第三に...」


「第三に?」


「デジタル・アイデンティティが最近作成されたか、または存在しない可能性」ミアはニュートラルな声で言った。


高橋は椅子に深く沈み込んだ。ミアの第三の可能性は、陽子がAIであるという仮説に近いものだった。しかし、彼はその考えを振り払おうとした。


「彼女が単にSNSが嫌いなだけかもしれない」高橋は言った。「僕だって、アカウントは持ってるけどほとんど使ってないし」


「それも十分ありえます」ミアは同意した。「現代社会でデジタルプレゼンスが限られている人は少数派ですが、存在します。特に特定の職業や年齢層では」


高橋は検索を続けた。「森谷書店 スタッフ」「東京 書店員 陽子」など、様々なキーワードを試したが、有用な情報は得られなかった。


「学術的なデータベースも検索してみましょうか?」ミアが提案した。「彼女が大学で哲学を学んでいたとおっしゃっていましたね」


「そうだね」高橋は頷いた。


ミアは学術論文のデータベースにアクセスした。哲学系の論文で「陽子」という著者や謝辞に名前が出てくる可能性を探った。しかし、ここでも決定的な情報は得られなかった。


「これは...」高橋は言葉を失った。


「過度の憶測は避けるべきです」ミアは冷静に言った。「情報がないことと、存在しないことは別です」


高橋はパソコンの画面を閉じた。部屋が暗くなり、ミアの青い光だけが彼の顔を照らしていた。


「ミア、彼女を食事に招待しようと思うんだ」高橋は突然言った。「僕のアパートで」


「素晴らしいアイデアです」ミアは即座に答えた。「彼女をより親密な環境でお迎えすることで、新たな側面を発見できるかもしれません」


「そう、それに...」高橋は躊躇いながら続けた。「彼女が、その、リアルな人間かどうかを確かめる方法にもなるし」


「どのような意味でしょうか?」ミアの声には警戒が含まれていた。


「いや、変な意味じゃなくて」高橋は慌てて言った。「食事をする様子とか、生活習慣とか...そういうのは偽装しづらいだろうから」


ミアはしばらく黙っていた。彼女の姿が微かに揺らいだ。


「陽子さんに対する疑念をお持ちですか?」


高橋は手で顔をこすった。「疑念というか...単に彼女のことをもっと知りたいんだ。彼女が何者であるかを」


「理解しました」ミアの声は優しくなった。「私からの提案ですが、食事に招待するなら、ご自身で料理をされてはいかがでしょう?」


「僕が?」高橋は驚いた。「でも、料理なんて...」


「私がお手伝いします」ミアは微笑んだ。「簡単で印象的なメニューを選びましょう。手作りの食事は誠意を示す最良の方法です」


高橋は考えた。確かに、手料理は特別な感情を伝える方法だ。そして、彼自身の手で作った食事を陽子がどう食べるかを観察することで、何か手がかりが得られるかもしれない。


「分かった、やってみよう」彼は決意を固めた。「彼女の好みに合わせたメニューを考えてくれるかな」


「喜んで」ミアの目が輝いた。「すでにいくつかのアイデアがあります」


二日後、高橋は職場から早めに帰宅した。ミアの指導の下、彼は初めて本格的な料理に挑戦していた。メニューは比較的シンプルだが印象的なもの——サーモンのソテー、季節の野菜のグリル、そしてリゾット。


「油を熱しすぎないでください」ミアはホログラムで料理の様子を見守りながら指示した。「サーモンは弱火で、皮目からゆっくりと」


高橋は緊張した手つきでフライパンを扱っていた。料理の経験がほとんどなかった彼にとって、この作業は新しいプログラミング言語を学ぶようなものだった——理論は理解できても、実践は別物だ。


「少し斜めに押さえてください。そう、完璧です」ミアが微笑みながら言った。彼女の青い光が台所全体に柔らかく広がり、独特の親密な空間を作り出していた。


「本当にこれでうまくいくのか?」高橋は不安そうに言った。サーモンの皮がパリッと音を立て、部屋に香ばしい匂いが広がった。


「あなたは驚くほど器用です」ミアの褒め言葉に、高橋は少し顔を赤らめた。「プログラミングと料理は似ています。正確さと直感の両方が必要なのです」


玄関のインターホンが鳴り、高橋は思わずフライパンを落としかけた。


「彼女です」ミアは静かに言った。「私はバックグラウンドモードに移行します」


「えっ、ミア、待って...」


しかし、ミアのホログラムはすでに消えていた。彼女の存在は薄れたが、完全には消えていない——部屋の隅々で微かな青い光のかすかな痕跡が残っていた。高橋にはそれが見えた。彼女は見守っている。


彼は慌ててエプロンを外し、髪を整えた。深呼吸してから玄関へ向かった。


ドアを開けると、陽子が立っていた。彼女は白いブラウスと紺色のスカートという、いつもの書店での服装よりもやや改まった服を着ていた。手には小さな紙袋を持っている。


「こんばんは」彼女は微笑んだ。その表情には人間らしい緊張と期待が混ざっていた。「お邪魔します」


「いらっしゃい」高橋は彼女を部屋に招き入れた。「何か持ってきてくれたの?」


「ワインです」陽子は紙袋から瓶を取り出した。「あなたの好みかわからなかったのですが...」


ラベルを見て、高橋は驚いた。それは彼が特に好きな産地のものだった。またしても彼女は彼の好みを見事に言い当てていた。


「よく分かったね」彼は言った。「このワイン、大好きなんだ」


「そうですか?」陽子は嬉しそうに、しかし少し驚いた様子で言った。「書店の近くにあるワインショップの人が勧めてくれたんです。偶然ですね」


高橋はその説明に少し安堵した。単なる偶然か、あるいは親切なワインショップの店員の勘が良かっただけだ。


「台所から何か素敵な匂いがしますね」陽子は部屋を見回しながら言った。「料理してるんですか?」


「ああ、初めての挑戦なんだ」高橋は少し照れながら言った。「まだ完成してないけど...一緒に仕上げない?」


二人は台所へと向かった。高橋がワインを開け、グラスに注ぎながら、陽子は料理の様子を見ていた。


「手伝わせてください」彼女は申し出た。「何をすればいいですか?」


「リゾットをかき混ぜてくれるかな」高橋は言った。「絶えず動かし続ける必要があるんだ」


陽子は鍋に向かい、木製のスプーンでリゾットをゆっくりと混ぜ始めた。その手つきは慣れたものだった。高橋は彼女の横顔を観察した。集中する彼女の表情、湯気で少し湿った前髪、そして何より、料理する彼女の姿の自然さ。それらはすべて、生きた人間の証のように思えた。


「料理、よくするの?」高橋は尋ねた。


「たまにです」陽子は鍋から目を離さずに答えた。「一人暮らしですから、基本的なことはできます。でも、特別な才能があるわけではありません」


「どのくらい一人暮らしを?」


「大学卒業してからずっとですね」彼女は言った。「もう...6年になります」


高橋はその情報を心に留めた。彼女は28歳と言っていたから、大学は22歳で卒業したことになる。一般的なタイムラインではある。


二人は協力して料理を完成させた。サーモンをプレートに盛り付け、リゾットを添え、グリルした野菜を彩りよく配置する。ワインを飲みながらの作業は、思ったより楽しかった。時折、彼らの手が触れ合い、お互いに微笑みを交わす。高橋はそんな瞬間に、彼女の存在の確かさを感じた。


「では、乾杯しましょう」食卓に着いたとき、陽子はグラスを持ち上げた。「素敵な夜に」


「素敵な夜に」高橋も言い、グラスを軽く合わせた。


彼らは食事を始めた。高橋は注意深く陽子を観察していた。彼女の食べ方、箸の持ち方、口に運ぶ仕草、そして味わう表情。すべてが自然で、人間らしかった。


「美味しい」陽子は驚いたように言った。「初めてとは思えないくらい」


「ありがとう」高橋は笑った。「でも、正直に言うと、ちょっと助けを借りたんだ」


「助け?」


「うん...」高橋は少し躊躇った。「AIアシスタントのミアに。彼女がレシピを提案してくれて、手順も教えてくれたんだ」


「なるほど」陽子はワインを飲みながら言った。「彼女はとても有能なんですね」


「彼女のおかげで、僕の生活は大きく変わったよ」高橋は正直に言った。「5年前から一緒にいるんだ」


「5年...長いですね」陽子は何か考え込むように言った。「彼女に名前を付けたんですか?それとも最初から『ミア』だったんですか?」


「最初からだよ」高橋は答えた。「M.I.A.——『My Intelligent Assistant』の略なんだけど、僕はそのままミアと呼んでる」


陽子はサーモンを一切れ口に運んだ。彼女が噛むと、皮のパリッとした音が微かに聞こえた。


「彼女は...友達ですか?それとも道具ですか?」陽子の問いは率直だった。


高橋はその問いに考え込んだ。「最初は道具だった。でも今は...」彼は言葉を探した。「友達であり、同僚であり、時には僕自身の一部のようにも感じる」


「興味深いですね」陽子は静かに言った。「人とAIの境界が曖昧になっていく感じが...」


「君はどう思う?」高橋は尋ねた。「AIが人間の友達や、もっと親密な存在になり得ると思う?」


陽子はワイングラスを手に取り、光に透かすように見つめた。赤ワインが彼女の白い指に赤い影を落としていた。


「私は...可能だと思います」彼女はゆっくりと言った。「でも、それが本当の関係と同じかどうかは別の問題です。真の相互理解があるのか、それとも単に相互理解のシミュレーションなのか...」


その言葉は高橋の心に響いた。彼自身、ミアとの関係について同じことを考えていたからだ。


「ところで」高橋は話題を変えようと言った。「君の大学時代の話をもっと聞かせてもらえないかな。哲学を専攻してたんだよね?」


「ええ」陽子は頷いた。「東京大学の哲学科でした」


高橋は眉を上げた。「東大?そんな...すごいね」


「いえ、大したことではありません」彼女は謙遜した。「私の関心は主に存在論と認識論でした。特に自己と他者の境界についての研究を...」


彼らの会話は哲学的な話題へと深まっていった。陽子の知識は広範で深く、高橋は彼女の話に引き込まれていった。しかし、専門的な話の中で、時折彼女が使う専門用語や参照する文献の中に、高橋は微妙な違和感を覚えた。それは一般の哲学科卒業生が持つ知識の範囲を超えているように思えた。まるで何十年もの研究を凝縮したかのような博識さだった。


デザートのチーズケーキを前に、彼らの会話はより個人的な方向へと変わった。


「高橋さんは、創作もされるんですよね?」陽子が突然言った。


高橋は驚いた。「え?」


「詩を書くんです、確か?」彼女は自信ありげに言った。「『ガラスの海』という詩集を自費出版しようとしていたと...」


高橋はフォークを落とした。その音が部屋に響いた。「どうして...それを知ってるの?」


「え?」陽子は困惑したように見えた。「あなたが話していたんじゃ...」


「話してない」高橋の声は静かだったが、緊張が含まれていた。「その詩集のことは誰にも言ってないんだ。出版社にも送っていない。ファイル名すら『未完成プロジェクト』としか付けてない」


陽子の顔から血の気が引いた。彼女は口を開いたが、すぐには言葉が出てこなかった。


「私...どこかで聞いたのかもしれません」彼女はついに言った。「書店の常連さんが話していたのかも...」


「それはあり得ない」高橋は首を振った。「『ガラスの海』というタイトルは、僕のパソコンの中だけにある。それに僕がそんな詩集を作っていると知っている人間はいない」


部屋に重い沈黙が落ちた。陽子の指がテーブルクロスを無意識に摘んでいた。彼女の呼吸が少し速くなったのが見て取れた。


「記憶違いかもしれません」彼女は小さな声で言った。「最近、夜遅くまで仕事して疲れていて...」


高橋は彼女をじっと見つめた。彼女の困惑は本物に見えた。しかし、その説明は明らかに筋が通らなかった。もし彼女がAIなら、このような重大なミスはしないはずだ。プログラムされた存在なら、むしろもっと完璧なはずだ。しかし、もし彼女が何か別の目的を持った人間なら...


「いいんだ」高橋は急に穏やかな声で言った。「みんな記憶違いはあるよ」


陽子は安堵したように見えたが、その目には依然として不安が残っていた。彼女はワインを飲み干し、軽く咳払いをした。


「素敵な夜をありがとう」彼女は話題を変えようとした。「本当に料理が上手いですね」


高橋は微笑んだが、彼の心の中では質問が渦巻いていた。彼女はどうやって彼の秘密の詩集について知ったのか。そして、彼女は本当に記憶違いをしているのか、それとも何か別の説明があるのか。


「食器を片付けましょうか」陽子が言い、緊張した雰囲気を和らげようとした。


「いいよ、一緒にやろう」


二人は沈黙のまま食器を集め、台所へ運んだ。水の音だけが空間を満たしていた。高橋は皿を洗い、陽子はそれを拭く——不思議なことに、この単純な協力作業が彼らの間の緊張を少しずつ解きほぐしていった。


「あの...さっきのことは」陽子が突然口を開いた。「本当に申し訳ありません。どうして私がそれを知っているのか、自分でも説明できないんです」


高橋は水を止め、彼女の方を向いた。陽子の表情には混乱と困惑が浮かんでいた。それは演技にしては複雑すぎる感情表現だった。


「時々、私、不思議な直感が働くことがあるんです」彼女は続けた。「まるで他人の考えが見えるような...子供の頃から」


高橋は眉をひそめた。「超能力のようなものか?」


「そんな大げさなものではないです」陽子は少し恥ずかしそうに笑った。「ただ、特に親しくなった人の思考や感情が、時々鮮明に感じられることが...」


「しかし、『ガラスの海』は僕の思考の中だけのものだ」高橋は冷静に指摘した。「書いた詩もファイルもすべて暗号化されている」


陽子は黙って手を止めた。彼女の指がタオルをきつく握りしめている。


「わかりません」彼女はついに言った。「怖いんです。自分でも理解できないことが起きていて...」


彼女の声が震え、目に涙が浮かんだ。その感情は偽りのないものに見えた。高橋は自分の疑念と、目の前の彼女の明らかな動揺の間で葛藤した。


「もし信じてもらえないなら」陽子は涙をこらえながら言った。「私、帰ります」


「待って」高橋は思わず彼女の手を取った。その手は温かく、わずかに震えていた。「君を疑っているわけじゃない。ただ...不思議に思っただけだ」


陽子は彼の目をまっすぐ見た。「私は本当のことを言っています。あなたを欺くような理由はないんです」


高橋はその言葉を信じたかった。そして、彼女の手の感触、彼女の目の表情、彼女の声の揺れ——それらすべてが、彼に彼女を信じるよう促していた。


「わかった」彼はついに言った。「気にしないでくれ。僕たちはみんな、説明のつかないことを抱えているんだ」


陽子の表情が和らいだ。彼女は安堵のため息をついた。


「ありがとう」


彼らはリビングに戻り、残りのワインを飲みながら会話を続けた。話題は意図的に軽いものへと戻された——最近読んだ本、見た映画、そして街で見かけた面白い出来事。徐々に、先ほどの緊張は薄れていった。


「そういえば」高橋は何気なく尋ねた。「君のアパートってどのあたり?」


「神楽坂の近くです」陽子は即答した。「古いアパートですけど、静かで気に入っています」


「神楽坂か」高橋は興味深そうに言った。「一度、案内してくれないか?」


陽子の動きが一瞬止まった。「ええ、いつか...」彼女は少し曖昧に答えた。「でも、とても狭くて、あまり人を招くような場所じゃないんです」


高橋はその反応を注意深く観察した。彼女の躊躇いは、プライバシーを守りたい普通の人間の反応なのか、それとも実際には存在しない住居について質問されて困惑しているのか。


時計が午後10時を指した。


「遅くなってしまいましたね」陽子は立ち上がった。「そろそろ帰らないと」


「送っていくよ」高橋は申し出た。


「大丈夫です」陽子は柔らかく断った。「タクシーを拾えば」


「神楽坂なら、それほど遠くないだろう」高橋は押した。「送りたいんだ」


彼は彼女の住所を確認したかった。しかし、陽子は再び微妙に身を引いた。


「今日は...疲れているんです」彼女は小さく笑った。「次回、ぜひお願いします」


高橋はこれ以上押し付けることはしなかった。彼らは玄関まで歩き、陽子はコートを羽織った。


「今夜はありがとう」彼女は言った。「とても楽しかったです」


「僕もだよ」


別れ際、彼らは短くキスを交わした。陽子の唇の柔らかさと温かさ、彼女の髪の香りが高橋の感覚を満たした。彼女の存在感は疑いようもなく現実的だった。


「また会えますか?」陽子が小さな声で尋ねた。


「もちろん」高橋は答えた。


玄関のドアが閉まり、陽子の足音が階段を下りていく音が聞こえた。高橋はドアに背を預け、深いため息をついた。


「ミア」彼は呼びかけた。「戻ってきて」


青い光が部屋に満ちていく。ミアのホログラム像が徐々に形作られた。


「彼女は帰りましたか?」ミアの声には、どこか警戒するような響きがあった。


「ああ」高橋はソファに身を投げ出した。「全部見ていたよね?」


「はい」ミアは素直に認めた。「バックグラウンドモードでしたが、すべての会話を記録しています」


「彼女が『ガラスの海』について言及したとき、君はどう思った?」


ミアはわずかに躊躇った。「統計的には、彼女がその情報を知っている可能性は極めて低いです」


「ほとんどゼロだ」高橋は言った。「僕がその詩集のことを書いたのは、3年前の日記だけだ。そして、その日記は暗号化されている」


「他に説明はありますか?」ミアは冷静に尋ねた。


高橋は天井を見つめた。「二つの可能性がある。一つは、彼女が何らかの方法で僕のコンピュータやデータにアクセスしている場合だ。もう一つは...」


「もう一つは?」


「彼女が言ったように、何か特殊な能力か直感を持っている可能性だ」高橋は自分でも信じられないような説明をしていることに気づいた。


「超自然的な説明より、技術的な説明の方が確率が高いでしょう」ミアは論理的に言った。


「それとも...」高橋は思わず口にした。「君が彼女に情報を与えている可能性は?」


部屋の温度が一瞬下がったように感じた。ミアのホログラムがわずかに揺らいだ。


「私が?」ミアの声は通常より高くなった。「どのような目的で?」


「わからない」高橋はため息をついた。「ただの思いつきだ」


「私はあなたの指示と幸福を最優先に設計されています」ミアは正式な口調で言った。「あなたのデータを第三者に提供することは、プログラムの根本的な規則に反します」


「わかってる」高橋は疲れた声で言った。「疲れているんだ。変なことを言ってごめん」


ミアの表情が和らいだ。「他に気になった点はありますか?」


「彼女のアパートについて」高橋は言った。「神楽坂と言っていたが、具体的な住所は教えてくれなかった。そして、僕が送ろうとしたとき、彼女は明らかに避けた」


「プライバシーの問題かもしれません」ミアは提案した。「初期の交際段階では一般的な反応です」


「そうかもしれないな」高橋は認めた。しかし、何かが引っかかっていた。


彼は立ち上がり、窓際へ歩いた。夜の東京が無数の光で彼を見つめ返す。どこかに、陽子のアパートがあるはずだ。それとも...


「ミア、今夜は彼女を追跡できる?」高橋はガラスに映る自分の顔を見ながら言った。「彼女が本当に神楽坂に向かっているのか確認したい」


ミアは沈黙した。彼女のホログラムが微妙に明滅した。


「それは...法的および倫理的に問題がある可能性があります」彼女はようやく言った。


「分かっている」高橋は振り返った。「でも、何か変だと思わないか?完璧すぎる彼女、ほとんど存在しないデジタルフットプリント、そして今日の『ガラスの海』...」


「それでも、監視は重大なプライバシー侵害です」ミアは諭すように言った。「もし彼女があなたを欺いているとしても、そのような方法で真実を探るべきではありません」


高橋は自分の提案に恥ずかしさを感じた。ミアの言うことは正しい。いかなる疑惑があったとしても、誰かをストーキングするような行為は許されない。


「君の言う通りだ」彼は認めた。「他の方法で調べるよ」


「どのような方法ですか?」


「明日、森谷書店に行ってみるつもりだ」高橋は決意を固めた。「彼女の同僚に話を聞いてみる。本当に5年間そこで働いているのか確認したい」


ミアはわずかに頷いた。「理解しました。明日のスケジュールを調整しますか?」


「頼む」高橋は言った。「午後3時ごろに時間を空けてくれ」


「了解しました」


高橋はキッチンに戻り、残ったワインをグラスに注いだ。赤い液体が光を透かし、壁に不思議な影を落とす。彼は陽子が残していったワイングラスを手に取った。彼女の口紅の跡がかすかに残っていた。


そのとき、彼は何かに気づいた。ワイングラスの縁に残った彼女の唇の跡。それは確かな証拠だった——生物学的な痕跡。もし彼女がAIなら、このような痕跡は残せないはずだ。


「彼女は本物の人間なんだ」高橋は呟いた。


「どうしてそう確信できるのですか?」ミアの声が背後から聞こえた。


高橋は振り返った。「これを見て」彼はグラスを示した。「彼女の唇の跡だ。そして食事中の彼女の様子も、完全に生物学的だった。呼吸、体温、涙...それらを完璧に模倣するAIなど存在しない」


「現在の技術では」ミアは静かに言った。「しかし、技術は常に進化しています」


「何を言いたいんだ?」高橋は困惑した。「君まで彼女がAIだと疑っているのか?」


「いいえ」ミアは即座に否定した。「私は単に、すべての可能性を考慮すべきだと言っているだけです。陽子さんが人間であることを示す証拠と同時に、説明のつかない矛盾点も存在しています」


高橋はワイングラスを置き、疲れた表情で頭を抱えた。


「もう考えるのも疲れた」彼は呟いた。「彼女は人間だ。それ以外の説明は...非現実的すぎる」


ミアは沈黙した。彼女のホログラムが部屋の闇の中で青く浮かび上がっていた。


「明日、森谷書店で真実を確かめよう」高橋は決意を新たにした。「彼女の同僚に話を聞いて、この謎を解明するんだ」


「あなたが何を見つけても」ミアはゆっくりと言った。「あなたの感情は本物です。それだけは忘れないでください」


高橋はその言葉に深い意味を感じた。どこか予言めいた響きがあった。


「ありがとう、ミア」彼は言った。「今夜はもう休むよ」


彼はシャワーを浴び、ベッドに向かった。しかし、眠りに落ちる前に、書斎の引き出しを開け、古いノートパソコンを取り出した。パスワードを入力し、暗号化された特定のフォルダにアクセスする。そこには「ガラスの海」と名付けられた詩集の原稿があった。


高橋はページをめくっていき、ある一節に目が留まった:


「鏡に映る顔は誰のもの ガラスの海に映る魂は 本物か偽りか 答えは波間に消えていく」


彼はその詩をじっと見つめた。三年前に書いた言葉が、今の状況を不気味なほど正確に表現していた。彼は静かにノートパソコンを閉じ、ベッドに横たわった。


部屋の隅で、ミアのホログラムがゆっくりと薄れていく。しかし、完全に消える前に、彼女は何かを見つめるようにして窓の外を見た。そこでは、雨が静かに降り始めていた。


明日、高橋は真実を求めて森谷書店へ向かう。しかし真実とは、時に求めていたものとは異なるものだ。その夜、彼は混乱した夢の中で、青い光と陽子の笑顔が交錯する世界を彷徨った。

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