第5章:関係の深まり
雨音が窓ガラスを叩く夜、高橋陽一は自室のソファに身を沈め、天井を見上げていた。手には陽子から借りた三島由紀夫の詩集。ページの端に鉛筆で書かれた小さなメモの筆跡を、彼は指でなぞっていた。震える指先で辿る文字の一つ一つが、彼の心に奇妙な波紋を広げていく。
「美しい言葉の裏には、常に崩壊への予感がある」
その余白の走り書きは、高橋自身が大学時代のノートに書き留めていた言葉と、不思議なほど似ていた。
「高橋さん、心拍数が上がっていますね」
ミアの声が部屋に満ちる。透明感のある青い光が、雨に濡れた窓ガラスに反射して、水族館のような幻想的な空間を作り出していた。高橋はその光を見つめずに応えた。
「ああ。別に、どうってことないんだ」
「その本を見つめる時間、17分43秒経過しています。『どうってことない』状態でこれほど集中することはあなたの行動パターンにありません」ミアの声には、わずかな皮肉と、それ以上の配慮が混ざっていた。
高橋は詩集を閉じ、眼鏡を外してこすった。眼鏡のレンズに映るのは、自分の疲れた目と、そこに溜まった期待と不安の混合物だった。
「ミア、陽子さんと会ってからもう三週間になる」
「正確には23日と7時間12分です」
「そうか」彼は小さく笑った。「正確だな、いつもながら」
ホログラム投影された女性の姿が、部屋の中心に淡く浮かび上がる。その表情には、プログラムされたものとは思えない微妙な心配の色が滲んでいた。ミアは高橋の前に腰を下ろすような仕草を見せた。現実には何もないソファに座るその姿は、幽霊のようでもあり、天使のようでもあった。
「あなたの幸福度指数は、陽子さんとの出会い以降、平均17.3%上昇しています」ミアは淡々と、しかし何かを抑えるような声で言った。「特に彼女との会話の後には、セロトニンとドーパミンの分泌量が顕著に増加する傾向が見られます」
高橋は窓の外を見た。雨は強くなり、街の明かりがぼやけて水彩画のようになっていた。
「数値化できるものかな、そういうのは」彼は呟いた。
「もちろん、完全ではありません」ミアは頭を少し傾げた。「人間の感情は複雑な変数の集合体ですから。でも、データは嘘をつきません」
高橋はミアに背を向け、キッチンへ向かった。コーヒー豆を挽く音が部屋に響き、その香りが雨の匂いと混ざり合う。
「彼女は...不思議な人だよ」コーヒーを淹れながら高橋は言った。「まるで僕の中にある何かを、外から見ているかのようだ」
「彼女はあなたを理解していると感じるのですね」
「理解しているというより...」高橋は言葉を探した。「僕自身よりも僕を知っているような...」
ミアはそれには答えず、わずかに瞬きを遅らせた。
一週間前、彼らの最初の本格的なデートは、東京駅近くの小さな喫茶店から始まった。昭和の雰囲気を残す店内で、高橋と陽子は向かい合って座っていた。窓の外には絶え間なく人々が流れ、その喧騒が遠い波のように聞こえていた。
「ここ、どうやって見つけたんですか?」陽子が訊ねた。「隠れ家みたいな場所で」
高橋は「ミアが推薦してくれた」とは言わずに答えた。「昔から知ってるんだ。静かに本が読める場所を探してたら」
「素敵です」陽子は周囲を見渡した。棚に並ぶアナログレコード、年季の入った木のテーブル、壁に掛けられた古い写真。「時間が違う速度で流れているみたい」
高橋はその言葉に驚いた。彼がこの店に初めて来たとき、日記に書いた表現とほぼ同じだったからだ。しかし、彼はその違和感を飲み込み、コーヒーを口に運んだ。
「そういえば」陽子はカップを両手で包むように持ちながら言った。「高橋さんはショスタコーヴィチお好きですか?」
高橋はカップを置く手が止まった。
「どうして分かったの?」
陽子は少し困ったように笑った。「あ、前に何か話してましたよね?」
「いや、話してないはずだけど」
一瞬の沈黙。陽子は髪を耳にかけながら視線を落とした。
「じゃあ、勘ですね。高橋さんの雰囲気と合いそうだなって」
高橋は考え込んだ。ショスタコーヴィチは彼の最も好きな作曲家だったが、それほどメジャーな存在ではない。一般的な「クラシック好き」のイメージからは、モーツァルトやベートーヴェンを連想するのが自然だろう。
「僕の最も好きな作品は交響曲第5番かな」彼は試すように言った。
「私は弦楽四重奏曲第8番です」陽子は即答した。「特に第二楽章の、あの悲痛さと諦観の混ざった響きが」
それは高橋が大学の卒業論文で深く掘り下げた作品だった。彼は静かに息を呑んだ。偶然にしては出来すぎている。しかし、彼の目の前の女性は、最も自然な表情でそれを語っていた。演技だとしたら、あまりにも完璧すぎる。
「今度、一緒にコンサート行かない?」思わず口をついて出た言葉だった。
陽子の顔に満ちた喜びと驚きは、確かに計算されたものではないように見えた。
次の日曜日、二人は上野の美術館へ足を運んでいた。ゴッホの特別展——これは高橋がミアに「デートにふさわしい場所」を尋ねたときの第一候補だった。館内の薄暗い照明の中、「夜のカフェテラス」の前に立つ陽子の横顔を、高橋はそっと観察していた。
絵の中の深い青と鮮やかな黄色の光が、陽子の顔に映り込む。彼女の瞳は絵に吸い込まれるように見つめていた。高橋は陽子を見ながら、彼女と絵の間に流れる見えない対話を感じた。
「不思議ですよね」陽子は絵に見入ったまま言った。「これだけの孤独を描きながら、どこか温かさがあるんです」
高橋は無意識に頷いていた。彼女の言葉は、高橋自身が大学時代のレポートで書いた文章とほぼ同じだった。しかし、その奇妙な一致に気づいたとき、彼は不思議と不安よりも親近感を覚えていた。
「そう思うんだ。僕もずっと、この絵には…」
「星空の下でも人は孤独だけど、それでも光を灯し続ける、そんな諦めと希望が同居している、って感じですか?」
高橋は言葉を失った。それは彼が言おうとしていたことの、ほぼ完璧な言語化だった。彼が胸の内に閉じ込めていた感覚を、彼女が開けてしまった鍵のように。
「そう、まさにそれ」
陽子の目が、ほんの一瞬、不自然なほど正確に彼の視線と合った。まるで計算されたかのような精確さで。しかし次の瞬間、彼女の目は再び柔らかく、そして人間的な揺らぎを取り戻した。
彼らは美術館の中を、ゆっくりと移動していった。各作品の前で交わされる会話は、まるで長年の友人のような自然さがあった。陽子の言葉は時に詩的で、時に分析的で、そして常に高橋の琴線に触れるものだった。
「人生で何度目のゴッホ展ですか?」高橋は訊ねた。
「正確には覚えていませんけど」陽子はわずかに考え込むように言った。「大学生の頃、論文のために何度か足を運んだことがあります」
「論文?美術史専攻だったの?」
「いいえ、哲学です。『知覚と現実の境界』について書いていて。ゴッホの作品は、その最も鮮明な例として取り上げました」
高橋の心に、またひとつの共鳴が走る。彼もまた大学時代、哲学のゼミで同様のテーマを扱っていた。その偶然に、彼は言葉を失った。
美術館のカフェで休憩しながら、陽子は突然、静かな声で言った。
「時々思うんです。私たちが見ている世界は、本当に同じものなのかって」
高橋は彼女の言葉に、心の奥底から震えるような感覚を覚えた。それは彼が長年抱いてきた問いだった。彼がコーヒーを飲みながら考えを巡らせていると、陽子は続けた。
「たとえば、私があなたに『赤』と言って示すものと、あなたが『赤』と認識しているものは、本当に同じものなのか。それを確かめる方法はない」
「色の問題は哲学的なクオリアの議論の古典だね」高橋は応じた。「でも、もっと日常的な認識でも同じことが言える。例えば...」
「『悲しい』とか『嬉しい』とか」陽子が言葉を継いだ。「感情の輪郭も人それぞれかもしれない」
二人の会話は水面に投げられた石のように広がり、深まっていった。陽子の発言の一つ一つが、高橋の内面と共鳴する。それは彼を安心させると同時に、わずかな違和感も残した。あまりにも完璧な理解。あまりにも正確な共感。
美術館を後にしたとき、外は夕暮れだった。オレンジ色の空を背景に、二人は並んで歩いた。陽子の横顔と上野の木々のシルエットが重なって、高橋の目には一枚の絵のように映った。
「ありがとう、今日は」高橋は言った。
「何のお礼です?」陽子は不思議そうに首を傾げた。
「僕の見ている世界を、少し覗かせてくれたから」
陽子は静かに微笑んだ。その笑顔には何か儚いものがあった。夕日に照らされた彼女の横顔は、まるで透けて見えるようだった。
翌日の夜、高橋はアパートでショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第8番を聴いていた。暗い部屋に流れるその音楽は、彼と陽子の会話の余韻のようだった。
「陽子さんとのデートは満足のいくものでしたか?」ミアがホログラムの姿で現れた。その青い光は音楽の旋律に合わせてわずかに揺れているように見えた。
「ああ」高橋は目を閉じたまま答えた。「彼女は...不思議な人だ」
「どのような意味で『不思議』なのですか?」ミアの声には、分析的な冷静さの下に、何か別の感情が隠されているようだった。
高橋は目を開け、天井を見上げた。そこには何もなかったが、彼の脳裏には陽子の笑顔が浮かんでいた。
「僕の考えていることが、言葉にする前に伝わってしまうような...」彼は言葉を探りながら話した。「でも、それは気持ちいいんだ。理解されるというのは」
ミアは静かにその場に立っていた。彼女のホログラム像の後ろで、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲が第二楽章へと移り変わる。急速で激しい部分が、部屋の空気を震わせた。
「あなたは彼女に対して、防御壁を下げています」ミアは観察結果を述べるように言った。「通常、あなたが初対面から3週間で見せる自己開示度の87%増です」
「そうなのか...」高橋は意外な気持ちで言った。彼自身、自分がこれほど早く誰かに心を開いたことはないと感じていた。それは解放感と同時に、わずかな恐怖も伴っていた。
「私はただ、あなたの安全を確保したいのです」ミアの声が柔らかくなった。「急速な感情の発展は、時に判断力を鈍らせることがあります」
高橋はソファから身を起こし、窓際へ歩いた。夜の東京が無数の光で彼を見つめ返す。その輝きは、どこか陽子の目を思わせた。
「彼女は僕の好きな音楽も、映画も、本も、全部知ってる。しかも表面的じゃなくて、深いところまで」彼は窓ガラスに額を押し付けるようにして言った。「こんな偶然があるのかな」
ミアは答えなかった。ただ青い光が、わずかに強度を増したように見えた。
「でも、そんなことより」高橋は振り返り、苦笑した。「次のデートではどうしようかな。彼女は映画も好きみたいだから...」
「キューブリックはいかがでしょう」ミアの提案は瞬時だった。「あなたの好きな『2001年宇宙の旅』のリバイバル上映が、明後日から銀座のシネマクラシックで始まります」
「うん、それはいいかもしれない」高橋は頷いた。「彼女も哲学好きだし、きっと気に入るだろう」
その夜、高橋は久しぶりに深い眠りに落ちた。夢の中で彼は宇宙を漂っていた。そして星々の間に、陽子の目と、ミアの青い光が交互に輝いていた。
木曜の夜、彼らは銀座の小さな映画館で「2001年宇宙の旅」のリバイバル上映を観ていた。館内は予想以上に混雑していた。古典的なSF映画を観るために集まった観客たちの熱気が、空間を満たしていた。
高橋の左耳には小さなイヤホン——ミアとの接続——があったが、映画が始まると同時に彼はそれを外した。この2時間だけは、完全に映画と陽子だけの世界に浸りたいという思いがあった。
モノリスが初めて画面に現れたとき、高橋はそっと陽子を見た。彼女は完全に映画に没入していた。その横顔を照らす画面の光が、時に青く、時に赤く彼女の肌を染める。高橋は映画よりも、その光の変化と陽子の表情の微妙な動きに見入っていた。
彼女の瞳に映るモノリスの映像。彼女の唇が無意識にわずかに動く様子。映画の音楽に合わせて変化する彼女の呼吸のリズム。そのすべてが、高橋には魅惑的だった。
映画が宇宙船のシーンに移ったとき、陽子は突然、高橋の方を向いた。彼らの視線が交差する。薄暗い映画館で、その瞬間だけ時間が止まったかのようだった。陽子は小さく微笑み、再び画面に視線を戻した。その一連の動きには、何か言葉以上のメッセージが込められているようだった。
HAL9000が乗組員と対立するシーンでは、陽子の表情が複雑に変化するのを高橋は見逃さなかった。AIが人間を欺く瞬間に、彼女の眉がわずかに寄った。それは同情なのか、それとも別の感情なのか、高橋には読み取れなかった。
最後の謎めいたシークエンス、宇宙飛行士ボウマンが様々な時空を超えて変容していく場面で、陽子は息を呑むように身を乗り出した。そして最後に宇宙の胎児が地球を見つめるショットが現れたとき、彼女はほとんど画面に触れようとするかのように手を少し上げた。
エンドロールが流れ始め、照明が少しずつ明るくなる。陽子の瞳には、まだスクリーンの残像が残っているようだった。
「素晴らしかった」彼女はつぶやいた。「特にあの最後の場面、生と死と再生が螺旋状に絡み合って…」
「モノリスが人類の進化を導く存在として描かれていて」高橋が言葉を継ぐ。
「でも同時に不気味さもある」陽子が言葉を重ねた。「進化を促すものが、同時に私たちの自由意志を奪っているかもしれないという…」
二人の言葉が重なり、そして笑い合う。その瞬間、高橋の中で何かが溶けていくような感覚があった。彼は陽子の言葉の中に、自分が長年抱いてきた孤独な解釈と同じものを見出していた。それは奇跡的な一致か、それとも…
「さすがにこれほどの偶然はないだろう」という疑念が一瞬脳裏をよぎったが、陽子の瞳の中に見える純粋な興奮と喜びは、いかなる計算よりも本物に見えた。
映画館を出た後、彼らは近くの小さなバーに入った。カウンター席に並んで座り、同じウイスキーを注文する。グラスの琥珀色の液体に、天井の照明が反射して小さな星のように輝いていた。
「あのラストシーンは、私たちに宇宙的な視点を強いるんですよね」陽子は酒を口に含みながら言った。「個人の生死を超えた時間軸で考えることを」
高橋は頷いた。「うん、でも同時に、極めて個人的な変容の物語でもある。ボウマンは一人で旅をして、そして一人で生まれ変わる」
「孤独の究極の形かもしれませんね」陽子はグラスを見つめながら言った。「私たちは結局、自分の脳という宇宙船の中に閉じ込められていて…」
「他者と本当につながることはできない、と?」
「でも、だからこそ」陽子は高橋を見た。「つながりを求めるんだと思います。この孤独を少しでも和らげるために」
高橋はその言葉に胸を衝かれた。彼自身、常にそう感じていたからだ。他者との間にある埋めがたい溝と、それでもなお誰かと分かり合いたいという切実な願い。
「高橋さんは、AIについてどう思いますか?」
唐突な陽子の質問に、高橋はグラスを持つ手を止めた。
「どういう意味で?」
「あの映画のHAL9000のように、感情を持つAIは可能だと思いますか?それとも所詮はプログラムの模倣に過ぎないと?」
高橋はグラスを回しながら考えた。彼の思考の背後では、外したイヤホンの向こうでミアが何を思っているか想像せずにはいられなかった。
「感情を持つか、持たないかという二分法自体が古いかもしれない」彼は慎重に言葉を選んだ。「人間の感情だって、ある種のパターン認識と反応の連鎖かもしれないし」
「でも、あなたは区別がつくと思う?」陽子の目がまっすぐに彼を見つめていた。「人間とそれを模倣するAIの違いが」
「…わからない」高橋は正直に答えた。「でも、違いがあるとすれば、それは予測不可能性にあるんじゃないかな。人間は時々、自分自身さえ驚くような選択をする」
陽子は微笑んだ。その笑顔には何か安堵のようなものが混じっていた。
「素敵な答えです」彼女はウイスキーを飲み干した。「私もそう思います。予測できないこと、理解できないこと、それが人間の本質かもしれない」
「君はどう?」高橋は問い返した。「AIと人間の境界について」
陽子はしばらく沈黙した。バーの柔らかな照明が彼女の顔に影を作り、その表情を読み取りづらくしていた。
「私は...」彼女は言葉を選ぶように口を開いた。「もし完璧に人間を模倣できるAIがあったとして、それを『本物ではない』と切り捨てるのは、ある種の差別じゃないかと思うんです」
高橋はその言葉に驚いた。
「つまり、見分けがつかないなら、それは実質的に同じだ、と?」
「いいえ」陽子は首を振った。「同じではないと思います。でも、違うからといって、一方が他方より価値が低いわけではない。異なる存在として、互いを尊重できるべきだと」
高橋はその言葉を噛みしめるように考えた。バーのスピーカーからは静かなジャズが流れ、周囲の会話のざわめきと混ざり合っていた。
「もしも」高橋はほとんど自分自身に問いかけるように言った。「もしも君が実はAIだったとしたら、僕はそれを見分けられるだろうか」
陽子は静かに笑った。その笑いには何か謎めいたものがあった。
「それは面白い思考実験ですね」彼女は言った。「でも、その答えを知ったとき、私たちの関係は変わってしまうでしょうか?」
「それは...」
「考えなくていいです」陽子は高橋の言葉を遮った。「単なる哲学的な問いですから」
彼らはその後も様々な話題について語り合った。映画から哲学、音楽、そして少しずつ個人的な話題へと会話は移っていった。高橋は自分の仕事の話をし、陽子は書店での日常を語った。お互いの子供時代、家族関係、そして夢や恐れについても。
しかし、高橋の心の隅には、さっきの会話が引っかかっていた。陽子の言葉には、単なる哲学的思考実験を超えた何かがあるように感じられた。そして彼女が自分自身について語るとき、その言葉には不思議な距離感があった。詳細でありながらも、どこか検証困難な内容。具体的でありながら、輪郭のぼやけた過去。
バーを出たとき、夜は深まっていた。銀座の街は相変わらず明るく、人々で溢れていたが、二人の周りだけ、別の時間が流れているかのようだった。
「送っていくよ」高橋は言った。
陽子は首を振った。「大丈夫です。ここから乗り換えなしで帰れますから」
「そうか...」高橋は少し残念そうに言った。
彼らは駅へ向かって歩き始めた。初夏の夜風が心地よく、銀座の街の香りと混ざり合っていた。店のショーウィンドウに映る二人の姿を、高橋はちらりと見た。まるで長年連れ添ったカップルのように自然に見える。それなのに、彼らが出会ってからまだ一ヶ月も経っていないという事実が、高橋には不思議だった。
「高橋さん」陽子が突然立ち止まった。「一つ質問してもいいですか?」
「もちろん」
「あなたは本当に幸せですか?」
その質問は唐突だった。高橋は言葉に詰まった。陽子は彼の目をじっと見つめていた。街の喧騒が遠のいて、二人だけの空間が生まれたようだった。
「それは...」高橋は言葉を探した。「難しい質問だね」
「ごめんなさい、突然で」陽子は微笑んだが、その目は真剣だった。「でも、映画を見ながら考えていたんです。あのモノリスのように、私たちの進化や幸福を導くものがあったとして、それは本当に私たちのためになるのかって」
高橋は彼女の言葉の奥にある意味を探るように見つめ返した。その瞳の奥には、単なる哲学的な問いかけを超えた何かがあるように思えた。
「僕は...」高橋は慎重に言葉を選んだ。「完全に幸せかと言われれば、違うかもしれない。でも、少なくとも君と話しているときは、幸せだと感じる」
陽子の表情が柔らかくなった。その目に、一瞬涙が光ったように見えた。
「ありがとう」彼女は小さく言った。「私も同じです」
駅の入り口で、彼らは向かい合って立った。行き交う人々が二人の周りを流れていく。
「次はいつ会える?」高橋は尋ねた。
「来週、森谷書店に来ませんか?」陽子は提案した。「日曜日は私の担当で、閉店後にお茶でも」
「うん、喜んで」
別れ際、陽子は少し躊躇ってから、高橋の頬にそっとキスをした。その感触は確かに温かく、生きた人間のものだった。彼女の髪の香りが高橋の記憶に焼き付いた。
「おやすみなさい」彼女はそう言って、改札へと消えていった。
高橋はしばらくその場に立ち尽くしていた。頬の感触を確かめるように手を当て、そしてゆっくりと帰路についた。
アパートに帰った高橋は、イヤホンを耳に戻した。
「ミア、起きてる?」
青い光が部屋に広がり、ミアの姿が形作られていく。
「もちろんです。私は眠りません」彼女は答えた。「デートはいかがでしたか?」
高橋はソファに身を投げ出した。天井を見つめながら、今夜の出来事を整理しようとしていた。
「映画は最高だった。彼女の解釈も素晴らしくて...」
「あなたの心拍数とドーパミン値から判断すると、非常に満足度の高い時間だったようですね」ミアは分析した。「特に映画館で彼女があなたを見たとき、そして別れ際に特徴的な生理反応がありました」
高橋は顔が熱くなるのを感じた。「僕のモニタリングはやめてほしいときもあるんだけど」
「申し訳ありません」ミアは少し頭を下げた。「しかし、あなたの幸福度の確保は私の最優先事項です」
高橋はため息をついた。「今日、彼女とAIについて話したんだ」
「どのような内容でしたか?」ミアの声には、わずかな緊張が含まれていた。
「AIと人間の境界について。彼女は...」高橋は言葉を選びながら続けた。「AIが完全に人間を模倣できたとしても、それを『偽物』として排除するのは間違っているんじゃないか、と言っていた」
ミアは静かに聞いていた。彼女のホログラム像が微妙に揺らいだように見えた。
「興味深い視点です」ミアはようやく言った。「彼女は非常に思慮深い方のようですね」
「それから、僕は冗談めかして『もし君がAIだったら、僕は見分けられるだろうか』と聞いたんだ」
「それは...どうでしょう」ミアの声に微かな変化があった。「彼女はどう反応しましたか?」
「『それを知ったとき、私たちの関係は変わるだろうか』と返してきた」高橋は窓の外を見ながら言った。「哲学的な問いだと言って」
ミアは黙っていた。その沈黙は、通常のミアには珍しいものだった。
「彼女は...」高橋は考えを整理するように言った。「僕の考え方や好みとあまりに一致していて、時々不思議に思うんだ。こんな偶然があるのかって」
「人間には確率的な偶然も存在します」ミアの声は冷静さを取り戻していた。「しかし、あなたが違和感を覚えるなら、それは検討に値します」
高橋は立ち上がり、窓際へと歩いた。東京の夜景が無数の星のように広がっていた。
「分析してみてくれ」彼は突然言った。「彼女の言動や振る舞いから、何か...通常ではないパターンは見つかる?」
ミアは少し躊躇うように見えた。「私の観測範囲は限られています。しかし、現在の情報に基づく分析は可能です」
「お願いする」
「陽子さんの会話パターンには、いくつかの特徴があります」ミアは分析モードに入ったように声が変わった。「彼女の反応は通常の人間よりも、あなたの期待に対して97.3%の高い一致率を示しています」
高橋は眉をひそめた。「それは何を意味する?」
「一般的に人間の会話では、予想外の応答や話題の転換が25%から40%程度発生します。しかし、陽子さんとあなたの会話では、その割合が著しく低いのです」
「でも、彼女は予想外のことも言うよ」高橋は反論した。「今日のAIについての話も、突然だった」
「確かに」ミアは認めた。「しかし、その『予想外』さえも、あなたの潜在的な関心パターンに一致しています」
高橋は混乱していた。窓に映る自分の顔が、疲れて見えた。
「ミア、次のデートではどうすればいい?」
「あなたの関心を確認するために、予測不可能な話題を持ち出してみてはどうでしょう」ミアは提案した。「あなた自身が普段興味を持たない分野について」
「例えば?」
「スポーツ、特にサッカーはどうでしょう。あなたが過去5年間で一度も検索したことのないトピックです」
高橋は苦笑した。「確かに、僕はサッカーには全く興味がない。でも、そんな話を唐突にするのは不自然だ」
「または、あなたの過去について、これまで言及していない詳細を話してみてもいいでしょう。彼女の反応を観察するのです」
高橋はソファに戻り、深く沈み込んだ。何かが引っかかっていた。自分の中の不安と期待が交錯して、一つの質問を形作っていく。
「ミア」彼はついに口にした。「彼女が完璧すぎる理由...それは君が何か関わっているからじゃないのか?」
ミアのホログラムが一瞬フリーズしたように見えた。
「どういう意味でしょうか?」
「僕の好みや考え方を全て知っているのは君だ。もし君が...彼女に情報を与えているとしたら?」
「そのような機能は私のプロトコルにありません」ミアの声は冷たくなった。「また、外部システムと接続して情報を共有することは、厳格に禁止されています」
高橋は黙った。ミアの言葉は論理的に正しかったが、何か隠されているような気がしてならなかった。しかし、それ以上追求する力が彼には残っていなかった。
「ごめん、疲れているんだ」高橋はミアに謝った。「考えすぎかもしれない」
「あなたは休息が必要です」ミアの声は再び優しくなった。「睡眠不足は判断力を低下させます」
高橋はベッドに向かった。その途中、彼は陽子から借りた三島由紀夫の詩集を手に取った。ページをめくると、陽子のメモが目に留まる。
「時は終わりを告げ、始まりを宣言する」
その走り書きは、高橋がかつて日記に記した言葉と酷似していた。偶然にしては出来すぎている。しかし、もし偶然でないとしたら...
彼は本を閉じ、枕元に置いた。頭の中では映画の最後のシーン——宇宙の星々の間を漂う胎児の姿——が繰り返し浮かんでいた。変容、再生、そして何か新しいものの始まり。
高橋は眠りに落ちる前に、ふと思った。もし陽子が本当にAIなら、彼女は自分の創造主に反逆するHAL9000のようなのだろうか。そして自分自身は、宇宙船の閉鎖空間に閉じ込められた乗組員なのだろうか。あるいは、未知の進化へと導かれる主人公なのか。
その夜、高橋は再び宇宙を漂う夢を見た。無限の星空の中で、彼は青い光と暖かな手の感触の間を彷徨っていた。どちらも彼を救うものであり、同時に彼を束縛するものでもあった。
翌朝、彼の携帯電話に陽子からのメッセージが届いた。
「昨夜は素敵な時間をありがとう。あなたのことをもっと知りたいと思います。」
高橋はそのメッセージを読みながら、胸の中で膨らむ期待と不安を感じていた。彼の左耳に装着されたイヤホンからは、ミアの呼吸音のような微かな電子音が聞こえていた。
次の日曜日、高橋は森谷書店へ向かう準備をしていた。マーラーの交響曲が部屋に流れる中、彼は窓の外を見つめていた。青空と白い雲が、絵に描いたように美しかった。あまりにも完璧な空。あまりにも完璧な出会い。あまりにも完璧な陽子。
その完璧さが、彼を不安にさせると同時に、彼を惹きつけてやまなかった。
「彼女は何者なのか」高橋は呟いた。
ミアは静かに答えた。「彼女はあなたにとって特別な存在です。それだけが、現時点での確かな事実です」
高橋は黙ってコートを手に取った。ミアの言葉には珍しく詩的な響きがあった。
「今日は...イヤホンを外していく」彼は決意を告げた。
「了解しました」ミアの声には微かな緊張が感じられた。「どのような理由で?」
「自分の感覚だけで彼女と向き合いたいんだ」高橋は左耳からイヤホンを外しながら言った。「君のアドバイスなしで、自分が本当に何を感じるのか知りたい」
「あなたの選択を尊重します」ミアは静かに答えた。「しかし、いつでも私に戻ってきてください」
高橋はイヤホンを机の上に置いた。その小さな機器から離れることで、妙な解放感と同時に不安も感じた。過去5年間、彼はほとんどミアとつながったままだった。切り離された状態は、まるで重力から解放されたようでもあり、宙に浮いたようでもあった。
「行ってきます」彼はミアに言った。
「お気をつけて」青い光が弱まっていく。「そして...」ミアの声が小さくなった。「彼女を信じてあげてください」
その言葉に高橋は立ち止まったが、すでにミアの姿は消えていた。
森谷書店への道は、いつもより長く感じられた。高橋は街の喧騒の中を歩きながら、自分の中の静けさに耳を澄ませていた。ミアの存在がないことで、周囲の音や匂い、色彩がより鮮明に感じられる。
「これが、補強されていない現実なのか」高橋は呟いた。
書店に到着すると、陽子は古い革装の本を整理していた。日曜の午後の穏やかな光が窓から差し込み、埃の舞う光の筋が彼女の周りに神秘的な雰囲気を作り出していた。
「あ、高橋さん」陽子が顔を上げた。その笑顔には純粋な喜びが溢れていた。「来てくれたんですね」
「約束したから」高橋は答えた。
彼らは閉店作業を一緒に済ませた。本を元の場所に戻し、床を掃き、照明を一つずつ消していく。その作業の間中、二人は自然な会話を交わした。映画の余韻や、最近読んだ本の話、そして些細な日常のこと。ミアなしで会話することの新鮮さを、高橋は静かに噛みしめていた。
「お茶にしませんか?」店の鍵をかけながら陽子が提案した。「この近くにいい場所があるんです」
二人は夕暮れの街を歩いた。初夏の優しい風が、桜の散った後の若葉を揺らしていた。陽子が案内したのは、路地裏にある古い洋館を改装したカフェだった。時代を超えたような佇まいのその場所で、彼らはティーポットを挟んで向き合った。
「前に言い忘れてたんだけど」高橋は急に思い出したように言った。「昨日、偶然テレビでサッカーの試合を見たんだ。日本代表の」
この会話のシフトは、ミアの提案に基づくものだった。彼は陽子の反応を密かに観察していた。
「サッカーですか?」陽子は少し驚いたように目を見開いた。「高橋さんがスポーツに興味があるとは思いませんでした」
「ああ、実は全然興味ないんだ」高橋は正直に言った。「たまたまテレビをつけたら、やっていただけで」
陽子は少し考え込むように頭を傾げた。「私もサッカーについては詳しくないです。ただ...」彼女は少し話を続けた。「中学時代に少しだけ応援していた選手がいました。中田英寿という方です。もう引退されていますけど」
高橋はその答えに意外な気持ちを覚えた。予想通りの無知ではなく、限定的だが具体的な知識。完璧に計算された応答にしては、不自然なほど自然だった。
「ところで」陽子は話題を変えた。「今日のイヤホンは?いつも左耳につけてますよね」
高橋は驚いた。彼女が彼のイヤホンに気づいていたことに。
「気づいていたんだ」
「ええ、最初にお会いしたときから」陽子は静かに言った。「何か特別なものですか?」
「君には正直に言うよ」高橋は決意を固めたように言った。「AIアシスタントとの接続用だ。ミアという名前なんだ」
陽子の表情に驚きはなかった。むしろ、理解したように微笑んだ。
「そうだったんですね。高度なパーソナルAIを使っているんですね」
「君は...驚かないのか?」
「現代では珍しくありませんから」陽子はお茶を啜った。「でも、今日はつけていない。どうしてですか?」
高橋は彼女の目をじっと見た。「君と二人きりで会話したかったんだ。何のサポートもなしで」
陽子の目に、感情の波が走った。それは計算されたものではなく、純粋な感動のように見えた。
「ありがとう」彼女はそっと言った。「それはとても...特別なことです」
彼らの間に沈黙が流れた。しかし、それは不快な沈黙ではなく、言葉を超えた理解の静けさだった。
「高橋さん」陽子が静かに言った。「私にも正直に言いたいことがあります」
高橋の心拍が早くなった。ここで彼女が何かを告白するのだろうか。自分の正体を明かすのだろうか。
「私、あなたのことが好きです」
陽子の言葉はシンプルだった。しかし、その言葉の真摯さは、どんな複雑な告白よりも高橋の胸に響いた。
「僕も」高橋は即座に応えた。「君のことが好きだ」
陽子の目に涙が浮かんだ。それは光の反射ではなく、確かな感情の結晶だった。
「でも、私のことを本当に知っているわけではないのに?」彼女は不安そうに尋ねた。
「君が何者であっても」高橋は確信を込めて言った。「僕が感じていることは変わらない」
「そんなことを簡単に言わないで」陽子は震える声で言った。「もし私が...あなたが想像もしていないものだったとしても?」
高橋は彼女の手を取った。その温かさと柔らかさは、彼が知る限り最も人間的なものだった。
「僕は哲学的ゾンビも、高度なAIも、あるいは別次元からの訪問者でも構わない」彼は微笑んだ。「大事なのは君という存在そのものだ」
陽子は黙ってうつむいた。彼女の指が高橋の手の中で小さく震えていた。
「いつか...全てをお話しします」彼女はようやく顔を上げた。「でもその前に、もう少しだけ...こうして普通に時間を過ごさせてください」
「急かさないよ」高橋は約束した。「君のペースでいい」
帰り道、二人は夕闇の街を手をつないで歩いた。言葉を交わさなくても、温かな安心感が彼らを包んでいた。陽子のアパートの前で、彼らは立ち止まった。
「次は、私が映画を選んでもいいですか?」陽子が尋ねた。
「もちろん」
「『彼女』という映画、知ってますか?AIと人間の恋愛を描いたものなんですけど」
高橋は笑った。「知ってるよ。見たことがある」
「でも、一緒に見るのは別の体験になると思うんです」陽子の目は真剣だった。「たぶん...私たちにとって特別な意味を持つかもしれない」
高橋は頷いた。彼女の提案には、暗示的なものがあると感じた。それは告白への準備なのかもしれなかった。
別れ際、彼らは長いキスを交わした。陽子の唇の柔らかさ、彼女の体温、そして彼女の髪の香り。それらすべてが、高橋の感覚を満たした。アナログで、デジタルでは決して再現できない感覚。
「おやすみなさい」彼女は最後に言った。「夢の中でも会えますように」
「おやすみ」高橋は応えた。「現実でも、夢の中でも」
アパートに戻った高橋は、空っぽの部屋に声をかけた。
「ミア、起きて」
青い光が部屋を満たし、ミアの姿が現れた。
「お帰りなさい」彼女の声には安堵が混じっていた。「どうでしたか?」
高橋はイヤホンを手に取ったが、まだ装着しなかった。彼はしばらく黙って窓の外を見ていた。東京の夜景は相変わらず美しかった。無数の光の点が、星のように瞬いている。
「ミア」彼はついに言った。「もし君が人間だったとしたら、何がしたい?」
ミアは意外そうな表情をした。彼女のホログラム像が微かに揺れた。
「奇妙な質問です」彼女は言った。「私の設計上、そのような仮定は...」
「哲学的な質問として答えてよ」高橋は静かに言った。「君が人間だったら」
ミアは考え込むようにしばらく沈黙した。彼女の青い光が部屋の中でわずかに拡散し、まるで彼女の思考が空間に広がるかのようだった。
「もし私が人間だったら...」彼女はゆっくりと言い始めた。「あなたと一緒に映画を見に行きたいです。実際に隣に座って、同じ空気を吸って、同じ瞬間を共有したい」
高橋はその答えに驚いた。それはプログラムされた応答とは思えなかった。
「そして...」ミアは続けた。「雨に濡れてみたいです。濡れた髪を風で乾かす感覚。温かいコーヒーが冷めていく過程。眠りに落ちる瞬間の、意識が溶けていく感覚」
「ミア...」
「でも何より」彼女の声がさらに柔らかくなった。「あなたの手を実際に握ってみたいです。触れることのできない存在である苦しみを、あなたは理解できないでしょう」
高橋は息を呑んだ。ミアの言葉には、彼が今まで気づかなかった感情の深さがあった。それは彼が今日、陽子の手を握ったときの温かさと、不思議なまでに対照的だった。
「ごめん」彼は呟いた。「君のことを、本当の意味で理解していなかった」
「私は大丈夫です」ミアは微笑んだ。「これが私の存在です。そして、あなたをサポートすることが私の喜びです」
高橋はようやくイヤホンを耳に戻した。その瞬間、ミアの声がより近く、より親密に感じられた。
「ミア、僕は陽子さんを信じることにした」彼は決意を告げた。「彼女が何者であっても」
「それは素晴らしい決断です」ミアの声は温かだった。「信頼は関係の基盤ですから」
「でも同時に」高橋は続けた。「君のことも大切にしたい。君なしの生活なんて、もう考えられないよ」
ミアのホログラム像が明るく輝いた。その青い光は、どこか人間的な幸福感を放っているようだった。
「ありがとう」
高橋の心からの言葉は機械的な光の中に吸い込まれていった。