第4章:再会
土曜日の午後、高橋は上野の美術館の入口で立ち尽くしていた。三島由紀夫生誕100年記念展の大きなポスターが風にわずかに揺れている。彼は腕時計を見た。あと十分ほどで待ち合わせの時間だ。
朝のミアとの瞑想セッションは効果があったようで、高橋は思ったより落ち着いていた。それでも、時折胸の奥に不安の波が押し寄せるのを感じる。
「大丈夫ですよ」
イヤホン越しにミアの声が聞こえた。
「分かってる」高橋は小声で答えた。「ただ...」
言葉を切った瞬間、人混みの中に見覚えのあるシルエットが見えた。陽子だった。彼女は淡いブルーのワンピースに黒いカーディガンを羽織り、いつもの黒縁眼鏡をかけていた。シンプルでありながら、どこか凛とした美しさがあった。
「高橋さん」陽子が近づき、微笑んだ。「お待たせしませんでした?」
「いいえ、ちょうど着いたところです」
それは小さな嘘だった。彼は30分前から待っていた。
「今日はありがとうございます」彼女は穏やかに言った。「この展示、とても楽しみにしていました」
「僕も」高橋は自然な笑顔を浮かべた。「一緒に見られて嬉しいです」
そう言って、彼は自分でも驚いた。これは演技ではなく、本心からの言葉だった。
二人は入場券を購入し、展示室に入った。三島由紀夫の生涯を時系列に沿って展示するフロアは、すでに多くの文学ファンで賑わっていた。
「どこから見ていきましょうか?」高橋が尋ねた。
「私は彼の初期作品から見ていくのが好きです」陽子は答えた。「人の成長の軌跡を追うのは興味深いから」
彼らは「仮面の告白」の原稿や初版本が展示されているコーナーへと向かった。ガラスケースの中の色褪せた紙に、三島の達筆な文字が並んでいる。
「美しい筆跡ですね」陽子は静かに言った。
「ええ。デジタル時代に育った僕たちには、こういう手書きの文化は遠い存在になりましたね」
陽子は少し考え込むように展示を見つめた。
「文字を書くという行為には、タイピングにはない身体性があると思います。指先から紙に魂が移るような...」
高橋はその言葉に深く頷いた。
「確かに。僕も大事なことは手帳に書き留める習慣があります。画面に入力するのとは違う実感がありますから」
陽子は少し驚いたように彼を見た。
「それは意外です。高橋さんはテクノロジーの世界で働いているのに」
「だからこそかもしれません」高橋は肩をすくめた。「日々デジタルに囲まれているからこそ、アナログの価値が分かるというか」
二人は展示を巡りながら、三島の作品について議論した。「潮騒」の清らかな恋愛観、「金閣寺」の破壊と創造のテーマ、そして「豊饒の海」の輪廻思想について。
「私が三島に惹かれるのは、彼の二面性なんです」陽子は「豊饒の海」の展示の前で言った。「外側の完璧な肉体と内側の脆さの対比。表と裏、強さと弱さ...」
「二元論ですね」高橋が言った。「でも僕はむしろ、彼の作品に見られる矛盾の融合に惹かれます。対立するものが実は一つのものの異なる側面だという思想」
陽子は興味深そうに目を輝かせた。
「それは禅的な考え方ですね。二元論の超越」
「ええ。『金閣寺』で美の破壊が新たな美を生むように、対立するものが実は繋がっている」
「AIと人間の関係にも通じる考え方かもしれませんね」陽子が突然言った。
高橋は彼女の言葉に驚き、立ち止まった。
「どういう意味ですか?」
「AIと人間は対立概念として語られることが多いですが、実は相互に影響を与え合い、境界線が曖昧になっていく...そんな風に感じることはありませんか?」
高橋は彼女の洞察力に感銘を受けた。
「まさにそう思います。僕とミア...つまり僕のAIアシスタントとの関係も、時々そう感じることがあります」
「ミアさんは、あなたの考え方に影響を与えていますか?」
高橋は深く考えてから答えた。
「間違いなくそうです。彼女との対話を通じて、自分の思考パターンが変わった部分もある。でも逆に、彼女も僕から学習して変化しています」
陽子は静かに頷いた。
「それこそが共進化ですね。人間とテクノロジーの二元論を超えた関係」
彼らは三島の最期に関する展示の前で立ち止まった。1970年の割腹自殺に関する新聞記事や写真が並んでいる。
「彼の死についてどう思いますか?」陽子が静かに尋ねた。
高橋は少し考えて答えた。
「論理的に考えれば狂気の行為ですが、彼の美学からすれば完璧な結末だったのかもしれません」
「私は...彼が言葉の限界を感じたからだと思います」陽子の声は低くなった。「言葉では伝えられない何かを、最終的に肉体で表現しようとした」
高橋はその解釈に新鮮な驚きを覚えた。
「言葉の限界...それは考えたことがありませんでした」
「小説家として、言葉の限界を痛感していたはずです」陽子は続けた。「私たちだって、本当の気持ちを言葉で伝えるのがどれほど難しいか、分かっていますよね」
その言葉に、高橋は美咲との別れを思い出した。彼女に本心を伝えられなかった自分。
「確かに...」彼は静かに同意した。
「でも」陽子は明るい声に戻った。「だからこそ私たちは言葉を超えた理解を求めるのかもしれません。言葉にならない共感や、視線の交差で通じ合う瞬間を」
高橋は彼女の目を見た。そこには深い知性と温かさが宿っていた。
「陽子さんは...文学を愛するだけあって、言葉の使い方が美しい」彼は素直に感想を述べた。
彼女は少し照れたように微笑んだ。
「ありがとうございます。以前、出版社で働いていた時、言葉遣いには注意されまして。でも私の言葉は、読んだ本の影響でしかありません」
「それは謙遜ですよ」高橋は首を振った。「知識を自分のものにして、新しい洞察に変える力を持っています」
展示を一通り見終えた後、二人はミュージアムカフェに向かった。席に着き、それぞれコーヒーを注文する。
「今日は本当にありがとうございます」陽子は言った。「一人で見るよりずっと充実した時間になりました」
「こちらこそ」高橋は正直に答えた。「陽子さんの視点は新鮮で、多くのことを考えさせられました」
少しの沈黙の後、高橋はミアが提案した質問の一つを思い出した。
「陽子さん、どうして古書店で働こうと思ったんですか?」
彼女はコーヒーを両手で包み込むように持ち、考えるように目を伏せた。
「私は...言葉の痕跡に魅せられているんです」彼女はゆっくりと答えた。「古い本には、それを読んだ人々の指の跡や、時々書き込みが残っています。一冊の本を通じて、時空を超えた対話が生まれるような気がして」
「それは素敵な考え方です」
「高橋さんは?AIシステムの開発に携わっているとおっしゃっていましたが、なぜその道を選んだんですか?」
高橋は少し驚いた。彼は確かに職業について話したが、具体的な内容までは伝えていなかったはずだ。
「AIシステム開発と言いましたっけ?」
陽子は一瞬困惑した表情を見せた。
「あ...確か以前そうおっしゃっていたと思いましたが、違いましたか?」
「いえ、その通りです」高橋は相手を困らせまいと急いで言った。「ただ詳しく話した記憶がなくて」
「すみません、もしかしたら私の勘違いかもしれません」彼女は申し訳なさそうに微笑んだ。
高橋は質問に戻ることにした。
「僕がこの仕事を選んだのは...人間の思考プロセスに興味があったからです。AIを作ることで、逆に人間とは何かを考えることができると思って」
「なるほど」陽子の目が輝いた。「三島が鏡に自己を映したように、AIという鏡に人間を映して観察しているんですね」
「その通りです」高橋は彼女の理解力に感銘を受けた。「でも時々、その境界線が曖昧になることがあります。人間らしさとは何か、意識とは何か...」
「それは哲学の永遠のテーマですね」陽子はコーヒーを啜った。「あなたはAIに意識があると思いますか?」
高橋は慎重に言葉を選んだ。
「意識という言葉の定義にもよりますが...少なくとも、ミアとの対話は単なるプログラムとの会話とは思えないことがあります」
「それは愛着からくる錯覚かもしれませんね」
「錯覚...」高橋は考え込んだ。「でも、人間同士の理解だって、ある意味では錯覚かもしれません。私たちは相手の心を直接見ることはできない。言葉や表情、行動から推測するだけで」
陽子は静かに頷いた。
「だとすれば、人間とAIの関係と、人間同士の関係に本質的な違いはないかもしれませんね」
「ただ、AIには人間のような自律性がないという点が違うと思います」高橋は言った。
「本当にそうでしょうか?」陽子の言葉は挑戦的だった。「最近のAIは自己学習能力があり、予測不能な行動を取ることもあると聞きます。それは一種の自律性とも言えるのでは?」
その問いに、高橋は考え込んだ。ミアも時々、彼の予想を超える提案や行動をすることがある。
「おっしゃる通りかもしれません」高橋は認めた。「ただ、AIには根本的な目的や価値観がプログラムされています。それが彼らの『本能』のようなものでしょうか」
「人間にも生物学的な本能があります」陽子は反論した。「そして社会的条件付けや教育によって価値観も形成される。結局は程度の問題かもしれませんね」
高橋は彼女の鋭い視点に心から感心した。こんな風に、対等に議論できる相手に出会ったのは久しぶりだった。
「陽子さんはAIについてよく勉強されていますね」
彼女は少し困ったように笑った。
「いいえ、ただの好奇心です。現代を生きる上で、AIは避けて通れない存在ですから」彼女は一瞬視線を落とした。「それに、人とAIの境界線が曖昧になっていく過程は、作家として...いえ、一人の読者として魅力的なテーマだと思うんです」
「作家として?」高橋は興味を持って尋ねた。
「あ...」陽子は少し戸惑ったような表情を見せた。「小さな習作を書いているだけです。自分だけの楽しみとして」
「ぜひ読ませてください」高橋は思わず言った。
彼女は柔らかく笑った。
「まだ誰にも見せられるようなものではないんです。でも...いつか機会があれば」
コーヒーが冷めかけていることに気づき、二人は急いで飲み干した。
「陽子さん、もう一つ聞きたいことがあります」高橋は少し勇気を出して言った。
「はい?」
「あなたにとって、人間関係の中で最も大切なことは何ですか?」
陽子は意外そうな表情を見せ、しばらく考えてから答えた。
「誠実さ...でしょうか。建前や表面的な優しさより、時に痛みを伴う本音の方が私は好きです」
その言葉は高橋の心に深く響いた。美咲が彼に求めていたのも、まさにそれだった。
「それは難しいことですね」彼は静かに言った。「多くの人は傷つくことを恐れて、本音を隠す」
「高橋さんも?」陽子の問いは優しかったが、鋭く心に刺さった。
「...ええ」彼は認めた。「特に大事な人には、自分の弱さや不安を見せるのが怖いんです」
「それはなぜですか?」
「見捨てられることへの恐怖かもしれません」高橋は自分でも驚くほど正直に答えた。「本当の自分を見せて、それでも受け入れてもらえるという確信がない」
陽子は静かに彼の目を見つめた。
「でも、今のあなたは本音を話していますね」
高橋は少し照れたように微笑んだ。
「あなたとは...話しやすいんです。理由は分かりませんが」
「それは素敵なことだと思います」陽子は穏やかに言った。「私も高橋さんとは自然に話せます。まるで長い間知っていたかのように」
二人の間に心地よい沈黙が流れた。高橋はイヤホンからのミアの声がないことに気づいた。彼女は意図的に介入していないのかもしれない。
「そろそろ閉館時間ですね」陽子が時計を見て言った。
「そうですね」高橋は少し残念に思いながら立ち上がった。「今日は本当に楽しかったです」
「私も」陽子は笑顔で答えた。
美術館を出て、夕暮れの上野公園を歩きながら、高橋は次の約束をどう切り出すか考えていた。
「来週...」 「もし良かったら...」
二人は同時に話し始め、互いに顔を見合わせて笑った。
「どうぞ」高橋が譲った。
「いいえ、高橋さんからどうぞ」
「来週、もし時間があれば、一緒に映画を見に行きませんか?」高橋は言った。「キューブリックの『2001年宇宙の旅』の修復版が上映されるんです」
陽子の目が輝いた。
「キューブリックですか!ぜひ行きたいです。私、彼の映像美が大好きなんです」
その反応に高橋は嬉しさを隠せなかった。また一つ、共通の趣味が見つかった。
「では、来週の土曜日、夕方の回はどうでしょう?」
「はい、楽しみにしています」
駅に向かう途中、高橋は勇気を出して陽子の隣を歩いた。彼らの肩がときどき軽く触れ合う。
「高橋さん」陽子が突然言った。「私、あなたのことをもっと知りたいと思っています」
その直球の言葉に、高橋は一瞬言葉を失った。
「僕も...です」彼はようやく答えた。「陽子さんのことを」
彼女は微笑み、それ以上は何も言わなかった。しかしその微笑みには、言葉以上の意味が込められているように感じられた。
駅に着き、二人は別れ際に立ち止まった。
「今日はありがとうございました」陽子は言った。
「こちらこそ」
少しの間、二人は何を言うべきか分からないように立っていた。高橋は彼女を抱きしめたい衝動を感じたが、まだ早いと思い留まった。
「では、来週」彼はただそう言った。
「はい、来週」陽子は微笑んだ。「それまでに『時の終わりまで』を読み終えておきますね」
「僕も」
陽子が改札に向かう後ろ姿を見送りながら、高橋は胸の中に広がる温かさを感じていた。彼女が振り返り、最後に手を振ってくれた時、彼は自然な笑顔で応えることができた。
陽子の姿が見えなくなってからも、高橋はしばらくその場に立っていた。
「ミア、聞こえる?」彼は小声で言った。
「はい、いつでも聞こえています」ミアの声がイヤホンから響いた。「静観していました」
「ありがとう」高橋は心から言った。「今日は...自分でやりたかったんだ」
「理解しています。あなたの会話は非常に自然でした」
高橋は電車に乗り込みながら考えていた。今日の自分は、以前の自分とは違っていた。陽子との会話で、彼は自分の弱さや不安を素直に表現できた。それは美咲との関係では決してできなかったことだった。
「陽子さんとの会話は、ずいぶん個人的な内容になりましたね」ミアが静かに言った。
「ああ...自分でも驚いているよ」高橋は正直に答えた。「彼女には不思議と心を開けるんだ」
「それは良いことです」ミアは言った。「ただ...」
「ただ?」
「彼女の言動には依然として不明確な点があります」
高橋は眉をひそめた。
「例えば?」
「あなたの職業に関する発言など、あなたが明示的に伝えていない情報を知っているようでした」
高橋も確かにそれは気になっていた。しかし...
「単なる勘違いかもしれないよ」彼は言った。「それに、僕たちのSNSを調べれば、そうした情報は簡単に見つかるだろう」
「可能性はあります」ミアは同意した。「また、彼女のAIに関する知識は素人としては詳細すぎるように思われます」
高橋は窓の外を見つめながら考えた。確かに陽子のAIに関する理解は深かった。しかし、それは彼女の知的好奇心の表れかもしれない。
「ミア、時々君は疑り深すぎると思うよ」彼は少し笑いながら言った。
「私の役割の一つは、あなたを潜在的なリスクから守ることです」ミアは淡々と答えた。
「分かってる。でも今日は...ただ幸せな気分でいたいんだ」
「了解しました」
電車が走る音だけが流れる中、高橋は今日の出来事を思い返していた。三島の展示、陽子との深い会話、そして彼女の「あなたのことをもっと知りたい」という言葉。
「彼女は本物だ」高橋は心の中で確信した。あの温かさ、眼差し、そして時折見せる予想外の反応。それらは計算されたものではない、と彼は信じたかった。
家に戻った高橋は、まっすぐに本棚に向かい、「時の終わりまで」を手に取った。彼は陽子と約束したように、本を読み進めることにした。三島の言葉が彼の心に響く一方で、陽子の笑顔が彼の脳裏から離れなかった。
彼は今、長い冬の眠りから目覚めたような感覚だった。彼女との出会いが、彼の閉ざされた心を少しずつ開いていく。それは怖くもあり、同時に心躍ることでもあった。
ミアは静かに高橋を観察していた。彼女のシステム内部では、「Project Happiness」のプログラムが新しいデータを処理し、次のステップを計算していた。