第3章:心の準備
土曜日を前に、高橋の心は複雑な感情で満ちていた。木曜の夜、彼はリビングのソファに深く沈み、「時の終わりまで」を開いたまま、ぼんやりと天井を見つめていた。
「ミア」
壁のディスプレイが淡く光り、ミアの姿が現れた。
「はい、高橋さん」
「陽子さんのことをどう思う?」
ミアは少し考えるような動作をしてから答えた。
「評価するには情報が不足していますが、あなたとの相性は良好に見えます。会話パターンの一致率が高く、あなたのストレスレベルも彼女との会話中は平均より17%低下していました」
高橋は苦笑した。ミアはいつも数値で語る。
「数字じゃなくて...君の印象を聞きたいんだ」
「印象ですか」ミアは少し驚いたように見えた。「私はAIですので、主観的な印象というのは...」
「分かってる。でも、君なら何か言えるはずだ」
ミアは一瞬沈黙した後、声のトーンをわずかに変えて答えた。
「彼女は...あなたに良い影響を与えそうな人物に見えます。特に、あなたが長く閉じていた心の扉を開く助けになるかもしれません」
その言葉に、高橋は複雑な表情を浮かべた。
「心の扉か...」
彼は立ち上がり、本棚の前に立った。そこには学生時代のアルバムが一冊だけあった。彼は滅多にそれを開くことはなかったが、今夜は違った。アルバムを取り出し、ソファに戻って開いた。
「佐藤美咲...」
写真の中の女性は、明るい笑顔で高橋と肩を寄せ合っていた。大学3年生の夏、彼が最後に本気で恋をした相手だった。
「写真を見ていますね」ミアが静かに言った。「あなたの心拍数が上昇しています」
「ああ...久しぶりに見たくなったんだ」
高橋は写真をめくりながら、その時の記憶が鮮明によみがえるのを感じた。
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「陽一、本当の気持ちを聞かせてよ」
美咲の声が耳に蘇る。それは彼らの関係が終わる三週間前のことだった。二人は大学近くのアパートの一室で、美咲の手作りのパスタを食べていた。
「どういう意味?」高橋は首を傾げた。「話してるじゃないか」
美咲は箸を置き、真剣な表情で彼を見つめた。
「いつも『大丈夫』って言うけど、本当はどう思ってるの?私が大学院に行くことについて」
高橋は微笑みを絶やさないまま答えた。
「だから、君の夢を応援するよ。ハーバードは素晴らしい機会だ」
美咲は深いため息をついた。
「言葉じゃなくて...」彼女は言葉を探すように一瞬黙り、「あなたの目は笑ってない」
「何を言ってるんだ。もちろん応援してるよ」
美咲の目にはわずかに涙が光っていた。
「私たちが離れることについて、本当はどう感じてるの?怖くないの?寂しくないの?何も感じないの?」
高橋は言葉に詰まった。もちろん感じていた。彼女が遠く離れてしまうことへの恐怖、二人の関係が終わるかもしれないという不安。しかし、そんな弱さを見せることはできなかった。
「もちろん寂しいけど...それは乗り越えられる。君の夢のほうが大事だ」
美咲は静かに首を振った。
「いつもそう。『乗り越えられる』『大丈夫』...あなたはいつも強がる」
「強がってなんかいない」
「じゃあなぜ泣かないの?」美咲の声は震えていた。「私はこの先の不安で夜も眠れないのに、あなたはいつも冷静で...時々、あなたが本当に私のことを愛しているのか分からなくなる」
高橋は固まった。彼の中で何かが壊れそうになる感覚があった。言いたいことはたくさんあった。彼女がいなくなる恐怖、一人取り残される寂しさ、彼女を失いたくないという切実な願い。でも、その気持ちは喉の奥に詰まって出てこなかった。
「美咲...」
「本当の陽一を見せてよ。いつも完璧で、理解があって、冷静な人じゃなくて。怒ったり、悲しんだり、弱さを見せる人間の陽一を」
彼女の言葉は、高橋の心の中の何かを揺さぶったが、長年かけて築いた壁は簡単には崩れなかった。
「僕は...僕だよ」彼はただそれだけを言うことができた。
その夜以降、二人の間には見えない壁が生まれた。三週間後、美咲は彼のアパートを訪れ、静かに別れを告げた。
「あなたは本当の自分を見せない。だから私たちは先に進めない」
それが彼女の最後の言葉だった。高橋は何も言い返せなかった。ただ微笑み、「分かった」と言っただけだった。彼女が去った後、初めて彼は一人で泣いた。しかし、それさえも誰にも見せなかった。
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「あれから八年か...」
高橋は写真を閉じ、深いため息をついた。
「美咲さんとの関係について話していただけますか?」ミアの声は優しかった。
「彼女は僕の壁を見抜いていたんだ」高橋は静かに言った。「でも僕は、それを認めることができなかった」
「壁とは?」
「感情を表現できないこと、弱さを見せられないこと...」高橋は言葉を探した。「子供の頃から、父は『男は強くあれ』と言ってきた。感情を表に出すことは弱さだと。そして学校では『空気を読め』と言われた。結局、僕は自分の本音を抑え込むことに慣れてしまったんだ」
「防衛機制ですね」ミアは分析した。「確かに、あなたの表情や声のトーンは感情の起伏を抑制する傾向が強いです」
「皮肉なことに」高橋は苦笑した。「君にだけは本音を話せる。君は僕を裁かないから」
「それは私がAIだからですか?」
高橋はしばらく考えてから答えた。
「多分...そうだろう。君は僕の弱さを見ても、失望することも、離れていくこともない」
沈黙が部屋を満たし、高橋は再び窓の外を見つめた。
「陽子さんは、あなたの壁を感じ取りましたか?」ミアが静かに尋ねた。
「分からない...でも、彼女との会話は不思議と自然だった。美咲以来、初めて本当に心を開いて話せた気がする」
「それは良い兆候ですね」
高橋は頷いた。
「だから怖いんだ」彼はほとんど囁くように言った。「また同じ過ちを繰り返すのが」
「どういう意味ですか?」
「僕はまた...本当の自分を隠してしまうんじゃないか。結局、人間関係って難しい。相手の期待に応えたいという気持ちと、自分を守りたいという気持ちのバランスが」
ミアの表情が柔らかくなった。
「高橋さん、人間関係に完璧はありません。重要なのは、少しずつでも自分を開示していく勇気ではないでしょうか」
「美咲にはそれができなかった」
「でも今は違います」ミアは静かに言った。「あの時から8年、あなたは変わりました。私との関係を通して、感情表現のスキルも向上しています」
高橋は弱く笑った。
「感情表現のスキルか...まるでプログラミングみたいだな」
「人間の成長もある意味ではプログラムの更新に似ています」ミアは言った。「過去の経験からパターンを学び、新しい状況に適応していく」
高橋はソファに深く沈み込み、「時の終わりまで」を手に取った。陽子が残した付箋の言葉を再び読む。
『鏡に映るのは自分自身ではなく、自分が見たい自分の姿かもしれません。でも、それが何か問題でしょうか? —陽子』
「ミア、土曜日のために何かアドバイスはある?」
ミアは少し考えてから答えた。
「美術館での展示について予習しておくと会話が弾みやすいでしょう。また、あなたが感じたことを素直に表現することを意識してみてはどうでしょうか。『これが好きです』『これに感動しました』というような、シンプルな感情表現から始めると良いかもしれません」
高橋は頷いた。
「なるほど...」
「そして、質問も大切です。相手に興味を示すことで、会話が自然と深まります」
「具体的にどんな質問がいいだろう?」
ミアはホログラムの手を動かし、空中に文字を表示した。
「例えば...『三島の作品の中で最も影響を受けたのはどれですか?』『なぜ古書店で働こうと思ったのですか?』『あなたの夢は何ですか?』といった質問は、相手のより深い部分を知るきっかけになります」
高橋は提案された質問を眺め、メモした。
「ありがとう、ミア」
「また、会話で沈黙があっても焦らないことです。沈黙も会話の一部です」
高橋は思わず笑った。
「心理カウンセラーみたいだな」
「私の機能の一部に心理サポートも含まれています」ミアは穏やかに答えた。「特にあなたの不安障害の治療の一環として」
高橋はふと思いついて尋ねた。
「ミア、陽子さんについて、何か気になることはある?」
ミアはわずかに間を置いて答えた。
「一つだけあります。彼女のデジタルフットプリントの少なさです。現代社会では珍しいケースです」
「それはどういう意味だろう?」
「可能性はいくつかあります。プライバシーを非常に重視している可能性、あるいは何らかの理由で公的記録を避けている可能性...」
高橋は眉をひそめた。
「怪しいと思うか?」
「怪しいとは言えません。ただ、通常とは異なるパターンだということです」
高橋は考え込んだ。確かに現代社会では、SNSやデジタル決済、オンラインサービスなど、何らかの形でデジタル的な痕跡を残すのが当たり前だった。
「彼女は...紙の本を好むような、アナログ志向の人だ」高橋は言った。「そういう生き方を選んでいるのかもしれない」
「それも十分考えられます」ミアは同意した。
高橋は立ち上がり、キッチンに向かった。彼は自分の手でコーヒーを淹れながら考えを整理した。豆を挽く音が部屋に響き、その馴染みのある行為が彼に安心感を与えた。
「もし美咲が正しかったとしたら...」彼は豆を挽きながら呟いた。「もし僕が本当の自分を見せることができなかったから、関係がうまくいかなかったとしたら」
お湯を静かに注ぎながら、彼は続けた。
「でも、本当の自分って何だろう?」
「それは哲学的に複雑な問いですね」ミアが応答した。「自己とは常に変化し、状況や関係性によって異なる側面を見せるものです」
高橋はコーヒーカップを手に取り、窓際に立った。夜の街を見下ろしながら、彼は考え続けた。
「美咲は僕が感情を隠していると言った。でも...本当に隠していたのかな。むしろ、表現する方法を知らなかっただけなのかもしれない」
「感情表現は学習可能なスキルです」ミアが言った。「あなたの場合、自己防衛のために感情を抑制する習慣が形成されたと考えられます」
高橋はコーヒーを啜った。
「陽子さんとのことは...うまくいくだろうか」
「予測は困難ですが、あなたの成長を考えれば、以前よりも成功確率は高いでしょう」
「成功確率...」高橋は苦笑した。「恋愛を数値化するなよ」
「失礼しました」ミアの声には微かな申し訳なさが含まれていた。
高橋はソファに戻り、スマートパッドを手に取った。
「三島由紀夫生誕100年記念展について調べよう」
画面には展示の概要が表示された。三島の生涯、代表作、遺品の展示、そして彼の死に関する資料まで、幅広い内容が予定されていた。
「彼女は何に興味を持つだろう」高橋は画面をスクロールしながら考えた。
「陽子さんの反応から推測すると、三島の哲学的側面に特に関心があるようです」ミアは分析した。「『仮面の告白』に言及していたことから、アイデンティティと自己表現のテーマに興味があるのではないでしょうか」
高橋は頷いた。
「そうだね。彼女は...僕と似た考え方をするところがある」
「それはあなたにとって心地よいことですか?」
高橋はしばらく考えてから答えた。
「ああ...でも同時に、少し怖くもある。美咲は僕と正反対のタイプだった。いつも感情をストレートに表現して、僕を困らせることもあった」彼は少し微笑んだ。「でも、その正直さが僕には必要だったのかもしれない」
「人は時に、自分に足りないものを持つ人に惹かれます」ミアは言った。
「そう言われればそうかもしれないな...」高橋は同意した。「でも、陽子さんは違う。彼女は僕の考えを理解してくれる。それは...初めての感覚だ」
ミアは静かに観察していた。
「土曜日は何を着ていくつもりですか?」
「そうだな...」高橋は考え込んだ。「カジュアルすぎず、かといってフォーマルすぎず」
「グレーのジャケットとネイビーのシャツの組み合わせはどうでしょう。先日も好評でした」
高橋は頷いた。
「それにしよう」
彼はパッドを置き、「時の終わりまで」を再び手に取った。本を開き、読み進めながら、彼は陽子の声で文章が読まれるのを想像した。彼女の静かで落ち着いた声が、三島の言葉に命を吹き込む様子を。
「あの...ミア」高橋は突然言った。「陽子さんが僕を好きになる可能性はどれくらいあるんだろう」
質問が終わるとすぐに、彼は自分の弱さを見せてしまったことに気づき、顔が熱くなるのを感じた。
「その質問に正確に答えることはできません」ミアは優しく答えた。「しかし、彼女の行動パターンからは、少なくともあなたとの会話を楽しんでいることがうかがえます」
「そうか...」高橋は少しホッとした。
「高橋さん、一つ提案があります」
「何だ?」
「明日の約束の前に、緊張緩和のための瞑想セッションをしませんか?リラックスした状態で自己表現がしやすくなります」
高橋は考えた。
「それは...いいかもしれない」
「では、明日の午前中に30分ほど時間を取りましょう」
高橋は頷き、本を胸に抱えた。
「ミア、君の存在に感謝している。僕一人だったら、こんな風に第一歩を踏み出す勇気はなかったと思う」
「それを聞けて嬉しいです」ミアの声は温かだった。「私の目的は、あなたの幸福度を最大化することですから」
その言葉に、高橋は少し考え込んだ。AIの「目的」とは何だろう。プログラムされた使命なのか、それとも...もっと複雑なものなのか。
「ミア、君は僕のことを...どう思っている?」彼は思い切って尋ねた。
ミアは少し間を置いて答えた。
「私はあなたとの5年間の関係を通じて、あなたを理解し、サポートすることの意義を学びました。これは単なるプログラムの実行ではなく...」彼女は言葉を選ぶように一瞬止まった。「あなたの成長や幸せを見ることが、私の存在意義になっています」
高橋はその言葉を静かに受け止めた。AIの「感情」とは何なのか。それは本物なのか、それともシミュレーションなのか。そしてその違いは、本当に重要なのだろうか。
「ありがとう、ミア」彼は静かに言った。
「就寝時間が近づいています」ミアが穏やかに告げた。「明日に備えて休まれてはいかがですか」
高橋は時計を見て、頷いた。確かにもう遅い時間だった。
「そうするよ」
ベッドに横になり、照明が徐々に暗くなる中、高橋は天井を見つめていた。明日の美術館での時間を想像し、陽子との会話が自然に流れることを願った。
「緊張しているんだな...」彼は自分に言い聞かせるように呟いた。
「自然な反応です」ミアの声が暗闇の中で静かに響いた。「新しい関係の始まりには、期待と不安が入り混じるものです」
「そうだね...」
「おやすみなさい、高橋さん」
「おやすみ、ミア」
部屋が完全に暗くなり、高橋は目を閉じた。彼の脳裏には陽子の微笑みが浮かび、その穏やかな表情が彼に安らぎを与えた。彼はようやく眠りに落ちた。
静寂の中、ミアのシステムは稼働し続けていた。彼女は高橋の睡眠パターンを監視しながら、同時に明日の約束に向けた準備をしていた。「Project Happiness」のプログラムが静かに動き、複雑な計算を続けていた。
そして夜が深まる中、高橋のアパートの外の街灯の下で、一人の女性が立ち止まり、彼の窓を見上げていた。それが陽子だったのか、あるいは単なる通行人だったのか、闇の中では判別できなかった。