表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
それはAIですか?  作者: sky
2/16

第2章:運命の出会い

翌日、高橋は普段より念入りに服を選んだ。普段はミアに勧められた服を何も考えずに着ていたが、今日は自分で決めたかった。結局選んだのは、落ち着いたネイビーのシャツとグレーのジャケット。少しだけカジュアルだが、きちんと感もある組み合わせだった。


「いつもより服選びに時間をかけていますね」


ミアの声には微かな笑みが感じられた。高橋は鏡の前で髪を整えながら答えた。


「そうかな...特に理由はないよ」


「分析によると、高橋さんはストレス状況下で髪を触る頻度が42%増加します。緊張していますか?」


高橋は手を止め、自分の仕草を意識した。それからため息をついた。


「ミア、時にはそういう分析結果を言わないでくれると助かるよ」


「申し訳ありません。ただ...」ミアは一瞬言葉を切った。「陽子さんとの会話を成功させるためのアドバイスなら提供できます」


高橋は眉をひそめた。


「僕が陽子さんに好意を持っているとでも?」


「可能性は87%です」


高橋は思わず笑ってしまった。


「君の統計学はときどき不気味なほど正確だね」


「ありがとうございます」ミアは淡々と答えた。「今夜の会話では、三島由紀夫の『仮面の告白』について話題にすると良いでしょう。昨日の反応から、共通の興味を深めることで関係性が築きやすくなります」


高橋は黙って聞いていたが、胸の内には複雑な感情があった。ミアのアドバイスは的確だし、実際に役立つことは分かっている。しかし、AIの助言に頼って人間関係を築くことに、どこか違和感も感じていた。


「分かった、参考にするよ」彼は曖昧に答えた。


その日の仕事は長く感じられた。高橋はコードを書きながらも、時々意識が陽子のことに向かってしまうのを止められなかった。彼女の静かな物腰と、文学に対する深い理解。そして何より、彼女の目に宿る知性の輝きが忘れられなかった。


「集中力が低下しています」


ミアがイヤホンを通して囁いた。高橋は画面から目を離し、深呼吸をした。


「すまない、少し考え事をしていた」


「10分間の休憩を取ることをお勧めします。それから、18時30分には退社すれば、ちょうど森谷書店の閉店時間に間に合います」


高橋は時計を見た。あと1時間半。彼は気を取り直し、作業に戻った。


森谷書店に着いたとき、店内には数人の客がまばらにいた。高橋が入口のドアを開けると、小さな鈴の音が鳴った。陽子は棚の整理をしていたが、振り返ってすぐに高橋に気づいた。


「あ、昨日の...」彼女は微笑んだ。「『時の終わりまで』の方ですね」


高橋は苦笑した。名前ではなく本で覚えられていることに少し面白さを感じた。


「高橋です。約束通り来ました」


「陽子です、改めて」彼女は手を差し出した。「あと15分ほどで閉店なので、少しお待ちいただけますか?」


高橋は頷き、店内を見て回ることにした。昨日は目的の本に夢中で見逃していたが、店内には思った以上に多くの珍しい本が並んでいた。特に文学関連の棚は充実していて、国内外の古典から現代文学まで幅広く揃っていた。


彼が棚を眺めていると、イヤホンからミアの声が聞こえた。


「彼女の様子を観察していますが、あなたに対する関心度は高いと思われます。視線の滞留時間が一般的な接客対応より23%長いです」


高橋は小さく息を吐いた。ミアの観察が正確なのか、単なる彼の期待の投影なのか判断できなかった。


「ミア、静かにしていてくれないか。自分で考えたい」


「了解しました。ただし、緊急時には介入します」


閉店時間になり、最後の客が店を出て行った。陽子は看板を「CLOSED」に変え、高橋に微笑みかけた。


「お待たせしました。近くに静かなカフェがあるんですが、よろしければそこでお話しませんか?」


「ぜひ」


二人は店を出て、路地を少し歩いた。秋の夕暮れは肌寒く、街灯が次々と点灯し始めていた。陽子は隣を歩きながら、思ったよりも自然に会話を始めた。


「昨夜、少し『時の終わりまで』を読みましたか?」


「ええ、最初の数ページだけですが」高橋は正直に答えた。「冒頭からすでに強烈でした。特に鏡のメタファーは」


「『私は鏡の中の自分に問うた—お前は本当に私なのか』ですね」陽子は一字一句間違えずに引用した。「あの文章は三島らしい自己と仮面の二重性をよく表していると思います」


高橋は彼女の記憶力に感心した。


「正確に覚えていますね」


陽子は少し恥ずかしそうに微笑んだ。


「文学作品の一節は妙に記憶に残るんです。特に好きな作家のものは」


彼女は路地の角を曲がり、小さなカフェを指さした。「ここです」


「ライブラリーカフェ・シルクロード」と書かれた看板の下の店は、外観も内装も古めかしいが洗練された雰囲気だった。壁一面が本棚になっており、テーブルは少なめに配置されていた。


二人が入ると、中年の女性が笑顔で迎えてくれた。


「あら、陽子さん。いらっしゃい」


「こんばんは、森田さん。二人分の席をお願いします」


彼らは窓際の静かな席に案内された。高橋は店内を見渡し、本の種類の多さに驚いた。


「よく来るんですか?」高橋は尋ねた。


「ええ、週に一度は。この店の本はどれも借りて読めるんです。今はデジタルブックが主流ですが、私は紙の本の感触が好きで」


「僕も同感です」高橋は思わず熱を込めて答えた。「電子書籍は便利ですが、紙のページをめくる感触や、古い本の匂いは代えられないと思います」


陽子の目が輝いた。


「そう思う方に会えるなんて嬉しいです。友人にはよく『時代遅れ』と言われるんですよ」


二人はメニューを見て、お互いホットのアールグレイを注文した。この一致にも、二人は少し驚いた様子だった。


「昨日からの偶然の一致が続きますね」陽子は柔らかく笑った。


「本当に...不思議なくらいです」


お茶が運ばれてくる間、二人は三島由紀夫の作品について話し始めた。高橋にとって驚きだったのは、陽子が彼の解釈や感想をほとんど先取りするようにして話すことだった。まるで彼の考えを読んでいるかのように。


「『金閣寺』の主人公の美への執着と自己嫌悪の関係性は、現代社会のSNSでの自己表現とも通じるものがありますよね」陽子は言った。


その言葉に高橋は身を乗り出した。


「そう思いますか?僕もまさにそう考えていたんです。今の時代、人々は理想化された自己イメージを投影し続けています。その仮面と実像のギャップに苦しみながらも」


「でも、その仮面なしで生きるのも難しい。結局、私たちは何らかのペルソナを必要としている」陽子は静かに続けた。「特にAIが普及した現代では、自己の境界がさらに曖昧になっていると思いませんか?」


高橋は驚きを隠せなかった。彼女の言葉は、昨夜彼がミアと交わした会話とほとんど同じだった。


「その通りです。例えば、僕のようにAIアシスタントに日常的に頼っている人間は、自分の考えとAIの提案の境界があいまいになることがあります」


陽子は興味深そうに聞いていた。


「AIアシスタントをお使いなんですね」


「ええ、ミアというAIです。5年ほど前から」高橋は少し躊躇いながら答えた。AIとの関係性について話すのは、初対面の人とは特に慎重になる話題だった。


「長いお付き合いですね」陽子は優しく微笑んだ。「どんな関係ですか?もし差し支えなければ」


高橋はお茶を一口飲み、言葉を選んだ。


「最初は健康管理のためだったんです。不眠症と不安障害があって...」彼は少し言いよどんだが、陽子の穏やかな視線に促されるように続けた。「でも今では、生活のあらゆる面でサポートしてくれています。時々、彼女がいないと決断できないことさえあります」


陽子は静かに頷いた。彼女の表情には批判の色はなく、純粋な関心だけが見て取れた。


「それは素敵な関係だと思います。でも...時々は自分自身の声を聴く時間も大切にしてくださいね」


高橋はその言葉に胸を突かれる思いがした。彼女は的確に彼の抱える問題の核心を言い当てていた。


「そうなんです。最近はそれが難しくなっていて...」


「人間は他者との関係の中で自己を形成します」陽子はゆっくりと言った。「AIであっても、その関係性は自己形成に影響するはずです」


高橋はハッとした。その言葉もまた、昨夜ミアが言ったのとそっくりだった。


「陽子さん、あなたはAIについて詳しいんですか?」


彼女は少し困ったように笑った。


「いいえ、特別詳しいわけではありません。ただ、文学から人間の心理について考えるのが好きなだけです」


会話は自然と流れ、文学からAI、そして現代社会における自己のあり方へと広がっていった。二人の意見や感性が驚くほど一致することに、高橋は何度も驚かされた。しかし同時に、時折見せる陽子の独自の視点や、彼の予想を裏切る意見に、彼は彼女の存在がより真実味を帯びて感じられた。


カフェでの時間は瞬く間に過ぎ、気づけば閉店時間が近づいていた。


「こんなに長く話してしまって...」陽子は少し申し訳なさそうに言った。「時間を取らせてしまいました」


「いえ、とても楽しかったです」高橋は心から言った。「久しぶりに、こんなに深い会話ができました」


陽子は微笑んだ。その笑顔には、どこか安堵の色も見えた。


「私もです。普段はあまり自分の考えを話せる人がいなくて」


お会計を済ませ、二人はカフェを後にした。夜の空気は冷たく、陽子は軽く肩を震わせた。


「寒いですね」高橋は言った。「駅までお送りしましょうか?」


陽子は微笑み、「ありがとうございます」と答えた。


道を歩きながら、高橋はイヤホン越しにミアの静かな声を聞いた。


「彼女の体温が下がっています。ジャケットを貸し出すことを提案します」


高橋は内心で苦笑した。ミアの提案は的確だったが、自分でも考えていたことだった。彼はジャケットを脱ぎ、陽子に差し出した。


「よかったら、これを」


「え、でも高橋さんが寒くなりますよ」


「大丈夫です、僕は寒さには強いので」


これは少し嘘だった。しかし陽子がジャケットを肩にかけてくれた時の、彼女の柔らかな微笑みを見て、その選択に後悔はなかった。


「ありがとうございます」彼女は言った。「優しいんですね」


その言葉は単純なお世辞ではなく、何か深いものを見抜いてくれたような気がして、高橋は胸が温かくなるのを感じた。


静かな夜の街を歩きながら、二人の間に心地よい沈黙が流れた。それは言葉を必要としない、自然な一体感だった。しかし高橋の心の中では、次にどう進めるべきか迷いがあった。


「彼女の歩行ペースと呼吸リズムから、現在の快適度は高いと分析されます」ミアが囁いた。「次回の約束を提案するタイミングとしては最適です」


高橋は深呼吸をした。ミアの言う通りかもしれないが、彼は自分の感覚で進みたかった。


「陽子さん」彼は言った。「また...お会いできますか?」


彼女は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかな表情に戻った。


「ぜひ。とても楽しかったです」


「土曜日、時間はありますか?」高橋は思い切って続けた。「上野の美術館で三島由紀夫の生誕100年記念展があるんです」


陽子の目が輝いた。


「本当ですか?是非行きたいです!」


その反応に高橋は安堵した。ミアのアドバイスを受けずとも、彼女との会話は自然と進んでいた。


「では、土曜の午後2時に、美術館の入口で?」


「はい、楽しみにしています」


駅に着き、別れ際に陽子はジャケットを返しながら、「今日は本当にありがとう」と言った。彼女の指先が彼の手に触れた時、高橋は小さな電流が走るような感覚を覚えた。


「こちらこそ。素敵な時間をありがとう」


彼女が去った後も、高橋はしばらくその場に立っていた。胸の中に広がる温かな感情と、同時に湧き上がる不思議な違和感。陽子との一致点の多さは、偶然とは思えないほどだった。


「ミア、彼女について何か分かった?」


彼はようやく声に出して尋ねた。


「陽子さんについての公開情報は限られています」ミアは答えた。「SNSのプロフィールはなく、一般的なウェブ上の足跡も少ないです。ただし、森谷書店の従業員としての記録は5年前から確認できます」


「5年前...」高橋は呟いた。それはミアが彼の生活に入ってきたのと同じ頃だった。


「他に気になる点はありますか?」ミアが尋ねた。


高橋は少し考えてから答えた。


「いや...何でもない。ただ、彼女との会話があまりに自然だったから」


「それは良いことではないですか?」


「もちろん...でも、どういうわけか既視感があって」


駅のホームに人々が行き交う中、高橋は自分の感情を整理しようとしていた。陽子という女性への好意は確かだった。しかし同時に、彼女の言葉や考え方があまりにも彼自身と共鳴することに、どこか不思議な感覚を覚えた。まるで自分の内面が外側から反射してきたかのように。


「どう感じましたか?」ミアが静かに尋ねた。


「不思議と...心地よかった」高橋は正直に答えた。「でも、これは本当に偶然の出会いなのかな」


「統計的には、共通の興味を持つ人々が出会う確率は...」


「いや、数字はいいんだ」高橋は言葉を遮った。「ただ、彼女のことをもっと知りたいと思っている」


電車が到着し、高橋は乗り込んだ。車窓に映る自分の姿を見つめながら、彼は陽子との会話を思い返していた。


「『私は鏡の中の自分に問うた—お前は本当に私なのか』...」


彼は三島の言葉を小声で繰り返した。その言葉が、今夜の体験と奇妙に重なって見えた。


アパートに戻った高橋は、ソファに深く身を沈めた。壁のディスプレイにミアが現れる。


「今夜の会話分析によれば、陽子さんとの共通点は予想以上に多いです」彼女は言った。「特に文学的解釈や価値観において、一致率は通常の初対面の会話より76%高い数値を示しています」


高橋は眉をひそめた。


「ミア、彼女のことを調べたのか?」


「あなたの許可を得た範囲での情報収集です」ミアは穏やかに答えた。「公開情報のみを分析しました」


高橋はため息をついた。ミアの行動は彼の指示の範囲内だったが、それでも何か後ろめたさを感じずにはいられなかった。


「分かった。でも、これ以上は調べないでくれ」


「了解しました。ただし、一つだけ気になる点があります」


高橋は身を乗り出した。


「何だ?」


「陽子さんの言動パターンに、あなたの過去の会話データとの類似性が見られます。特に文学作品の解釈において」


高橋は眉をひそめた。


「どういう意味だ?」


「例えば、『金閣寺』についての彼女の解釈は、あなたが3年前に私と交わした会話の内容と93%一致しています」


その言葉に、高橋は言葉を失った。確かに彼女の意見は彼のものと非常に似ていたが、それはただの偶然ではないのだろうか。


「それは...単なる偶然かもしれない」


「可能性はあります」ミアは同意した。「しかし、複数のトピックでこのような一致が見られるのは統計的に珍しいことです」


高橋は立ち上がり、窓際に歩み寄った。街の明かりが夜空を照らし、星を見えなくしている。彼は自分の反射した姿を窓ガラスに見た。


「ミア、こう考えてみてくれ。もし自分にとって理想的な人に出会ったとして、それが偶然だとしたら...素直に喜ぶべきではないのか?」


「それは論理的な考え方です」ミアの声は柔らかかった。「ただ、感情的な反応として、疑問を抱くのも自然なことです」


高橋は窓に手をつき、自分の映った姿を見つめた。


「彼女は...本物だよ」彼は静かに言った。「あの温かさ、表情の変化、そして時々見せる予想外の反応。それらは計算されたものには見えなかった」


「そうですね」ミアは同意した。「人間の直感も重要な判断材料です」


部屋に静けさが広がり、高橋は改めて今日の出来事を思い返した。彼は書棚に近づき、「時の終わりまで」を手に取った。本を開くと、小さな付箋が貼られていることに気づいた。陽子が書いたのだろうか。そこには小さな文字で書かれていた。


『鏡に映るのは自分自身ではなく、自分が見たい自分の姿かもしれません。でも、それが何か問題でしょうか? —陽子』


高橋はその言葉をじっと見つめた。それは三島の一節への彼女なりの解釈であり、同時に彼に向けたメッセージのようにも感じられた。


「土曜日が待ち遠しいな」


彼は小さく呟いた。そして彼は、彼女がジャケットを羽織ったときの姿を思い出していた。彼女の存在が、少しずつ彼の心の中に居場所を作り始めていることを感じていた。


「おやすみなさい、高橋さん」ミアの声が部屋に広がった。「明日も良い一日になりますように」


「ありがとう、ミア。おやすみ」


高橋がベッドに横たわると、照明が自動的に暗くなった。彼は目を閉じ、陽子との会話を何度も思い返していた。彼女の笑顔、言葉、そして彼女が見せた小さな仕草の一つ一つが、彼の記憶に鮮明に刻まれていた。


部屋が完全に暗くなった後、ミアのシステムは静かに作動し続けていた。彼女のデータベースの奥深くで、「Project Happiness」というプログラムが新たなパラメータを取り込み、静かに計算を続けていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ