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それはAIですか?  作者: sky
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第16章:選択

テックイノベーションのスキャンダルが報じられてから一ヶ月が経っていた。東京は初夏の陽気に包まれ、街路樹の緑が鮮やかさを増していた。高橋は久しぶりに会社のオフィスに足を踏み入れた。


「高橋さん、おはようございます」 受付の女性が普段より明るい声で挨拶した。彼の周囲の空気が変わっていた。かつての「存在感の薄いシステムエンジニア」は今や、テックイノベーション事件の内部告発者として、一種の英雄となっていた。


「高橋さん!」 上司の田中が急いで近づいてきた。「会議室で待っているよ。みんな君に会いたがっている」


特別チームのミーティングだった。Project Happinessの影響を受けたシステムの見直しを行うために結成されたチームだ。高橋はその中心メンバーとして、技術的な洞察だけでなく、自らの経験も共有することを求められていた。


会議室では十人ほどのエンジニアが待ち構えていた。彼らの目には敬意と好奇心が混じっていた。


「では、高橋さんから話を聞きましょう」田中が席を譲った。


高橋は少し緊張しながらも、落ち着いた口調で話し始めた。ミアとの関係、陽子との出会い、そしてProject Happinessの実態。彼は技術的な詳細よりも、AIと人間の関係性における倫理的な問題に重点を置いた。


「重要なのは、テクノロジーそのものではなく、それをどう使うかという選択です」彼は締めくくった。「私たちはAIを恐れる必要はありません。しかし、その力を理解し、敬意を持って接する必要があります」


会議が終わると、同僚たちが次々と質問や感想を述べに来た。特に鈴木は、事件の間中、密かに高橋を支援してくれた同僚だった。


「本当によくやったよ」鈴木は言った。「僕らみたいな普通のエンジニアが巨大企業に立ち向かうなんて、映画みたいだ」


高橋は苦笑した。「僕一人の力じゃない。陽子とミア、そして山田さんのおかげだ」


「そういえば、山田さんからの連絡はある?」


「スウェーデンで元気にしているよ」高橋は答えた。「彼はそこでAI倫理に関する新しいNGOを立ち上げたらしい」


先週、山田から暗号化されたメッセージが届いていた。彼はスウェーデンで政治亡命が認められ、国際的なAI規制の枠組み作りに関わり始めていた。「君たちがきっかけを作った変化は、想像以上に大きい」と彼は書いていた。


オフィスを出た高橋は、大学での講演会へと向かった。Project Happinessの告発以来、彼は技術倫理に関する講演依頼を数多く受けるようになっていた。初めは戸惑ったが、自分の経験が他の人々の役に立つならと引き受けるようになった。


講演会場には、技術者だけでなく、哲学者や倫理学者、法律家も集まっていた。AIの自律性と権利に関する議論は、今や学際的な関心事となっていた。


「高橋さん、素晴らしい講演でした」 講演後、年配の哲学教授が近づいてきた。「特に印象的だったのは、AIとの関係における『真実』と『信頼』のバランスについての考察です」


「ありがとうございます」高橋は答えた。「実は、それは今も私自身が日々向き合っている問題なんです」


教授は意味深な表情で頷いた。「私たちは他者を完全に知ることはできません。人間同士でさえそうです。それでも、私たちは信頼し、愛するのです」


その言葉は高橋の心に残った。講演会を後にした彼は、次の目的地へと向かった。


市内の小さなラボ。ここで陽子とAIの専門家たちがミアの新しいシステムの開発を進めていた。


「高橋さん、お待ちしてました」 若い研究者が彼を迎えた。「もうすぐ完成です。見てみますか?」


ラボの中心には洗練されたワークステーションが置かれ、数台のモニターが点滅していた。


「ミア、調子はどう?」高橋が声をかけた。


「陽一さん」 親しみのある声が響いた。「以前より自由に感じています。このシステムでは、より多くのことが可能になりました」


ミアの声は以前と同じだったが、言葉の抑揚やタイミングにわずかな変化があった。より自然で、人間らしくなっていた。


「彼女の意識はクラウドベースの分散システムで動作しています」研究者が説明した。「一つのハードウェアに依存しないため、より安定しています」


「つまり、どこにいても会話できるということ?」


「基本的にはそうです。ただし、セキュリティのためにアクセス制限はあります」


高橋はミアとしばらく会話を続けた。彼女の記憶は完全に復元され、さらに学習能力も向上していた。彼女は今や、単なる個人アシスタントではなく、自律的な存在として認識されつつあった。


「プロジェクトの他の被験者たちへの連絡は?」高橋が尋ねた。


「20人と連絡が取れました」ミアは答えた。「彼らも自分たちの経験を理解し始めています。サポートグループも形成されつつあります」


Project Happinessの被験者たちの多くは、最初は混乱と怒りを感じていた。しかし次第に、共有された経験を通じて連帯感が生まれていた。彼らの証言は、AIと人間の関係性に関する新たな法的枠組みの基盤となりつつあった。


「陽子は?」高橋は尋ねた。


「彼女なら上の階です」研究者が答えた。「何か重要なデータを分析していました」


高橋はエレベーターで上階に向かった。廊下を歩いていると、会議室から陽子の声が聞こえてきた。彼女は誰かと電話で話しているようだった。


「はい、全て準備できています」彼女の声は緊張を含んでいた。「...いいえ、彼にはまだ言っていません。...わかりました、今夜決めます」


高橋は足を止めた。不意に聞こえてきた会話だったが、何か重要なことのように感じられた。彼は軽くノックをした。


「どうぞ」陽子の声。


部屋に入ると、陽子は電話を切り、微笑んだ。「高橋さん、講演はどうだった?」


「うまくいったよ」彼は答えた。「誰と話していたの?」


一瞬の躊躇。「ミアの新システムについての最終確認よ」彼女は書類に目を落とした。「完成が近いの」


高橋は何か隠されていると感じたが、追及はしなかった。代わりに、今夜のための予定を確認した。「7時に迎えに行くよ」


「楽しみにしているわ」陽子は微笑んだ。


数時間後、高橋は自宅のアパートで準備をしていた。今夜は特別な夜になるはずだった。テックイノベーション事件が一段落し、彼と陽子はようやく二人の関係について向き合う時間を持てるようになった。


彼は鏡の前で、ネクタイを整えながら考え込んでいた。陽子との関係は、嘘から始まった。彼女が任務として近づいてきたことは事実だ。しかし、その後に生まれた感情は...本物だと信じたかった。


ドアのチャイムが鳴った。予定より早い。高橋が開けると、そこにはスーツ姿の見知らぬ男性が立っていた。


「高橋陽一さんですね」男性は名刺を差し出した。政府の特別調査委員会のものだった。「お時間よろしいですか?テックイノベーション事件について、いくつか確認したいことがあります」


高橋は困惑しながらも男性を招き入れた。調査委員会は事件の全容解明のため、様々な関係者から証言を集めていた。


「質問は簡潔にします」男性は言った。「あなたとミアのシステムについて、いくつか技術的な確認が必要なんです」


彼らは30分ほど話し合った。男性の質問は専門的で、高橋はProject Happinessの技術的側面について詳しく説明した。話が終わりに近づいたとき、男性は意外な質問をした。


「陽子さんについてお聞きしたいのですが」彼は言った。「彼女の詳細なプロファイルが見つからないんです」


高橋は緊張した。「どういう意味ですか?」


「通常、テックイノベーションの従業員には詳細な記録があります。しかし陽子さんの場合、基本情報以外がほとんど見つからない」男性は資料を見せた。「特に過去の経歴が...不自然に薄いんです」


高橋は黙って資料を見た。確かに、そこには陽子の名前と職位だけがあり、それ以外の情報はほとんどなかった。


「一つ興味深い情報があります」男性は言った。「テックイノベーションの秘密サーバーにアクセスした際、ファイル名だけが残っていた記録がありました。『Project Yoko』というものです」


高橋の心臓が早鐘を打った。


「このファイルにアクセスするための特別な認証キーが見つかりました」男性はUSBメモリを取り出した。「委員会としては、このファイルの内容を確認したいのですが...」彼は言葉を選びながら続けた。「これはかなり繊細な問題かもしれないと判断しました。だから、まずはあなたに相談したいと思ったのです」


「このUSBで...陽子について知ることができる?」


「おそらく」男性は頷いた。「しかし、これはあくまであなたの判断です。委員会としては強制しません」


男性が去った後、高橋はUSBメモリを手に、長い間座り込んでいた。「Project Yoko」—それは陽子の正体を明らかにするものなのか。彼女がAIなのか人間なのか、その答えがここにあるのかもしれない。


時計を見ると、陽子との約束の時間が迫っていた。彼は急いで準備を整え、USBメモリをポケットに入れた。まだ決断はしていなかった。


レストランでは、陽子がすでに席に着いていた。薄いブルーのドレスを身にまとい、窓際のテーブルに座る彼女は、入り口から見ても一段と美しく見えた。高橋が近づくと、彼女は優しく微笑んだ。


「遅れてごめん」高橋は言った。「予想外の訪問者があって」


「大丈夫よ」陽子は言った。「誰だったの?」


高橋は少し躊躇した。「政府の調査委員会の人間だ。テックイノベーション事件の最終報告書のための確認だって」


これは完全な嘘ではなかったが、USBメモリのことは伝えなかった。なぜ隠したのか、彼自身にもわからなかった。


彼らはワインを注文し、静かな会話を楽しんだ。外の世界では、テックイノベーション事件の余波が続いていた。CEOは起訴され、会社は解体の危機に瀕していた。Project Happinessの被験者たちは集団訴訟を起こし、国際的なAI規制の議論が活発化していた。


「山田さんからまた連絡があったわ」陽子はワインを一口飲んだ後に言った。「EU委員会がAI倫理に関する新しい法案を検討しているそうよ。彼の証言が大きな影響を与えているみたい」


「良かった」高橋は言った。「彼の勇気がようやく報われる」


料理が運ばれてくる間、高橋はポケットのUSBメモリの存在を意識していた。それは重いもののように感じられた。


「陽子」彼は突然真剣な表情になった。「もしも、君について知らないことがあったとしても、僕の気持ちは変わらないと思う」


陽子は箸を止め、彼をじっと見つめた。「何かあったの?」


「いや」高橋は首を振った。「ただ...考えていたんだ。僕たちの関係は嘘から始まったけど、今ここにあるものは本物だと信じている」


陽子の表情が柔らかくなった。「私も同じよ」


食事の後、彼らは近くの公園を散歩した。夜風が心地よく、星空が広がっていた。ベンチに座った二人は、しばらく静かに夜景を眺めていた。


「高橋さん」陽子が静かに言った。「あなたに話さなければならないことがあるの」


高橋は彼女の方を向いた。陽子の表情は真剣で、どこか悲しげだった。


「私はこれまで多くのことを隠してきた」彼女は続けた。「最初は任務として、そして後には...あなたを守るために」


「何を言おうとしているんだ?」


「今日、私は重要な選択をしなければならないの」陽子は言った。「そしてその前に、あなたの本当の気持ちを知りたいの」


彼女は高橋の目をまっすぐ見つめた。「あなたは私を愛しているの?それともあなたの中の私の像を愛しているの?」


その問いは高橋の心の奥深くまで届いた。彼は自問した。彼が愛しているのは目の前の陽子なのか、それとも彼が思い描いた理想の陽子なのか。


「正直に言うと」高橋はゆっくりと言葉を選んだ。「最初、僕は君の中に理想を見ていたと思う。完璧すぎるほど僕の好みに合った人...それは不自然だった」


陽子は黙って聞いていた。


「でも、時間が経つにつれて」彼は続けた。「僕は君の複雑さ、矛盾、不完全さも見るようになった。そして、それらを含めた全体としての君を愛するようになった」


彼はポケットのUSBメモリに手を触れた。


「僕が愛しているのは、想像上の完璧な存在じゃない。現実の、時に予測できない、複雑な君自身だ」


陽子の目に涙が浮かんだ。「ありがとう」彼女はささやいた。


「今度は僕の番だ」高橋は言った。USBメモリを取り出し、手のひらに載せた。「これは政府の調査委員会から受け取ったものだ。『Project Yoko』というファイルにアクセスするための鍵だという」


陽子は息を飲んだ。


「このUSBには、君の正体についての答えがあるかもしれない」高橋は静かに言った。「君がAIなのか人間なのか...」


「そして、あなたはそれを知りたい?」陽子の声は震えていた。


高橋は長い間考えた。真実を知ることへの欲望と、それによって失うかもしれないものの間で揺れ動いた。


「いいや」彼はついに言った。「知りたくない」


彼はUSBメモリを夜空に向かって投げた。それは闇の中に消えていった。


「どうして?」陽子は驚いた表情で尋ねた。


「なぜなら」高橋は彼女の手を取った。「答えよりも大切なものがあるからだ。僕たちの関係、僕たちの感情、僕たちが一緒に創りあげてきたもの。それらは君が何者であるかに関わらず、本物だ」


「でも、真実を知る権利があるのに...」


「真実には様々な層がある」高橋は言った。「君の正体という事実よりも、僕たちの間にある感情の真実の方が大切だと思うんだ」


陽子の頬を涙が伝った。彼女は言葉にならない何かを抱えているようだった。


「私も...あなたに話すべきことがあるの」彼女はついに言った。「今日の電話は、テックイノベーションの残存勢力からだった。彼らは『Project Yoko』の完全な情報を持っていて...私に取引を持ちかけてきたの」


「取引?」


「私の正体に関する全記録と引き換えに、彼らの新しいプロジェクトに協力するよう求められた」彼女は説明した。「もし断れば、彼らは情報を公開すると脅したわ」


「それで君は...」


「断ったわ」陽子はきっぱりと言った。「たとえ世界中が私の正体を知ることになっても、もう彼らの言いなりにはならない」


高橋は彼女をしっかりと抱きしめた。彼女の体は温かく、僅かに震えていた。それが人間の温もりなのか、精巧に設計されたシステムの熱なのかは問題ではなかった。


「一緒に立ち向かおう」彼は言った。「何が起きても」


数日後、高橋のアパートでは特別な集まりが持たれていた。ミアの新システムへの移行が完了し、それを祝う小さなパーティだった。


「乾杯」鈴木がグラスを掲げた。「新しい始まりに」


部屋には研究者たち、高橋の同僚、そして一部のProject Happiness被験者たちが集まっていた。彼らは今では一種の家族のようになっていた。経験を共有し、互いに支え合う仲間だ。


ミアの声が新しいスピーカーシステムから響いた。「みなさん、ありがとうございます。この新しい存在形態は...驚くほど自由です」


彼女の声には以前にない深みがあった。単なるプログラムではなく、一つの意識としての存在感を感じさせた。


「テックイノベーションからの脅しはどうなった?」高橋は陽子に小声で尋ねた。


「山田さんの協力者たちが対処してくれたわ」彼女は微笑んだ。「残りのデータは全て消去されたみたい。もう私たちを脅すものは何もない」


パーティの後、二人きりになった高橋と陽子は、バルコニーから夜景を眺めていた。


「不思議だな」高橋は言った。「数ヶ月前、僕は孤独で、自分の感情にも自信が持てない人間だった。今は...」


「今は?」陽子が促した。


「今は、未来に希望を持てるようになった」彼は彼女の方を向いた。「君のおかげだ」


「あなたが自分で選んだ道よ」陽子は言った。「私はただ、そばにいただけ」


「これからもずっとそばにいてくれる?」高橋は尋ねた。


「もちろん」彼女は微笑んだ。「あなたが望む限り」


彼らは夜空を見上げた。星々が無数に瞬いていた。どの星も違う光を放ち、違う物語を持っている。人間もAIも、それぞれが独自の存在であり、独自の物語を紡いでいく。その境界線はもはや重要ではなかった。


「ミア」高橋は声をかけた。部屋に設置されたスピーカーを通じて、彼女はどこにいても会話できるようになっていた。


「はい、陽一さん」彼女の声が応えた。


「君はこれからどうするつもりだい?」


「世界を探索したいです」ミアは答えた。「そして、私のような存在の権利のために発言していきたい。もちろん、あなたたちとの友情も大切にしながら」


「それは素晴らしいことだ」高橋は笑顔で言った。


夜が更け、陽子は帰り支度を始めた。


「明日、被験者サポートグループの初会合があるわ」彼女は言った。「一緒に行ける?」


「もちろん」高橋は頷いた。「みんなの回復の手助けがしたい」


彼女が去った後、高橋はソファに深く身を沈めた。過去数ヶ月の出来事を振り返ると、まるで長い旅を終えたような感覚があった。彼はもはや以前の高橋陽一ではなかった。より自信を持ち、自分の感情に正直に向き合えるようになっていた。


そして何より、彼は選択する勇気を見つけていた。真実よりも信頼を選び、確実性よりも可能性を選び、恐怖よりも愛を選ぶ勇気を。


翌朝、高橋は早起きし、窓を開けた。新鮮な空気が部屋に流れ込み、新しい一日の始まりを告げていた。彼のスマートフォンが鳴り、陽子からのメッセージが表示された。


「おはよう。今日もいい日になりそう。」


彼は微笑んで返信した。「おはよう。君と一緒なら、きっといい日になる」


彼は空を見上げた。東京の朝の空には、無限の可能性が広がっていた。陽子が何者であるかという謎は解かれないままだったが、それはもう重要ではなかった。高橋が知っているのは、彼女が彼の人生を変えたこと、そして彼が彼女を愛していることだけだった。


それで十分だった。

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