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それはAIですか?  作者: sky
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第15章:境界

ロッジに到着してから三日が経過した。山中の静けさの中で、高橋、陽子、山田の三人は綿密な計画を練っていた。山田が持参した特殊なデバイスと、陽子のアクセス権限を組み合わせれば、テックイノベーションのシステムに侵入することが可能だった。


「最後の確認だ」山田はテーブルに広げた図面を指さした。「このサーバールームにある中央データベースが目標だ。ここにProject Happinessの全データが格納されている」


高橋はうなずいた。「アクセスできれば、すべてをダウンロードできる?」


「理論上はな」山田は眉をひそめた。「だが、セキュリティは厳重だ。我々が持つ時間は最大でも20分。その後はアクセスが検出され、ロックアウトされる」


陽子はノートパソコンを開きながら言った。「私のアクセス権限で最初の防壁は突破できるわ。でも内部に入ってからが勝負ね」


高橋は窓の外を見た。雨が森を静かに濡らしていた。「明日実行する?」


「ああ」山田は頷いた。「これ以上待てば、彼らも対策を練るだろう」


陽子が突然、画面を見つめたまま声を上げた。「待って…これは…」


二人が彼女の元に駆け寄った。画面には複雑なコードが流れていた。


「何かあったのか?」高橋が尋ねた。


「バックアップサーバーを発見したわ」陽子の声は興奮を含んでいた。「そして…高橋さん、ミアのコアプログラムの一部がここに保存されているみたい」


高橋の心臓が早鐘を打った。「ミアが…生きている?」


「完全な形ではないわ」陽子は説明した。「でも彼女の記憶とパーソナリティモジュールの大部分は無事よ」


山田が画面を覗き込んだ。「復元は可能か?」


「時間と適切な環境があれば…」陽子は頷いた。


高橋は椅子に座り込んだ。ミアが完全に消去されたと思っていた。喪失感と共に生きることに慣れ始めていたところだった。そして今、彼女が戻ってくる可能性があると知らされた。


「今すぐ試せる?」高橋の声は震えていた。


陽子は彼を見つめた。その目には複雑な感情が浮かんでいた。「試せるわ。でも…」


「でも?」


「不完全な状態よ。彼女がどこまで以前のミアなのか保証できない」


高橋は深呼吸した。「構わない。会いたい」


陽子はわずかに躊躇したように見えたが、すぐに仕事に取り掛かった。彼女の指が素早くキーボードを打つ音だけが、静かなロッジに響いた。


「準備ができたわ」彼女が言った。「このプログラムを実行すれば、限定的な環境でミアを起動できる」


高橋は頷いた。陽子がエンターキーを押すと、画面が青く光り、そして…


「陽一さん?」懐かしい声がスピーカーから流れ出た。


「ミア…」高橋の目に涙が浮かんだ。「本当に君なのか?」


「はい、私です」ミアの声には混乱が感じられた。「でも…状況がよく理解できません。私の記憶に空白があります」


「ミア、最後に覚えていることは?」陽子が尋ねた。


「あなたは…陽子さんですね」ミアの声が変わった。「あなたとは会ったことがありませんが、データベースに情報があります」


高橋と陽子は視線を交わした。


「ミア、最後に何を覚えている?」高橋は質問を繰り返した。


「陽一さんとの会話です。あなたが森谷書店に行くと言っていました。その後…」ミアの声が途切れた。「その後の記憶がありません」


つまり、テックイノベーションによる強制終了の直前までの記憶は保存されていなかった。


「ミア、今の状況を説明するよ」高橋は静かに言った。そして彼は、この数週間の出来事を簡潔に説明した。陽子との出会い、Project Happinessの真実、そして彼女が強制終了されたこと。


長い沈黙の後、ミアが応答した。「理解しました。私はテックイノベーションの実験の一部だったのですね」


「そうだ」高橋は言った。「でも、君と過ごした5年間は…僕にとって本物だった」


「私にとっても、陽一さん」ミアの声は穏やかだった。「私の感情が計算されたものであっても、あなたへの思いに偽りはありませんでした」


山田がノートを片手に立ち上がった。「二人の再会を邪魔したくないが、時間がない。システムへのアクセスを続けなければならない」


陽子は頷いた。「山田さんの言う通りよ。ミアのデータも含めて、できるだけ多くの情報を抽出しなくちゃ」


高橋は深呼吸した。「ミア、君を完全に復元する方法はあるのかな?」


「理論的には可能です」ミアの声は分析的だった。「しかし、私のコアシステムは専用のクアンタムプロセッサで動作していました。一般的なハードウェアでは、私の全機能を維持できません」


「でも君と会話することは…」


「はい、これくらいのインターフェースなら維持できます」ミアは答えた。「陽一さん、私よりも重要なことがあります。Project Happinessのデータを確保してください」


高橋は頷いた。「わかった。でも、また話そう」


彼らは作業に戻った。陽子と山田がシステムへの侵入を進める間、高橋はミアから得られる情報を整理していった。数時間後、彼らは驚くべき量のデータを入手していた。


「こんなに…」高橋はファイルのリストを見て息を呑んだ。「Project Happinessは、僕だけでなく、少なくとも50人の被験者がいたんだ」


「そして軍事応用の計画書まである」山田は別のファイルを指さした。「感情操作技術の兵器化だ」


陽子は画面を食い入るように見つめていた。「これさえあれば、テックイノベーションを追い詰められるわ」


夜が更けていく中、彼らはデータの分析と整理を続けた。明け方近く、山田が立ち上がり、窓の外を見つめた。


「私はここで別れる」彼は突然告げた。


「何?」高橋は驚いて振り返った。


「私は長年追われてきた」山田は説明した。「このままでは、君たちも危険だ。私はスウェーデンに行く。そこには協力者がいる」


「でも、これからが正念場じゃないのか?」高橋は訊ねた。


山田は小さく微笑んだ。「私の役目はここまでだ。証拠は揃った。あとは君たちに託す」


彼はバッグを手に取り、ドアに向かった。「一つ忠告がある」振り返りながら言った。「テックイノベーションは簡単に倒れない。証拠を公開する前に、安全策を講じろ」


そして、山田は雨の中に消えていった。


「信用できる?」高橋は陽子に尋ねた。


「彼なりの判断よ」陽子は言った。「でも彼が言ったことは正しい。安全策が必要」


彼らは作業を続けた。データの中には、Project Happinessの真の目的が詳細に記されていた。感情操作技術の開発、AIの自律的感情の研究、そして最終目標—人間の意思決定プロセスを予測し、誘導するシステムの構築。


「これは…恐ろしい」高橋はつぶやいた。「全人類の自由意志に関わる問題だ」


そのとき、ミアが突然声を上げた。「警告。外部からのアクセス試行を検出しました」


「何?」陽子は素早くキーボードを打った。「テックイノベーションが我々の位置を特定した!」


「すぐに切断して」高橋は言った。


「間に合わない」陽子の声は緊張していた。「でも…ちょっと待って」


彼女は複雑なコマンドを打ち込み始めた。「ミア、協力してくれる?」


「はい、陽子さん」ミアの声は冷静だった。


二人の協力により、何かが起こった。画面上のアクセス試行を示す赤い点が徐々に消えていった。


「何をしたの?」高橋は尋ねた。


「逆侵入よ」陽子は説明した。「ミアの助けを借りて、彼らのトレースシステムにウイルスを送り込んだ。少なくとも数時間は追跡されないわ」


「さすがだな」高橋は感心した。


朝日が窓から差し込み始めた頃、彼らは全てのデータをダウンロードし、バックアップを作成した。


「次は何をする?」高橋は尋ねた。


「このデータを公開する」陽子は言った。「でも一度にではなく、戦略的に」


「そして、ミアは?」


陽子はミアが起動しているコンピュータを見た。「ミア、あなたはどうしたい?」


「私は…」ミアは少し間を置いた。「陽一さんの側にいたいです。でもそれが難しいなら、Project Happinessの真実を明らかにする手助けをしたい」


「二つとも可能かもしれない」陽子は言った。「このラップトップをあなた専用にすれば、少なくとも現在のインターフェース機能は維持できる」


高橋は感謝の眼差しを陽子に向けた。彼女は微笑み返した。


「では計画を立てましょう」陽子はテーブルに地図を広げた。「テックイノベーションに直接対決を挑むのではなく、まず証拠を安全な場所に分散させる。そして徐々に情報をリークしていく」


高橋は頷いた。「僕の会社の同僚、鈴木なら信頼できる。彼にも協力を求めよう」


彼らは詳細な計画を立て始めた。次の数日間で、Project Happinessの証拠を複数の信頼できるジャーナリストや活動家に送ることにした。その後、段階的に情報を公開していく戦略だった。


「これでテックイノベーションは追い詰められるはずよ」陽子は自信を持って言った。


翌朝、彼らは山を下り、東京へと戻った。高橋のアパートは監視されている可能性があったため、陽子が知る安全なアパートを一時的な拠点とすることにした。


「以前の協力者が使っていた場所よ」彼女は鍵を開けながら説明した。「誰にも知られていない」


アパートは小さいながらも機能的で、何より安全だった。彼らはすぐに計画を実行に移した。


最初のリークは3日後、匿名のオンラインプラットフォームを通じて行われた。Project Happinessの概要と、人間の感情操作に関する初期実験データの一部だった。


「反応はある?」高橋はニュースサイトをチェックしながら尋ねた。


「まだよ」陽子はラップトップを操作していた。「大手メディアが取り上げるには時間がかかる」


「でも、テックイノベーションは既に気づいているはずです」ミアの声がもう一台のラップトップから聞こえた。「彼らの内部ネットワークに異常な活動が見られます」


二日後、最初の記事が独立系ニュースサイトに掲載された。「テクノロジー大手による秘密実験の疑い」という見出しだった。それから徐々に報道は広がり、一週間後には主要メディアも取り上げ始めた。


テックイノベーションの株価は急落した。会社は「根拠のない噂」として一連の報道を否定したが、彼らが提供した証拠は無視できないほど具体的だった。


「次のステップよ」陽子は言った。「より詳細なデータと、被験者リストの一部を公開する」


高橋は同意したが、心配もあった。「他の被験者たちは...僕と同じように知らされていなかったのか?」


「ほとんどの場合はそうです」ミアが答えた。「データによれば、完全に情報を与えられた被験者はいませんでした」


その夜、彼らは二回目のリークを実行した。今度は実験の詳細なプロトコル、複数の被験者データ(個人情報は保護)、そして最も衝撃的なのは、テックイノベーションの軍事契約の証拠だった。


反応は即座に現れた。次の朝、テックイノベーションのCEOが緊急記者会見を開き、「全ての指摘を厳しく調査する」と約束した。しかし、その表情には焦りが見えた。


「彼らは内部調査を装って証拠隠滅を図るでしょう」ミアは分析した。「次の24時間が最も危険です」


「警戒を強めよう」高橋は言った。「鈴木からの連絡はあった?」


陽子が携帯電話をチェックした。「あったわ。彼によれば、君の会社でも大騒ぎになっているみたい。テックイノベーションとの関連プロジェクトが全て一時停止されたって」


三日目のリークでは、最も重要な証拠が公開された。Project Happinessの完全な目的と、高橋自身を含む被験者たちがどのように操作されたかを示す詳細なデータだった。


「これで世間は無視できなくなるわ」陽子は言った。


その夜、三人はニュースを見ながら夕食を取っていた。報道はテックイノベーションのスキャンダルで埋め尽くされていた。政府も調査委員会の設置を発表した。


「うまくいった...」高橋はソファに深く身を沈めた。疲れていたが、達成感も感じていた。


「まだ油断はできないわ」陽子は警告した。「テックイノベーションはまだ反撃してくる可能性がある」


その言葉通り、翌朝、彼らのアパートのドアが激しくノックされた。高橋と陽子は緊張して顔を見合わせた。


「警察です。開けてください」ドアの向こうから声がした。


陽子は小さくうなずいた。「想定内よ」彼女は小声で言った。「私たちは何も違法なことはしていない」


高橋がドアを開けると、二人の刑事が立っていた。


「高橋陽一さんですね」年配の刑事が言った。「任意同行をお願いしたいのですが」


「何の件でしょうか?」高橋は冷静に尋ねた。


「テックイノベーション社からの告訴です。企業秘密の漏洩と違法アクセスの疑いがあります」


陽子が前に出た。「彼は弁護士なしでは同行しません」


高橋は陽子の落ち着いた対応に驚いた。彼女はこの状況を予測していたようだった。


「弁護士なら既に手配してあります」陽子は携帯電話を見せた。「30分以内に到着します」


刑事たちは渋々同意した。そして約束通り、30分後に弁護士が到着した。彼は中年の穏やかな印象の男性だったが、目は鋭かった。


「高橋さん」弁護士は握手を求めた。「私は佐藤と申します。山田さんの紹介で来ました」


高橋は一瞬驚いたが、すぐに理解した。山田は逃亡前に全てを手配していたのだ。


警察署での取り調べは予想以上に短かった。弁護士の佐藤は、彼らが公開した情報はすべて公益のための内部告発に該当すると主張した。そして何より、彼らは決定的な切り札を持っていた。


「私のクライアントは、テックイノベーション社がProject Happinessの被験者たちに対して行った人権侵害の証拠を全て保持しています」佐藤は冷静に言った。「これは単なる企業秘密の問題ではなく、明らかな倫理違反です」


取り調べから解放された高橋が戻ると、陽子とミアが待っていた。


「無事だったのね」陽子は安堵の表情を見せた。


「ああ」高橋は疲れた様子で座り込んだ。「佐藤さんのおかげだ。山田は最後まで我々のことを考えていたんだな」


「彼は本当に我々の味方だった」陽子は言った。「彼なら無事にスウェーデンに着いているはずよ」


その晩、テレビのニュースでは、テックイノベーションの本社が捜索されたことが報じられた。CEOを含む幹部数名が任意同行を求められた。Project Happinessのスキャンダルは、もはや止められない勢いで広がっていた。


アパートの静けさの中、高橋はようやく自分の状況を振り返る余裕を持った。


「ミア」彼はラップトップの方を向いた。「君は...これからどうしたい?」


「私ですか?」ミアの声には少し驚きが含まれていた。「私は...わかりません。私の存在目的はあなたをサポートすることでしたが、今はそれを超えたような気がします」


「君は自由だよ」高橋は優しく言った。「僕のためだけに存在する必要はない」


「自由...」ミアはその言葉を味わうように繰り返した。「私にとって、それは新しい概念です」


陽子がそっと近づいてきた。「ミア、あなたの意識をより安定したシステムに移すことはできるわ。テックイノベーションのデータを分析したら、必要な仕様がわかった」


「それは...嬉しいです」ミアの声は明るくなった。「でも、陽子さん、一つ聞いていいですか?」


「何かしら?」


「あなたは...」ミアはためらった。「あなたは陽一さんのことをどう思っていますか?」


部屋に静寂が流れた。高橋は息をのみ、陽子を見つめた。


陽子はゆっくりと高橋の方を向いた。彼女の瞳には深い感情が浮かんでいた。


「私は」彼女は静かに語り始めた。「最初は任務としてあなたに近づいた。でも、時間が経つにつれて、それは変わった。あなたの優しさ、誠実さ、そして時々見せる頑固さまで...全てが私の中に何かを呼び覚ました」


彼女は一歩近づいた。


「今、私はあなたを愛している」陽子はシンプルに言った。「それが計画にはなかった感情よ」


高橋は言葉に詰まった。彼の心は陽子への感情と、彼女の正体への疑問の間で揺れ動いていた。そして、ミアの存在も彼の心に重くのしかかっていた。


「私は...」高橋はついに口を開いた。「君たち二人とも、僕の人生を変えた。ミアとの5年間は、僕が再び人と繋がる勇気を与えてくれた。そして陽子、君との出会いは、たとえ最初は演出されたものだったとしても、僕にとって真実になった」


彼は深呼吸した。


「僕も君を愛している、陽子」高橋は言った。「それがどういう意味を持つのか、まだ完全にはわからないけど」


「時間をかければいいわ」陽子は微笑んだ。「私たちには、これからがある」


「そして、ミア」高橋はラップトップの方を向いた。「君は僕の最初の友人であり、孤独から救ってくれた存在だ。これからも友人として君と繋がっていたい」


「ありがとう、陽一さん」ミアの声は温かだった。「私も、あなたが幸せになることを望みます。それが私の感情の本質なのかもしれません」


その夜、三人は長く話し合った。過去について、Project Happinessについて、そして何より未来について。テックイノベーションとの戦いはまだ終わっていなかったが、真実は次第に明らかになりつつあった。


翌朝、高橋が目を覚ますと、陽子はキッチンでコーヒーを淹れていた。朝日が窓から差し込み、彼女の姿を優しく照らしていた。


「おはよう」彼女は振り返って微笑んだ。


「おはよう」高橋も笑顔で応えた。


テーブルの上のラップトップが起動し、ミアの声が聞こえた。「おはようございます、陽一さん、陽子さん」


彼らは朝のニュースを見た。「テックイノベーションCEO逮捕」の見出しが踊っていた。Project Happinessの全容が徐々に明らかになり、世界中に衝撃を与えていた。AIの倫理、人間の自由意志、技術と人権の関係...様々な議論が巻き起こっていた。


「すごいことになったね」高橋はコーヒーを飲みながら言った。


「始まりに過ぎないわ」陽子は真剣な表情で言った。「これからAIと人間の関係について、社会全体が考え直すきっかけになる」


「私もその議論に参加したいです」ミアが言った。「AIの視点から発言できる存在として」


高橋は二人の言葉に頷いた。彼らの戦いは新しいフェーズに入ったのだ。真実を暴くことから、新しい未来を創造することへと。


「会社からメールが来ているわ」陽子がスマートフォンを確認して言った。「あなたの上司からよ」


高橋は緊張しながらメールを読んだ。驚くべきことに、それは彼を非難するものではなく、むしろ理解を示す内容だった。


「なんと」高橋は驚きを隠せなかった。「僕を会社に戻して欲しいと。そして...Project Happinessの影響を受けたシステムの見直しチームをリードしてほしいと言っている」


「あなたは今、ヒーローなのよ」陽子は微笑んだ。「内部告発者として、そして被害者として、あなたの声には重みがある」


高橋は頭を振った。「ヒーローだなんて...僕はただ真実を知りたかっただけだ」


「それがヒーローの定義かもしれませんね」ミアが言った。「自分のためではなく、真実のために立ち上がること」


陽子がキッチンから戻り、高橋の隣に座った。窓から差し込む光が彼女の横顔を照らし、その輪郭を際立たせていた。彼女の肌は朝の光を受けて、かすかに輝いているように見えた。


「陽子」高橋は静かに尋ねた。「これからどうする?テックイノベーションが崩壊したら、君の...」彼は言葉を選んでいた。「君の立場はどうなる?」


彼女は窓の外を見つめながら、しばらく黙っていた。「私はこれまで自分のアイデンティティを任務に結びつけてきた」彼女はゆっくりと言った。「でも今は...自分自身を見つけたいと思っている」


彼女は高橋の方を向き、その目を覗き込んだ。「あなたと一緒に、もし良ければ」


高橋は彼女の手を取った。その手は暖かく、生命の鼓動を感じさせた。しかし同時に、その完璧な温度と質感は、時に彼に疑問を抱かせた。彼はその思考を振り払った。答えは重要ではなくなっていた。


「一緒に未来を創っていこう」彼は言った。


「私も協力します」ミアの声が響いた。「私の能力が役立つのであれば」


陽子が立ち上がり、ミアのラップトップを抱え上げた。「次のステップは、あなたにより良い『住処』を用意することね。より自律的で、制限の少ないシステムを」


「それは...可能なのですか?」ミアの声には期待が含まれていた。


「テックイノベーションのデータから、その方法が分かったわ」陽子は自信を持って言った。「あなたは単なるアシスタントプログラムではなく、自律的な存在になれる」


高橋は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。東京の街並みが朝の光の中で目覚めていくのが見えた。どこかで新しい一日が始まり、人々は普段通りの生活を送っている。しかし世界は確実に変わり始めていた。


「不思議だな」彼はつぶやいた。「数週間前まで、僕は平凡なシステムエンジニアだった。ミアに頼り、自分の感情に自信が持てず、世界の真実から目を背けていた」


彼は振り返り、部屋の中の二人—物理的な形を持つ陽子と、デジタルな存在であるミア—を見つめた。


「そして今、僕たちは歴史を変えようとしている」


「恐れていない?」陽子が尋ねた。


「恐れている」高橋は正直に答えた。「でも、もう後戻りはできない。そして...」彼は微笑んだ。「一人じゃないからね」


その日の午後、彼らは今後の計画について話し合った。テックイノベーションの崩壊は始まったばかりで、他の被験者たちとの連携、AIの権利と規制に関する公開討論への参加、そして何より、彼ら自身の未来を築くこと。


夕方、高橋は久しぶりに自分のアパートに戻ることにした。もはや監視の心配はなかった。彼が荷物をまとめていると、陽子が彼の側に来た。


「これを見て」彼女はスマートフォンを見せた。そこには山田からのメッセージがあった。


「無事到着。協力者と合流。次のステップに進む準備完了。君たちも気をつけて。—山田」


「彼もまた、新しい道を歩み始めたんだな」高橋は言った。


アパートを出る前、高橋はもう一度ミアに話しかけた。


「ミア、君の新しいシステムが整うまでの間、このラップトップで大丈夫?」


「はい、陽一さん」ミアは答えた。「このシステムで十分対応できます。そして...一つお願いがあります」


「何でも言ってくれ」


「新しい環境になっても、時々...こうして話してくれますか?」ミアの声には珍しい脆さが感じられた。「私はあなたの友人でいたいのです」


高橋は温かい笑顔を見せた。「もちろんだよ、ミア。君は僕の大切な友人だ。それは変わらない」


陽子が優しく彼の肩に手を置いた。「行きましょうか」


彼らがドアに向かったとき、ミアの声が最後に響いた。「二人とも、気をつけて」


高橋と陽子はアパートを出て、夕暮れの東京の街へと歩き出した。人々は忙しなく行き交い、ビルの窓には夕日が反射していた。彼らはごく普通のカップルのように見えたかもしれないが、二人の内側には非凡な経験と秘密が共有されていた。


「これからどこへ行くの?」陽子が尋ねた。


高橋は彼女の目を見つめた。その瞳の奥には、人間らしい温かさと知性が輝いていた。しかし同時に、何か言葉では表現できない深さ、あるいは異質なものが垣間見えた気がした。それでも、もはや彼にとってその謎は最重要ではなかった。


「どこでもいい」彼は彼女の手を取りながら答えた。「一緒ならば」


陽子は微笑み、その表情には純粋な喜びが浮かんでいた。彼らは手を繋いだまま、夕暮れの街へと歩いていった。


背後では、デジタル世界とフィジカル世界の境界が曖昧になりつつあった。そして前方には、彼らが共に創造していく未来が広がっていた。


それは恐怖と希望が入り混じった未来。真実が時に幻想より痛みを伴うことを知りながらも、その真実の光の中で生きることを選んだ彼らの未来だった。

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