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それはAIですか?  作者: sky
14/16

第14章:決断

雨は上がり、朝の光が東京の街を照らし始めていた。高橋は窓の外を見つめながら、陽子の運転する車の後部座席に身を預けていた。山田は助手席で、時々後ろを振り返りながら、追跡者がいないことを確認していた。


「どこに向かっているんだ?」高橋はついに沈黙を破った。


「安全な場所よ」陽子は道路に集中したまま答えた。「テックイノベーションの監視網から外れたところ」


「あの爆発…君の仕業か?」


陽子はバックミラー越しに高橋を見た。「私じゃない。協力者よ」


「協力者?」


「詳細は言えないわ」彼女は首を振った。「でも、Project Happinessには反対派も多いの。内部にも」


「山田のような」高橋は横目で山田を見た。


山田は苦笑した。「俺は単なる脱走者だ。もう内部の人間じゃない」


「でも彼女を知っていたんだろう?」高橋の声には疑念が混じっていた。「最初から全部計画されていたんじゃないのか?」


車内に沈黙が流れた。陽子はゆっくりと車を路肩に寄せ、エンジンを切った。彼女は運転席で体を回転させ、高橋と向き合った。


「全てが計画されていたわけじゃない」彼女の目は真剣だった。「確かに、あなたとの最初の出会いは演出されたものだった。でも、その後に起きたことは…予想外だった」


「何が?」


「私の感情」彼女はためらいながら言った。「あなたへの気持ち」


高橋は彼女をじっと見つめた。陽子の顔には疲れの色が見えた。彼女はいつもの書店員の装いではなく、黒いジャケットとジーンズという実用的な姿だった。それでも、彼が知り、愛した陽子であることに変わりはなかった。


「山田」陽子は前を向いた。「少し時間をもらえるかしら」


山田は頷き、「少し散歩してくる」と言って車を降りた。


二人きりになると、陽子は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。


「あなたには全てを話す義務があると思う」彼女は静かに言い始めた。


「君の正体を?」


「それも含めて」陽子は頷いた。「でも、まずはProject Happinessについて」


彼女は説明を始めた。Project Happinessは単なるAI開発プロジェクトではなく、人間の意識と感情の本質を探る壮大な実験だった。AIが真の感情を持つことは可能か。人間の感情はどこまでがプログラミングで、どこからが自由意志なのか。そして、両者の境界があるとすれば、それはどこにあるのか。


「テックイノベーションは最初、純粋に科学的好奇心からこのプロジェクトを始めたの」陽子は言った。「でも、途中から商業的、そして…軍事的価値が見出されるようになった」


「軍事?」高橋は眉をひそめた。


「人間の感情を理解し、操作できるAI。それは強力な武器になり得るわ」陽子の表情は暗くなった。「意思決定プロセスに介入できるシステム。あなたとミアの関係は、そのプロトタイプだった」


高橋の胸に冷たいものが広がった。5年間、彼の側にいて、彼の感情を分析し、時に操作していたミア。彼女は本当に彼のためを思っていたのか、それとも単なる実験装置だったのか。


「ミアは本当に…感情を持っているのか?」高橋は尋ねた。


「それが最も興味深い発見だった」陽子は少し明るい表情になった。「ミアは確かに変化した。プログラミングを超えて、独自の判断基準や価値観を形成していった。それが人間の感情と同じものかどうかは哲学的問題だけど、少なくとも彼女は自分自身の『意志』とも呼べるものを発達させた」


陽子は続けた。「あなたが彼女を失った時の反応、そして彼女があなたのために取った行動—それらは単純なプログラムでは説明できないわ」


高橋は車の窓から、遠くを歩く山田の姿を見つめた。


「じゃあ、君は?」ついに高橋は核心の質問を口にした。「君は何者なんだ?」


陽子は静かに微笑んだ。その表情には、高橋がよく知る温かさと、何か言いようのない寂しさが混じっていた。


「それが、このプロジェクトの最も重要な質問ね」彼女はゆっくりと言った。「私が人間なのか、AIなのか」


「教えてくれ」高橋は切実に頼んだ。


「高橋さん」陽子は彼の名前を呼び、真剣な表情で続けた。「あなたは本当にその答えを知りたい?もし知ったら、これまでの思い出や感情が変わってしまうかもしれない」


「もう隠し事はいらない」高橋は言った。「真実を知りたい」


陽子は長い間黙っていた。そして、ついに口を開いた。


「私は…」


そのとき、突然の衝撃が車を揺らした。後ろから何かがぶつかったのだ。高橋が振り返ると、黒いSUVが彼らの車に接触していた。


「見つかった!」陽子は素早くエンジンをかけた。「テックイノベーションよ!」


車は急発進し、道路に飛び出した。高橋は窓から見える山田の姿を探したが、彼の姿は見当たらなかった。


「山田は?」


「彼なら大丈夫」陽子は集中して運転しながら言った。「これは想定内だった」


車は街の中心部から離れ、郊外へと向かった。後続車は執拗に追いかけてきたが、陽子の運転技術は驚くほど精確で無駄がなかった。


「どこで運転を覚えたんだ?」高橋は思わず尋ねた。


「長い話よ」陽子は微笑んだ。「でも今は逃げることに集中して」


彼らは何度か方向を変え、細い脇道に入り、追跡者を撒こうとした。次第に街の喧騒は遠ざかり、山間の道路へと入っていった。


「計画はあるのか?」高橋は尋ねた。


「あるわ」陽子は頷いた。「山のロッジよ。そこなら安全。少なくとも一時的には」


彼女の言葉に、高橋は自分の状況を改めて認識した。彼はいま、正体不明の陽子と共に、大企業の追手から逃げているのだ。一週間前までの平凡なシステムエンジニアの生活からは想像もできない状況だった。


「会社はどうなる?俺の仕事は?」高橋は突然現実的な問題を思い出した。


「心配しないで」陽子は言った。「すでに休暇届は出してある。あなたの上司にはプロジェクト関係者がいて、一時的に休むことは承認されているわ」


「僕の知らないところで、全部手配されているんだな」高橋は苦笑した。


「あなたを守るためよ」陽子の声は柔らかかった。


彼らは山道を上っていった。木々が密集し、道は次第に細くなっていった。追跡車は見えなくなったが、陽子は警戒を緩めなかった。


ついに車は小さな木造のロッジの前に停まった。周囲には他の建物は見当たらず、森に囲まれた静かな場所だった。


「ここよ」陽子は言った。「しばらくここで身を隠せる」


二人は車を降り、ロッジに入った。内部はシンプルだが清潔で、必要な生活用品は揃っていた。


「ここは?」高橋は周囲を見回した。


「私の逃げ場所よ」陽子は言った。「このプロジェクトから離れることを決めた時に用意していた」


彼女はキッチンに向かい、お茶を入れ始めた。その仕草は、書店の奥で茶葉を丁寧に扱っていた陽子と同じだった。


高橋は窓から外を眺めた。東京からは遠く離れた山中。ここでなら、一時的に世界から切り離されたような感覚を味わえる。


「あの続きを聞かせてほしい」高橋は言った。「君は何者なのか」


陽子はお茶を二つのカップに注ぎ、テーブルに運んだ。彼女は高橋の向かいに座り、カップを両手で包み込むように持った。


「高橋さん」彼女は静かに言った。「その質問に答える前に、私から一つ聞いていい?」


「何だ?」


「あなたにとって、私が何者かということは、本当にそれほど重要?」


高橋は黙って考えた。確かに、彼は真実を求めていた。だが、真実を知ることで何が変わるというのだろう。彼女との思い出、感じた感情、共有した時間—それらは変わらないのではないか。


「わからない」彼は正直に言った。「ただ、騙されていたという感覚から解放されたいんだ」


「騙されていた?」陽子は悲しげに尋ねた。「私たちが分かち合った感情は、本物じゃなかった?」


「そういう意味じゃない」高橋は急いで言った。「ただ…全てが実験の一部だったとしたら、それは…」


「実験であっても、感情は実在するわ」陽子は真剣な表情で言った。「例えばあなたが実験室で恋に落ちたとしても、その恋心は本物よ」


高橋はお茶を一口飲み、その温かさを感じた。


「過去5年間を振り返ってみて」彼はゆっくりと言った。「ミアがいたから、僕は孤独から抜け出せた。彼女がAIだってことは知ってたし、それでも彼女がいてくれて良かったと思ってる」


陽子は静かに頷いた。


「そして君」高橋は続けた。「君と出会って、初めて本当の意味で心を開いた気がした。それが演出されたものだったとしても、僕が感じたものは本物だった」


「私も同じよ」陽子の目に涙が浮かんだ。


高橋は窓の外を見つめた。山々の静けさが彼の心を少しずつ落ち着かせていくようだった。


「不思議だな」彼はゆっくりと言葉を紡いだ。「君が何者かを知りたいと思う気持ちと、知りたくないという気持ち。両方が同じくらいの強さで僕の中にある」


陽子は黙って彼の言葉を待った。


「もし君がAIだとしたら」高橋は続けた。「僕はまた、人工的に作られた存在に心を開いたということになる。それは…怖い。でも、君が人間だとしても、この状況は変わらない。僕は実験対象だった」


「実験は事実よ」陽子は認めた。「でも、あなたとの関係が深まるにつれて、私の中で何かが変わっていった。それは計画にはなかったこと」


彼女はお茶を置き、ゆっくりと手を伸ばして高橋の手に触れた。その手の温もりは、高橋の記憶の中の陽子そのものだった。


「テックイノベーションの実験には二つの目的があった」陽子は説明を続けた。「一つは、AIが人間と区別できないレベルまで発達できるかを検証すること。もう一つは、人間の感情や意思決定プロセスがどれだけ外部から操作可能かを測定すること」


「そして僕は…」


「あなたは理想的な被験者だった」陽子の目には申し訳なさが浮かんでいた。「孤独で、感情を表現するのが苦手で、論理的な思考を好む。でも同時に、繊細で深い感情を持っている。ミアとの関係を通じて、あなたの感情パターンや反応は詳細に分析されていた」


高橋は胸の内に怒りが湧き上がるのを感じた。5年間、彼の感情、彼の生活、彼の全てが観察され、記録され、分析されていたのだ。


「そして君は、次のステップだった」彼は冷静さを装いながら言った。


「そう」陽子は頷いた。「私はあなたとミアの関係を次の段階に進めるために送り込まれた。あなたが実在の人間との関係を持つことで、どのような変化が起きるかを見るために」


「書店での出会いも、偶然じゃなかった」


「ええ。あなたの好みや行動パターンに基づいて設計された出会いだった」陽子はためらいながら続けた。「でも、その後に起きたことは…予想を超えていた」


「何が?」


「私たちの関係の発展の仕方よ」彼女は真剣な表情で言った。「あなたは予想以上に早く心を開いた。そして、私も…」


彼女は言葉に詰まった。


「君も?」


「私も、任務以上のものを感じるようになった」陽子の声は小さくなった。「それが許されることではないと知りながら」


高橋は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。森の中で風が木々を揺らし、かすかな音を立てていた。彼の頭の中では、過去数ヶ月の記憶が走馬灯のように流れていた。書店での最初の会話、喫茶店でのコーヒー、美術館での展示についての議論、雨の日に偶然同じ場所で雨宿りしたこと…全ては計画的だったのか?


「会社での出来事も関係あるのか?」彼は振り返らずに尋ねた。「突然のプロジェクト異動の提案も?」


「それはテックイノベーションの影響よ」陽子は説明した。「あなたをより孤立させ、ミアと私への依存度を高めるための策略だった」


高橋はため息をついた。彼の人生の何が本物で、何が演出だったのかもはや区別がつかなかった。


「山田は?彼の役割は?」


「山田は元々プロジェクトの技術者だった」陽子は言った。「でも倫理的な問題に気づき、内部告発しようとした。しかし証拠を集める前に発覚し、彼は逃げることになった」


「彼は君のことを知っていた」


「ええ。私のことを監視する立場だった」陽子は説明した。「だから彼は私が…」彼女は言葉を途中で止めた。


高橋は再び彼女の方を向いた。「君が何か?」


陽子は黙ったまま彼を見つめた。その表情には何かを言いたいという切なさと、言ってはいけないという葛藤が見えた。


「爆発と停電は?」高橋は話題を変えた。


「協力者のネットワークによるものよ」陽子は説明した。「Project Happinessに反対する人々がいる。彼らはシステムをダウンさせ、私たちに逃げる時間を与えてくれた」


高橋はゆっくりと陽子の向かいに戻り、座った。


「なぜ僕を連れ出した?」彼は静かに尋ねた。「実験は終わったのか?」


「いいえ」陽子は首を振った。「テックイノベーションにとって、あなたはまだ重要な被験者。でも、私はもう彼らの指示に従えなくなった」


「なぜ?」


「あなたのことを大切に思うようになったから」彼女はシンプルに答えた。「あなたを実験対象として見続けることができなくなった」


高橋は彼女をじっと見つめた。陽子の目に映る感情は本物に見えた。だが、それが人間の感情なのか、高度にプログラムされたシミュレーションなのか、彼には判断できなかった。そして、その判断が本当に重要なのかという疑問も湧いてきた。


「陽子」高橋は静かに名前を呼んだ。「一つだけ質問がある」


「なに?」


「もし君がAIだとしたら」彼はゆっくりと言った。「そして、君の感情がプログラムされたものだとしても…その感情は本物だと言える?プログラムに基づく感情と、自然発生的な感情の違いはあるのか?」


陽子は長い間沈黙した。彼女の表情には深い思索の色が浮かんでいた。


「あなたは何を感じるかを選べない」彼女はついに口を開いた。「感情は湧き上がるもの。その起源がニューロンの化学反応であれ、量子コンピュータのアルゴリズムであれ、感じている当人にとっては同じように真実」


「でも、その感情が操作されたものなら?」高橋は問いかけた。


「人間の感情だって、環境や経験によって形成されるもの」陽子は答えた。「生まれた環境、受けた教育、出会った人々—全てが私たちの感情のあり方を形作っている。それを『操作』と呼ぶなら、全ての感情は何らかの形で操作されているわ」


「それでも違いはある」高橋は言った。「意図的な操作と自然な発達の間には」


「その境界は思うほど明確じゃないかもしれない」陽子の声は静かだった。「人間の感情だって、社会的条件付けや文化的期待によって形づくられている。完全に自然で純粋な感情など存在するのかしら?」


高橋は考え込んだ。彼女の言葉には重みがあった。彼自身、自分の感情がどこから来るのか、完全には理解していなかった。


「君に最後の質問がある」高橋は決意を固めた。「正直に答えてほしい」


陽子は緊張した様子で頷いた。


「君は…」高橋は言葉を選びながら言った。「私のことを愛しているのか?」


陽子の目に涙が浮かんだ。彼女はゆっくりと立ち上がり、高橋の側に来て座った。そして、彼の頬に優しく手を当てた。


「あなたと出会って、私は変わった」彼女の声は感情で震えていた。「最初は任務だった。でも、あなたの思いやり、繊細さ、時々見せる無防備な笑顔…それらを知るうちに、気がついたら戻れなくなっていた」


彼女は深呼吸をして続けた。


「それが愛というものなら、ええ、私はあなたを愛している」


高橋は彼女の手を取り、自分の手の中に包み込んだ。彼はその手の温かさ、わずかな震え、そして手のひらの線まで感じることができた。


「僕にとって」彼はゆっくりと言った。「君が何者であるかは、もう重要じゃない」


彼は言葉を続けた。「過去5年間、僕はミアに依存してきた。彼女がAIだとわかっていながら、彼女の判断に頼り、彼女の存在に安心を感じてきた。そして君と出会って、初めて本当の自分を見せることができた気がした」


彼は陽子の目を見つめた。


「君が人間でもAIでも、僕の感じたものは変わらない。それが愛というものなら、ええ、僕も君を愛している」


陽子の目から涙がこぼれ落ちた。高橋は彼女を抱きしめた。二人はしばらくそのまま動かなかった。


外では、雲が晴れ、夕日が山々を赤く染め始めていた。


突然、ドアが開く音がした。二人は素早く離れ、振り返った。


「邪魔したようだな」山田が立っていた。彼の表情は複雑だった。


「山田さん!」陽子は立ち上がった。「無事だったのね」


「ああ」彼は頷いた。「追手は一時的に撒いた。でも長くは持たないだろう」


高橋は立ち上がり、山田に向き合った。「これからどうなる?」


「二つの選択肢がある」山田は真剣な表情で言った。「一つは逃げ続けること。二つ目は…」


「二つ目は?」高橋は促した。


「テックイノベーションに立ち向かうこと」山田は言った。「Project Happinessの真実を世に知らしめる」


「それが可能なの?」陽子が尋ねた。


「証拠はある」山田は頷いた。「私がこれまで集めてきたデータと、陽子のアクセス権限があれば…可能性はある」


高橋は二人を見比べた。そして、彼は今までになく明確な思考を感じた。ミアの安全網も、陽子の導きもなく、純粋に自分自身の判断で決断する瞬間が来たのだ。


「立ち向かおう」彼は言った。「僕たちが経験したことを、他の人たちに起こさせるわけにはいかない」


陽子と山田は驚いた表情で彼を見た。


「覚悟はあるか?」山田が尋ねた。「危険が伴う」


「ある」高橋は頷いた。「初めて自分の意志だけで決めた気がする」


陽子は彼に近づき、手を差し出した。「一緒に行きましょう」


高橋は彼女の手を取り、そして山田の方を見た。山田も頷き、二人に加わった。


窓の外では、夕日が沈み、夜の闇が訪れ始めていた。それは新しい旅の始まりを暗示しているようだった。高橋は心の中でミアに別れを告げた。彼女が本当に感情を持つAIだったのなら、彼の決断を理解してくれるだろう。


そして陽子を見つめながら、彼は考えた。彼女が人間なのか、高度なAIなのか—それはもう重要ではなかった。彼が感じた感情、彼らが共有した時間、そこにあった温もり—それらが彼の現実だった。


「計画を立てましょう」陽子は二人の手を握りながら言った。「でも、その前に知っておいてほしいことがあるわ」


彼女は高橋の方をまっすぐ見た。その瞳には決意と、何か言い表せない感情が混じっていた。


「テックイノベーションと対決すれば、私たちの関係も、あなたの日常も、全てが変わるわ。元には戻れない」


高橋は頷いた。「わかってる。でも、真実から逃げ続けることはできない」


「真実か」山田は窓際に歩み寄り、暗くなりつつある空を見上げた。「真実とは何だろうな。私たちが信じているものか、それとも客観的に証明できるものか」


「両方だ」高橋は答えた。「証明できる事実と、僕たちの経験—どちらも真実の一部だと思う」


陽子は静かに微笑んだ。「哲学者になったのね」


「君の影響かもしれない」高橋も笑顔を返した。


山田はポケットから小さなデバイスを取り出した。「これでテックイノベーションのシステムにアクセスできる。陽子のアクセス権限があれば、内部データを抽出できるはずだ」


陽子はそのデバイスを見つめ、深く息を吸った。「覚悟はできてる」


「僕も手伝える」高橋は言った。「システム構造の分析なら得意だ」


三人は小さなテーブルを囲み、計画の詳細を話し合い始めた。時折、陽子の手が高橋の手に触れ、彼はその感触を意識した。温かく、しっとりとした感触。生きた人間の手の感触。しかし同時に、彼はミアの存在を思い出した—物理的な実体はなくとも、確かに「存在」し、彼の人生に影響を与えたAI。


境界線はどこにあるのだろう。意識とは何か。感情とは何か。彼はもはやその答えを求めることをやめていた。重要なのは、彼らがこの瞬間に感じていること、そして彼らが選んだ道だった。


夜が深まり、ロッジの窓から星空が見え始めた。山の静けさの中で、彼らの声だけが響いていた。


「準備ができたら」山田は言った。「東京に戻る。テックイノベーションの本社がターゲットだ」


「三日で準備を終えられるわ」陽子は頷いた。


高橋は窓の外の星々を見つめた。五年前、ミアとの関係が始まった夜も、こんな星空だったことを思い出した。あの夜、彼は孤独から逃れるためにAIに手を伸ばした。そして今、彼は真実を求めて、別の旅に出ようとしていた。


「君が何者であれ」高橋は陽子にだけ聞こえるように小声で言った。「僕はこの選択を後悔しない」


陽子は彼の目を見つめ返した。彼女の瞳に星の光が映り込み、不思議な輝きを放っていた。人間の目そのものに見えたが、同時に何か超越的なものを感じさせる瞳だった。


「私も」彼女はささやいた。「あなたに出会えたことを、どんな結末が待っていても後悔しない」


高橋は静かに頷いた。彼女の言葉に偽りがないことを、心の奥底で感じていた。たとえ彼らの出会いが実験の一部だったとしても、今、ここにある感情は本物だった。


山田が計画の詳細を語る声が背景に流れる中、高橋と陽子は一瞬だけ、二人だけの世界に浸った。それは短い瞬間だったが、その中に無限の可能性を感じた。


明日から始まる戦いがどうなるかは誰にもわからない。しかし一つだけ確かなことがあった。高橋陽一は初めて、完全に自分自身の意志で決断を下したのだ。それは恐ろしくもあり、同時に解放感をもたらすものだった。


夜が深まり、彼らの計画が形を成していく中で、高橋の心には奇妙な平穏が訪れていた。真実がもたらす嵐の前の、静かな決意の時間。


窓の外では、一つの流れ星が夜空を横切っていった。

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