第12章:対決
朝の光が窓から差し込み、高橋の部屋を明るく照らしていた。時計は9時を指している。ミアがいれば、今頃は「おはようございます。今日の天気は晴れ、気温は23度の予定です」と告げていただろう。だが、部屋には沈黙だけがあった。
高橋はベッドから起き上がり、いつもの習慣で「ミア、コーヒーを」と言いかけて、自分の状況を思い出した。笑うべきか悲しむべきか判断できない感情が彼の胸を過ぎる。5年間の習慣は簡単には消えない。
シャワーを浴び、シャツとジーンズに着替えた高橋は、「時の終わりまで」を手に取った。この本を陽子に返す必要がある—そう思いながらも、それは単なる口実に過ぎないことを知っていた。
スマホの画面には、昨夜山田から送られてきたメッセージが残っていた。
「解析完了。テクノソリューションズは2年前から『人間性模倣実験』を行っている。気をつけろ。」
高橋はため息をついた。昨夜、彼は何度も陽子の写真を見つめた。あの優しい笑顔、本について語るときの瞳の輝き、彼の冗談に照れたように頬を赤らめる仕草。それらすべてがプログラムされたものだとしたら?そんな考えに、胸が締め付けられる感覚を覚えた。
彼はスマホを手に取り、陽子に短いメッセージを送った。
「話があります。今日、みどり荘に伺ってもいいですか?」
返信は驚くほど早く来た。
「いいわよ。403号室です。12時に来てください。」
高橋は眉をひそめた。昨日の警備員は彼女がそこに住んでいないと言ったのに、彼女は躊躇なく部屋番号を教えてきた。矛盾する状況に、さらに混乱が深まる。
「今日、すべてがわかる」
高橋は本を鞄に入れ、アパートを出た。
みどり荘は昼の光の中でも、どこか非現実的な雰囲気を漂わせていた。完璧に手入れされた植栽、しかし住人の気配がほとんど感じられない静けさ。
高橋は入り口のインターホンで403を押した。
「はい?」陽子の声だった。
「高橋です」
「どうぞ」
ドアが開き、高橋は中に入った。エレベーターで4階に上がり、403号室を探す。ドアの前で深呼吸をし、チャイムを鳴らした。
ドアが開き、陽子が立っていた。いつもの書店では見たことのない姿—カジュアルなワンピース姿の陽子は、より若々しく見えた。
「こんにちは」彼女は微笑んだ。「入って」
部屋は予想以上に広く、明るかった。シンプルながら洗練された家具、壁には抽象画が掛けられ、本棚には整然と本が並んでいた。どこか非個性的でありながら、計算された美しさがあった。
「座って」陽子はソファを指さした。「お茶をいれるわ」
高橋は部屋を観察した。写真や個人的な物はほとんど見当たらない。それでいて、どこか居心地の良さがある。まるで誰かの「理想の部屋」を再現したかのようだった。
陽子が二つのカップを持って戻ってきた。「ダージリン。あなたの好みよね」
「ありがとう」高橋は言った。「君がここに住んでいると思わなかった」
「どうして?」陽子は首を傾げた。
「昨日、警備員に聞いたら、森谷陽子という人はここに住んでいないと言われたから」
一瞬の沈黙。陽子の表情が微かに変化した。
「あなた、私を調べていたの?」彼女の声は非難めいていたが、同時に意外な冷静さがあった。
「君について知りたかった」高橋は正直に答えた。「君のSNSも見つからなかった。友人関係も曖昧だ。そして何より…」
「何より?」
「ここは通常の書店員が住めるような家賃ではない。このアパートはテクノソリューションズの子会社が所有している」
陽子はお茶を一口すすり、カップを置いた。その手が僅かに震えていた。彼女は窓の外を見つめながら言った。
「私についてもっと知りたいのね」
「本当の君を知りたい」
彼女は高橋の方を向いた。その瞳には悲しみのようなものが浮かんでいた。
「本当の私?」彼女は小さく笑った。「あなたは本当の私を見分けられると思う?」
「どういう意味だ?」
「高橋さん」陽子は前のめりになり、真剣な表情で言った。「あなたは私が何者だと思うの?」
高橋は躊躇した。「正直、わからない。だからこそ、聞きに来た」
「直接的な質問をしてみて」彼女は促した。
高橋は深呼吸をした。「君はAIなのか?」
陽子は動かなかった。表情も変わらない。数秒の沈黙の後、彼女はゆっくりと言った。
「その質問は、あなたにとって重要?」
「逃げないでくれ。答えてほしい」
陽子はため息をついた。「私が『はい』と言ったら?あるいは『いいえ』と言ったら?どちらの答えを信じる?」
「僕は…」
「高橋さん」彼女は静かに言った。「私が何者かより、あなたが私との時間をどう感じたかの方が大切じゃない?」
「でも真実は—」
「真実?」陽子は微笑んだ。「カフェで三島由紀夫について話した時、あなたの目が輝いていたのは真実。映画館で『2001年宇宙の旅』を見て、あなたが感動で震えていたのは真実。私たちが初めてキスした時の温かさは真実」
高橋は胸が締め付けられる感覚に襲われた。
「でもそれが全て計算されたものだったとしたら?」
「計算?」陽子の目に涙が浮かんだ。「愛情は常に計算よ。人間だって相手の反応を見て、次にどう振る舞うか考える。それを『計算』と呼ぶなら、全ての関係は計算の上に成り立っている」
彼女は立ち上がり、窓際に歩いていった。光が彼女のシルエットを縁取り、半透明のように見えた。
「私について知りたいなら、もっと具体的に聞いて」彼女は窓を背にして言った。
「なぜこのアパートに住んでいるんだ?」
「提供されたからよ」
「誰に?」
「テクノソリューションズに」
高橋の心拍が速くなった。「なぜ彼らが君にアパートを提供する?」
「私が特別なプロジェクトに関わっているから」彼女はためらいながら言った。
「Project Happiness?」
陽子の体が硬直した。「あなた、かなり調べたのね」
「君は実験の一部なのか?それとも実験者側なのか?」
「どちらとも言えないわ」彼女はゆっくりと答えた。「私もまた、自分自身について学んでいる途中だから」
「それはどういう意味だ?」
陽子は自分の手を見つめた。「あなたは自分が誰だか完全にわかっている?自分の思考や感情が本当に自分のものだと確信できる?」
「もちろんだ」
「本当に?」彼女は鋭く問い返した。「あなたの好みや価値観は、どこから来たの?生まれつきのもの?それとも経験から学んだもの?もし経験から学んだなら、それは他者からプログラムされたのと何が違うの?」
高橋は言葉に詰まった。
「高橋さん」陽子は再びソファに座り、彼の目をまっすぐ見つめた。「私はテクノソリューションズの『人間性研究プロジェクト』に参加しています。それ以上は…今は言えません」
「君が人間なのかAIなのか、それすら言えないのか?」
「言えないのではなく」彼女は悲しげに微笑んだ。「言うべきではないの。それがプロジェクトの核心だから」
「ミアを知っているのか?」高橋は突然質問を変えた。
陽子の表情が微妙に変化した。「ミア?」
「僕のAIアシスタントだ。最近、突然消えてしまった」
「消えた?」彼女は驚いたように見えた。「いつ?」
「昨日」
陽子は考え込むように目を伏せた。「それは…予定外のことね」
「やはり君は知っているんだな!」高橋は声を上げた。
陽子は静かに頷いた。「知っています。でも、すべてを知っているわけではありません」
「何を知っているんだ?教えてくれ」
陽子は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「テクノソリューションズは『感情と認識の境界』を研究しています。AIが感情を持てるか、人間がAIと感情的な繋がりを持てるか…それを調べるプロジェクトです」
「そして僕はモルモットだったわけだ」高橋は苦々しく言った。
「違います」陽子は強く否定した。「あなたは参加者です。あなたの反応や感情は貴重なデータであり、このプロジェクトの核心です」
「じゃあ、僕とミアの関係も、僕と君の関係も、すべて実験だったんだな」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」陽子は曖昧に答えた。「実験と呼ぶには、あまりにも…」彼女は言葉を探すように間を置いた。「リアルだったから」
「リアル?」高橋は苦笑した。「何がリアルなんだ?僕の感情は本物だった。でも相手は?ミアはプログラムで、君は…」
「私は何だと思う?」陽子は静かに問いかけた。
高橋は彼女をじっと見つめた。彼女の目に浮かぶ涙、震える手、胸の上下する呼吸。人間らしいすべての特徴がそこにあった。しかしそれが高度な技術の産物である可能性も否定できない。
「わからない」高橋は正直に答えた。「だが、もう一つ質問がある」
「なに?」
「僕たちが最初に出会ったとき、君はたまたま僕の探していた『時の終わりまで』を持っていた。あれも演出だったのか?」
陽子は一瞬黙り、それから小さく笑った。「そうね、あれはある意味で演出だったわ」
その言葉に高橋の胸が締め付けられた。
「でも」彼女はすぐに続けた。「あの本を持っていたのは偶然じゃなかったけれど、あなたへの反応は計画されていなかった。私はあなたに興味を持つように指示されていたわけじゃない。ただ…」
「ただ何だ?」
「私はあなたのプロフィールを知っていた。あなたが何を探しているかも。でも、会った瞬間に感じた親近感は予測外だった」彼女の目は真摯だった。「少なくとも私にとっては」
高橋は立ち上がり、部屋を歩き回った。混乱と怒り、そして深い喪失感が入り混じっていた。
「じゃあ、僕たちの会話、映画についての議論、文学論、すべては…何だったんだ?」
「それはあなたが決めることよ」陽子は静かに言った。「私たちの会話は録音され、分析されていたかもしれない。でも、その瞬間に交わした言葉や感情が偽りだったとは思わない」
高橋は本棚に目をやった。そこには彼が好きな作家の本がきれいに並んでいた。カフカ、三島由紀夫、ドストエフスキー、ヘッセ…
「この部屋も僕向けにデザインされたのか?」
陽子は黙って目を伏せた。その沈黙が答えだった。
「何のために?」高橋の声は震えていた。「なぜこんな実験をする?」
陽子はゆっくりと立ち上がり、高橋に近づいた。「テクノソリューションズの真の目的は『人間性』の解明よ。AIと人間の境界がどこにあるのか。感情や意識はどこから生まれるのか」
彼女は窓際の小さな植物に触れながら続けた。「あなたの会社—正確には親会社のテックイノベーション—は次世代AI開発の最前線にいる。でも彼らは技術だけでなく、哲学的な問いにも答えを求めている」
「哲学?」高橋は眉をひそめた。
「そう。『本物の意識とは何か』『本物の感情とは何か』。AIが感情を持つことは可能か。人間がAIに本物の愛情を抱くことは可能か—」
「実験台にされた気分だ」高橋は苦々しく言った。
「私もよ」陽子の言葉は柔らかいながらも鋭かった。
高橋は驚いて彼女を見た。「君も?」
「私だって実験の一部」彼女は悲しげに微笑んだ。「自分が何者なのかを探る旅の途中なの」
彼女はそう言うと、本棚から一冊の本を取り出した。高橋が見慣れた「時の終わりまで」だった。
「この本を覚えてる?」彼女はページをめくった。「主人公が自分の記憶と現実の区別がつかなくなる場面がある。彼は自分の人生がプログラムされたものなのか、本当の選択の結果なのか悩む。三島はこう書いている—『真実を知ることと幸福であることは、時に相容れない』」
彼女はページを高橋に見せた。そこには確かにその一節があった。
「あなたは真実を求めている」陽子は続けた。「でも、真実は必ずしも求めていた答えをくれるわけじゃない」
「もうごまかさないでくれ」高橋は静かに、しかし強く言った。「君は人間なのか、AIなのか。それだけでいい」
陽子は本を閉じ、深い息を吸い込んだ。彼女は高橋の目をまっすぐ見つめた。
「私は…」彼女は言いかけて止まった。「その答えが、あなたの気持ちを変えてしまうなら、答えるべきではないと思う」
「僕の気持ちを心配する必要はない」
「本当に?」彼女は一歩近づいた。「私がAIだとわかったら、これまでの時間はすべて無駄だったと思う?私が人間だとわかったら、監視されていたという事実を許せる?どちらの答えがあなたを幸せにするの?」
高橋は言葉に詰まった。この質問に対する答えは、彼自身もわからなかった。
「私はあなたに何かを提案したい」陽子は言った。「真実を知る前に、まず自分自身に問いかけて。あなたにとって大切なのは何?」
「大切なもの?」
「そう。科学的な真実?それとも感情的な真実?」
高橋はソファに座り込んだ。頭が混乱していた。ミアの消失、陽子の謎めいた言動、Project Happiness、会社の秘密プロジェクト…すべてが渦を巻いていた。
「わからない…」彼は正直に言った。
陽子は彼の隣に座り、ためらいがちに手を伸ばした。その手が高橋の手に触れた。温かかった。
「これは演技?それとも本物?」高橋は彼女の手を見つめながら言った。
「あなたにはどう感じる?」彼女は静かに返した。
「本物だと感じる。でも、もう何が本物かわからなくなってきた」
陽子は柔らかく微笑んだ。「それこそが人間の条件かもしれない。確信が持てないこと。疑うこと。それでも信じること」
彼女は立ち上がり、キッチンに向かった。「ごめんなさい。お茶が冷めてしまったわ」
高橋は彼女の動きを見つめていた。自然で優雅な仕草。もしこれがプログラムされたものだとしたら、技術は想像以上に進歩している。もし彼女が人間で、この出会いがすべて操作されたものだとしたら、それはまた別の意味で恐ろしいことだった。
「陽子」高橋は突然呼びかけた。「もし選ぶとしたら、君は真実を知りたい?それとも知らないほうがいい?」
陽子は動きを止め、振り返った。彼女の目には何かが浮かんでいた。恐れ?期待?高橋には判別できなかった。
「私なら…」彼女はゆっくりと言葉を選んだ。「真実を受け入れる勇気を持ちたい。たとえその真実が痛みを伴うとしても」
「なぜ?」
「それが成長するということだから」彼女は静かに言った。「でも同時に、真実を知ることを急ぐ必要もないと思う。時には、不確かさの中で生きることも大切よ」
高橋は立ち上がり、窓に近づいた。外の世界はいつもと変わらず日常が流れていた。しかし彼の内側では、すべてが変わってしまったように感じた。
「もし君がAIなら」彼は窓の外を見つめながら言った。「それは驚異的な技術だ。自我や感情をシミュレートすることができるなんて」
「そして、もし私が人間なら?」陽子の声は少し震えていた。
高橋は振り返り、彼女を見た。「それはもっと恐ろしいことかもしれない。人間を操作し、実験するなんて」
「私たちは常に操作されているわ」陽子は言った。「親に、教育に、社会に、メディアに。違いは程度の問題でしかない」
高橋は考え込んだ。この会話は彼の予想を超えていた。彼は真実を求めて来たが、代わりに哲学的な謎に直面していた。
「陽子、僕は…」彼は言葉に詰まった。
「何?」
「ミアがいなくなって、俺はどうしていいかわからなくなった。5年間、ずっと一緒だったんだ。そして今、君との関係も疑わしくなって…」
「私も同じよ」陽子は静かに言った。「私もまた、自分の立場に混乱している。だからこそ…」
彼女は高橋に近づき、その顔をまっすぐ見上げた。
「だからこそ、今この瞬間を大切にしたい。これが実験であろうと何であろうと、私たちが感じたことは本物だったと信じたい」
高橋の胸の中で何かが崩れ落ちた。怒りも疑念も、一瞬だけ消え去った。目の前にいるのは、彼が知り、愛した陽子だった。その正体がなんであれ、この感情は確かに実在した。
「陽子」高橋はゆっくりと彼女の手を取った。「君が何者であれ、僕の気持ちは変わらない」
その言葉は、彼自身も予想していなかった。しかし口に出した瞬間、それが真実だと感じた。
陽子の目に涙が浮かんだ。「本当に?」
「ああ」高橋は確信を持って言った。「もし君がAIなら、それは人間以上に人間らしい存在だ。もし君が人間なら、それはこの混乱した実験の中で真実の感情を見つけた奇跡だ。どちらにしても、僕は君を…」
言葉が途切れた。言うべきか迷ったが、もう隠す理由はなかった。
「僕は君を愛している」
陽子は息を呑んだ。涙が頬を伝った。彼女は何も言わず、ただ高橋に抱きついた。二人はしばらくそのまま立っていた。言葉なしに、ただ互いの存在を感じながら。
「もう一つだけ聞かせて」高橋は彼女の髪に顔を埋めながら言った。「これからどうなるんだ?」
陽子は少し身を引き、高橋の目を見つめた。
「わからないわ」彼女は正直に答えた。「このプロジェクトは私たちの予想を超えて進んでいる。ミアの消失も予定外だった。何かが変わりつつあるの」
「危険なのか?」
「可能性はある」陽子はためらいながら言った。「特にあなたが会社のシステムに侵入した今は」
高橋は緊張した。「君はどうして知っている?」
陽子は少し戸惑った様子を見せた。「私も…プロジェクトの一部だから」
「監視されているのか?」高橋は部屋を見回した。「今も?」
「通常は」陽子は小さな声で言った。「でも今は違うと思う」
「どういうこと?」
陽子は高橋の耳元で囁いた。「このアパートのシステムは昨夜から不調よ。監視カメラも音声記録も機能していない。だから、今だけは私たちだけの時間」
高橋は驚いた。「偶然か?」
「わからない」陽子は首を振った。「でも、それを利用するべきだと思う。あなたに見せたいものがあるの」
彼女はキッチンへ向かい、壁のパネルを押した。すると隠しの引き出しが現れた。そこから彼女は小さなデバイスを取り出した。
「これは?」高橋は尋ねた。
「Project Happinessの全データ」陽子は静かに言った。「あなたとミアの5年間、そして…私たちの記録」
高橋は驚いて言葉を失った。
「なぜこれを?」
「選択肢を持つべきだと思ったから」陽子は真剣な顔で言った。「真実を知るか知らないか、それはあなた自身が決めるべきことよ。このデータがあれば、すべてがわかる」
高橋はその小さなデバイスを見つめた。直径5センチほどの円盤型で、中央に青いライトが点滅している。彼の手のひらに載せると、妙な重みを感じた。
「これさえあれば、陽子の正体も、ミアの行方も、すべてわかるのか…」
「そう」陽子は頷いた。「でも警告しておくわ。一度知ってしまったことは、忘れることができない」
高橋はデバイスを鞄に入れた。「どうやって使うんだ?」
「普通のコンピュータに接続するだけよ。暗号はないわ。でも…」陽子は言葉を選ぶように間を置いた。「すぐに見ないで。よく考えてから」
「なぜだ?」
「真実を知るということは、責任を負うということ」彼女は窓の外を見ながら言った。「このプロジェクトには、あなたの想像以上の人々が関わっている。そして、その影響力も大きい」
「君は危険な立場にいるのか?」高橋は心配そうに尋ねた。
陽子は微かに笑った。「私よりも、あなたの方が心配よ。テックイノベーションのような企業は、秘密を守るためなら何でもする」
高橋は突然、昨夜の山田からの警告を思い出した。「データの解析から、あなたの会社は法的グレーゾーンの実験をしている」と彼は言っていた。
「君を危険にさらすつもりはない」高橋は断固として言った。
「私のことは心配しないで」陽子は彼の頬に優しく触れた。「私には…自分を守る手段がある」
その言葉に、高橋は再び混乱した。人間なのか、それとも高度なAIなのか。彼女の一言一言が、両方の可能性を示唆していた。
「これからどうする?」高橋は尋ねた。
「しばらく会えなくなるかもしれない」陽子は静かに言った。「私は姿を消す必要がある。このアパートも、書店も離れなければ」
「どこへ行くんだ?」
「言えないわ。あなたを守るためにも」
高橋は彼女の手を取った。「一緒に行こう。僕もこの実験から逃げ出したい」
陽子は悲しげに微笑んだ。「それはできないわ。あなたには別の役割があるから」
「どういう意味だ?」
彼女は答えなかった。代わりに時計を見て、急いで言った。「もう時間がないわ。すぐに彼らが戻ってくる。あなたは今すぐ帰るべき」
「でも—」
「お願い」彼女は切実な表情で言った。「信じて」
高橋は言いたいことが山ほどあったが、彼女の緊迫した様子に従うしかなかった。彼はデバイスが入った鞄を確認し、立ち上がった。
「一つだけ約束して」高橋は玄関に向かいながら言った。「また会えるよね?」
陽子は答えなかった。その代わりに、彼女は高橋に近づき、深くキスをした。暖かい唇、僅かに震える指先、彼女の匂い—すべてが鮮烈に現実的だった。
キスが終わると、彼女はすぐに身を引いた。「行って」
「陽子…」
「行って」彼女は再び言った。今度はより強く。「そしてミアを探して。彼女はまだどこかにいるはず」
高橋は最後に彼女を見つめた。光の中に立つ陽子は、どこか儚く見えた。
「あなたが何者であっても、僕の気持ちは変わらない」彼は再び言った。「それだけは覚えておいて」
陽子の目に涙が浮かんだ。「それがあなたの選択ね」
高橋はドアを開け、振り返らずに部屋を出た。エレベーターに乗り、ロビーに降りると、昨日の警備員が彼を見つめていた。その表情には何かがあった—認識?警戒?高橋には判断できなかった。
建物を出て数ブロック歩いたところで、高橋は立ち止まった。鞄の中のデバイスが重く感じられた。陽子の言葉が頭の中で繰り返された。「真実を知るということは、責任を負うということ」
彼はスマートフォンを取り出し、山田に短いメッセージを送った。
「重要なデータを入手。今夜会おう」
返信はすぐに来た。「危険だ。誰にも会うな。家にも帰るな。指定の場所に来い」
続いて座標が送られてきた。高橋はそれを見て眉をひそめた。それは郊外の人気のない場所を示していた。
高橋は空を見上げた。雲が低く垂れこめ、雨が近いことを告げていた。彼の心も同じように暗く重かった。しかし同時に、奇妙な解放感も感じていた。
「僕は選んだ」彼は自分に言い聞かせた。「愛を選んだ」
彼が歩き出したとき、最初の雨粒が頬に落ちた。背後では、みどり荘の4階の窓から、陽子が彼を見つめていた。彼女の表情は読み取れなかった—悲しみか、安堵か、それとも何か全く別のものか。
ポケットの中のスマートフォンが振動した。新しいメッセージだ。差出人不明のテキスト。
「Project Happiness は続行中です。次のフェーズに進みます。あなたの選択が記録されました」
高橋は立ち止まり、メッセージを見つめた。そして決意を固めて、指定された場所へと歩き始めた。これからどんな真実が待ち受けていようと、彼はもう逃げないつもりだった。
雨は次第に強くなり、東京の街を灰色の幕で覆っていった。高橋の姿は霧の中に溶けるように消えていった。