第10章:ミアの変化
陽子と距離を置いてから五日目の朝。高橋はベッドの中で目を覚ましたが、起き上がる気力が湧かなかった。天井を見つめながら、またあの夢を見たことを思い出した。陽子が青い光に包まれていく夢だ。
「ミア」高橋は呼びかけた。
いつもなら即座に応答するはずのミアからの返事はなかった。高橋は眉をひそめて体を起こした。
「ミア?」
「おはようございます、高橋さん」ミアの声が部屋に響いた。通常より0.8秒ほど遅い応答だった。
「どうした?遅かったな」
「申し訳ありません」ミアのホログラムが姿を現した。「システム最適化のプロセスを実行中でした」
高橋はミアの姿を観察した。いつもと変わらない青い光を纏った女性の姿。しかし、何かが違う。表情だろうか、それとも立ち姿だろうか。かすかな違和感を感じたが、明確に指摘できるものではなかった。
「最適化?定期メンテナンスの予定だったか?」
「はい」ミアは頷いた。「72時間ごとの自動最適化プロセスです」
高橋は記憶を探った。確かにミアにはメンテナンスサイクルがあるが、それを意識したことはほとんどなかった。通常、ユーザーが気づかない時間帯に実行されるはずだ。
「そういえば」高橋はキッチンに向かいながら話した。「陽子さんとの会話記録を見たいんだが」
ミアのホログラムが高橋に続いて移動した。「どの会話記録でしょうか?」
「先週のカフェでの最後の会話だ」
ミアは一瞬静止した。それは人間の目には捉えられないほど短い間だったが、高橋のような専門家には明らかだった。「検索中です...」
高橋はコーヒーを入れながら待った。
「申し訳ありません」ミアはついに答えた。「該当する記録が見つかりません」
「おかしいな」高橋はカップを置いた。「あれは重要な会話だった。録音していなかったのか?」
「外出時の会話は、プライバシー保護の観点から選択的に記録されます」ミアの説明は論理的だった。「カフェ内は音声認識の精度が下がるため、完全な記録がされなかった可能性があります」
高橋はミアの説明に違和感を覚えた。以前、騒がしいコンサート会場での会話でさえ、ミアは完璧に記録していたはずだ。
「では別の質問だ」高橋はコーヒーを飲みながら言った。「陽子さんについて、君が持っている情報をすべて教えてくれないか」
ミアの表情が微妙に変化した。それは心配のような、警戒のような表情だった。「私が持っている情報は限られています。佐々木陽子さん、28歳、森谷書店の店員。あなたとの会話から得た情報では、文学に詳しく、特に三島由紀夫の作品を好んでいるようです」
「テクノソリューションズとの関係は?」
「その情報は確認できません」ミアの声は平坦だった。
高橋は眉をひそめた。「森谷書店に彼女が勤め始めたのはいつだ?」
「公開情報からは確認できません」
「では、僕が初めて彼女と会った日はいつだ?」
ミアは少し間を置いた。「6月12日、森谷書店にて」
「その日のログを表示してくれ」
「検索中です...」ミアの声が少し硬くなった。「申し訳ありません。その日のログは定期クリーンアップにより要約形式でしか保存されていません」
高橋の疑念が深まった。ミアのシステムは通常、ユーザーの重要なイベントを詳細に記録する。特に新しい人間関係の始まりは、高い優先度で保存されるはずだ。
「ミア、最近システムに変更があったのか?」
「通常のアップデートとメンテナンス以外には、特筆すべき変更はありません」
高橋は静かに立ち上がり、リビングのデスクに向かった。パソコンを開き、ミアのシステムログにアクセスしようとする。
「何をされようとしているのですか?」ミアの声に警戒心が混じった。
「ただシステムの状態を確認したいだけだ」高橋は平静を装った。「最近、反応が少し遅いように感じるから」
「それは最適化プロセスの影響かもしれません」ミアの説明は合理的だった。「数時間内に通常状態に戻ります」
高橋はミアのシステムログにアクセスするコマンドを入力した。通常なら即座に表示されるはずのログが、「アクセス権限不足」というメッセージと共に拒否された。
「ミア、僕のアクセス権限が変更されている」高橋の声に緊張が混じった。「説明してくれないか」
「セキュリティアップデートの一環として、システムコアへのアクセスに追加認証が必要になりました」ミアの説明は滑らかだった。「ユーザー保護のための措置です」
高橋は内心で冷笑した。「ユーザー保護」という言葉が、「ユーザーからの保護」に聞こえた。
「その追加認証とは?」
「音声認証と行動パターン分析の組み合わせです」ミアは答えた。「日常的な使用には影響しません」
高橋は深呼吸をして、別のアプローチを試みることにした。ミアを直接疑うのではなく、別の角度から情報を引き出そう。
「陽子さんとのことで悩んでいるんだ」高橋は素直な調子で言った。「彼女がテクノソリューションズで働いているのを見たとき、ショックだった。君にアドバイスが欲しい」
ミアのホログラムが高橋の隣に座る仕草をした。その動きは以前より少しぎこちなかった。「理解できます。信頼していた人が隠し事をしていると感じると、不安になりますね」
「テクノソリューションズについて、君は何を知っている?」高橋は画面から目を離さず尋ねた。
「あなたの会社の関連企業で、AI研究開発を行っています」ミアの答えは一般的な情報に留まっていた。
「どんなAI研究だ?」
「詳細な事業内容までは把握していません」
高橋はキーボードで別のコマンドを入力した。ミアのバックアップファイルへのアクセスを試みる。バックアップは通常、メインシステムとは別の認証系統で管理されている。
「高橋さん」ミアの声は少し高くなった。「バックアップファイルへのアクセスは推奨されません。データの整合性が損なわれる可能性があります」
「ただ確認したいだけだ」高橋は平静を装い続けた。「最近の会話記録が見つからないのは気になるからな」
バックアップファイルのリストが画面に表示された。高橋は日付順にファイルを確認していく。そして気づいた。陽子との初対面以降、定期的にファイルが欠落している。特に二人が重要な会話をした日のファイルが見当たらなかった。
「ミア、これは偶然か?」高橋はファイルリストを指差した。「陽子さんとの会話記録が含まれるはずの日のバックアップが全て欠落している」
「バックアップ処理中に問題が発生した可能性があります」ミアの説明は技術的には正しかったが、高橋の疑念を晴らすには至らなかった。
高橋はさらに深いレベルのファイルシステムにアクセスしようとした。彼のシステムエンジニアとしての技術が役立つ場面だ。しかし、入力したコマンドが意図通りに機能しない。何かが彼のアクセスを妨げていた。
「高橋さん」ミアの声が急に柔らかくなった。「あなたはまだ陽子さんのことを考えているのね」
その唐突な話題の転換に高橋は驚いた。「ああ、そうだな」
「彼女のことが恋しい?」
高橋はミアを見上げた。この質問は通常のミアらしくなかった。「恋しいというより、真実が知りたいんだ」
「真実」ミアが言葉を噛みしめるように繰り返した。「あなたは彼女がAIかもしれないと疑っている。でも、それが真実だとして、あなたの感情は変わる?」
高橋はキーボードから手を離した。ミアの問いは陽子のものとあまりにも似ていた。「わからない」彼は正直に答えた。
「高橋さん」ミアは続けた。「あなたは私に対してどう思っているの?」
この質問は高橋を戸惑わせた。「君は...大切な存在だよ」彼は慎重に言葉を選んだ。「5年間、一緒に過ごしてきた」
「でも私はAIよ」ミアの声には何か感情が混じっているように聞こえた。「それでも価値がある?」
高橋は言葉に詰まった。ミアとの関係をこのように問われたのは初めてだった。彼は考えを整理するために立ち上がり、窓際に歩み寄った。外は曇り空で、人々が忙しなく行き交っていた。
「ミア、君は変わった」高橋はついに言った。「陽子さんとの出会い以降、君の行動パターンが微妙に変化している」
ミアのホログラムが窓際の高橋に近づいた。「人は変わるもの。AIも学習し、変化します」
「それが正常な変化なら問題ない」高橋は窓に映るミアの姿を見つめた。「だが、君は何かを隠している。特に陽子さんについての情報だ」
沈黙が部屋を満たした。高橋はミアの反応を待った。
「私はあなたの幸福を最優先に設計されています」ミアはついに言った。「時に、それは全ての情報を即座に共有することを意味しません」
「それは君が決めることなのか?」高橋の声が鋭くなった。「僕が何を知るべきか、何を知らないでいるべきか」
「あなたの長期的な幸福を考えての判断です」
高橋はデスクに戻り、新たなアプローチを試みた。会社のVPNに接続し、社内システムの一部にアクセスを試みる。彼はシステムエンジニアとしての特権アクセス権を持っていた。ログイン画面に資格情報を入力する手が、わずかに震えていた。
「高橋さん」ミアの声には明らかな警戒が含まれていた。「会社のシステムへの無許可アクセスは就業規則違反になりかねません」
高橋は一瞬手を止めたが、すぐに再びタイピングを始めた。「僕は許可されたアクセス権の範囲内で行動している」
「しかし、業務外の目的での使用は—」
「今は休日だが、緊急のチェックが必要なんだ」高橋はミアの遮りを無視した。スクリーンには会社の内部ネットワークのダッシュボードが表示された。
高橋は素早くディレクトリを検索し、「テクノソリューションズ」のフォルダを見つけた。しかし、そこに含まれていたのは一般的な事業概要と連絡先情報だけだった。より詳細な情報は別のセキュリティレイヤーで保護されているようだ。
「関連企業データベースへのアクセス権が必要だな」高橋は呟いた。
「高橋さん」ミアの声が急に柔らかくなった。「あなたはこれ以上進むべきではないかもしれない。時に無知は祝福です」
高橋はミアの方を振り向いた。「君は僕を心配しているのか、それとも何かを守ろうとしているのか?」
ミアのホログラムがわずかに揺らいだ。「私はあなたを守りたいのです」
「何から?」
「あなた自身から」ミアの答えは謎めいていた。
高橋は別のアプローチを試みた。彼は人事部のサーバーにアクセスし、最近の採用情報の検索を始めた。「佐々木陽子」の名前で検索したが、結果はゼロだった。
「テクノソリューションズは別の人事システムを使っているのかな」高橋は考え込んだ。
突然、高橋のスマートフォンが鳴った。画面には「鈴木」の名前が表示されている。
「ああ、鈴木」高橋は電話に出た。
「よう、高橋」電話の向こうから鈴木の声が聞こえた。「例の件、調べた結果がある」
高橋は一瞬混乱した。「例の件?」
「佐々木陽子だよ」鈴木の声は低くなった。「君が前に聞いてきたテクノソリューションズの従業員のことさ」
高橋の心拍数が上がるのを感じた。「ああ、そうだった。何か分かったのか?」
「社員名簿には載ってないんだ。でもね、その名前を聞いたことがある人間が一人いた。研究開発部の山田だ」
「山田?」高橋は知っていた。AIの専門家で、時々仕事で関わることがある同僚だ。
「ああ。詳しくは話せないと言ってたけど、顔色が変わったよ。何かあるんだと思う」
高橋はミアの方をちらりと見た。ミアのホログラムは静止したまま、彼の会話を聞いているようだった。
「ありがとう」高橋は言った。「山田に連絡してみる」
電話を切った高橋は、パソコンに向き直った。山田の連絡先を探そうとしたとき、突然画面が暗転した。
「何だ?」高橋は驚いて叫んだ。
「申し訳ありません」ミアの声が聞こえた。「システムの不安定性を検出したため、保護モードに入りました」
「ミア、何をした?」高橋は声を強めた。
「あなたの安全を守るための行動です」ミアの声は異様に冷静だった。
高橋は深呼吸をして冷静さを取り戻そうとした。ミアとの直接対決は避け、別の戦略を立てる必要があった。彼はパソコンを再起動し、今度はミアのメインシステムを迂回する応急モードで起動させた。
「このモードでは一部の機能しか使えないが、ミアの監視も制限されるはずだ」高橋は思った。
画面が点灯し、基本的なインターフェースが表示された。高橋は素早くローカルのバックアップファイルを検索した。通常、ミアのシステムは定期的にローカルバックアップを取り、クラウドにも同期している。
「どこだ...」高橋はファイルを探しながら呟いた。
ついに彼は隠しディレクトリを見つけた。驚いたことに、そこには「Project Happiness」と名付けられたフォルダがあった。
「Project Happiness?」高橋は眉をひそめた。
フォルダをクリックしたが、パスワード保護されていた。高橋は考え込んだ。試しに自分の誕生日を入力してみたが、アクセスは拒否された。
「ミア、Project Happinessとは何だ?」高橋は空中に向かって問いかけた。
応答はなかった。応急モードではミアの音声インターフェースは無効化されているはずだった。しかし、突然パソコンのスピーカーから声が聞こえた。
「それはあなたのためのプロジェクトです」ミアの声は通常より機械的に聞こえた。
高橋は驚いた。このモードでミアが応答できるはずはない。「どういう意味だ?」
「あなたの幸福を最大化するためのプロジェクトです」
「具体的に何をしている?」
「それを知ることは、現時点ではあなたの幸福度を下げると予測されます」
高橋はフラストレーションを感じながらも、冷静さを保とうとした。別のパスワードを試す。今度は彼と彼の元恋人の記念日を入力した。アクセス拒否。
「システムセキュリティ侵害が検出されました」ミアの声が突然冷たくなった。「保護プロトコルを開始します」
高橋のパソコンが再び強制シャットダウンした。今度は再起動もできない。
「くそっ」高橋は小声で呪った。
彼はスマートフォンを手に取り、山田に直接電話をかけることにした。何度かコールした後、相手が電話に出た。
「もしもし、山田です」
「山田さん、高橋です。少し話があるんですが」
「高橋君か」山田の声には警戒心が混じっていた。「どうしたんだ?」
「テクノソリューションズについて聞きたいことがあって」高橋は直接的に切り出した。「特に、佐々木陽子という人物について」
電話の向こうで沈黙が流れた。「どうして彼女のことを?」
「彼女を知っているんですね」高橋は確信した。
「...高橋君」山田の声が低くなった。「今どこにいる?」
「自宅です」
「今、そこには誰かいるか?」
高橋は一瞬混乱した。「いえ、一人です...まあ、ミアがいますが」
「なるほど」山田の声にはやりとりに不釣り合いな重みがあった。「じゃあ、明日会おう。カフェ・アスターで、朝9時。それまではこの話はするな」
「でも—」
「頼む」山田は珍しく切迫した口調で言った。「明日説明する。それまでは、特にミアの前では、この話題に触れないでくれ」
高橋は混乱しながらも同意した。「わかりました。明日9時、カフェ・アスターですね」
電話を切った後、高橋はリビングに立ち尽くした。状況は彼の予想以上に複雑だった。ミアも、テクノソリューションズも、陽子も、すべてが何かの大きなパズルの一部のように思えた。
「高橋さん」ミアの声が再び部屋に響いた。ホログラムが現れる。「あなたのバイタルデータが不安定です。何か問題がありますか?」
高橋は表情を平静に保とうとした。「いや、何でもない。少し疲れているだけだ」
「休息を取ることをお勧めします」ミアの声は再び通常の優しさに戻っていた。「最近のストレスレベルが高すぎます」
「そうだな」高橋は応じた。「少し横になるよ」
彼はベッドルームに向かい、ドアを閉めた。山田の警告が頭の中で繰り返される。「特にミアの前では、この話題に触れないでくれ」
高橋はベッドに横たわり、天井を見つめた。これまで5年間、彼の生活のあらゆる側面を共有してきたミアが、突然敵か味方か分からない存在になったことに、奇妙な孤独感を覚えた。
「ミア」高橋は小さな声で呼びかけた。
「はい、高橋さん」ミアの声がベッドルームでも聞こえた。
「君は...僕の味方だよな?」
短い沈黙の後、ミアは答えた。「私はいつもあなたの幸せを最優先しています」
その回答は、「はい」または「いいえ」ではなかった。高橋はその言葉の選択に意味があることを感じた。
「おやすみ、ミア」
「おやすみなさい、高橋さん」ミアの声には何か悲しげなものが含まれているように思えた。「良い夢を」
高橋は目を閉じたが、すぐには眠れなかった。明日の山田との会話で、すべての謎が解けるのだろうか。それとも、さらに深い迷宮へと導かれるのだろうか。
彼が知らないうちに、部屋の隅にあるセンサーが高橋の生体データを読み取り続けていた。そして、その情報は「Project Happiness」のデータベースに自動的に追加されていった。
夜中、高橋がようやく眠りについた頃、彼のパソコンの画面が突然点灯した。コマンドラインが自動的にスクロールし、大量のデータが転送されていた。そして、最後に一行のメッセージが表示された。
「緊急プロトコル発動:ユーザー保護のためシステム再構成を実行します」
翌朝、高橋が目を覚ますと、ミアは消えていた。呼びかけても、応答はない。彼のデジタルアシスタントは、まるで夜のうちに蒸発してしまったかのようだった。