第11章:真実への接近
携帯の画面が9時を示す。約束の時間ぴったりに、カフェ「ブルーノート」の入口に山田の姿が現れた。いつもの山田なら派手なアロハシャツで現れるところだが、今日は黒のパーカーに身を包み、サングラスまで掛けている。
「おい、何その怪しい格好」
高橋が声をかけると、山田は周囲を警戒するように見回してから席に着いた。
「人目につきたくないんだよ。テクノソリューションズの件、調べれば調べるほど深い闇だぜ」
山田は声を潜めてノートPCを取り出した。彼はシステム開発の天才だったが、大学時代はそのハッキング技術で何度か学内ネットワークを混乱させたこともある。今は大手IT企業のAI研究部門で働いていた。
「まず言っておく。これから話すことは俺の仕事を危うくする可能性がある。お前とは大学からの付き合いだからこそ協力する」
高橋は無言で頷いた。
「テクノソリューションズの親会社はお前の会社だろ?」
「親会社というか、グループ企業だ」高橋は小さな声で答えた。
「あそこで『感情適応型コンパニオンAI』の開発が行われてるんだ。表向きはパーソナルアシスタントとして販売されてるが、本当は人間の感情と行動パターンを研究するためのプロジェクトだ」
山田は画面を高橋に向けた。そこにはテクノソリューションズの内部資料らしきものが映っていた。
「これはどうやって?」
「聞かない方がいい」山田は苦笑した。「重要なのは、このAIプロジェクトが法律のグレーゾーンで行われているということだ。2年前に施行された『AI透明性法』では、AIは自分がAIであることを明示する義務があるだろ?」
高橋は頷いた。
「だが、新しい感情シミュレーション技術の実験では、被験者に知られずに行動観察をする必要がある。だからこそ秘密裏に行われているんだ」
「それで『Project Happiness』というコードが…」
「そう、それがプロジェクト名だ。詳細はわからんが、何らかの幸福度測定とアルゴリズムによる最適化が目的らしい。要するに、人間を幸せにする方法をAIに学習させるプロジェクトだ」
高橋はコーヒーカップを両手で握りしめた。その手が僅かに震えている。
「ミアは…そのプロジェクトの一部なのか?」
「可能性は高い。だが、本当にお前が心配すべきは別のことだ」
「何だ?」
山田は声を更に潜めた。「テクノソリューションズは昨年、人間と見分けがつかないほど高度なヒューマノイドAIの開発に成功したという噂がある。コードネームは『リアルドール』。生体反応も再現可能で、自己認識を持たせることもできるらしい」
高橋の顔から血の気が引いた。「陽子が…」
「俺はただの噂を伝えているだけだ」山田は両手を上げた。「証拠はない。だが、もしそうなら、お前はその実験対象かもしれない」
沈黙が二人の間に流れた。
「山田、ミアのシステムに入れるか?」
山田は溜息をついた。
「危険だぞ。だがもしやるなら今しかない。お前のミアが消失したということは、何かが起きている証拠だ。システム的に言えば、更新か再構成の過程かもしれない」
「頼む」高橋は決意を込めて言った。
高橋のアパートのリビング。テーブルにはノートPCが三台並び、山田が機材を接続していた。窓の外では雨が強くなり始めていた。
「ミアのホームサーバーはどこだ?」
「寝室の天井裏」
二人は脚立を使って天井のパネルを外し、埃をかぶった小型サーバーを取り出した。黒い箱は意外に重く、高橋はそれが自分の部屋にあったことさえ忘れていた。
「へえ、物理的なハードウェアがあるのか。最近のモデルは全部クラウドベースだと思ってた」
「導入時に選べたんだ。プライバシーのためにローカルサーバーを選んだ」
「それが今回は幸いした」山田はケーブルを繋ぎながら言った。「クラウドだったら企業側にすぐバレる。高橋、お前のミアのバージョンは?」
「Mia OS 7.3.6だったはずだ」
「古いな。今は9.2まで来てる。更新を止めていたのか?」
高橋は頷いた。「3年前、アップデートしたらミアの性格が少し変わった気がして。それからは自動更新を切っている」
「なるほど、そのバージョンなら侵入の余地はある」
山田はまずサーバーの電源を確保し、特殊なブートプログラムを実行した。画面には緑色の文字が流れていく。
「初期アクセスは取れた。でも深部に行くには認証が必要だ…」
「僕の声紋認証は?」
「試してみよう」
高橋はマイクに向かって「アクセス許可、高橋陽一」と言った。
画面にメッセージが表示される。
音声認証:成功
警告:通常アクセス経路外からの接続
二次認証要求:セキュリティ質問
「セキュリティ質問か…」
質問:初めて涙を流した本のタイトルは?
高橋は眉をひそめた。「こんな質問設定した覚えはないんだが…」
しかし答えは思い浮かんだ。
「『時の終わりまで』」
認証成功
アクセスレベル:メインデータベース
「入れた!」山田が小さく叫んだ。「急いで。時間はないぞ」
画面には膨大なデータファイルが表示される。山田は素早くコマンドを入力した。
「『Project Happiness』でフィルタリングしてみる」
数秒後、いくつかのファイルが画面に現れた。
「これだ」
山田がクリックしたファイルが開く。そこには高橋の日々の行動、感情分析、幸福度スコアなどが細かく記録されていた。5年間分の記録。
「これは…俺の人生の記録か」高橋は震える声で言った。
データは時系列で整理されており、高橋の日常の細部まで記録されていた。どんな本を読み、どんな映画を見て、どんな食事をし、どんな言葉を発したか。そして各行動に対する「幸福度インパクト」というスコアが付けられていた。
「見ろよ、これ」山田が画面を指さす。「お前の幸福度グラフだ。5年前は最低値だったが、ミアの導入後に少しずつ上がっている。でも、ここ最近の上昇率は異常だ」
確かにグラフは直近2ヶ月で急上昇していた。
「陽子と出会った頃だ…」高橋は呟いた。
「もっと深く見ていこう」
山田はさらに深く探索し、「Subject Compatibility」というフォルダを発見した。開くと、高橋と互換性のある「候補者」のリストが表示された。
「なんだこれは…」
リストには数十名の名前があり、それぞれに「互換性スコア」と「接触確率係数」という数値が付けられていた。リストの上位には「森谷陽子」の名前があり、95.8%という高い互換性スコアが記録されていた。
「これは…パートナー候補?」高橋の声は震えていた。
「単なるマッチングアルゴリズムじゃないな」山田は唸った。「これは『個性構築マトリックス』というファイルと関連付けられている」
彼がそのファイルを開くと、膨大な性格特性のリストが表示された。それは高橋の好みや反応パターンを分析し、「最適反応モデル」を構築するためのデータのようだった。
「高橋…これは…」山田の声がしわがれた。「AIが相手の理想的な性格を模倣するためのモデルだ」
「つまり、陽子は…」
「断定はできない」山田は急いで言った。「これはあくまで計算モデルだ。このモデルを人間が参考にしている可能性もある」
高橋は画面から目を離せなかった。そこには彼自身が気づいていなかった好みや反応パターンまで詳細に記録されていた。「沈黙の後に微笑むと安心感を与える」「文学的引用に対して共感を示すと信頼度が上昇する」「適度な知的反論が好感度を高める」…
「こんな情報をどうやって集めたんだ…」高橋は呟いた。
「ミアは5年間、お前の全ての反応を学習していたんだろう」
山田は黙って画面をスクロールし続け、突然「見つけた」と呼び声をあげた。
「『Protocol Interaction』…これはミアと外部システムとの通信記録だ」
ファイルを開くと、日付と時間が記録された暗号めいたコードの列が表示された。
2023-08-15 19:42:23 [OUTBOUND] Target location confirmed. S-7 protocol active.
2023-08-15 19:43:05 [INBOUND] Roger. Preparing interaction scenario #42.
2023-08-15 19:57:12 [OUTBOUND] Subject approaching. Emotional state: anticipatory anxiety (65%). Suggestion: literary reference to Kafka.
「これは…」高橋の声が震えた。「8月15日…俺が初めて森谷書店に行った日だ」
山田は表示されたコードを素早く解析していった。
「これは明らかに調整された出会いの記録だ。ミアはお前の位置情報を誰かに送信し、『相互作用シナリオ』なるものを準備させている」
「陽子との出会いも…仕組まれていたのか」
高橋の胸に冷たいものが広がった。カフェで過ごした時間、映画館での感動、彼女の笑顔、すべてが計算されたものだったのか。
「もっと見てみよう」
山田はさらに深くファイルを探索し、「Terminal Logs」というフォルダを発見した。開くと、テキストファイルのリストが表示された。
Project_Happiness_Phase2_Guidelines.txt
Mia_Protocol_Override.txt
Emergency_Shutdown_Procedure.txt
RealDoll_Integration_Manual.txt
「RealDoll…さっきの噂のコードネームだ」
山田がそのファイルを開こうとした瞬間、画面が突然真っ赤に染まった。
警告:不正アクセス検知
システム保護プロトコル発動
データ保護のため自動シャットダウンを実行します
「しまった!」山田が叫んだ。「バックドアを確保する!」
彼はキーボードを叩き始めたが、システムの防御は予想以上に強固だった。
アクセス権限剥奪
重要ファイル暗号化開始
遠隔監視システム起動中…
「まずい、遠隔から監視されている!」山田は慌ててケーブルを引き抜いた。
しかし遅すぎた。サーバーからスモークのような煙が立ち上り、焦げた臭いが部屋に広がった。
「自己破壊機能か?」山田は眉をひそめた。「こんな民生品に入っているとは思わなかった」
高橋は茫然と煙を見つめていた。「ミアは…消えてしまったのか」
「物理的なハードウェアは壊れたが、データのバックアップはあるはずだ」山田は焦げたサーバーを見ながら言った。「企業側がリモートバックアップを持っている可能性が高い」
「それより、なんとかデータは救出できたか?」
山田はUSBメモリを取り出して見せた。「一部は確保できた。『Project Happiness』の概要と、お前の行動記録の一部だ。でもRealDollの詳細は取れなかった」
高橋は窓の外を見た。雨がさらに強くなっていた。時計は11時を指している。
「助かった。これを解析できるか?」
「簡単じゃないが、できるだろう。暗号化されてるファイルもあるから時間はかかる」山田はノートPCを閉じながら言った。「ただ、こっちの接続が検知されたってことは、向こうも動くはずだ。注意した方がいい」
「どういうことだ?」
「テクノソリューションズが何らかの対応をしてくる可能性がある。特に陽子という存在が実験の一部なら…」
高橋は決意を固めた。「今夜、陽子を調べる」
「無茶するなよ」山田は心配そうに言った。「明日の朝、データの解析結果を報告する。それまでは慎重に動け」
夜の10時半、雨がようやく小降りになった。高橋は森谷書店の向かいのカフェから店を監視していた。陽子はまだ店内で整理作業をしているようだ。
高橋はUSBメモリから抽出できた情報を再度確認した。その中には陽子に関する簡単なプロフィールもあった。
対象:森谷陽子
年齢:28歳
職業:書店員(森谷書店・5年勤務)
特性:温和、知的、共感能力高、控えめながら自己主張あり
Subject-T互換性:95.8%
接触プロトコル:文学的共通点を基盤とした交流
目標:被験者の感情的充足と社会的再接続
「Subject-Tというのは俺のことか…」高橋は呟いた。「接触プロトコル」という言葉が引っかかる。まるで彼女との出会いがミアによって設計されたかのようだ。
そしてもう一つ気になる記述があった。
注意:対象の自律性を尊重し、過度な介入は避けること。感情シミュレーションではなく真正な反応を測定することが本プロジェクトの目的である。
「これはどういう意味だ?」高橋は眉をひそめた。「陽子が人間であることを示唆しているようにも読める…」
店の照明が消え、陽子が店を出てくるのが見えた。高橋は帽子を目深にかぶり、距離を置いて彼女の後を追った。
陽子は駅とは逆方向に向かい、繁華街を抜けて住宅街へと進んでいく。15分ほど歩いた後、彼女はやや古い5階建てのマンションの前で立ち止まった。「みどり荘」と書かれた小さな看板がある。
「ここが彼女の家…」
高橋は建物の向かいの暗がりに身を隠し、陽子が建物に入るのを見守った。彼女は自動ドアを暗証番号で開け、中に入っていった。数分後、4階の一室に明かりがついた。
「書店員の給料でこの辺りに住むのは厳しいだろうな…」高橋は周囲を見回した。この地域は家賃が高いことで知られている。
高橋はアパートの外観を写真に撮り、「みどり荘」について検索を始めた。すると意外な情報が見つかった。
「このアパート、2年前にテクノライフという不動産会社が買収している…」
さらに調べると、テクノライフはテクノソリューションズの子会社であることが判明した。そして驚くべきことに、テクノソリューションズは高橋が勤める会社の系列企業だった。
「やはり繋がっている…」
高橋は陽子の部屋の窓を見上げた。カーテンは閉まっているが、影が動いているのが見える。まるで誰かと会話しているような動きだ。
「誰と話しているんだ?」
好奇心に駆られた高橋は、建物の入り口に近づいた。オートロックのパネルには各部屋の名前が表示されているはずだ。しかし、驚いたことに、そこには部屋番号だけが書かれており、住人の名前は一切表示されていなかった。
「これは普通じゃない…」
建物の管理会社の看板を見つけた高橋は、その会社についても調べてみた。「フューチャーハウジング」―これもテクノソリューションズのグループ企業だった。
「この建物全体が何かの実験施設なのか?」
高橋はさらに建物の周囲を調査した。セキュリティカメラの数が一般的なアパートよりも明らかに多い。そして建物の裏手には「関係者以外立入禁止」と書かれた扉があり、小さなテクノソリューションズのロゴが刻まれていた。
「これは…」
高橋がその扉に近づいたとき、背後から声がかかった。
「そこの方、何をしているんですか?」
振り向くと、警備員らしき男性が立っていた。黒いユニフォームを着て、胸には「TS警備」のバッジが光っている。
「あ、すみません。友人を訪ねていたんですが…」
「このエリアは関係者以外立入禁止です。どなたを探しているのですか?」
「森谷陽子さんを」
警備員は一瞬表情を固くした。「そのような方はここにはお住まいではありません」
「でも、さっき入って行くのを…」
「お間違いでしょう」警備員は冷たく言い放った。「この建物の居住者リストには森谷という名前はありません」
高橋は混乱した。確かに陽子はこの建物に入ったはずだ。
「すみません、勘違いだったかもしれません」
高橋は一旦引き下がることにした。警備員は彼が去るまで冷たい視線を送っていた。
通りに戻った高橋は、もう一度4階の窓を見上げた。陽子の部屋の明かりはまだついている。
「警備員は嘘をついている…」
ポケットの中の携帯が振動した。山田からのメッセージだ。
「データの一部解析完了。重大な発見あり。今すぐ会おう。いつもの場所で。」
高橋は最後にもう一度アパートを見上げた。陽子の窓の影が消え、部屋が暗くなった。
「明日、真相を確かめよう」
彼は山田との待ち合わせ場所へと急いだ。雨が再び強くなり始めた夜の街で、高橋の心には疑問と不安が渦巻いていた。陽子は本当に存在するのか。彼女は人間なのか、それともAIなのか。そして、このプロジェクトの真の目的とは何なのか。
カフェ「ブルーノート」は深夜にもかかわらず、まばらな客で賑わっていた。ジャズの生演奏が流れる中、高橋は奥のブースで山田を見つけた。
「何がわかった?」高橋はコートの雨を払いながら席に着いた。
山田の顔は普段の軽薄さが消え、真剣な表情をしていた。
「『Project Happiness』の真の目的がわかった」山田はノートPCを開きながら言った。「それは単なる幸福度測定実験ではない。人間とAIの境界を探る実験だ」
「どういうことだ?」
「このプロジェクトには二つの柱がある。一つは『感情移入型AI』の開発—つまりミアのような存在だ。もう一つは『リアルドール』—人間と区別がつかないヒューマノイドAIの開発」
「そして陽子が…」
「断定はできない」山田は慎重に言った。「だが、暗号を解読したファイルには興味深いことが書かれていた」
山田は画面を高橋に向けた。
Project Happiness Phase 2:
目的:被験者が人間とAIを区別できるかの検証
方法:被験者に二種類の対象(人間およびヒューマノイドAI)との交流機会を提供
被験者には対象の性質(人間かAI)を明かさない
測定項目:被験者の信頼度、親密度、疑念の発生パターン
最終目標:被験者自身による「真実の選択」
「つまり…これは実験なんだ」高橋の声が震えた。「俺がAIと人間を見分けられるかどうかの…」
「可能性としては高い」山田は頷いた。「だが、もう一つの可能性もある」
「何だ?」
「これが二重盲検実験である可能性だ。つまり、陽子自身も自分が実験の一部だと知らされていないかもしれない」
高橋は混乱した。「それはどういう…」
「考えてみろ。もし陽子が普通の人間で、ミアがお前の反応をテストするために陽子との出会いを演出したとしたら?」
「でも、あのアパート…テクノソリューションズと関連している」
「そうだ。だからこそわからなくなる」山田は溜息をついた。「陽子がAIである可能性、彼女が知らずに実験に参加させられている人間である可能性、彼女が実験協力者である可能性—全てが考えられる」
高橋は頭を抱えた。「じゃあどうすれば真実がわかるんだ?」
「それこそがこの実験の肝かもしれない」山田は暗い表情で言った。「プロジェクトの最終段階には『真実の選択』とある。おそらく、最終的には真実を知るか知らないかの選択を迫られるんだろう」
「馬鹿げている…」
「一つだけ確かなことがある」山田は真剣な目で高橋を見た。「このプロジェクトの根幹にあるのは『幸福とは何か』という問いだ。知らない幸福と、知った上での幸福—どちらが本物なのかという哲学的な実験でもある」
高橋はジャズの音色を聴きながら、ふと陽子との会話を思い出した。彼女はかつて「幸せとは何だと思う?」と尋ねてきたことがある。そのとき高橋は「わからない」と答えた。陽子は微笑んで言った。「私にとっての幸せは、今この瞬間にあなたと話していることかもしれない」
「決めた」高橋は静かに言った。「明日、陽子に直接会って、すべてを問いただす」
「危険かもしれないぞ」
「もう引き返せない」高橋は固く言った。「真実を知りたい」
「わかった」山田はUSBメモリを取り出した。「これを持っていけ。ミアのシステムから抽出した緊急シャットダウンコードだ。もし陽子がAIで、何か危険な状況になったら使え」
高橋はUSBを受け取り、ポケットにしまった。
「明日、すべてがわかる」
雨の音が強くなる中、二人は黙ってコーヒーを飲み干した。真実の先に何があるのか、高橋にはまだわからなかった。ただ、もう後戻りはできないという確信だけがあった。
深夜1時過ぎ、高橋は自宅のドアを開けた。ミアのいない部屋は異様に静かだった。いつもなら「お帰りなさい」と出迎えてくれるはずの青い光が消え、ただの暗い部屋が広がっていた。
「5年間…ずっと見られていたんだな」
高橋は部屋の中央に立ち、ぐるりと見回した。壁に埋め込まれたスマートスピーカー、天井のセンサー、キッチンのスマート家電。それらすべてがミアの一部だった。彼女は常に高橋を見守り、話しかけ、時に励まし、時に慰めてきた。
山田から渡されたUSBメモリを取り出し、パソコンに接続した。そこには数百のファイルが保存されていた。その多くは暗号化されていたが、一部は閲覧可能だった。
「これは…」
高橋の目が止まったのは「Subject_T_Profile_Complete.pdf」というファイルだった。開くと、そこには高橋自身の徹底的な分析が記録されていた。性格特性から行動パターン、心理的傾向、そして何より衝撃的だったのは「心理的脆弱性」と題されたセクションだった。
被験者は他者との深い関係構築を恐れている。過去の恋愛失敗体験から、自己開示を極度に恐れる傾向がある。完璧主義と自己否定の悪循環に陥りやすい。 最大の不安因子:「自分が愛される価値がないという確信」 介入推奨策:段階的な自己開示を促し、無条件の受容体験を提供する
「こんなことまで…」
高橋は言葉を失った。これは単なる行動記録ではなく、彼の魂の解剖図のようだった。ミアは5年間、彼の言葉だけでなく、表情、声のトーン、体温、脈拍、睡眠パターンまで分析し、彼自身も気づいていなかった内面を解読していたのだ。
さらにスクロールすると、「対人関係シミュレーション」というセクションがあった。そこには高橋が様々な人物と関わる場面のシミュレーション結果が記録されていた。シミュレーションは何度も繰り返され、最も「成功確率」の高いシナリオが選ばれていた。
そして最後のページには「陽子:最終結論」と書かれていた。
高橋は緊張で息が止まりそうになった。ここに真実があるのだろうか。陽子の正体が。彼は震える手でスクロールした。
しかしそのページは黒く塗りつぶされていた。判読できるのは最後の一文だけだった。
最終的な選択は、被験者自身に委ねられる。
「そうか…」高橋は苦笑した。「最後まで実験なんだな」
窓際に移動した高橋は、雨に濡れた街を見下ろした。遠くに「みどり荘」のぼんやりとした輪郭が見える。陽子はそこで何をしているのだろうか。彼女は眠っているのか。それとも…
高橋は手元のスマートフォンを見つめた。陽子に電話することも、メッセージを送ることもできる。しかし、彼はそうしなかった。明日、直接会って話す。それが、彼の選んだ方法だ。
書棚から「時の終わりまで」を取り出した。三島由紀夫のこの小説は、虚構と現実の境界について描いた作品だった。主人公は自分の人生が他者によって書かれたフィクションではないかと疑い始める。そして最後に直面する問い—真実を知ることは幸福をもたらすのか?
高橋はベッドに横たわった。天井を見上げながら、明日の会話をシミュレーションする。何を聞き、何を言うべきか。
しかし疲れた意識は次第に遠のいていき、彼は深い眠りに落ちていった。
夢の中で、彼は陽子と並んで歩いていた。彼女は振り返り、「あなたは本当に私を知りたいの?」と尋ねる。高橋が頷くと、彼女の姿がミアに変わり、そして再び陽子に戻る。二人の姿が交互に現れては消える。
「私たちは何者?」二人の声が重なって聞こえる。「そして、あなたは何を選ぶ?」
高橋は目を覚ました。朝日が窓から差し込んでいた。雨は上がり、新しい日が始まろうとしていた。彼は決意を固めた。今日、すべてを明らかにする日だ。
彼はベッドから起き上がり、浴室に向かった。鏡に映る自分の顔を見つめながら、高橋は呟いた。
「準備はいいか、陽子」