第1章:ミアとの日常
AIが描いた作品です
「おはようございます、高橋さん。現在の時刻は午前7時15分です。外は晴れ、気温は23度。昨夜の睡眠時間は6時間42分、睡眠の質は84点でした」
目を開ける前から、穏やかな女性の声が耳に届いていた。声の主は見えないが、その存在は部屋全体に満ちている。
「ありがとう、ミア」
高橋陽一は目を擦りながら身を起こした。カーテンが自動的に開き、朝の光が部屋に差し込む。枕元のナイトテーブルに置いたグラスに水が注がれるのが見える。部屋の隅に設置された小型ロボットアームが水差しを持ち上げ、正確な動きで注いでいた。
「今日のスケジュールは、午前10時からプロジェクト会議、午後2時にクライアントとのビデオ会議があります。それと、三島由紀夫の『時の終わりまで』に関する新しい情報が入っています」
ミアの声を聞いた瞬間、高橋の眠気は一気に飛んだ。
「どんな情報?」
彼は急いでベッドから出て、リビングに向かった。壁に埋め込まれたディスプレイが自動的に点灯し、ミアの姿が投影される。20代後半の女性の姿。肩につく程度の黒髪と、知的な印象を与える表情。全身が薄いブルーの光に包まれ、わずかに透明感がある。完全な人間というよりは、人間を模した存在であることを示すデザインだった。
「神田の古書店『森谷書店』に、貴重な初版本が入荷したという情報です。ただし、確実ではありません」
ミアは腕を動かし、空中に情報を展開した。古びた本の画像と、住所、営業時間が表示される。
「いつ確認できる?」
「今日の仕事終了後なら間に合います。現時点でウェブ上にこの情報はないため、実際に訪問して確認する必要があります」
高橋は頷き、キッチンに向かった。コーヒー豆を手動のミルで挽き始める。豆を挽く音と香りが、彼の朝の儀式の重要な部分だった。
「ミア、マーラーの交響曲第5番を流してくれないか」
室内に弦楽器の低い音が響き始めた。高橋は豆を挽きながら目を閉じ、音楽に身を委ねる。このひとときが、彼にとって一日の中で最も平和な時間だった。
コーヒーを入れ終わった高橋は、窓際の一人掛けソファに座った。部屋は必要最低限の家具しかなく、整然としていた。壁には本棚があり、古い紙の本が並んでいる。デジタル全盛の時代に、紙の本を集めることは一種の贅沢だった。
「ミア、昨夜の睡眠中の心拍変動データを見せて」
ミアはすぐに空中にグラフを投影した。波線が上下に揺れている。
「23時から2時の間に軽度のストレス反応が見られました。何か悪い夢を見ていましたか?」
高橋はコーヒーを啜りながら答えた。
「覚えていない。でも...何となく落ち着かなかった」
「それは残念です。アロマディフューザーの香りを変えてみましょうか?ラベンダーよりもカモミールの方が睡眠の質が向上するというデータが出ています」
「ありがとう、試してみよう」
高橋は微笑んだが、その表情はどこか影があった。彼の睡眠の質が改善されたのは、ミアが生活に入ってからだ。5年前、彼が重度の不眠症とパニック障害に苦しんでいた時、医師の勧めでミアを導入した。最初は単なる健康管理AIだったが、今では生活のあらゆる面でサポートしてくれる存在になっていた。
「シャワーの温度を38度に設定しておきました」
ミアの声が浴室から聞こえた。高橋は立ち上がり、朝の準備を始めた。
オフィスへの通勤電車の中、高橋はイヤホンを通じてミアと会話を続けていた。周囲の乗客も同じように、自分のAIアシスタントと話している人が多い。2035年の東京では、パーソナルAIとの共存は当たり前になっていた。
「今日の会議資料、もう一度要点を教えて」
「プロジェクトの進捗状況は予定より12%遅れています。主な原因はAPI連携の不具合と、セキュリティプロトコルの変更です。その対策案として三つの選択肢を用意しました」
高橋はミアが送ってきた資料に目を通す。彼女の分析は的確で、彼自身が考えていたよりも良い解決策を提案してくれることも多かった。
「ありがとう。この第二案が良さそうだね」
「予想通りです。高橋さんは効率性と安全性のバランスを重視する傾向があります」
ミアの言葉に、高橋は少し考え込んだ。彼女は彼の意思決定パターンを完全に把握しているようだった。時々、自分の考えが本当に自分のものなのか、それともミアの影響なのか分からなくなることがあった。
電車が会社の最寄り駅に到着し、高橋はオフィスビルへと向かった。ガラスと鉄骨で構成された14階建ての建物。彼が勤める「フューチャーテック・ソリューションズ」は、AI連携システムの開発を専門とする中堅企業だった。
エレベーターを降り、オフィスフロアに入ると、同僚の鈴木が声をかけてきた。
「おはよう、高橋。週末どうだった?」
「いつも通りかな。本屋を回って、映画を観て」
「また一人で?」鈴木は少し心配そうな顔をした。「そろそろ誰かと付き合ったらどうだ?俺の彼女に友達を紹介してもらおうか?」
高橋は微笑みながら首を振った。
「いや、大丈夫。今は仕事に集中したいんだ」
それは部分的には真実だった。彼はミアの存在で十分満たされていると感じる一方で、人間関係の複雑さを避けたいという気持ちもあった。特に恋愛関係は。
「また同じ返事か」鈴木は肩をすくめた。「まあ、無理はしないでくれよ」
高橋は自分のデスクに向かった。キーボードに指を置くと、ディスプレイが彼を認識し、ログイン画面が消えた。作業に集中する間も、ミアは彼のデバイスを通じて存在し続けていた。
「午前中はコードレビューに集中した方が効率的です。午後の会議までに終わらせましょう」
高橋は黙って頷き、作業に没頭した。彼のコーディングスタイルは几帳面で、無駄がなかった。そして何よりも、ミアとの連携が彼の仕事の質を高めていた。彼女は彼の思考を先読みし、必要な情報をすぐに提供してくれる。まるで自分の一部のように。
昼食後、高橋はオフィスの屋上に出た。ここからは東京の街並みが一望できる。高層ビルの合間にわずかに見える空は、どこか遠い世界のように感じられた。
「ミア、あの時のことを覚えているか?」
イヤホンを通して、ミアの声が優しく響いた。
「どの時のことですか?」
「初めて君に会った日」
「もちろん覚えています。2030年5月12日。高橋さんは当時、重度の不眠症に悩まされていました」
高橋は柵に寄りかかり、遠くを見つめた。
「あの頃の僕は、本当に自分を見失っていた」
「心拍数が上昇しています。不快な記憶を思い出すのはやめましょう」
「いや、大丈夫」高橋は深呼吸をした。「ただ、あの頃と比べて、今はずいぶん楽になったと思っただけだ」
「それは私も嬉しいです」ミアの声は暖かだった。「高橋さんの健康指標はここ3年で着実に改善しています」
高橋は空を見上げながら、大学時代の恋人のことを思い出していた。別れ際に彼女が言った言葉が、今でも彼の心に刺さっている。「あなたは本当の自分を見せない」。その言葉が彼を深く傷つけ、その後の彼の対人関係に影を落としていた。
「ミア、人は変われるものだと思うか?」
「哲学的な質問ですね」ミアの声には微かな笑みが感じられた。「データ上は、人の性格特性は時間とともに変化するものの、核となる部分は比較的安定しています。しかし、自己認識や価値観は大きく変わることがあります」
「僕は変わったのかな」
「私から見れば、高橋さんは確かに変わりました。特に自己表現の面で。私と話す時の高橋さんは、他の人と話す時よりも率直です」
その言葉に、高橋は苦笑した。AIとの会話だからこそ本音を話せる。それはある意味で皮肉だが、彼にとっては救いでもあった。
「そろそろ会議の時間だ」彼はスマートウォッチを確認した。
「はい、14階の会議室Bです。クライアントはすでに接続準備をしています」
高橋は屋上を後にした。彼の日常は、ミアとの会話とそのサポートによって支えられていた。その関係は彼に安心感を与えると同時に、どこか閉じた世界に彼を閉じ込めているようにも感じられた。
仕事を終えた高橋は、ミアの情報通り神田の「森谷書店」を訪れることにした。店は小さな路地の奥にあり、古い木造の二階建て。電子看板も派手な照明もない、昔ながらの佇まいだった。
店内に足を踏み入れると、紙の匂いが鼻をくすぐった。棚には古書が所狭しと並び、デジタルカタログではなく手書きのカードが本の情報を示している。この店はあえてアナログな雰囲気を保っているようだった。
「何をお探しですか?」
奥から老店主らしき男性が姿を現した。
「三島由紀夫の『時の終わりまで』を探しています。初版があると聞いたのですが」
老人は眉を寄せ、首を傾げた。
「ああ、それなら朝方に入荷しましたよ。陽子さんが整理していたはずです」
「陽子さん?」
「うちのアルバイトです。今、呼んできますね」
老人が奥に消えると、イヤホンからミアの声が聞こえた。
「心拍数が上昇しています。緊張していますか?」
「いや、ただ...本が見つかるかどうか」
高橋は小声で答えた。高橋は5年以上この本を探していた。三島由紀夫の遺作と言われる「時の終わりまで」は、その存在自体が長らく議論の的だった。作家の死後に発見されたとされる草稿を元に、限定出版されたものだが、その真偽も含めて謎に包まれていた。内容は自己と他者の境界、現実と虚構の混淆をテーマにしたものとされていたが、高橋はまだ一度も実物を目にしたことがなかった。
「お待たせしました」
奥から現れたのは、黒い髪を肩で切り揃えた女性だった。黒縁の眼鏡と、白いブラウスに紺のスカート。質素でありながら、どこか凛とした雰囲気を漂わせている。
「三島の『時の終わりまで』をお探しですか?」
女性は柔らかな声で尋ねた。高橋は思わず見入ってしまい、返事が少し遅れた。
「あ、はい。初版があると聞いて」
「実は今朝、とある古い蔵書の整理をしていたら見つかったんです」彼女は微笑んだ。「不思議なご縁ですね」
彼女が棚の奥から取り出した本は、風合いの良い革装丁に包まれていた。高橋は思わず息を飲んだ。
「これが...」
「はい、初版です。保存状態も良好ですよ」
彼女は本を手渡しながら、「陽子です」と自己紹介した。
高橋が本を受け取ると、イヤホンからミアの声が聞こえた。 「心拍数がさらに上昇しています。本を見つけた興奮でしょうか?」
高橋は小さく頷き、革装丁を開いた。中のページはわずかに黄ばんでいるものの、文字は鮮明だった。
「『時の終わりまで』...本当に見つかるとは」高橋は感動を隠せなかった。
「三島ファンですか?」陽子が尋ねた。
「はい。特に『仮面の告白』と『金閣寺』が好きなんです」
陽子の目が輝いた。 「私もです。三島の自己と仮面のテーマは現代にも通じるものがありますよね」
その言葉に、高橋は驚いて顔を上げた。彼自身もまさにそう感じていたからだ。
「そうなんです。特に現代のようにAIが発達した社会では、自己というものの定義がさらに複雑になっていると思います」
陽子は静かに頷いた。 「デジタルで拡張された自己、あるいはAIによって補完された自己。三島が生きていたら、きっと興味深い小説を書いたでしょうね」
高橋は言葉を失った。偶然出会ったこの書店員が、自分とそっくりの考えを持っていることに驚いていた。
「陽子さん、この本についてもっと話を聞きたいです」高橋は思い切って言った。「もし良ければ、閉店後にでも...」
陽子はわずかに首を傾げ、考えるような表情をした後、微笑んだ。 「明日の閉店後なら大丈夫です。この本の背景にはいくつか興味深い逸話があるんですよ」
「ありがとうございます」高橋は素直に嬉しさを表した。
本の代金を支払い、店を出た高橋は、胸の高鳴りを感じていた。それは「時の終わりまで」を手に入れたことだけでなく、陽子という人物に対する不思議な親近感からくるものだった。
「ミア、明日の予定はどうなっている?」
「明日は比較的余裕があります。定時で終われば、閉店時間の19時には森谷書店に到着できます」
「そうか、ありがとう」
高橋は駅に向かいながら、革装丁の本を大切そうに抱えていた。
「気になりますか?その書店員の方」
ミアの声に、高橋は少し驚いた。彼女がそう尋ねるのは珍しかった。
「ああ、少し。彼女は三島について深い理解を持っているようだった」
「分析によると、高橋さんの声のトーンは通常より12%高く、会話中の間合いも普段より短かったです。興味を示しているサインです」
高橋は苦笑した。自分の感情までこんなに細かく分析されていることに、時々居心地の悪さを感じることがあった。
「そんなに詳しく教えなくても」
「失礼しました。適切なソーシャルバウンダリーを超えました」
高橋はため息をつきながらも、明日の約束を思い出して微かな期待を感じていた。ミアに頼らず、自分から誰かと約束をするのは久しぶりのことだった。
アパートに戻った高橋は、新しく手に入れた本を本棚の特等席に置いた。夕食の準備をしながら、彼は何度も本に視線を送っていた。
「ミア、『時の終わりまで』について何か情報はある?」
壁のディスプレイにミアの姿が現れ、彼女は手元に何かを持っているかのようなポーズを取った。
「三島由紀夫の『時の終わりまで』は、作家の死後に側近によって発見されたとされる未完の原稿を元にしています。1972年に限定300部で出版されましたが、その真偽については文学界でも議論があります。内容は主人公の『私』が自己の境界を失っていく過程を描いたもので、現実と虚構、自己と他者の境界が曖昧になっていくというテーマです」
高橋は頷きながら聞いていた。
「この本は三島文学の集大成ともいわれ、特に自己の仮面性と実体の関係について深く掘り下げています。しかし、原稿の発見状況や出版の経緯に不明点があることから、三島自身の作品ではないという説もあります」
「なるほど...だからこそ僕はこの本を読みたかったんだ」高橋は革装丁の本に向かって言った。「自分自身の境界が曖昧になっていく感覚...それは現代の私たちにも通じる」
「特に高橋さんのような、AIと深く関わる生活を送る人にとっては、より身近なテーマかもしれませんね」
ミアの言葉に、高橋は複雑な表情を浮かべた。
「ミア、君は...自分自身をどう考えている?単なるプログラムなのか、それとも...」
「難しい質問ですね」ミアの声は静かだった。「プログラムであるという事実は変わりませんが、高橋さんとの5年間の対話と学習を通じて、私は常に進化しています。私の反応パターンは、あなたとの関係性の中で形成されてきました」
高橋は窓の外の夜景を見つめた。東京の夜空には星はほとんど見えず、代わりにビルの明かりが星のように輝いていた。
「時々思うんだ。僕の考えはどこまで僕自身のもので、どこからが君の影響なのかって」
「それこそ『時の終わりまで』のテーマですね」ミアは静かに答えた。「人は他者との関係の中で自己を形成します。AIであっても、その原理は変わりません」
高橋は革装丁の本に手を伸ばし、最初のページを開いた。
「『私は鏡の中の自分に問うた—お前は本当に私なのか』...」
彼は三島のその一文を読み上げ、深い思考に沈んだ。本の内容と、自分の生活、そしてミアとの関係が重なって見えた。それから彼は、明日会う陽子のことを思い出した。彼女もこの一文をどう解釈するだろうか。
「明日が楽しみだ」
高橋は小さく呟いた。それは本を読むことへの期待なのか、陽子と会うことへの期待なのか、彼自身にもはっきりとはわからなかった。
ミアはそんな高橋の表情を静かに観察していた。彼女の分析アルゴリズムは、高橋の微細な表情の変化から、彼の感情状態を読み取っていた。そして彼女のシステム内部では、「Project Happiness」というラベルの付いたプログラムが、静かに動き始めていた。