5.意識外の看做し
とんとん。
しなやかな指先が机を叩く。
淡い桃色の爪先は綺麗に整えられている。手入れに気を遣っているのか、爪に日の光が当たるとわずかに虹彩を放って光った。
しかし、その指先の持ち主は大変にご機嫌が悪いようだ。そろりと指から腕へと視線を上げていくと、むすっとしたナーナの表情がある。
自分が怒らせたわけではないが、ヨランは曖昧に笑う表情を作った。取りなす際に自然と作るようになったくせのような表情だ。
ナーナはそれを見て、さらに眉間に皺を寄せた。
「まったく。ティトテゥス、あなたねえ、私だけならともかくヨランにも迷惑をかけるなんて」
「迷惑かどうかなんて、お前はヨランじゃないんだからわからないだろ。勝手に代弁するなよ」
「はあー? あなたより、ずうっとわかるわよ。ねえ、ヨラン」
「いいや。俺のほうがずっとヨランに詳しいぜ。なあ、ヨラン」
テトスの強引すぎる提案をされた翌日。
早いほうがいいとばかりに呼び出された。そして。
絶賛、双子の軽い口げんかに挟まれ、ヨランは力なく笑った。
気が合うのか合わないのか、放っておけばいつまでも言い合いかねない。ヨランが慣れた手つきで机の上に置かれたベルを手に取ろうとすると、二人はさっと口を閉じた。
学園内にある図書館は生徒であれば誰でも利用できる。
だが、ナーナとテトスは何かと衆目を集める上に図書館利用の常連であり、司書たちの覚えもいい。そのため、学習のためならと館内の学習小部屋をいつでも利用させてもらえるのだ。ヨランはそのおこぼれに預かって、よく課題を持ち込んで勉強していた。
さておき。
この小部屋に備え付けられている卓上ベルは魔法道具だ。これを鳴らすと、すぐにでも司書が飛んでくる。容赦のない罰則を生徒に与えることにためらいのない名物司書がいるのだ。
ナーナとテトスもそのことをよく知っているため、効果はてきめんである。
「……まあ、生産性のない言い合いはここまでにしましょう」
先にナーナが言うと、テトスが鼻を鳴らして座りなおした。
「ジエマがわざとらしいくらい街遊びを勧めるから、絶対何かあると思ったけど。そういうことだったのね。祝賀会の件から、全然わかってもらってないじゃない」
「お前が一人寂しくしているのを憐れまれてるんだろ」
「お黙り」
ぎろりとテトスをナーナが睨む。一見優しく見える大きな目でも、険しい表情をするとちっともそんな面影はない。
見た目通りの大人しく愛らしい姿で評価をすると痛い目を見るのだな、と改めて思わせる。
「ヨランも困るでしょう。周りから変に言われたりはしていない?」
頬に手をあてて申し訳なさそうにナーナは言う。そんなのは今さらだと口をついて出そうになって、ヨランは一瞬黙ってから首を横に振った。
「いえ、僕は。ナーナティカこそ困っていませんか」
辺境出で注目を集めるナーナのほうが言われていてもおかしくない。しかし、ナーナは不思議そうに首をかしげた。
「いいえ。それが全然なの。モナたちが何か手を回してくれたのかしらね。まあ、よく一緒にいるからセットみたいに思われてるってのもあるのかも」
「……なるほど、そうですか」
まったくこれっぽっちも他意はなくナーナが言う。だが、それは周囲もそういう風に思って扱われているのではという疑念が湧いてしまう。
(いや、なにがなるほどなんだ? セットってテトスも含めて?)
ヨランは不自然にならないように遅れて言葉を返す。しくしくと胃が痛くなってきた気がする。なんで姉の横暴でこんな目にあうのだろう。
「あの。ともかく、出かけることは決まってしまったんですよね」
「そうだな」
このまま取りやめになってくれないかという願望は、テトスのあっさりとした決定の声にかき消された。
ですよね、と小さく言葉がこぼれる。
ナーナが取りなすように労わる視線を向けてくるのが、さらにいたたまれなくさせた。
「ヨラン? その、ね。ティトテゥスの口に乗るのは私も嫌よ。でも、ジエマが街遊びを楽しみにしているみたいで」
「ああ」
ジエマは生粋の箱入りだ。いつも護衛や監視ありきで、それに気後れしてまともな友人関係は成立しなかった。それで、物怖じしない相手ならと希望を抱いたのだろう。
テトスとナーナはうってつけの候補だった。
周りに誰がいてもどうにもできそうな才能と実力があると知り、さらに浮かれたに違いない。
「最初こそヨランとどうかと勧めてきたのに、街のことばっかり話していたの。すごくそわそわして、食べたいものや見たいものを話すものだから……なんだか、私も断れなくて」
「姉が、とんだ迷惑を……」
「もしヨランが行かなくても、私がジエマと行動するつもりだったから。本当に気にしなくていいのよ」
「いや、それはさすがに」
真面目に言うナーナから視線をそらせば、より真剣な顔で「訂正しろ」というハンドサインを飛ばすテトスがいた。どうあってもジエマと行動したいのは自分でいたいというのがありありと分かる。
「身内のことです。ナーナティカがよければ、よろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ」
テトスのハンドサインがすっと止む。ナーナが目を向けたからだ。
「ティトテゥス。わかっているとは思うけど」
「言われなくても。万全に備えてエスコートは請け負うさ」
「エスコートでなくて、護衛と注意よ。下手をうって信頼を失うなんて、やめてちょうだい」
「誰がそんなへまするかよ」
「しそうだから言っているの」
呆れたようにナーナの目が細まった。
「それで、プランがあるんですって?」
「おう。ヨラン、あの本」
言われて、ヨランはテトスに渡されていた小さな本を机上に出した。ナーナはそれをじろじろと眺めた。白い指先が表紙を撫でる。
「これは童話集? ふうん、初めて読む本だわ」
そして興味深そうに手を取ると、中身をぱらぱらとめくる。視線が中身の文字を追うように動きだした。
テトスが横から口を挟む。
「そこの呪いにかけられた姫君って話だ」
「……ううん。一緒に食事、という解釈でいいのよね。薬品の暗喩みたいな文章で、ちょっと面白いかも」
「そうか?」
ナーナはお気に召したのか、そのままさらっと読みあげると顔をあげた。
「ねえ、この人魚にまつわる詩。ヨランのところに伝わる話だったりするのかしら。ほら、鳥の人の幻卵は実際にあったそうじゃない」
ナーナが開いたのは、ヨランが前に目に留めたあのページだった。
「見えざる形、触れ得ぬ実体、触れざれば心の空虚は満たされず。その一縷を掴みし者、手放すこと許されず。人魚の宝は、深淵の闇に閃く無明の輝き、夢の裔に散る幽かな滴」
少女めいた張りのある声が本の内容を口ずさむ。
鳥の鳴き声よりもよく通る澄んだ声音は柔らかで、内容とあいまってまるで呪文のようだった。
「私、こういう宝は古の魔法じゃないかしらって思うのよ。見つけたらすごく価値がありそうだわ」
「手に取れないならそうかもな。だとすると、ナーナ有利か……まあ、前の事件の手柄は俺だから、まあ……」
「ヨランは何か知っている?」
好奇心に光る青い瞳が二対、ヨランを見る。双子の容姿は似ていないのに、こういうところばっかりそっくりだ。
ヨランを挟んで座るナーナたちの、双方から来る期待をひしひしと感じてしまう。とくに魔法関連かもしれないというナーナの期待は大きい。ナーナは魔法が得意かつその魔法の構築に関することに目がないのだ。
ぐいぐいとこのままだと寄ってきそうで、ヨランは曖昧に声を上げる。
いくらその気がなくても、近い距離になれば戸惑ってしまう。ナーナは無頓着すぎる。
これ以上近寄られないように上体を逸らして距離を取って、返事をした。
「昔、似たようなおとぎ話を聞かされたくらいで。ほかは、とくに」
「一応、一族には伝わっているってことね……あっ、一族っていうと。ヨラン、あなたのお家の魔法についてなのだけど」
ぱっと表情を明るくして、ナーナが両手を合わせる。
「あの変化の魔法! あのときちゃんと見れなくって惜しいってずっと思っていたの。またいつか見せてほしいわ」
「えっ」
「きっとレラレ家だから使える仕様になっているはずなの。試してもうまくいかなかったから、もう一度ちゃんと見たくて」
変化の魔法は、ヨランの家に代々伝わる古い魔法だ。
一時的に足先をひれに変えて、水中を素早く泳げるようにするためのもの。異能や異形を嫌う都では大っぴらにできないため予知と同じくして公にならないように努めているものだった。
それがナーナに知られているのは、不可抗力だった。
幸い、変化を見たナーナたちが言いふらすこともなく、そういうこともあるかで流されていた。
(でも、今になって。それによく見せろって)
ナーナのことだからつぶさに観察することだろう。自分の足を、じろじろと遠慮なく。
ヨランが身を固くしたのを見て、ナーナの勢いは止まった。
途端、申し訳なさそうにへにゃりと眉が下がった。
「あ……ごめんなさい。家伝の魔法ならきっと難しいわね。事情もあるでしょうし」
「そうだぞ。はしたないだろ。ジエマさんを見習え」
「ティトテゥスには言われたくないわね?」
売り言葉に買い言葉。
テトスの揶揄する発言に、ヨランを挟んでまたにらみ合いが始まってしまった。
「厚かましさでいうなら、あなたのほうがずーっとひどいでしょう。ちゃんと私は引き下がるもの」
「どうだか。わかってるつもりで振り回してそうなお前よりはマシだ。あーあ、可哀想だなあヨラン。ジエマさんも」
「はあ?」
「第一、ちゃんと街でジエマさんを喜ばせるようなことが出来るか心配だぜ。愛も恋も本で読むだけじゃわからないってのに」
「確かにやったことは……ないけど。でも、振る舞いくらいはできるわよ! 失礼ね!」
「じゃあ触れてみるとかくっつくとか平気で出来るのかよ」
ぐ、と肩を抱えられる。
(えっ)
たおやかな傷一つない白い手がヨランの肩を掴んでいた。
「こうでしょ、こう!」
むっとしたナーナが人形を抱くようにヨランに抱き着いていた。
お世辞にも男女の仲睦まじさとは温度がまったく違う。
だが、予期せぬナーナの行動にヨランは硬直してしまった。一瞬で石になったかと思うほど体の反応がぴたりと止まる。
「お前……ナーナ、馬鹿な……」
さすがのテトスも一瞬だが憐れんだ目をした。すぐにいつもの仏頂面にもどすと、わかっていないと首を横に振った。
「お前、それで本当に大丈夫か」
「なによ。どこが違うの。さっきの本の内容にあったことをするんでしょう」
あっているわよね。と近づいた顔でナーナがヨランを覗く。
(うわ! 近い近い近い!)
咄嗟に顔をそむけて間に手を挟む。
断じてこちらからは触れていないという意思表示である。
「ついでにあのホリィ・ムーグのようにふるまう感じで……分け合うってあれのことでしょ。マナー的に難があるけど、まあヨランとならあれくらい出来るかしら」
「出来るのか」
「だってヨランだし。安心してできるわ。いざとなれば幻覚の魔法でそれっぽく見せればいいんでしょう? ええ、もちろんできるわ」
真面目に言うナーナに、とうとうテトスはさじを投げた。
「よし。がんばれヨラン。俺は知らん」
「なっ、そっ、テトス!」
あんまりだ。
ヨランが悲鳴まじりの声を出すと、腕を組んでわかったように言って返された。
「これはこんなだが、好かれているのは違いない。そういうことだ。がんばれヨラン」
「投げないでくださいよ! ナーナティカも、離れて……!」
「あ、ごめんなさい。つい」
「つい!?」
声が裏返った。ナーナがきょとんと目を丸くした。
「だって、前も一度こうしてたでしょう。だから二度も三度も大体同じだしいいかなって」
「いいかなって……」
離れていく体を唖然と見送って、ヨランはへなへなと力を抜いた。
確かに、以前、必要あってナーナを抱えるように支えたこともあった。
事件があったのだ。学園全体で騒動になるような、呪いにまつわる事件がいくつか。ヨランを含め、この三人で原因究明に動いたのは記憶に新しい。
だが、倒れそうになるのを支える目的だ。そういった話に出る抱擁とは、わけが違う。
(なんだそれ……なんだそれ)
異性に対しての意識、皆無。
誤解がないことは喜ばしいのに、なぜか重たい気持ちが湧いてくる。胸の内に吹く風がむなしい。
わざとらしい咳払いが響く。テトスは数度それをすると、あからさまに話題を変えた。
「それで、日時だが」
次の休養日に街遊びだと決まっても、時間が経っても、ヨランの心に到来した寒々しさはいっこうに衰えなかった。