11.水溶変化
※)まろやかにですが、一部人体が溶けるような描写があります。苦手な方はご注意ください。
(……戻ってきてしまった)
テトスの言葉から、弾かれたみたいに部屋を出て、何をすることもわからないまま別館にたどり着いた。
そして、慌てて出たのでナーナの部屋の鍵をせずにいたことに気づいた。不用心だった。
(鍵を閉めるついでで、様子を見ておく必要があるから……)
ヨランは誰に言い訳をするでもないのに理由を上げて、ナーナの部屋のドアを叩いて開けた。
相変わらず、出て行った時と変わらない姿で座ったままだった。
入り口の前で佇んでいるわけにもいかない。ヨランはなるべく音を立てないようにドアを閉めて、向かいに腰かけてみる。
(することが、ない)
異変がないか見ることしかできない。
ただ、ナーナが力を抜いて座っている様子を見るだけだ。
表情が乗っていない顔は作り物めいている。頬や肩に流れる金糸の髪が余計にそう思わせるのだろうか。
細い首筋からなだらかな稜線を描いて肩が丸く落ちている。
そこからさらに下に視線が落ちる。鼓動は、ちゃんとしているのだろうか。小さな呼吸音とわずかに動いている胸で、生きているのかとほっとする。
そして、まじまじと異性の胸元を見ていたことに気づいて、ヨランはやましい気持ちではなく、とまた言い訳をして目を逸らした。
(無防備が過ぎる……いや、勝手に入った僕が悪いのか。まあ、そうだよな。普通、鍵を開けて入らないし……いやでも、何かあったらと思って)
余計なことまで考え始めてしまう。こうなると、答えの出ない自問になるばかりで、気が滅入ってしまうだけだ。なのに、止まらない。
(それに、ナーナティカなら入った時点で気づいてもおかしくない、はず。そうだよな。なら、こうしてこのままなのは信用されていることで……何もしないって思われている……)
単純に、そういう目で見ていない。警戒に値しないと思われている。
思考がそっちのほうにいって、いらないダメージまで負ってしまった。何をしているのだろうと、勝手に憂鬱になって視線を彷徨わせる。
ごく普通の部屋だ。
レラレ家の別館にある客人用に改装した個室で、とくだん変な物もなくありきたりのものばかり。
ナーナの私物らしきものは、ベッドサイドにある鞄と机に出された読みかけの本くらいだろう。
あとあるものといえば、ヨランが家の者に頼んだ菓子が小皿に少しとティーカップがぽつねんとあるばかりだった。
(なんだ。本は、姉さんの本か)
よくよく見れば、車のなかで話題にあげていたジエマの本だった。小さな本はこれにそって行動してほしいと頼まれたときに見たものだ。
(そういえば、人魚の宝の呪いなんだっけ)
ふと、本を眺めていて思い出した。
ナーナが抱える鱗模様の小瓶。呪いの魔法道具は、触れた瞬間から三日後までに贈った相手と添い遂げないと水になる。そういう呪いだとテトスは言っていた。
だからだろうか。
本の詩がふとよぎったのだ。そして、それに連鎖するように祖母の話と、ジエマの予知内容が思い浮かんだ。
(解読のヒントになるのかもしれない)
ジエマの予知は、近づく危険を必ず当てる。
これが絶対そうだとは言えない。だが、ヨランには多分そうなのだろうと思わせるだけの材料があるように思えた。
何もしないよりは、何かしていたほうがマシだ。
まず目の前の本を「すこし借ります」と声をそうっとかけてから手に取る。
それから、静かになるべく音を立てないようにして、ヨランは読みはじめるのだった。
ジエマの好きな本は、やっぱり趣味が合わない。
数個目の物語を読み終えて、ヨランはそんな感想を抱いた。
装飾過多で古く遠回しな言葉。ともすれば未知の暗号のようで、さっと読んだだけでは目が滑って抜け落ちる。
呪いをかけられたお姫様と騎士の話も、これを読んで楽しい街遊びだと解釈するのに時間がかかった。
ナーナの様子を気にしながら読み進めていたが、窓の外は昼下がりをとうに過ぎていた。
相変わらず、ヨランの前でナーナはじっとしていた。
それは夕方を回って、呪いの解除から1日目の夜が始まってもそうだった。
暖期の夜とはいえ、避暑地のここは日が翳ると時折ひやりとした風が吹く。
窓を叩く風の音を聞いて、ヨランは自分の部屋のカーテンを閉めた。
(ナーナティカは、本当に大丈夫なんだろうか)
ナーナは食事もせず、まだじっと佇んで魔法道具と格闘しているようだった。声をそっとかけてみてもやっぱり反応がない。
さすがに食べないのはどうかと思ったので、本館に行ってジエマの様子を見がてらテトスにもう一度聞いた。
返ってきた言葉は「一日くらい食べなくても大丈夫」だった。
兄と言い張るのに妹への扱いが雑過ぎる。
そんなヨランの目に気づいたのか、軽く額を指で弾かれた。あれはけっこう頭に響いた。
ヨランが頭を抑えている間に「仕方ねえなあ」とテトスは自分の携帯食を差し出した。
「これやるから、今日はお前も食って寝ろ。そしたら何にしろ勝手に進む」
固めた棒状の携帯食はぼそぼそとして味気ない。そのくせ、ずっしりと重たい。無理やり練り固めて焼いたみたいな最低限の食料だった。
さすがにこれを食べさせるのはと、ヨランは結局暖かい料理を運んでみたが、どうやっても食べそうにない。恐る恐る匙を口元に寄せて見てもまったく動かなかった。
ヨランは無理に食べさせるのは諦めて、長持ちするパンや焼き菓子だけおいて部屋を出たのだった。
(もし、寝ている間に何かあったら)
ジエマの呪いの肩代わりで、解呪の進行具合なんて傍目にはわからない。
うまくいっているのか。どの程度終わったのか。
失敗していないか。悪いことがおきていないか。
シーツにくるまって考えれば、嫌なことや心配ばかりが湧き出てくる。
右手につけたままの、ナーナからもらった腕輪に触れる。護身具なら、渡してしまえばよかっただろうか。今からでも行ってつけてあげようか。
聞こえないのがもどかしい。
(もっと近い部屋で、隣だったら楽に聞こえただろうに)
無意味な寝返りを打って、耳を澄ましてみる。夜ににぎにぎしく活躍する虫の音と水の音。当然、ナーナの声は届かない。
それにやきもきしながらまた寝返りを打って、うん、と気づいた。
(……いや、僕は何を)
心配からくることにしても、異性の音を遠慮なく聞くのはどうなのだ。
それも寝ている間じゅう。夜も昼もなく。
(寝れない……)
心配と、自分は何をしているのかという自己嫌悪。加えて得も言われぬ羞恥。
全てがないまぜになったまとまらない思考のまま、浅い眠りをヨランは繰り返した。
そして当然のごとく、寝不足の出来上がりだ。
カーテン越しに差し込む淡い朝の光を目にして、ベッドから這い出る。おざなりに身支度をして、ぼんやりとした頭を抱えて部屋を出る。
ナーナの部屋の前に行って、返ってこない声にがっかりしながらドアを開ける。
ナーナが床に落ちていた。
「えっ。あ、っな」
意味のある言葉が出ず、そのまま中に入る。
昨日の夜は寝る前に、ナーナはちゃんと座っていた。無暗に動かしていいかもヨランにはわからなかったので、クッションを持ってきて椅子と体の間に挟んでおいた。
それなのに、クッションはばらけて椅子と床に転がっている。そして、そこから滑り落ちたみたいに、ナーナは机の下から体をのぞかせていた。
「なんで……あ、水?」
濡れている。
椅子の座面から床にかけて、しっとりと水たまりができていた。転がる小瓶を見つける。
ばくばくと落ち着かない心臓の音がこだまする。ゆっくりとナーナに近づく。
ぽちゃん。
水が滴る。
きらびやかな淡い金の髪。毛先に向けて、ふつふつと水の珠が浮き出ていた。
(どこから水が)
ぽちゃん。
また小さな滴が落ちていく。
仰向けに倒れたナーナの顔。首元もしっとりと濡れていた。まるで水に浸かった後そのままそこに倒れたような有様だった。
「ナーナティカ?」
普通に声が出ただろうか。定かでない感覚で、ヨランが呼びかける。
返事の代わりに、また水が浮き出て落ちた。
躊躇いがちに手を伸ばす。肩に手を触れようとして、それが、ぐにゃりと沈み込んだ。
――骨がそこにないかのように。水が詰まった袋のようになっている。
呼吸を忘れたみたいに、短く逼迫した息が喉から漏れた。
反射で肩から離れた手の跡がナーナの肩に残った。それからゆっくりと元の形に戻っていく。
「ナーナティカ」
呆然と名前を呼んで、ヨランは数瞬の間にナーナを抱え起こした。
(何か進むにしても! 悪いほうじゃないか!)
少女の形をした水袋。例えるならそんな感触ばかりのナーナの体を腕に、ヨランは血の気が引いた。
「どう、したら。ナーナティカ。聞こえますか、返事を」
動揺の気持ちが声に出る。急いて声をかけて、揺さぶってみれば弾力をもって体が揺れてさらに動揺する。
水音がする。
自分の落ち着かない呼吸ばかりがする。
水音がする。
ヨランは音の方向を見て、視界が歪んだ。
ナーナの足が、溶けている。
靴が脱げ、脛から下の形がない。
溶けかけたバターのように途中から形がとろけて床に広がりかけていた。うっすらとすけて見える肌色が、そこに足があったのだと嫌でも理解を促がしていた。
「ああ……」
漏れ出た声は、泣き言だろうか。それとも。
(大丈夫だと、言って……言った、くせに)
ナーナを抱えているために、しっとりと濡れだした胸に何かが広がる。
これは、間違いなく苛立ちだった。
(また、無茶をして! 人を振り回して!)
力を入れすぎれば、また指が肉のうちに沈んでいく。その感触が、ひたすら嫌だった。
消える。
ヨランを置いて、勝手に突っ走って、先にどんどん行って。
そして、もしかしたら、このまま溶けて消えてしまったとしたら。
「……ふざけるなよ」
こんなに人の感情をめちゃくちゃにして、振り回して。
するだけして放置をするナーナに、言いようのない暴れまわるような熱量が腹の内を燃やした。
「絶対に、このままじゃ、いさせない」
息を吸って、ふつふつと煮えた怒りごと長く息を吐き出した。




