2、触手と遊ぼう
『おはよう!』
二日後の朝、ロンは本当にリィナの家を訪ねてきました。
朝食を食べ終わって、朝の勉強をしていたリィナは、本当に来た、と鳥肌が立ちました。
昨日の朝、ベッドの上で目を覚ましたとき、森の中での出来事は、すべて夢だったんじゃないかと思ったものでした。
だって、出会った魔物に相性抜群の炎魔法を浴びせてもビクともせず、言葉を話して、しかも息子と友だちになってほしいと頼まれるなんて、今まで聞いたことがありません。
花の匂いや触手の感触、恐怖で血が全身を駆け巡って熱くなった自分の体、イヤな汗をたくさんかいた感覚がとてもリアルな夢だったのだ、と考えた方が自然な気がしていました。
だから、こうしてロンが訪問してきて、リィナは一気に現実に引き戻されたのです。
「お、おはよう」
『今から遊べる?』
「今、勉強中なの……」
本当のことを言ったのですが、ロンが気分を悪くしないか、少し不安になりました。
『うん、分かった! 家の外で待ってるね』
そう言って、ロンはリィナの家の前に自生している雑草の所へ行って座り込み、何かと会話を始めました。
足下の植物にあいさつをしているのですが、リィナには独り言をつぶやいている男の子にしか見えません。
とりあえず、勉強の時間はくれるようです。
「今日の宿題、いつもより少ないんだよなぁ……」
階段をダダダっと駆け上がって、自室に逃げ込んだリィナは、机に向かいます。
いつもは、見るのもイヤだった宿題が、今日に限っては救世主に感じます。
今だったら、机に宿題が山のように積んであっても喜ぶでしょう。
二十分後には、宿題が終わってしまいました。
「よ、予習をしていよう……」
普段は絶対にやらない、これから学校で教えられる内容が書かれている部分に目を通し始めました。
予習だって立派な勉強です。
それから十分くらい経った時、
『もう終わった?』
突然、開け放っている窓からロンの声がしました。
ちょっとだけおしっこが漏れて、全身の毛という毛が逆立ったのを感じました。
「ヒッ!」
という小さな悲鳴をあげました。
外から一本の触手が登ってきていて、その先端には人間の口が付いています。
この触手の色や質感は、間違いなくロンのものです。
「お、終わった……」
あまり待たせていると、いつあの触手が自分の首に絡みついてくるか分からないため、ちゃんと本当のことを言いました。
『そうか! じゃあ今から遊べる?』
もう一本触手が上がってきて、その先端には人間の子どもの右耳があります。
さらにもう一本現れて、そこには人間の目玉があります。
「う、うん……」
さっき見たときは、人間にしか思えなかったのに、口と耳と目玉がそれぞれある触手を伸ばしてくるのは、やっぱりあの子は魔物なのだ、とリィナは思いました。
目玉の付いた触手が、リィナの部屋に入ってきます。
『よく片付いてるね。綺麗な部屋だ。今度は君の部屋で遊びたいな。いい?』
今度は、ということは、今日は外で遊ぶつもりなのでしょう。
さすがに、自室に彼をあげる勇気は、まだ彼女にはありません。
「も、もちろん」
リィナは、震える声でウソをつきました。
『じゃあ、早く外に来て! 君と一緒に遊びたくてウズウズしてるんだ』
「そ、その前に着替えるから待って」
『着替えるって? ああ、確かにスカートを穿いてたら遊びにくそうだもんね。いいよ!』
三本の触手は、スルスルと窓から出て行きました。
リィナは、おそるおそる窓から顔を出して外を見ます。
ロンの顔から三本の触手が伸びていて、それぞれの顔のパーツが欠けています。
触手が戻ると、顔のパーツも元通りになりました。
ロンが、無邪気な笑顔で手を振っています。
リィナは、苦笑いしながら手を振り返すと、ビシャンっと窓を勢いよく閉め、それからすばやくスカートとパンツを脱ぎ、新しいパンツとズボンを穿きました。
本当は、パンツを手洗いして干してから出かけたいですが、そんな時間はロンはくれなさそうです。
玄関のドアを開けると、ロンがニコニコしながら立っていました。
血の気が薄いことを除けば、人間にしか見えません。
さっき、顔から触手が伸びているのを見ていなければ。
『そういえば、人間って不思議な匂いがするよねぇ』
ロンが、急にリィナのうなじの辺りに鼻を寄せてきました。
「に、におい……?」
本能的に距離をとりたいと感じ、彼女は一歩彼から離れます。
『そう! ぼくってまだ、草木や動物のにおいしかかいだことなかったから、リィナの体の匂いが新鮮に感じるんだよ。何だろう。リィナの汗はちょっと酸っぱいような匂いだし、服からは色んな植物を混ぜたようないい匂いがしてくる。髪の毛からは、また別の植物からできた薬っぽい匂いがするね。潤いを保つあの植物の汁とか、殺菌効果のあるあの植物の汁が混ざってる気がするなぁ』
「ええと……。お母さんが作った洗剤で服は洗ってるし、髪の毛も植物から作った洗髪剤で洗ってるよ。ロンの言ったとおり、潤いと殺菌効果があるって言ってた。わたし自体のにおいは、分からないな……。自分のにおいはかぎ慣れてるから。お父さんが言ってたのは、人の体臭は、生まれつきのものや、普段食べているもの、心がリラックスしていたり不安だったり興奮していたりで違ってくるって言ってた」
『ほうほう! リィナは頭がいいね。さすが勉強してるだけのことはある』
ところで、とロンはようやく彼女から少し離れて言います。
『リィナは、普段何をして遊ぶの?』
「遊び? 縄跳びしたり、魔物ごっこしたり……」
『魔物ごっこ? 何それ?』
「ええと、人間役と魔物役に分かれて、人間が逃げて魔物が追いかけるの。体のどこかを触られれば、人間役の負け。逃げ切れれば魔物役の負け」
『だったらそれをやろう! ぼくが魔物役でいい? だって、ねぇ……』
ロンの顔を構成している筋肉が不自然に動き、一瞬触手が見えました。
「う、うん。それでいい……」
『よっし! それじゃどうしたら――』
リィナは駆け出し、家からどんどん離れていきます。
『お、もう始まったんだね。それなら……』
ロンは右の手の平をリィナに向け、そこから触手を二本出して、勢いよく伸ばします。
触手がリィナの両足首に絡みつき、グイッと持ち上げ、彼女は頭が下になった状態で宙づりになりました。
「イヤッ! ちょっ……!」
リィナの背中まで伸びる黒髪が垂れて、数センチほど地面に付いています。
『これでいいの? ぼくの勝ち?』
触手の長さをゆっくりと短くしながら、リィナを自分の所に引き寄せました。
リィナは、垂れ下がってくる紫のローブと上着を両手で押さえながら、首を横にブンブン振っています。
『リィナも魔法で立ち向かわないと、一方的にやられちゃうよ? もしかしてリィナはこの遊び弱い方?』
「いいから、降ろして!」
ロンに、初めて怒鳴りました。
彼女の怒った顔と声が珍しく、ロンはリィナがケガをしないようにゆっくりと降ろします。
「……道具は、何も使わないの!」
『道具? 失礼だなぁ。これはぼくの体の一部だよ』
「普通の人間は、触手なんて持ってないでしょ!」
『まあ、確かにそうだね。ならせめて、魔法を使ったら? 君は道具なしで魔法が使えるじゃないか』
「魔法もダメ……! 自分の足だけで走って、手だけで相手の体に触るの!」
『そういうルールなんだ! ごめんね。魔法がダメって事は、例えば毒の粉を風で飛ばして人間役の動きを鈍らせてから捕まえるのもダメ?』
リィナは、力強くうなづきました。
『そっかそっか。じゃあ仕切り直しだね』
「もういい! 別の遊びする。縄跳びやる?」
『縄跳びもいいけど、そういえばこの前森の中で迷っていたとき、リィナは何をしていたの?』
「薬草を採っていたの。それで薬を作る練習をしてて。お父さんとお母さん、どちらも薬師だから。わたしは見習い」
『薬師って?』
「薬を使って病気を治す人のこと。針で縫わなくちゃいけない傷とか、体の中のものを切らなくちゃいけない病気とかは、薬師にはできなくて、それは医師にお願いするの」
『なるほどね。植物を採ってたんだ……』
ロンは、右手をあごの下に当てて何か考え事をし始めました。
もしかして、植物を採るという行為が、彼にとって許せないのでしょうか。
リィナは、ちょっとだけ後ずさりします。
『お父さんとお母さんが薬師だから、リィナは頭がいいんだね! ぼく、頭のいい女の子好き。お友だちになれて嬉しいよ!』
ロンは、両手でリィナの両手を強く握って、上下にブンブンと振りました。
「痛っ!」
二日前の擦り傷が、皮膚が伸びるとまだ痛むのです。
『あっ、ごめん。まだ傷が痛むの?』
リィナは、コクっとうなづきます。
『人間の自己再生能力は低いって、お母様が言ってたけど、本当だったんだ』
そして、ロンは森の方を指さします。
『お母様のところへ行かない? きっと傷が早く治る方法を知ってるよ!』
リィナの表情が、一瞬凍りつきました。
あの魔物のところへ行くのは、怖いです。
でも断れば、あのマダムが直接家のドアを叩きに来そうです。
それに、ロンは本気でリィナのケガを心配しているように感じました。
行くしかない、と思いました。
「……行く。わたしに何も悪いことしないって約束してくれるなら」
『もちろんだよ! ぼくはリィナのことを大事に思ってるんだから。さあ、行こう!』
もし、両親のどちらかが家にいれば、断る口実が出来たのですが、二人とも往診に出かけているので、それもかないません。
彼女は、二日ぶりに森へと入っていきました。
〈あら、いらっしゃい。こっちに遊びに来てくれて嬉しいねぇ〉
マダムは、まるで人間の母親が、自分の子どもの友だちを歓迎するような声色で言いました。
おとといと同じく、草と花が咲き誇る草原にいます。
マダムは、両腕に相当する太い触手の塊をブンブンと振って、リィナを歓迎しています。
「ど、どうも……」
あの触手がいつ自分の体に向けられるか分からないので、できるだけロンの背後に隠れながらあいさつします。
『お母様! 遊ぶ前に、リィナのケガを見てほしいんだ。まだ治っていないみたいで、痛そうにしてて』
ロンは、不安そうな表情で母親にお願いしています。
〈そうなの? じゃあ、ちょっと見せてもらおうかね。いいかい?〉
マダムは、顔を息子からリィナに向けました。
「は、はい……」
放っておいても治りそうな傷なのだが、ここまで来て拒否するわけにもいきません。
リィナは、腕まくりをして、細い腕をさらします。
〈ほっそい腕だねぇ。これだったら、その辺の木の枝の方が太いよ。ちゃんとご飯食べてるかい? 何なら、あたしが何か用意しようか?〉
まるで、おせっかいおばさんみたいにまくし立てるマダム。
『これが女の子の腕なんだ……。ちょっと触らせて!』
ロンが手を伸ばしてきます。
〈コラ! 女の子に勝手に触るんじゃない! 男の子に急に触られると、人間の女の子は驚くんだ。分かった?〉
マダムが、一本の触手で軽く彼の腕をペシッと叩きました。
『ごめんなさい、お母様。だって、細いけれど、傷のあるところ以外の皮膚が、しっとりしててきめ細かくて綺麗なんだもの。つい触りたくなっちゃったんだ』
〈この前、森からおうちに送ってあげたとき、手をつないでたじゃないか。あれで我慢しなさい〉
『うう……。お母様は、触手でリィナの服の中を触ってたのに……』
〈あれは、脅してたからいいの。まだ、大人たちにあたしたちの事を知られるわけにいかないから〉
ふと、リィナは思いました。
この親子は、人里に近い森で何をやっているのだろう、と。
息子に友だちを作ってあげたい、という母親としての気持ちは、何となく分かりますが、人間に見つかるリスクを伴ってまで行うことなのでしょうか。
まだ十歳のリィナには、これ以上は分かりません。
〈とりあえず、薬を塗ってあげよう〉
マダムの右腕から一本の触手が伸びてきて、その先端がタンポポの綿毛みたいに柔らかくなりました。
その綿毛に、触手の中からジワジワと薬液のようなものがしみ出してきて、毛先の隅々にまで浸透していきます。
そして、薬がしみこんだ綿毛で、軽くパタパタと傷口に触れ、薬をつけました。
マダムの処置は、まったく痛くなく、まるで近所のおばさんに手当を受けているのと変わらない、とリィナは思いました。
最後に、マダムは何かの葉っぱを、茎でリィナの腕に巻き付け、傷口を保護しました。
〈これで、夕方には傷跡すら残らず治っていると思うよ〉
マダムは、子どもをあやすように、ポンポンとリィナの頭をなでます。
『じゃあ、これでいっぱい遊べるね!』
母親の処置を、興味津々といった様子で見守っていたロンですが、もう我慢しなくていいと思うと、嬉しくなってリィナの両肩を後ろから優しく手で叩いて言いました。
〈それじゃ、あたしが手伝ってあげよう〉
すると、マダムは両腕を横に伸ばしました。
腕の真ん中あたりから触手がそれぞれ一本ずつ垂れてきて、片方を息子の右手首に巻き付け、もう片方をリィナの左手首に巻き付けました。
触手が縮んでいき、二人の足が地面から一メートルほど離れます。
〈そーれ! 最初は軽くいくよ!〉
マダムは、両腕を軽く揺らし、触手をプラプラさせます。
二人の体は、宙でゆっくりと回転しながら、前後に揺れています。
『すごいすごーい!』
ロンは嬉しそうに興奮しています。
一方、リィナは回転したり揺れたりすることに慣れていないので、ちょっとだけ気分が悪くなってきました。
それに気づいたマダムが、
〈おっと、お前さんの体を固定しないとね〉
さらに二本の触手が伸びてきて、リィナの腰に左右から巻き付き、回転しないようにしっかり固定しました。
「わぁ……」
一定方向に揺られ続けて、少しずつ回復してきたリィナは、いつもより高い視線から森を眺めます。
風に草木の匂いが乗ってきて、それがリィナの熱くなっていた体を涼しくしました。
リィナは、だんだん楽しくなってきました。
傷薬を塗ってくれただけではなく、彼女の体調が悪くならないように配慮してくれる魔物を、ちょっとずつ受け入れられるようになってきました。
この世には、いい魔物もいるのかもしれない。
リィナは、クスッと笑いながらそう思いました。
午後からは、町の学校で授業を受けないといけないため、帰らなければなりません。
〈ロン、間違いなく家まで送っていくんだ。いいね?〉
『もちろんだよ、お母様。悪い魔物や動物が来たら、ぼくが懲らしめるさ』
ロンのおかげで、安全に帰ることができました。
夕方頃、授業が終わって、道ばたで傷を押さえていた葉っぱをとると、驚いたことに傷がきれいさっぱりなくなっていました。
まるで、最初からケガすらしなかったみたいに。
もしかしたら、人間と仲良くなりたい魔物だっているのかもしれない。
リィナは、前向きにそう考えました。
3へ続きます。