1、触手との出会い
とある田舎町に近い森の中。
紫色のローブを羽織った十歳ほどの女の子が、斜面の下でうずくまっていました。
薬草を採りに、いつものように森へ入ったのですが、
「いつもと違う所を探したら、もしかしたらスゴい薬草が見つかるかも!」
と意気込み、土の見えている二手に分かれている道を、普段は右へ行っているのですが、今日は左へ足を向けたのです。
「左側の道は、斜面が多くて地面に大きな岩がゴロゴロして足下が悪いから、リィナはそっちへ行ってはいけないよ」
と、両親はもちろん、近所の大人たちからも注意されていたことを、ヨロヨロと立ち上がりながら思い出しました。
「ゲホッ! やっぱり……行っちゃいけない所には、行っちゃダメなんだね……」
リィナが今いる場所は、道から十メートルほど下なのですが、斜面は緩やかで、夏の光をいっぱい浴びて育った雑草がクッションになったので、ゴロゴロ転がっても軽い擦り傷で済みました。
「山には、色んな虫がいるから、夏でも長袖と長ズボンは欠かさないで」
と、両親からしつこいくらい言われていたのが、ここで役立ちました。
もし、町で過ごしている時と同じ半袖とスカート姿だったら、血がいっぱい出て、スカートも破れて下着が見えてしまっていたかもしれません。
さすがに、下着が見えたまま家まで戻るのは、恥ずかしすぎます。
空き地で遊んでいる男の子たちにからかわれるでしょう。
服に付いた泥んこを払うと、リィナは辺りをキョロキョロと見回しました。
「ここはどこだろう?」
いつもと違う道を来たので、まったく見慣れない景色です。
しかも、下に転がっていってしまったので、なおのこと。
斜面の下には、道がありません。
土は、雑草によって覆い隠され、数十メートルの高さのある木が、ポツンポツンと立っています。
「暑い……」
リィナがいつも薬草を採っている場所は、木がたくさん生えている所なので、夏の太陽を上空で葉っぱがある程度さえぎってくれて、ちょうど過ごしやすいのですが、ここではあまりさえぎってくれないので、直射日光を浴びる彼女の顔は、玉の汗をかいていて、ふっくらしたほっぺたを伝ってあごに流れていっています。
「脱ぎたい……けどダメだよね」
これ以上、大人の言うことに逆らったら、きっとロクな目に合わないと思ったので、やめておきました。
さて、早く町へ帰らなければなりません。
こんな泥だらけで擦り傷だらけで、これ以上薬草探しなんてしたくないです。
「ええと、森の中で迷った時は……」
確か、太陽の位置を見るのでした。
「太陽は見えるけど……。方角ってどう見るんだっけ」
ちゃんと聞いていたつもりでしたが、斜面を転げ落ちて気が動転しているのと、誰もいない所で不安になって、学んだことをうまく思い出せません。
擦り傷ができた所が、ヒリヒリと痛みます。
「あっ、そうだ」
念のために、お母さんから持たされていた軟膏があります。
お母さんが薬草からつくった薬で、傷を保護したり殺菌したりすることができると教えられました。
彼女のローブの裏には、草を使って編まれた小袋が縫い付けられていて、その中に、軟膏が包まれた紙が入っているのです。
「お母さん……」
長袖をまくって、ひじや腕に緑色の軟膏を塗っていると、まるでお母さんに優しくされたことを思い出します。
外を走って転んだとき、家に帰るとお母さんはいつもこの薬を付けてくれます。
このまま森をさまよっていたら、もしかしたら二度とお母さんに会えないかもしれない、と考えていたら、ホロッと涙が一筋こぼれました。
軟膏をしまって、また辺りを見回していると、茂みの奥に開けた所が見えました。
あそこに行けば、帰り道が見えるかもしれない。
そう思ったリィナは、駆け足で進みました。
「うわあ……」
そこは、一面の草原でした。
所々に、赤や白、紫の一輪の花が咲いています。
急に森が開けていて、草原は緩い下り坂になっていて、その下には、どこまでも続く大森林が広がっていました。
あの森は、大人たちが食料である動物や魔物を狩る時によく行く森で、子どもが行くことは一切禁じられています。
ごくたまに、危ない魔物がいるからです。
強くて大きい魔物は、あのうっそうと茂った森の中を移動することは大変で、あまり寄りつかないです。
それでも、人間にとって危ない魔物はいます。
そんな魔物が一体、草原の中に立っていました。
〈人間の子ども……。こんな所に珍しい〉
それは、高さ五メートルはある、花の形をした魔物です。
頭は真っ赤な丸い花びらの花で、大きさもとても大きいです。
花の下からは、たくさんの触手が伸びていて、それが途中で人間の腕のように枝分かれし、胴体があって、足はたくさんの触手でウネウネしています。
花の魔物は、四、五十代ほどの人間の女性の声でしゃべりました。
ゆっくりとリィナに近づいてきます。
「……こ、来ないで……!」
リィナは、とっさに右手を前に出して構え、炎を出す魔法の呪文を唱え始めます。
その間も、魔物は近づいてきます。
リィナは、そこにいる魔物から、今まで感じたことのない強さの魔力を感じていました。
これまで森の中で出くわした魔物より、数十倍高い魔力量です。
そして、呪文が終わり、炎が手のひらから出ました。
まっすぐオレンジ色の炎が飛び出していき、花の魔物を包みます。
植物の魔物なら、炎が一番効くはずです。
〈……ちょっとこげちゃったねぇ〉
花の魔物は、左右の腕で、やれやれといった様子で、体に付いたすすを払います。
「あ……あ……」
リィナは、腰が抜けてその場に座り込みました。
だって、自分が出せるフルパワーの魔法だったのに、ちょっと体を焦がしただけなのですから。
もう一度同じ炎を出せと言われても、魔力が足りないので無理です。
後はもう、あの魔物にされるがままです。
腰が抜けていなければ、全速力で走って逃げるのに。
〈出会って話もしないで、いきなり攻撃してくるなんて、一体どういう教育を受けてきたんだい?〉
リィナの後ずさりする速さより、魔物の這ってくる方が速く、リィナは魔物の影にスッポリと入ってしまいました。
「だ、だって、あなたが、見たことないくらい、強い、魔力を、持ってるから……」
とても高い位置にある頭を見上げながら、リィナはなんとか、声を絞り出します。
顔をほぼ真上に上げているせいで首が痛く、細い喉が無防備にさらされています。
ゴクリとつばを飲み込み、わずかに凹凸のある喉仏が、上下に動きました。
〈あー。お前さんはまだ子どもだから、あたしみたいに、強い魔力を持った生き物は、まだ見たことがなかったのかい? 確かに、魔力が高い生き物は知力も高くて、人間との無駄な争いをさけるために、人が集まる所には近づかないから、仕方ないかねぇ。大丈夫、何も悪いことはしないよー〉
魔物は、のんきな声でペラペラ話しています。
魔物の両腕も、足と同じくたくさんの触手で出来ていて、ひっくり返した虫の足みたいにうごめいています。
あの触手で引っぱたかれたら、さぞ痛いでしょう。
皮膚が裂けて血が吹き出すでしょう。
もしかしたら、肉を引き裂き、骨まで折れてしまうかもしれません。
触手一本だけでもリィナの首に絡めば、かんたんに絞め殺すことができそうです。
「や、やめて……」
魔物は人間を容赦なく殺す。
それが、大人たちや物語の中で語られている、魔物に対する認識です。
町の子どもたちは、それをよく教え込まれます。
だから、小さいうちから、自分の身を守るために魔法や剣術を教わります。
でも、そんな魔法が通じない相手が、目の前にいます。
リィナの命を守ってくれるものは、今何もありません。
今身につけているローブと上着とズボンと下着だけでは、あまりにも薄すぎます。
その事実を感じ取った彼女は、恐怖で下半身が濡れてしまいました。
〈あーあ。おしっこ漏らしちゃったよ。そんなにあたしが怖い? どうしたらいいかねぇ……〉
魔物は、両腕を胸の前で組み、まるで何か考え事をしているようなポースをとっています。
そして、右手の触手の形を変え、大きな人間の手の形にすると、ゆっくりとリィナに近づけていきました。
「…………!」
自分の人生はここで終わりだ。
そう思った彼女は、涙がにじみ出てくる目を、ギュッとつむりました。
やがて、リィナは自分の頭に変な感触があることに気づきます。
おそるおそる目を開けると、魔物が目と鼻の先まで来ていて、彼女の頭をなでていたのです。
〈これで、あたしの気持ちが伝わった?〉
この大きさの手と、太い腕なら、このままリィナを小さな虫みたいに潰すことはかんたんです。
でも魔物はその手で、リィナの気持ちが落ち着くまでなでていました。
「あ、あなたは、わたしを、殺さないの?」
か細い声で尋ねます。
〈お前さんはまだ子どもだから殺さないよ。魔物だからって、無闇に人の命を奪ってるわけじゃないの。何を勘違いしてるんだか〉
「で、でも、殺すことは、あるんでしょ……?」
〈そりゃ、あるさ。でもそれは、自分の縄張りを守るためだったり、子どもを守るためだったり、お腹を満たすためだったりね。そんなこと、魔物じゃなくても野生動物ならみんなやってることだろ? 違うかい?〉
「そう……かもしれない……」
〈お前さんだって、絞め殺された鶏の肉を食べたことくらいあるよね。それとあたしと、何か違う所はある?〉
「ない……と思う……」
「町にいる犬や猫や兎の頭をなでるのと、あたしがお前さんの頭をなでるのは、同じ事さ。分かった?〉
「……分かった」
〈お。乱れてた呼吸がだいぶ落ち着いてきたね。脈も……少しゆっくりになった。よしよし〉
魔物は、右手の触手を一本だけ伸ばしてリィナの首筋に当て、脈を確かめます。
血がドクンドクンと通うリィナの首筋は熱く、そこで感じた触手はひんやりとしました。
彼女の視線に、一瞬触手の先端が見えました。
足や腕を形づくっているものとは違って、固く鋭くとがっていて、それでリィナの柔らかい首を突けば、あっというまに太い血管が破れて、命はないでしょう。
こんなに強い武器をたくさん持っているこの魔物が、なぜ自分に優しくするのか、まるで分かりません。
「な、何が、目的……?」
未だに頭をなでられ続けているリィナは、上を向くことが出来ず、魔物の足を見ながら聞きました。
〈この子と、友だちになってくれないかい〉
すると、魔物の背後から、人間の男の子が姿を現しました。
年は、リィナと同じく十歳くらい。
服も、町の子どもがよく着ているものと一緒です。
ただ、青白い顔をしていて、血の気はありません。
〈あたしの子どもなんだけど、この前生まれたばかりで友だちがいなくてね。良かったら最初の友だちになってほしいんだ〉
男の子は、母親のすぐ横で、小さく右手を振ってあいさつをします。
『ぼくと、お友達に、なって』
声変わり前の男の子の声で、息子はリィナに言いました。
「この前……生まれた……? わたしと同い年に見えるけど……。しかも姿が人間……」
『ほら見て。ぼくの体をほどくとね……』
男の子は右手をリィナの目の前に差し出すと、指先が触手に変化しました。
〈この子は、あたしの触手から生まれたのさ。子どものうちは変身能力がとても高くて、人間そっくりになれる。大人になると難しくなるけれど〉
母親が解説します。
正直、リィナは一秒でも早くここを逃げ出したい気分ですが、断れば何をされるか分かりません。
「分かった……。お友だちに……なろ?」
リィナはまだ腰が抜けて起き上がれないので、座ったまま男の子に右手を伸ばします。
その手を、男の子は自分の右手で軽く握りました。
男の子の手は、とてもひんやりしています。
『うん! よろしくね』
男の子は、ニコッと笑います。
見た目は人間と同じです。
もしかしたら、この子とちゃんとお友だちになれるかもしれません。
〈ちなみに、息子の名前はロンだ。ぜひ呼んでやっておくれ〉
「ロン……」
『うん! ぼく、ロンだよ!」
リィナの右手を、彼は両手で優しく包み、ブンブンと上下に振ります。
「痛っ!」
腕にできていた擦り傷が引っ張られて、チクッと痛みが走りました。
『あっ。ごめん! 強く振りすぎたかな』
「ち、違う……。さっき、斜面を転がり落ちた時に擦りむいたの。普段来ない道に来ちゃって、地面の岩につまづいて……」
『それは大変だったね……。ねえお母様! ぼくがこの子の町まで送っていってあげるのはどうかな?』
男の子は、母親を見上げます。
〈ああ、もちろんいいよ。どうせこの子も、ここがどこか分からず、迷っていたんだろうからね〉
母親は背中を曲げて、顔をリィナに近づけてきました。
地面に生えている花を、何倍も強めたような香りがします。
〈お前さんの名前を教えて〉
「……リィナです」
〈可愛い名前だ。覚えたよ〉
「あ、あなたのことは、何と呼べば……?」
〈そうだね……。マダムと呼んでおくれ〉
「は、はいマダム」
マダムは、リィナを立ち上がらせます。
〈おしっこを漏らしたことは、うまくごまかした方がいいね。何なら、帰りに川に飛び込んでいくといい。川に落ちたとでも言えば、ご両親は納得するだろう?〉
マダムの言葉を聞いて初めて、自分のズボンに染みができていることに気がつき、リィナは顔を赤くしました。
〈間違っても、魔物と会ったなんて言っちゃダメだよ。騒ぎにはなってほしくないからね〉
『ねえねえお母様。もしリィナがぼくらのことを大人にバラしたら、どうなっちゃう?』
ロンが、ワクワクした表情で尋ねます。
〈そうなったら、こうするさ〉
何とか自力で立ち上がったリィナの上着の中に、マダムの触手がゆっくりと侵入してきました。
おへそにチョンッと触手の先端が当たった感触がし、それから正中線を沿うように、柔らかいお腹を上に這っていきます。
汗でベトベトになった素肌を滑っていき、肌着の中にも入ってきて、先端を鋭く変化させ、彼女の胸に当てます。
マダムの触手は、リィナの心臓のちょうど真ん中をいつでも貫ける準備ができていました。
〈触手の先端は高速で回転させることが出来てね。リィナの薄い皮膚と肉と細い胸骨なら、楽に削れそうだ〉
ガサガサと体を震わせ、フフフと楽しそうに笑うマダムを見て、リィナの腋と胸と背中から、冷や汗がドバッと出てきました。
また腰が抜けそうになっているリィナを見て、
〈まあまあ。冗談は置いといて、早くこの子を町まで送らないと。ロン、行っておいで〉
『分かった! リィナ、行こう?』
スルスルッとマダムの触手が服の中から抜けると、ロンはリィナの手を引っ張って森へ足を向けました。
〈また遊びにおいでね~〉
二人が森の中へ入る直前、草原からマダムがそう言って右腕を大きく振りました。
その声は、人間の町でよく聞く声と変わりませんでした。
ロンは、人間の町まで迷うことなく案内しました。
『すごいだろ? ぼく、足下の植物から話を聞いて、どこに歩いて行けばいいか分かるんだ。君がいつも通っている道にまで出て、そこにいる植物に聞いたら、君の家まで案内することも朝飯前さ』
上機嫌に、ロンはそう言います。
つまりそれは、いつでもわたしの家に来れるということか。
ロンの後頭部を見つめるリィナは、身震いしました。
『寒いの?』
ロンはこちらを見ずに尋ねます。
そして、見事リィナの家までたどり着きました。
『また遊ぼうね。ぼく、ここに迎えに来るから』
「う、うん……」
『いつがいい?』
すごく困りました。
マダムの怖さを思うと、あまり頻繁には会いたくないですが、日にちを開けすぎると、今度はマダム本人が家まで押しかけてきそうな気がしてきます。
「あ、あさって……」
『うん、あさってだね! 覚えた! それじゃ!』
ロンは、森へと向かう道を走っていきました。
彼の姿が見えなくなったころ、リィナはヘタヘタと座り込みました。
2へ続きます。