婚約から、逃げて良いですか 2
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転移魔法は、今までに何度か経験したけれど、相変わらず体が一度、小さな粒子に分解されて、再構築される感覚は、気持ちが悪い。
転移酔い、とでもいうのだろうか。
転移した後の気分の悪さに、すでに逃げてきたことを後悔しつつある。
「……おや、大丈夫かい?」
ハンカチで口を押さえつつ、顔を上げれば、目の前には、いかにも人の良さそうな老婦人がいた。
『あっ』
なぜかシストが、間の抜けたような声を漏らす。
「気分が悪そうだね。そうだ、うちで休んでいくと良い」
その提案を受け入れて良いものかと、シストにチラリと視線を送る。
『…………この人からは、悪意が感じられないから、平気だと思うよ』
「……あの」
「ふふっ。私、猫は好きなの。寄って行きなさい」
この世界に来てからというもの、人間の悪意に慣れすぎていたのかもしれない。優しくされると、臆病にも逃げたくなってしまう。
それでも、いつも優しい仲間たち。
……いつも優しいレナルド様。
「――――よろしくお願いします」
「あなた、お名前は?」
「理沙です」
「そう、リサさんというのね……。私は、ナオというの。よろしくね? そちらの猫ちゃんは」
「あ、シストといいます」
「そう、シスト、よろしく」
「にゃ」
シストは、猫のふりして小首をかしげる。
この日から、しばらくの間、私にとって久しぶりに穏やかな時間が訪れ始める。
この時の私は、すべてのことから目を逸らしていたのだろう。
魔人が言っていた、目的の半分を果たしたという言葉の意味すら、考えることなしに。
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辺境の村は、とても穏やかな場所だった。
シストが言うには、王国に複数存在する、聖地でも一番最奥の場所らしい。
どの人も穏やかで、すぐに私は、村人たちに受け入れられた。
でも、この状況はいったい……。
「聖女様! 実は、狩りの帰りに枝で手を傷つけてしまって」
「はい。……治りましたよ?」
「聖女様! 子どもが熱を出して」
「すぐ行きますね?」
初級とはいっても、回復魔法はどこでも重宝される。
簡単なケガや病気であれば、すぐに治癒することができるから、それは当然だろう。
でも、困ったことに、村人たちは、私がいくら名前を名乗っても、なぜか理解できないようで、私のことをいつの間にか、聖女様と呼ぶようになっていた。
「あの……。理沙という名前があるのですが」
「――――? 聖女様は、聖女様でしょう? 魔女様と同じで」
不思議そうに、村人たちが首をかしげる。
これでは、私のほうが、おかしなことを言っているみたいだ……。
横で聞いていた、子どもにまで「おかしな聖女様!」と無邪気に笑われる。
「ナオさん……。ナオさんは、私のことを名前で呼ぶのに、どうして皆さん私のことを聖女様なんて、呼ぶのでしょうか。……そういえば、ナオさんも、名前ではなくて、魔女様と呼ばれていますよね?」
しかも、よりによって聖女様。
聖女の称号を失った私への、運命の皮肉なのだろうか。
残念ながら、旅人さんとか、治癒師様とか、ほかの呼び名も提案してみたのに、受け入れられなかった……。
それから、なぜか魔女様と呼ばれるナオさん。
魔女という存在が、この世界にいるということは理解していた。
でも、魔女って一般的には、悪い存在という印象があった。本にも書いてあったし、聖女としての教育でも、魔女は駆逐すべき悪しき存在だと習った。
でも、聖女を召喚しては、中継ぎだとぞんざいに扱う国だもの、教育内容だって、歪んでいたのかもしれない。
私は、この優しい辺境の村の中で、今まで疑問を持たずにいた中継ぎ聖女という概念、そして受けてきた教育内容に疑問を持つようになっていた。
「――――私たちの名前を呼ぶことは、普通はできないの」
「え?」
親切な村人が、狩りの時に受けた傷を治してくれたお礼にと、作ってくれた猫専用の小さなベッド。
王都の職人にも、引けを取らないような美しい作品だ。
そういえば、その職人さんだけは、ナオさんのことを名前で呼ぶ。
そのベッドの中で、おなかを出して寝ているシストは、もう封印の箱だったころの面影もない。
微かにあるとすれば、緊張感のない言葉だけだ。
シルバーグレイの髪の毛に、黒に近い茶色の瞳をしたナオさんは、その言葉を紡ぐと、にこりと笑う。
「お肉を食べましょう」
「――――魔獣の肉は、ダメですよ」
レナルド様が、口に入れてくれた魔獣のお肉は、とても美味しかったけれど、聖女の力を弱めてしまうと言っていた。
聖女ではなくなったけれど、もしも回復の力まで弱ってしまったら大変だ。
「ふふ。普通のお肉だわ。変なことを心配するのね」
「……いただきます」
そのお肉も、とっても美味しかった。
焼き加減といい、かかっているほんの少し甘酸っぱいソースといい、王宮にいた時の野菜ばかりの生活とは、大違いだ。
そういえば、飽きることがないほど、レナルド様が持ってきてくれていた卵料理には、たくさんの種類があった……。
困ったことに、離れてしまったあの日から、逆に毎日レナルド様のことばかり考えてしまう。
尊敬しているし、信頼しているし、誰よりも迷惑をかけたくない。本当にいつも私のことを大事にしてくれたレナルド様。
この気持ちに、私はまだ名前を付けることができずにいた。
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