廃ボーリング場事件
「おかしいな。今日こんなに雨降るなんて言ってたっけ? 荒塚、今日の天気予報見た?」
陸が喋り出したのとほぼ同時に、稲光が辺りを照らし、とてつもない爆音をバリバリと轟かせた。
「何?」
「天気予報!」
「知らねえよそんなもん! 最近外しっぱなしじゃん」
雷の音に負けないよう、私は力いっぱい言った。駐車場には、アスファルトを突き破って生えてきたキバナコスモスやセイタカアワダチソウがそこらじゅうに咲き乱れているが、大粒の雨に打たれて狂ったように揺れている。私は入り口の扉に手を掛けてみたが、当然ながら入り口は施錠されていて中に入ることはできない。しかし、私たちは秘密の侵入口を知っていた。職員専用口の脇に置かれた室外機の裏に、唯一施錠されていない小窓があるのだ。
「入っちゃダメなのは承知の上で聞くけど、入っていいと思う?」
陸が妙なことを訊いてきた。
「雨宿りって理由を付ければ、まあ――」
私が言うと、また稲妻が炸裂した。確実にさっきより近付いている。
「何て?」
「いや、駄目に決まってんだろ!」
私は慌てて考えを改めた。
「でも、もうすぐここ、取り壊されちゃうらしいよ。そしたら入ることはおろか、外観すら見られなくなる」
「えっ、そんなの聞いてないんだけど……?」
「少なくとも来年の2月には、ここは跡形もなく消えてなくなる」
こちらの返事を待たぬまま、陸はずんずん中へ入っていく。彼は普段なら絶対にしないような馬鹿げたことを、突然やりたがることがあった。前にここに来た時だってそうだった。幼いころからずっと抑圧してきた「子供らしい無邪気な心」が、何らかのきっかけで噴出でもするのだろうか。
ホコリ被った場内には相変わらず物が散乱していたが、前に忍び込んだ時よりはいくらか減っているような気がした。泥棒がいろいろ盗んでどこかでうまいこと金に換えたのかもしれない。あの時の幼い私たちには、そんな発想なんて微塵もなかった。もし作業中の泥棒と鉢合わせしたら? がっつり顔を見てしまって、その場で証拠隠滅を図られたら? 今思えば、かなり危険な事をしていたものだ。
この場所が娯楽施設として機能していた頃、私がまだずっとずっと幼い頃、週末にはしょっちゅう父と遊びに来ていた。当時は同じ建物の中にゲームセンターもあり、いろいろと楽しんだ後は2階の喫茶店で食事をするのが定番だった。ゲームセンターのゲーム機はいつもガラの悪い高校生たちが占領していて使いづらかったが、そんなどうでもいい思い出も含めて、私の脳内に「幸せ」というファイル名で保存されていた。私が15歳のとき、父は離婚を機に家を出て行ったが、私が幼いうちはごく普通のありふれた父親だった。酒だって祝い事の席でしか口にしなかったし、仕事もクビになっていなかった。一時の感情に支配され、物を投げつけてくることもなかった。
「2階に喫茶店があってさ、そこのクリームソーダがめっちゃ好きだった。小学生の頃、ボーリングそっちのけで狂ったように飲んでたわ。あれから何年経った? あの頃はまだ父親もいたし、隣の家に陸もいたんだよなぁ」
「荒塚のお父さんって、今何してるの?」
「知らね。アレはモテそうもないし、どっかでカビの生えた人生送ってるんじゃないの」
幸せだったあの時の事は、今でも定期的に思い出す。そんなつもりなんて毛頭ないにもかかわらずだ。ふとしたきっかけで突然目の前に現れ、精神をかき乱し、台風のように去っていくが、過ぎ去った後も心が晴れることはない。
「なくなってほしくないものほどあっさりなくなっちゃうの、ほんと意味わかんね」
何気なく言葉にしてみると、急に目頭が熱くなった。正直、そういう湿っぽいのは嫌いだ。何の意味もない。しかし陸はそんな私を尻目に、いつもの調子で言葉を返す。
「大抵、過去は大袈裟に美化されるもんだよ。実際はゴミみたいな思い出ばっかでも、みんな『今となっては良い思い出です』とか錯覚し出す」
そうだ。それくらいドライな方がいいに違いない。ノスタルジーに浸ってしんみりしたところで、ただただ気が滅入って終わりだ。もう二度と手に入らないもののことを考えて何になる。
広い場内には夜の雨音がよく響く。窓から差し込む青い街灯の光が、何とも言えない雰囲気を醸し出している。青い街灯の光は犯罪防止になるらしい。今のところ、特に効果はないようだが。
「懐かしいな。中学の頃、この辺で同じクラスの長谷川と揉めて殴り合いの喧嘩になったんだよ」
トイレに続く廊下の手前で、私はまた1つ思い出を取り戻した。
「あのいつも肩まで腕まくりして、筋肉を見せつけてた人?」
「そう。あいつの振りかざした拳をボーリングの玉でガードしたら――わざとじゃなかったんだよ。普通に怖かったから反射的に。そしたら指の骨がバキッといっちゃって、暫くの間私があいつの分のノートを取る羽目になった。先生に私のノートをコピーして渡せばいいって提案したら、『謝罪の気持ちを込めて丁寧に板書しなさい』とか言い出してさ。2冊分書くのはさすがに骨が折れたわ」
「まあ、折れたのは長谷川くんの指だけどね」
数秒間、奇妙な沈黙が続いた。雷は相変わらずうるさかったが、辺りがこの世の終わりの様に静かになった気がした。その時――
「ふざけるなよクソッタレ!」
奥の方から、何者かの叫び声が聞こえた。激しい雨音をも凌ぐ声量に、私たちはびくりと肩を揺らした。
「誰なのかは知ってんだぞ。呪ってやる! 呪ってやるからな!」
おそらく中年の男の声だ。そしてその後に続き、何とも言い難い鈍い音が聞こえ、声は途切れた。まるで人の骨を折るかのような……あくまで私の妄想に過ぎないが、そんな感じの音だった。
「誰かいる」
陸が小声で言う。真っ暗な場内に、誰かがいる。おまけに何かとんでもないことが起きている。わざわざ考えずとも、本能的にわかった。もし見つかったら、ただ事では済まない。
「隠れろ……!」
私は陸を連れて物陰に身を潜めた。何者かの足音がこちらに近づいてきたのだ。それも、複数の足音が。
よく耳を澄ませると、何か重いものを引きずっているような音まで聞こえる。
「おい。今、何か聞こえたか?」
「いや何も。ここへは誰も入って来られないはずだ。鍵も掛けたしな」
男たちは低い声でボソボソと会話をしている。考える間でもなかった。私たちは絶対に声をあげまいと必死に口を押えて物陰に身を縮めていた。
「なんか、悪いことしちまったな」
「どうせコイツが消えたところで、悲しむ奴もいない。気付く奴すらいないだろ。元々ろくでなしだったからこうなったんだ。ああ、腰が痛え」
「本当にこれで解決するんだろうな? 前みたいに」
それからどれくらい縮こまっていたのだろう。雨音が一層激しくなった隙をついて、私たちは一目散に逃げ出した。途中、殺人犯が後ろから追いかけてきているような気がして、何度も何度も後ろを振り返った。
完全に気が動転していたが、私は陸の提案で公衆電話から匿名で通報し、全身ずぶ濡れになりながら速やかに家へ帰った。
誰にも話せなかった。話せばとんでもないことになるような気がしてならなかった。