すべての始まり
「やっぱり夢じゃねえかクソが」
薬はちゃんと飲んだ。よく眠れるようにカフェインもブルーライトも控えた。長湯もしなかった。ちゃんと眠気が来るまで、無理に眠ろうともしなかった。
私は目を覚まし、今度ははっきりとした意識のなか、洗面所の鏡と向き合った。まだ隈はできていない。もちろん眼球も2つ収まっている。正直、かなりほっとした。
きしょい夢ばっか見せやがってクソ共が。夢の中にまで出しゃばるな。悪意ある嘘と事実の区別もできない分際で正義ごっこしやがって。
頭の中でしょうもない悪態をつくと、また奥の方からわーっと無数の声が鋭い頭痛と共に聞こえてきた。何を言っているのかは聞き取れない。ただ、死ぬほど気分が悪くなって、私は思い切り洗面台にゲロをぶちまけてしまった。正直自分でも驚いた。いったいいつからこんなに繊細になってしまったのかと。
「やだ、何事!?」
絶妙なタイミングでやって来た寝起きの母が甲高い声で叫んだ。
「ああスッキリした。朝一番に見せつけられる娘のゲロ、どう?」
私は洗面台に溜まったゲロを洗い流しながら言った。
「またふざけたこと言って。まさか熱があるんじゃないでしょうね?」
「ないよ。ちょっと、目ん玉を抉り取るリアルな夢を見ちゃっただけ」
「何それ怖い。朝ごはん、ちゃんと食べられそう?」
私以上に怖がりな母は大袈裟に顔を歪ませ、ぎゅっと自分の肩を抱いた。
その日の朝食は10数年ぶりのお粥となった。大人になってからというもの、吐くことはおろか風邪をひいたことすらない。そのせいか、私はお粥を口にする度に、懐かしいような、特別なような、不思議な感覚に陥る。もう頭痛はすっかり治まっていたが、幼少の頃を思い出して、少しだけ胸の奥が痛くなった。確か、あの頃は小学生くらいだっただろうか。父と母の仲も良く、私もまだグレてはいなかった。具合が悪ければ悪いほど、共働きの両親が自分に注意を向けてくれることが嬉しかったものだ。
「そういえばこの前行方不明になった95歳のおじいちゃん。あれ、町長さんのお父さんだったみたい」
ノスタルジーに浸っていると、母が突然空気の読めないことを言い出し、私は危うくたまご粥を器官に流しそうになった。
「何? 藪から棒に」
「この前職場の人から聞いたの。お母さんも何度か会ったことがあってね」
いつもそうだ。隣町の病院で医療事務している母は、医者や看護師たちと仲が良いらしく、しょっちゅうこういった噂を持ち帰っては私に話してくれる。と言っても、中には聞きたくもない噂も含まれていたりするのだが。
「毎回思うんだけど、病院に勤めている人間がそれで良いの?」
「あんたの漏らされた個人情報に比べたら可愛いもんよ」
母は何食わぬ顔でそう言って、熱々のコーヒーを啜った。私は残ったお粥を平らげると、コーヒー用のマグカップに白湯を入れ、自分の仕事部屋に籠った。
それから数日間、私は大人しくバナー広告や動画のサムネイルの作成のような細々とした仕事を在宅でこなしつつ、度々彗星蘭に赴いては陸と小説の構想を練ったり、マウントばかり取っている忌々しい書籍化作家の愚痴を言い合ったりして、それはそれは心穏やかに過ごした。
私たちの日常が本格的に崩れ始めたのは、この頃からだ。
「そういえばさ、昔行ったあの廃墟って、今どうなってるんだろ」
彗星蘭を出て、二人で錆び臭いアーケードの下を歩いていた時、唐突に陸がそんなことを口にした。日曜日の夜。夕方から降り始めた雨が勢いを増し始めていた。
「ああ、あのボーリング場のこと?」
福露塚は腐るほど廃墟のある町だが、私にはすぐに「あの廃墟」がどの廃墟を指しているのかがわかった。あそこには私の知られたくない過去のうちの1つがあるのだ。陸の指す方を見ると、古びたビルの隙間に巨大なボーリングのピンのシルエットがぼんやりと見えている。夜の闇に紛れたそれは、まるでひょろ長い未確認生物のように見えた。
「そうそう。中学入りたての頃、荒塚と侵入して警察に通報されたボーリング場だよ。数年前からずっと気になってたんだ」
「わざわざ説明してくれてありがとう」
「あの時、僕まだ小学生だったんだよ。『不法侵入? 何それ』って感じで、一緒になって遊んでた」
当時はまだ潰れたてほやほやで、中にはあらゆるものが置きっぱなしになっていた。母いわく、借金を抱えた経営者が夜逃げをしたのだそうだ。当時駅前のショッピングモールと肩を並べ、福露塚で随一の娯楽スポットと言われていたボーリング場の閉鎖に、町の若者やゲートボールに飽きた老人たちはそれなりに悲しんだ。もちろん、幼き日の私もその一人だった。
「なんか、あの頃の私は何かとおかしかったんだよな。いつも何かに対してブチ切れてたし、お母さんにはそのうち人でも殺すんじゃないかって心配されてた。陸の父さんに3時間くらい説教されたことよーく覚えてる」
「あれは申し訳なかったね。もとはと言えば僕から行きたいって言い出したのに、結局何もかも荒塚のせいにされちゃってかわいそうだった」
グレた女子中学生が、善悪の判断がつかない小学生をたぶらかした。周囲の認識としては、そんなところだろう。
「そうだよ。勝手にボーリングした回数はおまえの方が多かったし。でもまあ、年齢的に仕方のないことでしょ。あの時の陸は完全に人が変わったみたいにはしゃいでて、私でもちょっと引いた」
「いや、あの頃は特に、親の英才教育に嫌気が差してて。5つも年上の兄と事あるごとに比べられて、日頃からイラついてたけど、それを発散する場所がどこにもなくて。ま、今では一切なにも期待されてないから、いいんだけど」
陸には歳の離れた兄と姉がいたが、昔からどちらとも仲が悪かった。おかげで当時は私が陸の姉代わりのようなものだったのだ。どうでもいい話だが、兄は父親同様、警察官の道へ進み、姉は海外で日本語講師をしているらしい。ご立派なことだ。
話しているうちに雨脚はどんどん早くなり、終いにはゴロゴロと雷まで鳴り始めた。私たちはボーリング場の前までやって来ると、屋根の下に身を隠した。
これがすべてのはじまりだった。いや、厳密にはそうではない。何もかも、すでにはじまっていたのだ。