禁足地へ
「車で行けるのはここまでだね。ここから先は歩いて行こう」
陽葵は田んぼ脇の空きスペースに車を停めると、いそいそとシートベルトを外した。私もその後に続き、しぶしぶとバックルに手を掛ける。10月の太陽が照りつけるなか、だだっ広い田園地帯に伸びる一本のあぜ道をひたすら歩く。
「すごい。ここ、台風と大雨の影響を受けなかったんだね」
陽葵が感心したように山を見上げる。確かに、言われてみれば殆どの木々がダメージを受けていない。風を遮るものが一切ない田園地帯のど真ん中だというのに。
「怖くね? 田んぼの稲はめちゃくちゃになったのに」
「やっぱり、何か不思議な力的なものがあったりするのかな。ここ、いろんな伝承があるよね」
陽葵が言う。
「そう? 私はあんまり聞いたことないけど」
「うちの死んじゃったひいお婆ちゃんが言うにはね、大昔、ここがまだ深い森だったころに、村人たちが神様の魂をここに祭ったんだって。たぶん、川の神様か何かなのかな。この近くにも神谷川ってあるし。その神様? を大事にさえしていれば、村は平和でいられるんだって。ただ、その神様にはつらい過去があって、村人たちのことがあんまり好きじゃないらしいの。やたらに近づくと食べられちゃうって」
「ちょっと!!」
陽葵の最後の言葉に、思わず私は飛び上がった。食べられるだなんてとんでもない話だ。
「そんなところに私を連れてこないでよ!」
「ただの昔話だよ。そういう話って、大抵は子供や女性を人攫いや不審者から守るために作られるものでしょ。まあ、実際古くから祭られてる神様はいるんだろうから、神聖な場所を荒らされないようにするために作った話でもあるんだろうけど」
陽葵は腕組をしながら真剣な眼差しで語っている。あくまで現実的に考えているらしかった。こういう時、現実主義な陽葵はとても頼りになる。あまりに冷静なので、私は本気で取り乱している自分が急に恥ずかしくなった。
それから私たちは福露の杜の周辺をぐるりと一周し、何か変わったものはないかと見て回った。と言っても、あるのはどこまでも続くのどかな田園と、日の光を浴びてきらきらと光る用水路だけだ。その頃にはもう私の動揺も恐怖心もすっかり消え失せ、落ち着きを取り戻していた。しかし――
「陽葵―。もう帰ろうよ」
特に面白いものも見つけられず、車に戻ろうとした時だった。私はふいに「何か」の視線を感じ、木々の間から奇妙な声を聞いた。敢えて何かに例えるとすれば、それは動物の咆哮が何重にも重なったもののように思えたが、私の知っているどの動物にも似ていなかった。その声を聴いた瞬間、脳みそを乱暴にかき回されるような激しい頭痛に襲われ、私は思わずその場に座り込んでしまった。
「瑠衣? どうしたの?」
陽葵が心配そうに背中をさする。
「今、何か声が聞こえた?」
痛みに耐えながら、私は恐る恐る確認した。聞く間でもなかったかもしれない。陽葵はきょとんとした表情で首を傾げている。
「声? いや、何も。もしかして、いつものやつ?」
「陽葵に聞こえないなら、そうなのかな。でも、なんか違うような」
去年の炎上騒動以来、慢性的な頭痛には悩まされていたが、ここまで酷いのは初めてだった。
「もしかしたら脱水症状かもしれないし、早く戻って近くのコンビニまで行こう。歩ける?」
陽葵に肩を貸してもらい、立ち上がると、今度は頭の中がざわざわと騒がしくなった。朝起きた時に聞こえてきたものと同じだった。
それから私たちは国道沿いのコンビニまで車を走らせ水分補給をしたが、私の頭痛は車に乗り込んだ段階でかなり落ち着いていた。
「熱中症とかではないっぽいんだよなあ。すぐ治まっちゃったし。ほんと、何なんだろ」
「疲れたんじゃないかな。今日、わりと運動量あったし。ストレスだったのかも」
陽葵が車内にあったうちわで扇いでくれた。言われてみれば、今日は普段と比べてかなりハードスケジュールだったかもしれない。
「確かに、今日はうなされながら起きたし、朝から嫌なもん見ちゃったし、陽葵に会う前に陸とも会ってるから、そうかもしれない」
「えっ、陸くんって今こっちに帰ってきてるの? ずっと前に会ったきり全然喋ってないけど、元気にしてる?」
「帰ってきたわけじゃないけど、ここからそんなに遠くないところに住んでるよ。大学でリモート授業が増えたから、この辺うろうろしてるっぽいわ」
「へえ。こんど会ったらよろしく言っといてね」
「あんたら2人、そんなに接点あったっけ?」
「中3まで同じ塾に通ってた。その時陸くんのお母さんが、夜道は危ないからって車で送ってくれてたんだ」
小学4年から中学卒業にかけてほとんど不登校に近かった私は、その期間の陽葵のことをよく知らない。あの時の私は今以上に問題児で、本当に手が付けられない状態だった。時には陸をも巻き込んで、色々なくだらない事件を起こしたものだ。その時のツケが、今になってようやく回ってきたのかもしれない。
「今日はもう帰ろうね。はやく休んだ方が良いよ」
私がぼーっと考え込んでいたせいか、気が付くと陽葵は車を出していた。西の空を赤く染め始めた太陽が、どこか不穏な光を放っている。頭痛はもうすっかり治っていたが、私は家につくまでの間、ずっと得体の知れない不安に駆られ、ひとり助手席でそわそわしていた。