温泉デー
帰宅すると、母はまだテレビ画面に釘付けになっていた。
「おかえり。あんまり帰って来ないから、東京まで歩いて帰っちゃったのかと思った」
「そっちこそ、出ていった時と同じ体制でテレビ見てるから、家を空けすぎて化石化したのかと思った」
「それで、気分転換にはなった?」
「まあね。公園で陸に会ったよ」
「あら、随分久しぶりじゃないの。元気そうだった?」
「まあまあだね。もうあの子と会うのは止めないの?」
「べつに、私は止めないけど。もう大人同士だからね。陸くんのご両親もさすがに気にしないんじゃないかな」
「それはどうだろ。今でも死ぬほど嫌ってるかもよ。私のこと」
ご近所だった貢川家が引っ越した理由……それは、私の素行の悪さにあった。四六時中周りの大人たちに反抗し、ろくに学校にも行かず、夜中にふらふらと出歩いて補導されるような不良の側に、真面目なかわいい息子を置いておきたくなかったのだろう。同じく幼馴染である陽葵とは、一緒に深夜の町を彷徨ったこともあったが。――陽葵?
「やべえ! 今日陽葵と温泉行く約束してたんだった」
「あら、忘れてたの? そのために帰って来たんだとばかり」
朝から何か忘れているような気がしてそわそわしていたが、今日は1か月に1度の「温泉デー」だった。温泉デーは去年の秋に私の提案から始まり、友人の陽葵と近場の温泉に行って美味しいものを食べる日だった。陽葵は1年前に勤めていた会社を辞め、メンタルクリニックに通院しつつ、転職活動をしている。一時は毎日のようにため息をついていた陽葵だったが、一歩ずつ前に進もうとしていた。
陽葵の車が来たのは、私が約束を思い出してからわずか30分後のことだった。かわいいミントグリーンのフィアットは彼女が高校を卒業した際に両親からプレゼントされたものらしい。
「その顔は忘れてたでしょ」
助手席に乗り込むなり、陽葵が眉間にしわを寄せて言った。
「忘れてないよ。さっきちゃんと思い出したからね」
「連絡したのに既読ついてないんだけど」
「えっ。連絡した?」
スマホのアプリを開いてみると、確かに彼女からのメッセージが入っていた。起きしなに見せられた絶縁宣言の衝撃で見逃していたらしい。タイムラインの一番上に表示されたままになっているせいで、がっつり視界に飛び込んでくる。
「え、そんなに落ち込まなくてもよくない? 別に怒ってないよ?」
何も知らない陽葵が心配そうに顔を覗きこんできた。どうやら本気で暗い顔をしていたらしい。
「……いや、ごめん。落ち込んでるのは別件でさ。後で話すよ。行こ」
私が言うと、陽葵は特に何か言うこともなく、黙って車を発進させた。
綿雲が浮かぶ広い青空と、どこまでも続く海岸線。等間隔に植えられたヤシの木と、車通りの少ない直線道路。幼いころから嫌と言うほど見てきたこの景色も、陽葵の車に乗っている時はとても新鮮なものに思える。潮風を感じようと助手席の窓を開けると、冷気が逃げるからやめろと怒られた。
「瑠衣、あんた犬じゃないんだから」
「ごめん。いい眺めだなーと思って」
「まあ、眺めだけは良いよね。最近はどんどん別荘も増えてるし、人気スポットなんだろうね」
「都会の金持ち共が買い占めてんだよ。連休中に集団でやって来て、海岸でバーベキューして、テント張って、キャンプファイヤーして、消しきれてない焚火とゴミを残して帰ってくんだ。で、私がその焚火跡を素足で踏んで悶絶すると」
「そんなこともあったっけ。あの時はびっくりした。瑠衣が『泳ぐぞー!』って叫んだ直後、いきなり呻き声を上げて地面に倒れたんだもん。はしゃぎすぎてショック死しちゃったのかと思った。あれって、いつの話だっけ?」
「さあ? 7年くらい前? もっとか。なんで警察はああいうヤツらを取り締まらねえんだよ」
「一応町にお金を落としてくれる人たちだからかな。あ、縁起の悪いこと言っちゃった」
陽葵はそう言って突然口を噤んだ。おそらく「落とす」という言葉が引っかかったのだろう。彼女は就活の真っ最中で、今は面接の結果待ち状態なのだ。
「あーあ。この前の面接、うまくいってるといいな。この不景気の中、こんなダメ人間でも雇ってくれるところがあるなら、もうどこだっていいからさ……」
真っすぐ伸びた水平線から視線を外し、運転席に目を向けてみる。陽葵の表情は少しだけ曇って見えた。
「焦るのはよくないよ。タイムリミットなんてないんだからね」
私は自分でそう言って、本当にそうなのだろうかと疑問に思った。しかし、黙っていた。黙って陽葵の返事を待ってしまった。
「わかってるけど……たまにさ、自分はこの社会に必要ないんじゃないかって思うことがあるんだ。学校以外の環境に適応できないし、まわりに迷惑ばっかりかけてるなって。本当はこういう風に考えるのも良くないんだけどね」
「大丈夫。私の迷惑さに比べたら屁でもないよ」
少しの間、会話が途切れた。違う。こんなことが言いたかったんじゃない。私は陽葵のために何か気の利いた言葉はないかと頭の隅々まで探したが、結局出てきたのは何でもないありきたりな言葉だった。
「楽しいこと考えよう。まずは休息だよ。温泉入って、飯食って、帰りはほら、今話題の海まで伸びてる長ーい桟橋のとこに行ってみよ。6時くらいになったら電気が付いて綺麗だろうし、それまで近くのカフェでお茶してもいい。混んでたらテイクアウトして、車の中でとかさ――」
こんな風に話を逸らすのも、果たして正解なのだろうか。
「瑠衣、いつもありがとね」
何かを察したように陽葵は微笑んで、会話は終了した。私は再び窓の外に目を向け、長い長い海岸線を眺め続けた。
もっと何か、まともな事が言えたはずだ。事あるごとに周囲に迷惑を振りまき、好き勝手に生きてきた私から、もっと何か言うべきことがあるのではないか。そんなことをぐだぐだと考えているうちに、車はいつの間にか温泉施設の駐車場に入っていく。慣れた手つきでハンドルを回しながら「また駐車料金上がっちゃったなー」と陽葵がぼやいた。