拐引
「うそだ。うそだよね?」
私は着のみ着のまま家を飛び出し、陽葵の家を目指してひた走った。決して縁を切られることを恐れたわけではない。あまりに説得力がなさ過ぎたのだ。彼女の背後にいる存在を、直感で感じ取ってしまうくらいには。
喉の奥から血の味がしてくるほど走った。死ぬほど急いでいるはずなのに、道のりはやたらと長く感じた。やっとの思いで陽葵の家に辿り着き、息も絶え絶えにインターホンを押した。返事はない。もう一度、今度はごめんくださいと怒鳴りながらボタンを強く押し込んだ。
「なに? ああ、あなたね」
出てきたのは陽葵の母親だった。私は挨拶など後回しにして、素早く彼女の後ろに目をやった。そこに陽葵の靴は見当たらなかった。
「陽葵ならもううちにはいませんよ。仕事見付けて出ていきました。仕事の邪魔になるので、もうあの子には関わらないでいただけますか。もっとも、今までだってあなたの存在がかなり負担だったみたいですけど」
彼女は気持ち悪いほど真っすぐにこちらを見据えて言った。目の下や口元がわずかながらにヒクついている。
「は? 就職先が見つかって、引っ越しも済ませたって言うんですか? この短期間で?」
「ええ。あの子は元々良い大学を出ていますから、就職先なんていくらでもあるんです」
「あんなにボロボロだったのに? この前会った時、結構しんどそうでしたよ?」
「失礼ですね。のんびりできる環境に甘えていただけで、あの子はいつもマトモです。不真面目な人間が、あまり関わらないでいただけますか。知っているんですよ。あなたがどんなに社会人としてだらしのない人か。過去にどれだけ問題を起こしてきた人なのか」
右足を小刻みに揺らしている様子からして、彼女はかなり苛立っているようだった。だが関係ない。私はさらにヘラヘラした態度で詰め寄った。
「ええーとですねぇ。まあ、私がだらしないことは百歩譲って認めてあげるとして、だとしてもですよ? 私に何の連絡もなく、黙って消えるのっておかしくないですか? そんなクソみたいなことしますかね? メールも電話も一切来てないんですよ?」
「そんなはずないです。だったらあなたは来ないでしょ。下手な嘘はやめなさい」
「へえ、なんで嘘だってわかるんですかぁ?」
沈黙の末、私の目の前で強引にドアが閉められた。私は陽葵の部屋が見える位置まで移動し、屋根をよじ登って窓から部屋の中を覗き込んだ。そこに陽葵の姿はなかったが、机の端に彼女のスマートフォンを見つけた。部屋は全く片付いておらず、就職のために家を出て言った人間の部屋とは到底思えなかった。壁に掛けられたカレンダーに目をやると、今日の日付の上に、赤いペンで大きな×印までつけられている。胸騒ぎは増すばかりだった。
考えろ。何が起きているのか。あの子はどこにいる?
地面に下り、通行人に見られていることもお構いなしにその場から走り去った。ぽつりぽつりと雨が降りだして、アスファルトに黒い染みを作り始めた。目の前が白く濁り、辺り一面にホコリ臭さが立ち込める。
心当たりのある場所は全部見て回った。だが陽葵はどこにもいない。諦めかけていた時、ふと福露の杜で陸が言ったことを思い出した。
「迷ったら、下へ潜って」
下へ潜れとはいったいどこのことなのか。ずぶ濡れになりながら考えていると、ちょうど陸から電話が掛かってきた。
『荒塚、今どこにいる? 記憶が全然ないんだけど、昨日僕ら福露の杜に行ったよね? 気付いたら昼過ぎになってて――』
「陸、パニクってるのはわかるし、私も今気が狂いそうだけど、その話後でもいい?」
『なんかあった?』
私は陽葵が不自然な消え方をしたことや、母親の挙動の怪しさ、最近付き合いが悪くなっていたことなどをすべて陸に話した。
「もう完全にフラグ立ってんだよ! クソ!」
『わかった。わかったから静かに。どこか心当たりのある場所は? あのボーリング場とか』
喋れば喋るほど頭に血が上る私とは違い、相変わらず陸は落ち着いていた。
「思いつく場所はもう全部見て回ったよ。ただ、ちょっと気になることがあって。福露の杜に行った時、おまえ私に別人みたいな口調で喋ったの覚えてる?」
『別人? いや、何も。何て言ったの?』
「……迷ったら、下へ潜れって言ってた。それってさ、まさに今だったりしないかと思って」
『下? 地下ってこと? それとも潜在意識的な意味?』
陸の言った地下という言葉に、私は思わず膝を打った。目の前には巨大なショッピングモールが口を開けている。チョコファクトリーで理英と話をした時の記憶が、鮮明に蘇った。
――地下のライブハウスとか怪しいよね。今は封鎖されてるけど、もしかしたら……
「ライブハウスだ」
私は、はっきりとそう言った。半ば確信していた。
『ライブハウスって、モールの地下だっけ?』
「うん。地下2階にあるんだよ。今は閉鎖されてるみたいだけど」
『なら入れないじゃん』
「それでも、行くだけ行ってみる」
『待って。嫌な予感がする。今電車なんだけど、今からそっちに行くから。中のソファがあるところで待ってて。あの地下は電波が入らない』
「待てるか! モールが閉まるわ」
私は強引に電話を切った。陸はまだ何か言っているような気がしたが、構わず中へ入り、100円ショップでヘアピンを購入すると、エレベーター横にある地下へと続く階段を下りた。立ち入り禁止の鎖を飛び越え、明かり1つない真っ暗な階段を下る。階段を下れば下るほど闇は深まり、自分の足が階段のどの位置を踏んでいるのかもわからなかったが、かつて何度も降りた階段だ。身体はしっかりと段数を記憶していた。1歩1歩踏みしめながら最深部へと足を進める。
長い階段をやっとの思いで下りきると、案の定ライブハウスの入り口には鍵が掛かっていた。しかし、扉の向こうには微かな人の気配がある。中に誰かがいる。その誰かが、陽葵であるという奇妙な確信が私の中にあった。
私は100円ショップで買ったヘアピンを直角に開くと、鍵穴にねじ込んだ。
「何だよ開けよ! クソが! 陽葵! いる?」
私はヘアピンを鍵穴に突っ込んだまま、大声で怒鳴って扉に体当たりを喰らわせた。単純に苛ついたのだ。それと同時に、ガチャリと鍵の開く音が階段下に響いた。
「来たのね」
頭に白い布を被り、赤い刺繡の入った白い衣を羽織った女が、薄暗い部屋の中に立っていた。女の背後に目をやると、似たような恰好をした人間が6人と、パイプ椅子に座らされた陽葵の後姿が見えた。陽葵は赤い布を頭に被せられていたが、やせ細った身体と玄関から消えていたスニーカーを履いていたことから、すぐにわかった。
「きっしょ。お前ら、まじかよ」
私は言った。そこでいったい何が行われようとしているのか。覆面をした7人がどういう立場にある人間なのか、嫌でも察してしまった。
「今回は陽葵さんで最後になる。あなたなら、まあ入れてあげてもいいわ」
女は慌てる様子もなく、淡々とした口調でそう言った。
「……なんでよりによって陽葵が」
「どこまで知っているのか知らないけど、陽葵さんは特殊な立場だから、あなたも立ち会いなさい。他の人たちの時にはできなかったでしょう」
女の声には聞き覚えがあった。つい最近も聞いた声だ。
「瑠衣。どうしてここが」
陽葵は私が来たことに気付いたのか、身体をこちらに捻じ曲げて言った。私は彼女の方へ歩いていき、頭に被さった袋状の布を取り払った。彼女の頬には、涙の痕がいくつも残っている。
「意味わかんねえ。これまでの人たち、何か悪いことでもしたの? こんなクソ儀式に強制参加させられるようなさあ」
私は女の方に向き直り、吐き捨てるように言った。女は、何ら動揺することなく答えた。
「あなただって1度くらい思ったことあるでしょう?『どうしてこんな駄目な人たちが存在するんだろう。いない方が世の中絶対良くなるのに。社会の足を引っ張っている』って。あなたはまだ若いから理解できないかもしれないけど、世の中にはね、存在しているだけで他人を苦しめてしまう人もいる」
「はは。それって、お前らのことじゃねえの? 7人も殺すつもりでさ、よくもまあ苦しめるだなんて言えるな」
「7人? ……いや、いいわ。そう思っているのなら」
女が呆れたようにふーっと息を漏らした。




