陸
老人と別れると、私は情報を整理するべくいつものように彗星蘭へと足を運んだ。珍しくこの日は木戸さんが店におらず、代わりに彼と歳の近そうな女性がせかせかと動き回っていた。お昼時というだけあり、窓側の席は半分ほど埋まっている。と言っても、優先的に窓際に客を座らせているだけで、それ以外の席には2人しかいない。1人はカウンター席に座っている村永町長。この人もよっぽどここが好きなのだろう。もしくはマスターに惚れているのかもしれない。そして肝心のもう一人が――
「陸、テメエ」
何食わぬ顔で4人掛けの席に座り、一丁前にパソコンをカタカタやっている陸と目が合った。
「うわ、荒塚だ。邪魔しに来たな?」
「うるせえ。小説紛失しやがって」
顔を見た瞬間、今更ながら中途半端な怒りが湧いてきた。私は陸の向かい側に腰を下ろした。透明なプラスチックの衝立のせいで、まるで刑務所の面会のようだ。
「いやほんと、参ったよ。今から書き直したんじゃ絶対締め切りまで間に合わないし、また続き書いて何か不謹慎な事が起きたら嫌だし」
「まあ、確かに書きづらいっていうのはわかる。でもバックアップまで消えるってなんでだよ。呪われてんの?」
「放り込んだのが別のUSBだったかな。もっとよく探してみないと……もしどこにも保存されてなかったら、もう書くなってことなのかも。珍しくスラスラ書けてたのに」
「前から疑問だったけど、陸って物語の題材と言うか、進め方はどうやって決めてんの?」
なんとなく、前々から気になっていたことを訊いてみた。
「いつもは一生懸命考える。いろんなところからネタになりそうなもの探し回ってさ。でも今回はイメージというか、映像というか、そういうのを思い浮かべてから文章にしてた。わりとすんなり浮かんできたんだ。今思えば、あれが僕の忌み嫌うマウント作家が言ってた『物語が勝手に降って来る』ってやつだったのかも。ま、とりあえず今は卒論やって気を紛らわすしかないね」
陸はキーボードの上でせわしなく両手を動かしながら言った。彼の言葉に、私はどことなく不穏な気配を感じたが、その不穏さをどう言葉にしていいものかわからなかった。
「卒論って、何書くわけ?」
結局、私は話題を卒論の方に逸らしてしまった。
「タイトルは、『意図せず起きるSNSの炎上―ソーシャルジャスティスウォーリアーとはー』」
「私に喧嘩売るようなタイトルじゃん」
「まあ、多少はね」
陸はそう言ってにんまりと余裕の笑みを浮かべている。張り倒してやろうかと思った。
「さすが大学って感じ。そういうのってある意味小説より難しくない?」
「いや、もう半分以上書けてるんだよ。ほぼ完成と言ってもいい。小説と違って、内容さえちゃんとしてればたった2万文字で許されるんだよ。ただ、独自のデータってやつが足りてなくて困ってる。学校内アンケートだけじゃ独自性に欠けるし」
「独自のデータ?」
「例えば、実際に炎上した動画投稿者にインタビューしてみるとか、そういうやつ」
それなら、まさに私が適任だろう。というより、陸はやはり私の炎上騒動について知っているのではないか。
「まじかよ。それ、今じゃないとダメ?」
「別に。締め切りは1月だし、いつでも待ってる」
「そういや、そっちも何とかしないといけないんだよな。事務所と全然話し合い進んでないし、フクロと事件のことばっか考えてた。さっきも亡くなった人の家に行ってきたんだ」
正直なところ、私個人の抱える問題からは「逃げている」と言った方が正しい。風呂場で暴露動画を見て以来、エゴサはおろか動画サイトを開くことすらしていない。一応事務所からのメールには返信したものの、いつ見捨てられたっておかしくはないだろう。私はそこまで価値のある「クリエイター」ではないのだ。
「やっぱりため池に死体はあったらしいね。何なんだ。まさか僕に予知能力が……」
どうやら陸の耳にも白羽さんの噂は入ってきているようだった。
「今のところその予知能力は大して役に立ってなさそうだけど。っていうか、陸まで知ってるとか、この町噂が回るの早すぎない? お父さんから何か聞いた?」
「いや、さっき忘れ物取りに来た木戸さんが言ってるの聞いた。親父は何日か前に家を空けたっきり、帰ってないよ。僕の小説が消えた次の日だったから、もう1週間近く経つか?」
「は? 帰ってない? どこ行っちゃったの?」
「さあ? 親父は秘密主義なんだよ。べつにこれが初めてじゃない。僕が赤ん坊の頃、暫く家を空けるとか言って1ヶ月くらい帰ってこなかった時もあるらしいし。ちなみに浮気ではなかったよ。仕事でなんか忙しくなるようなことがあったんだろうね」
陸は特に気にしていないようだったが、私は妙な胸騒ぎを抑えきれずにいた。理由はよくわからない。ただ、漠然とした不安が突如頭の中を占拠したのだ。何か見落としていないか……? それとほぼ同時に、ふと背後にただならぬ気配を感じ、私は反射的に後ろを振り返った。
「えっ、何?」
陸が驚いて声を上げる。当然ながら背後にはカウンター席があり、町長とマスターの姿が見えるだけだ。おかしなものは、何もない。
「なんでもない。最近さ、色々と変なんだよ」
もうそんな風にしか表現できなかった。
「あー、うん。それはわかるけど。荒塚が変なのは今に始まった事じゃなくて――」
「うるせえ。そういうことじゃない」
「いや、わかってるよ」
くだらない冗談すら流せなくなっている私に対し、陸は何かを察したようにそう言って姿勢を正した。
「いいか陸。まずさ、封印が解けたフクロが憎しみに任せて町の人間をぶっ殺してるとするじゃん? だったらなんでそれをわざわざ私に教えるわけ? しかも白羽さんの時だけ。私が寝てる時だってそうだよ。わざわざ夢の中に出てきて、いったい何がしたいんだって話」
私が吐き捨てるように言うと、陸は真剣な面持ちで少しの間考えるそぶりを見せた。邪魔と言った割には随分と真剣に話を聞いてくれるのだなと思った。
「荒塚、もしかしたらフクロと何か関係ある家系とかなんじゃないの? それか、最近あの化け物に目付けられるようなことでもした?」
「うちには家系図なんて残ってないからわかんない。爺ちゃん家は何年も前に全焼したし。心当たりと言えば、ちょっと前に陽葵と福露の杜に行ったことくらいかな。あそこにいる時、変な声が聞こえて、クッソ頭痛くなったんだ」
あの時の頭痛は普段の比ではなかった。
「それ、オカルト的に考えたら、何かしら関係あるかも」
陸は至って真面目な態度でそう言った。あの時、私はフクロに魅入られでもしたのだろうか。それとも、大昔の儀式と私の先祖との間に、何らかの深い繋がりでもあったのだろうか。考えてみればあの夢は、誰かの記憶の断片のようにも思える。
「夢と言えば、陸も変な夢を見るとか言ってなかったっけ? 化け物になって人を殺すとか。その化け物って言うのはフクロのことなの?」
その他にも崖から落ちたり石を投げられたりといった悪夢に魘され、ろくに眠れていないという話を1か月ほど前にしていたはずだ。ここのところ陸は悪夢の話を全くしなくなったが、どうしているのだろうと気になった。
「あれ、よくわからないんだよ。だって化け物目線で世界を見ているわけだし。そもそも、僕は荒塚や冬谷さん、あと古見さん? みたいに肉眼でフクロを見たわけじゃない」
「でも化け物ってことはわかるんだ?」
「まあ、やたら目線高いし、念じるだけで人を捻り潰せんだから人間ではないんでしょ。でも、最近は酒飲んで寝るせいであんまり見なくなってきたな」
「はあ? おまえ酒を睡眠導入剤にしてんの? やめろそんなの」
聞き捨てならない言葉に、私は思わずを荒げた。
「だって、睡眠薬は飲みたくないし。あれ飲んじゃうと何かと不利になるらしいじゃん」
「言いたいことはわかるよ。私も保険の手続きとか面倒だったし。でも酒は駄目だって」
「べつに大丈夫だよ。ちょっと飲めばすぐ酔っぱらって眠くなるし」
「そうじゃなくて。なんていうか、酒はめでたいときに飲むもんで……そうじゃないと、癖になって抜け出せなくなるんだよまじで」
「荒塚ってその辺やたら堅いよね。めちゃくちゃ飲みそうに見えて全然飲まない。まあ、お父さんの事もあるしなー」
うまい返しが見つからず、私は不自然に黙りこくってしまった。図星だ。父も同じようにして飲酒量が増え、やがて酒なしでは眠れなくなり、最終的には……
「ごめん。なんか今日は嫌な奴になってるな」
地雷を踏んだと思ったのだろう。気まずそうな声が返ってきた。私はその声を無視して、強引に話題を変えて誤魔化した。
「ああ、そう言えば、今朝冬谷さんからメール来たんだけど、フクロの他に気になってることがあるってさ」
「気になってること?」
「そう。身の周りの人間に注意を払えってさ。例え見知った人でも、あまりフクロや事件について話すなって」
「何それ怖っ。つまり町に怪しい人間がいるって?」
「詳しいことは4日後、直接会って聞くつもりだよ。一緒に来る?」
ここまで言っておいて、ふと冬谷さんの言っていた「身の周りの人間」の中に、陸が含まれるのではないかという考えが脳裏に浮かんだ。
『現時点で私から言えることは、身の回りの人間に注意を払ってくださいということです。例え親しい方であっても、権威のある方々であってもです。あなたの知っていることを、口外しないでください』
そもそも、「注意を払え」とは、相手が巻き添えを食うかもしれないから気を付けろという意味なのか、それとも陸の言うように、町に怪しい人間がいてこちらの身が危ないから情報を渡すなという意味なのか。
「その日は授業もないし、行こっかな。それまで何事もないといいけど」
陸はキーボードを打つ手を止め、スマホのスケジュール表を確認しながら言った。




