理英
陸の小説が何者かによって削除されたのは、それから数時間後の事だった。突然陸から電話が入り、サイトに投稿されていた小説が何の警告もなく消されていたという話を聞かされたのだ。
「は? 運営が削除したってこと? エログロ表現が引っ掛かった?」
私が問うと、陸は不満そうに唸り声をあげ、「わからない」と言った。
『これまで規約違反はしたことないし、一発で消されるような内容ではなかったと思うけど。とりあえず運営には問い合わせたよ』
「何の警告もなしに一発BAN食らうってかなりやばいやつじゃん。誰かやたらライバル意識燃やしてたヤツがいたとか、大学の友達にアカウント教えたとか、1日で死ぬほどブックマークとポイントが増えた日があったりしなかった?」
『心当たりないな。僕が小説書いてることは大学の友達に言ってないし、『殺人鬼の唄』に関しては親父にも隠してる。まあ、とりあえず、明日アパートにも戻ってみる。まさかとは思うけど、誰か侵入してたらやばいし』
「侵入もやばいけどさ、誰かが不正ログインしてたとしたら洒落になんないよ。他のサイトもちゃんと確認しときな」
『わかってる。どっちにしろ見つけ出して息の根を止めてやるんだ』
その後陸はアパートに戻り、部屋が荒らされた形跡がないか調べたそうだが、とくに証拠となるようなものは見つからず、運営からは陸本人が削除したと思われるという趣旨のメールが届いた。もちろん、陸には自ら小説を削除した覚えなど一切なく、かと言って何か証拠があるわけでもなく、かわいそうな彼は暫くの間「自分勝手な作者」として熱心な読者から恨まれることになってしまった。
私は陸にバックアップは取っていないのかと尋ねたが、最悪な事に彼は最近改良されて使いやすくなった投稿フォームに直接文章を書き込んでいたらしい。「念のためUSBにも保存してたはず」とのことだったが、その肝心のUSBにも何故かデータは保存されていなかったという。
『確かに最近買ったこのUSBに入れてたんだよ。実家でも確認した。なのに入ってないんだ。この齢でボケてんのかな。88歳の爺ちゃんと同じこと言ってる。卒論のデータは消えずに残ってるのに。いつ消えたんだ?』
「だから投稿フォームに長編小説を直接書き込むなとあれほど……」
『わかってはいたんだよ。でも、そこらのソフトより俄然使いやすかったからさ……』
「で、これから書き直す?」
『いや、なんか、もういいかなって。卒論もあるし、ある意味いい機会だったのかも』
陸は意外にもあっさりとしていた。もっと気にしてもいいのではないかと思ったが、私は黙っていた。
「それにしても、最近クソみたいなことばっかり起きるな」
「ほんと。この町にきてからろくなことがない。荒塚、疫病神だったりしない?」
「しらねーよ。一番最初の炎上以外、全部陸に再会してから起きてるんだから、むしろおまえが疫病神だろ」
そんなどうでもいい話をしているうちに、やがて何もかもが面倒になってきた。お互いにストレスがたまっていたのだろう。私たちは朝までエナジードリンクを飲みながら、いかにこの世がどうでもいいもので溢れているかについて熱く語り合った後、特に面白くもなんともない話題だった事に気が付いて、静かに通話を切った。
陸は一旦卒論の方に集中するとだけ言い残し、その後自分から連絡を寄越すことはなかった。一方私も、復帰に向けて色々と策を練らねばならいないなどとそれっぽいことを言ったが、特に何もしないままずるずると時間が流れていった。行方不明になった老人の存在など、ほとんど忘れていた。いや、考えないようにしていたのだ。
11月に入った辺りから、陽葵の態度が目に見えて素っ気なくなった。温泉に誘っても「疲れているから」彗星蘭やチョコファクトリーに誘っても「忙しいから」の一点張りで、向こうから何か連絡を寄越すということは一切なくなった。私が既読無視でもしようものなら催促してくるほどだった陽葵が、突然私の言葉を無視するようになったのだからおかしな話だ。
あのさ、私もうあんたと友達やめるわ。
いつかの言葉がフラッシュバックし、私は頭を抱えた。私が今までやってきたことは単なるお節介で、陽葵は嫌々付き合わされているだけだったのだろうか。去年の秋からずっと、迷惑していたのだろうか。それともネットで何か私に関する悪い噂を見てしまったのだろうか。それとも、私が自分で気が付かないような最低なことを、日頃からやらかしてしまっていたのだろうか。それとも、それとも――
いくつも候補を上げたところで、何の意味もないことはわかっていた。どうしてこんなに恐ろしいことばかり次から次へと起こるのか。これは何かの報いか。そう考えるといてもたってもいられない。これではまるで1人で東京にいた時と何ら変わらない。まるで波が引くように、私の周りから一気に人が遠ざかる。代わりに寄せてくるのは、顔すら知らない者たちの一知半解なご意見ばかり。だが、そうなる原因を作ってしまったのは自分自身なのだということも理解している。それが何より最悪だ。今思えば、何か問題が起こった時はいつも自分がその中心にいたような気がする。炎上、不法侵入、不登校、両親の離婚……
「クソ!」
その日は月曜の真昼間だったが、私はやりかけの仕事を放り出して外に出た。外に飛び出す時は、いつだって何かを放り出している。何もかもが中途半端のまま、次へ次へと移動して、目の前の問題から目を逸らすのが私だ。
「ニート時代の私みたいな顔してるけど、大丈夫?」
気が付けば、いつの間にかチョコファクトリーに足を運んでいた。休憩中の理英が、迷惑な愚痴を垂れ流す私にホットチョコを差し出しながら尋ねる。
「自分がこの世で一番くさいゴミになった気分」
私はバウムクーヘンを口にねじ込みながら答えた。
「言いたくなかったらスルーしてくれていいんだけどね、瑠衣の炎上の理由ってさ、発端は何なの? なんであんなに燃え広がってるの?」
「ずっと執着してきたアンチに言い返した。『公衆便所から逆流してきたウンコみたいな人間にゴチャゴチャ言われたところで、きしょいなとしか思わない』って」
「それだけが原因?」
「まあ、発端はね。それだけ。でもその言った相手がさ、結構有名な配信者だったらしくて。向こうは1年以上前から、私が界隈にとっていかに害悪な存在かを周りに説いてたみたいで。ギリギリ誹謗中傷にはならないようなラインをうまいこと責めてきてたんだよ。そこへ私が度ストレートな暴言をぶつけちゃったから、もうその人のファンはぶちギレで、あっという間に映像を切り抜かれて拡散されちゃった。その配信者もさ、自分のファンを煽って炎上に加担させてた」
「まじか。最初から狙ってたのかな」
「何とも言えない。で、やっとほとぼりが覚めたと思ったら、今度は中学の時に廃墟に忍び込んだり、警察に補導された過去が暴露されちゃって再炎上。活動休止で平和が訪れたかと思いきや、今度は他のクソ投稿者のとこにデマ流したアホがいたらしくて、叩けば叩くほどホコリが出る人になってる」
「デマって?」
「未成年飲酒やらいじめやら器物損壊やら、そんなやつだよ」
「ふぅん……」
理英がじっとりとした目線を私に向ける。その目はなんだ。やっていても不思議じゃないとでも言いたいのか。
「ホントにやってねえし! 神に誓ってもいいよ。父親の影響で酒は嫌いだし、いじめはむしろ被る側だった。まあ廃墟には忍び込んだけど、あの時だってべつに壊してはいないはず……」
「はいはい。誰も疑ってないから。少なくとも高校時代の瑠衣は一応まともだったしね」
誰に言ってもなかなか信じてもらえないが、これでも私は、高校時代はそれなりに真面目な生徒だったのだ。当時、成績も出席日数も余裕で足りなかった私は、公立高校への進学が叶わず、私立高校へ入学するに至った。その頃、母はシングルマザーになっていたため、非行に走っているわけにもいかなかったのだ。高校時代の私が行った非行らしい非行と言えば、冬夜祭の盛り上がりに乗じて気に入らないヤンキーの尻目掛けロケット花火を発射したり、屋上の鍵をピッキングで開けたことくらいだ。小学校も中学校もサボり放題だった私が、まさかの皆勤賞を取った時は自分でも少し引いた。
「みんな、私から離れていく。まあ、どう考えても自分が悪いんだけどさ」
私は不貞腐れたようにそう言って、ホットチョコを力いっぱいかき混ぜた。カップの底に沈殿していたチョコが、黒煙のようにぶわっと広がった。
「そう? 陽葵ちゃんはそんな風に見えなかったけど?」
「まあ、あの子転職活動中だから、忙しいだけかもしれないけどさ。突然冷たくなっちゃったから……そっとしておいた方がいいのかな。私って基本うるさいし」
「うん。確かに瑠衣はうるさい。でも、その子のこと、ちゃんと気にしててあげてね。急に冷たくなったとか、逆に明るくなったとか、何かの危険信号ってこともあるからさ」
「危険信号?」
「あの子、ちょっと病んでるところない? 過去に何かつらいことがあったとか、もしくは、今まさにしんどい目に遭ってるとか」
「なんでわかるの? 理英、この前1度会ったきりだよね?」
「なんとなく。そういう子って顔見ただけでわかるようになっちゃったよ。私も結構色々とあったから。――とにかく、今いる友達は、大事にしなよ。誰だって、急にいなくなっちゃう可能性があるんだからね」
病院で働いているとそういったこともわかるようになるのだろうか。それとも、理英自身何か大きな体験を過去にしたのだろうか。部活内だけの付き合いだったこともあり、彼女は昔から何かと謎の多い人物だった。近すぎず遠すぎずな関係が心地よかったのだ。
「そういえば理英、ギターはまだ続けてる?」
急に高校時代が懐かしくなって、私は思わず理英に尋ねた。理英はギターを担当し、私は持ち前のやかましい声を活かしてボーカルを担当していた。
「なに、藪から棒に。一応、たまーに鳴らしてはみるけど、もうほとんど弾いてないよ。部屋の隅でインテリアと化してる。瑠衣こそ、もう歌うのはやめたの?」
「うん。声がデカすぎて、録音すると音割れするんだよね」
軽音部でバンドを組んでボーカルを担当していたと言えば聞こえはいいが、実際私たちのバンドは校内でかなりの不評だった。マイナーな洋楽のカバーばかりやっていたせいで完全にイタい集団と化していたし、自作曲ともなれば暴言のオンパレードだった。おまけにベースとドラムが大層な気分屋で、ほとんど練習に顔を出さなかったため、本番の演奏はほとんどアドリブで行われた。おかげで私たちは文化祭に出てきてほしくないバンド1位の座を欲しいままにしたのだった。
「瑠衣って華奢で小柄な割にものすごい声量だよね。もっと歌えばいいのに、もったいない。ここの地下にあるライブハウスが機能してればよかったのにねー」
「最近はライブハウスどころかカラオケすら気軽に行けなくなって、どこにも歌う場所なんてねえわ」
前に1度、東京のアパートで歌ってみたことがあるが、サビに差し掛かる前に上下左右から壁を殴る音が聞こえてきて中断せざるを得なかった。私の感が正しければ、あれは合いの手でもラップ音でもなかったはずだ。
「悲しいねぇ。そういえば、ベースとドラムは今どこで何やってるんだろ。卒業以来全然連絡とってないや」
理英のオレンジ色の髪がさらさらと額の上を滑る。黒髪セミロングだった頃とは大違いだ。よく見るとインダストリアルまで開けている。変わったものだ。いや、これが本来の彼女なのか。他の2人は今どんな姿になっているのだろう。ベースのゴスロリはエナジードリンクばかり飲んでいたし、ドラムの刈り上げは筋金入りのゲーマーだった。
「私の言えた事じゃないけど、あいつらあんなに気分屋で、ちゃんと社会でやってけてんのか疑問だわ。絶対遅刻・無断欠勤常習犯だろ」
「いや、意外とまじめに社会人やってるかもよ? むしろあの時まともだった私らの方が……」
理英が悪い顔で言う。私はさらにその上を行く凶悪なにやつき顔で返した。
「就活ん時はちゃんとクソダサい恰好で、お上品に足を閉じて、前の人の湿り気が残ってるパイプ椅子に座ったっていうの?」
想像してみると思いのほか愉快で、私はホットチョコを器官に入れないよう、慎重にカップに口を付けた。
「ちゃんと安全にUSBを取り外したり、上司に挨拶したり、お酌したりしてんのかな。ん? 今ってお酌とか普通にやってんの? 理英んとこどうだった?」
「昔よりは減ってるでしょ。私は歓迎会で一升瓶持って会場内をうろつく係やったけど。歓迎される側なのに」
「そういうことをあいつら2人がやってると思うとさ、悲しいのと同時になんか、クッソおもしろいんだよね」
「わかる。上手に猫被ってるんだろうな。実際は気まぐれゴリラなのに」
何がそんなに面白かったのかわからないが、その後私は過呼吸を起こすほど笑い転げてしまい、終いには何故かしくしくと泣き出した。幸い店には私以外の客はいなかったので良かったものの、いればきっととんでもない迷惑者になっていたはずだ。
「瑠衣、また来なよ。ここなら、誰も瑠衣のこと責めないし」
まるで子供をあやすような口ぶりで理英が言った。ありがたいが、その言葉に甘えるのは少し危険に思えた。いくら幸せだった頃の思い出に浸っても、ありのままを受け入れてもらっても、それは「今」を解決するための手段にはなりえないのだ。
私は暫くの間テーブルの上に突っ伏して不規則に肩を震わせていたが、やがて疲れ果てて眠ってしまったらしく、目が覚めた時にはすでに窓の外は真っ赤な夕焼けに染まっていた。




