チョコファクトリー その2
「何それチョコケーキ?」
「『ほろ苦ガトーショコラのケーキ』って書いてあった。瑠衣のもおいしそうだね」
「あげねーよ」
「そこまでいやしくないから」
「ま、陽葵はもっと食べた方が良いよ。小鹿みたいだからさ。そんなにか弱いと悪いものにやられちゃうよ」
「嘘だ。瑠衣と同じくらいでしょ」
陽葵は自分の身体と私の身体を見比べながら言った。やっぱりそうか、と思った。陽葵は自分で気が付いていないのだ。体重の減少くらいは知っているだろうが、だからといって自分の見た目が痩せすぎているとは思っていないのだろう。
「でも、瑠衣が来てから確実にごはん食べられるようになったよ」
「よっしゃ。丸々と太らせて、持ってる服全部着られなくしてやる。そして私がおさがりを貰うんだ」
のどかな港町を見下ろしながら、温かいアールグレイをお供にドーナツを食べる。旧友たちのいる街で。いったい、いつまでこんな生活が許されるのだろう。ネット上では大勢から顰蹙を買い、自殺まで望まれているはずなのに、ここではそんなことなどまるで存在しないかのように周りは接してくれる。本当に同じ世界線なのかと疑いたくなるほどに。この町を忘れたくて東京に出ていったが、向こうにいる間は心のどこかでずっと帰りたがっていた。出ていくべきではなかったとは思わない。ただ、帰って来るべきだったのは確かだ。昔の私は耐えきれなかったのだ。この町で作った幸せだった頃の思い出と、辛かった頃の思い出に。
「そういえば、さっきの音。誰もいないフロアから聞こえてきたから、誰か入り込んでないか警備員さんに見回ってもらうってさ」
陽葵の現実的な言葉に、私はとても安心した。はじめからそう言ってくれれば良かったのだ。
「でも幽霊の噂は本当みたい。ここの話じゃないけど」
「はぁ?」
「福露の杜の近くに出たんだって。半透明のひょろ長―い人型の幽霊」
「ちょっとやめ――」
私は言い掛けてやめた。ひょろ長い人型……?
「それ、どんな見た目だった?」
私の珍しい反応に、陽葵は一瞬キョトンとしたが、すぐに話し始めた。
「めっちゃデカかったんだって。たぶん2メートルくらい。で、ガリガリなの。理英さんは遠目で見たらしいんだけど、頭が変な形してたって。何か被ってるみたいな」
夢の中に出てきた化け物と特徴が似ている。しかし何故だ。あれは福露の杜に住む幽霊だったのだろうかと考えていると、自然と総毛立ってきた。
チョコファクトリーを出るころには、辺りは薄暗くなっていた。だいぶ日が落ちるのが早くなっている。私は陽葵を家まで送っていくことにした。
昼間の温かい日差しが嘘のように、夕暮れの空気はひんやりとしていて肌寒かった。相変わらず道に人通りは少なく、虫の声だけが聞こえてくる。
「こうしてると、中学の頃を思い出すね。瑠衣が深夜にポコと家出してた時、たまたまうちの前を通りかかって……」
「一緒に徘徊したんだよね。ちょうどこの辺を歩いてたっけ。そのあと陽葵の家で
残り物のポテトサラダ貰ったの覚えてる」
私の深夜徘徊を止めてくれたのは陽葵だった。中学の頃、家で夫婦喧嘩が勃発した夜は、まだ子犬だったポコを抱っこして2階の窓から脱走し、深夜の町を徘徊して回った。町の警官に見つかって補導されることもあったが、それでも私の脱走癖が治ることはなく、むしろエスカレートしていくばかりだった。連れ戻される度、親にどんなに迷惑が掛かっているか説教される度、次はもっとうまくやってやろうと思うようになっていった。数時間にも及ぶ口論とビール瓶の割れる音を聞いているくらいなら、不審者に誘拐される方がまだマシなように思えた。怖がりな癖によくやったものだ。
ある日の夜、私は唐突に陽葵の家へ行きたくなり、ポコを抱きしめて彼女の元へ向かった。陽葵とは小学生の頃は付き合いがあったものの、中学に入ってからはほとんど口も利かなくなっていたのだが、あの時だけは彼女がどうしているのか無性に気になって仕方がなかった。別に、家を訪ねる気なんてなかったし、陽葵が眠っていることもわかっていた。いくらクソガキな私でもその程度の常識はあった。
しかし、陽葵は起きていた。受験勉強を深夜1時までやっていたのだ。私は彼女の部屋の灯りが点いていることに驚愕し、それと同時に自分の事が酷く不恰好で情けなく思えた。そのまま引き返して家に帰ろうと思ったが、大人しいはずのポコが突然大声で吠えたので、その声に気が付いた陽葵が2階の窓から顔を出した。すぐに玄関のドアが開き、コートを着た彼女が出てきたてこう言った。
「で、どこ行くの?」
陽葵は私を追い返すことも家に帰るよう説得することもなく、何食わぬ顔でそう言うと、当然の様に私のあとを付いてきた。クラス1真面目で、成績もよく物静かな陽葵がである。深夜徘徊がどれだけ危険であるかは馬鹿なりに理解していた。とても彼女を連れまわす気にはなれなかった。
その日以来、私は深夜に家を抜け出すのをやめたわけだが、今思えば、自分を引き止めてくれる人よりも、一緒に彷徨ってくれる人を必要としていたのかもしれない。徘徊の代わりに、私は夫婦喧嘩が始まるとボイスレコーダーで録音し、見様見真似でリミックスして遊ぶようになった。「親の喧嘩リミックスしてみたwww」というタイトルでネットに挙げた動画は、今では立派な黒歴史である。
「あの時、陽葵は親にバレなかったの?」
私が聞くと、陽葵はにっこりと笑って「全然バレなかったよ」と言った。どうかその笑顔が本当であってほしいものだ。
「私の日頃の行いの良さだね。取り憑かれたように勉強してたから。まあ、今となっては何を勉強したのかすら、よく覚えてないんだけど」
あの頃、陽葵の両親は、彼女を名門大学に入学させることに躍起になっていたという。将来は東京にある大手企業に就職し、そこで「良い相手」を見つけたら結婚し、この町へ戻って来て、地域のコミュニティに所属しつつ町のために働く。子供は2人くらいが望ましい。そんな計画があったらしい。彼女が幼稚園に入るころから。
だが、陽葵はそうしなかった。名門大学には入れたものの、就職活動では思うような結果を残せず、隣町の深刻な人手不足を抱えた広告代理店に就職した。そして1年後、彼女は体調を崩して会社を辞め、その後会社は倒産した。
「こんなことになるなら、もっと遊んでおけばよかったな」
陽葵がため息まじりに言う。
「今遊べてんじゃん」
「まあ、そうなんだけど……でも、その時にしかできないことってあるでしょ? 今はもう、社会の信用を失っちゃったし」
両親の期待に応えられなかったこと。自分のやりたいことができなかったこと。もう前のようには戻れないこと。陽葵に重くのしかかるこの影は、いつか消える日が来るのだろうか。私にはいったい、何ができるだろうか。
「今日はいきなり押しかけてごめんね。おかげでちょっと元気出たし、楽しかった」
いろいろと考え込んでいるうちに、陽葵の家の前まで来ていた。
「あの店、また行こうね。理英も良いヤツだから。すげえ見た目になってたけど」
「うん。ケーキもおいしかったし、また行こうね」
陽葵は「バイバイ」と手を振って家の中へ入っていった。特に変わったことはない。ただの別れの挨拶だ。それなのに――
もう、2度と行けないような気がした。




