陽葵の問題
「陽葵。今何投げた?」
「えへへ。どんぐり」
いつもより機嫌がいいのか、元気いっぱいの返事が返ってきた。
「どうした? なんかいい事でもあった?」
「ううん何も。病院の帰りに通りかかったからつい。あれ、もしかして寝起き?」
母はとっくに家を出て、家には誰もいなかった。私は陽葵を家に上げ、朝食なのか昼食なのかよくわからないグラノーラをもさもさと食べた。陽葵はポコを膝に乗せ、大して旨くもないインスタントコーヒーを飲みながら、道中パン屋で買ってきたサンドイッチをかじっていた。
「瑠衣、なんか顔色悪くない?」
やっぱりバレてしまうらしい。
「あー、夢見が悪かったからね」
「どんな夢?」
「……いや、よく覚えてない。それより陽葵は? 病院で先生に何か言われた?」
「うーん。前より良くなってる気がする。だから薬の量も減らしてもらった。でもさ――」
さっきまで元気そうだった陽葵の目線が、真っ黒なコーヒーの元に落ちる。なんとなく、私の質問とも噛み合っていない。
「本当に治りたいのかな。私」
薄暗くも澄んだ両目が、再びこちらを向く。色々あって私も神経がけば立っているせいか、その気持ちはなんとなくわかるような気がした。
「まあ……そういう風に感じることもあるらしいね。クソみたいな状況に長くいすぎると、これ以上落ちることも上がることも嫌になるって。でも大丈夫だよ。なんだかんだ言って、みんなそうやって生きてるし」
そうやって私はわかった風な口を利く。だが、実際本当かどうかはわからない。彼女はこれからどうなる?
「瑠衣、治るのも悪化するのも怖いんだよ。というか、人間らしい生活そのものに対して漠然と不安というか、大袈裟なくらい心配で。また何かに追い立てられるような気がしてね。私はほら、他の人と比べて、ちょっと……アレじゃん……詰んでるじゃん」
「いや、何とかできるよあんたなら。今までやってきたみたいに」
「私が今まで何とかなってきたと思う? 幼稚園時代から親の立てた計画通りに行動して、最後の難関『就職』でつまずいて、親の投資金を全部無駄にして失望させたんだよ。で、今は貯金を切り崩して病院通い。これが良くなったところで、後には何が残るの?」
陽葵の声が少しだけ荒くなる。彼女は俗に言う「敷かれたレール」の上を一切ブレることなく真っすぐに歩き続けてきた人間だ。そのレールが完全に断たれてしまった今、心身ともに疲れ果ててしまっている。
「陽葵。前にも言ったけど、親のために生きてるんじゃないでしょ。それに、今こうやって社会の中で生きてるんだから、何とかしてきたってことじゃん。死んだり終身刑になったりしてないんだもん。お互いさ、良くやってると思う。正直な話、私はこの齢までパクられずに生きてこられると思わなかったし。この先何がどうなるかはわかんないけど、そんなの起きてから考えりゃいいんだよ」
私は最後のグラノーラをすくい取った。こんな返しでも良いのだろうか? この言葉は、ある意味自分に言い聞かせているようなものだった。大抵、そんな感じだ。陽葵に掛ける言葉は、もしかしたら私が誰かに掛けてもらいたい言葉なのかもしれない。
去年の秋、私は東京からこの町に帰ってきて、一番に陽葵のところへ行った。自分の家に帰るよりずっと早かった。ファミレスで安いハンバーグを食べ、夕方の海岸で缶コーヒーを飲み、解体途中の母校を冷やかし目的で見に行った。あの夜は癒しそのものだった。陽葵は私とは対極にいる、もう一人の私だ。
「瑠衣は、最近また何か言われたりしてない? 今時ネットを全く使わないってことは不可能に近いけど、自分から見に行ったりしてないよね?」
「してないよ。まだ死にたくないし。状況を察してはいるけど」
嘘はついていない。あの動画は私の目の前に勝手に現れたのだ。まるで、現実を見て反省しろとでも言うように。
「ああいうのって、どうしてあんなに冷静じゃなくなっちゃうんだろうね。他の人の時だってそうだよ。悪いものを批判するのは当たり前だけど、あれ、ただのいじめにしか見えない。なんでみんな知りもしない人と喧嘩したがるの? 正論で言い負かして、自分の力を示したがるのはなんで? ストレスが溜まってると言ってもさ、さすがに1人の人間に対して寄ってたかって、いつまでもネチネチ言いすぎじゃない? なんか、仕事辞める前の荒んだ私みたいでイライラする。ネットだって、もう一部のオタクが使ってた時代とは違うんだし、多少は取り締まるべきだよ」
この手の話になると、陽葵はいつもやたらと饒舌になった。カップの中のコーヒーが空な事も忘れて、もう2回も口を付けている。
「しょうがないよ。身内間であんな事言ったらトラブルになるから。喧嘩するなら知らない誰かとじゃないと。リアルでのコミュニケーションに正論や意見のぶつかり合いなんていらないし。でも、あいつらだって人間だからさ。どうしても誰かにもの申したくなる時がある。独り暮らしで周りに愚痴れる友達もいなかったら、もうネットでやるしかない。まあ、その有り余る元気を陸みたいに創作にでも向けられればいいけど……大抵の人はやらないし、どうにもなんないよ」
しょうがない。どうにもならない。自分だってきっと彼らと同じだ。そう思わないとやっていられないところがある。私は器の中に残った甘ったるい牛乳を一気に飲み干すと、流し台の方に運んで勢いよく水を引っ掛けた。ついでに顔も洗った。
「でも、マナー悪すぎな奴が多すぎるよ。この前も、何の変哲もないメイク動画のコメント欄開いてゾッとしちゃったもん。責任取らなくていいからって、死ぬほど失礼な奴ばっか。小学生みたい。あんな奴らが瑠衣のところに集団で寄って来るって考えただけで、頭が爆発しそう」
陽葵も最後のサンドイッチを小さい口にねじ込みながら反論する。ハムスターのようでかわいい。
「ご心配ありがとうね。でも、ネットの世界に期待しちゃ駄目だよ。そりゃ優しい人もいっぱいいるけどさ、基本心に闇を宿したクソ野郎どもの運動場じゃん。私も漏れなくその1人だし。全く期待せずにいれば、がっかりすることもない。最近の私はあいさつ代わりに罵倒してこない人を見ただけでめっちゃ嬉しくなるからね。強くなったもんだわ」
私は半ば当てつけのようにそんなことを口走った。これが本心なのか、それとも単なる慰めてアピールなのか、自分でもよくわからなかった。対して、陽葵はムッとした顔で反論してきた。
「それって、ある意味かなり不健全だよ。なんにも期待してないような人が、幸せに気付けるほどのアンテナを張れるとは思えないし」
私はびしょびしょの顔面をタオルで拭いながら、ぼんやりと考えた。
良いことが起きるかもしれない。成功するかもしれない。解決するかもしれない。そんな期待が外れた時は、酷くがっかりするだろう。あるいはムカつくかもしれないし、泣くかもしれない。表現の仕方さえ間違わなければ、それらはある意味とても幸せな事なのだろう。私はすべてを押し込めてきてしまった。だから、爆発してしまったのだ。
「陽葵は私よりずっとまともだから、社会の毒気にやられないように気を付けなよ。めんどくさいヤツいっぱいいるけど、私みたいにならなきゃ楽しく利用できるはずからさ」
「うん。なんかごめんね。いきなりこんな話して。ネットを使い始めたのが他のみんなより遅かったせいで、この手の話になるとどうしても熱くなっちゃって。早く慣れないとね」
「陽葵、長いことネット禁止されてたもんね。高校生になるまでスマホの存在すらよくわかってなかったでしょ」
話しながら、もしかすると陽葵は例の動画の事を何か知っているのかもしれないと思った。もしそうなら勘弁してほしい。私の心配をする前に自分の心配をしてほしいものだ。
「就活の方は? 無理なく続けてる?」
私は話の内容を陽葵の現状へと戻した。そして、少しだけ後悔した。




