リンクする世界
「何!? 事故!?」
母も叫んだ。ポコも母の膝から起き上がり、耳を後ろに倒して辺りを警戒している。
「すぐ近くだったよ。私ちょっと見てくる」
私はすぐに玄関から飛び出して、音の聞こえた方へ走った。家の裏手にある道路の端で、1台の車が横転していた。どうやらカーブを曲がり切れなかったらしい。
横転した車の窓から、運転手と思わしき人物の腕が伸び、何かを探るかのようにうごめいていた。私は急いで駆け寄り、割れた窓から運転席を覗きこんだ。
「大丈夫ですか!」
冷静に考えて大丈夫なわけがないのだが、こういう時はすぐそんな言葉が出てしまう。乗っていたのは30代くらいの女性だった。もちろん面識はない……と思ったが、よく見てみると、ついさっき彗星蘭で分厚い本を広げていた女性だった。
「大丈夫……道路に何かいて、避けたら雨でスリップしちゃって」
女性は早口でまくし立てるようにそう言い、シートベルトを外して窓から外に出ようと身を乗り出し始めた。大きなけがはしていないように見えた。私は彼女の脇を掴んで車から引っ張り出し、歩道へ避難した。その間も女性は幽霊でも見たかのようにガタガタと体を震わせ、小さな声で何かぶつぶつ呟いていた。唯一聞き取れた言葉は、「私を殺す気なの?」という一言だけだった。おそらくそれは、私以外の誰かに向けられていた。
「警察と救急車呼んだからね!」
私が放心していると、背後から声が降ってきた。ハッとして振り返るとびしょびしょの頭とよれよれのパジャマ姿のまま出てきた妖怪のような母の姿があった。
しかし、それから先が大変だった。警察から数時間に及ぶ事情聴取を受け、家に帰るころにはもう東の空が白んでいた。以前私を補導した警察官とばったり出くわしてしまったのもなかなか帰れなかった理由の一つだ。
「あの人、道路に何かいたって言ってたけど、何がいたんだろう」
「誰か」とは言っていなかった。確かに「何か」と言っていた。ということは、人ではなかったのだろうか? 事故現場には街灯もあり、視界を遮るものもなかったことから、よそ見でもしていない限り対象が見えなかったというわけでもなさそうだ。警察は最近よく出没するハクビシンやキョンなどの野生動物かもしれないと言っていたが、ならばあそこまで怯えるだろうか。いや、そんなことより――
「私を殺す気なの?」
この言葉だ。いったいどういう意味なのか、私の頭は混乱するばかりだった。
「あの人、博物館の学芸員さんなんだって。うちの病院に入院してるよ」
あくる日の夜、さっそく母は勤務先で情報を仕入れてきたようだった。
「瑠衣ちゃんにお礼が言いたいって言ってたけど、どうする?」
「えっ、直接話したの?」
それは予想外だった。
「話したよ。まあまあ元気なんだけどね、ちょっと首と足をやっちゃったみたいで」
どこまで話を聞けるかわからないが、正直会えるなら会いたい。
しかし、今はどこの病院もウイルス感染拡大防止のため、面会は禁止だ。母いわく「まあすぐに退院できそうだけど」とのことで、とりあえず待つしかなさそうだ。
私は食後のコーヒーを馬鹿でかいマグカップに注ぐと、自分の部屋へ戻った。パソコンの電源を入れ、久々に陸の小説『殺人鬼の唄』に目を通す。8000文字だった小説は早くも3万文字にまで増えていた。
主人公の未来は、順調に殺人鬼の務めを全うしていた。1人目の犠牲者は床下に遺棄し、行方不明扱いに。2人目は肝試しに行った廃墟で殺害。ここで警官に見つかるが、最終的に手玉に取ってしまう。ここの描写がかなりえげつなく、運営からBANを食らわないか心配だ。3人目は自殺に見せかけた方法で殺害。4人目は車に細工をし、事故に見せかけて殺害。
ここまで読んで、あることに気が付いた。
「うわっ……」
ここ最近の福露塚で起きている事件と、どことなく似ているような気がした。もちろん、そっくりそのままというわけではないが。1人目は行方不明中の95歳の老人。2人目はボーリング場で殺されたかもしれない男性。3人目は福露の杜付近で自殺した男性。そして4人目は、あの学芸員ではないか?
最初の行方不明の男性以外、すべて陸が小説としてネットに公開した後に起きている。考えすぎなような気もしたが、私はどうしても気になってしまい、すぐに陸の元に電話を掛け、全てを話した。もちろん、事故現場を目撃したこともだ。
「ああ、気付いた? ここまで書いてきてなんだけどさ、もう書くのやめようかと思ってて。読者も増えてきてるし、なんか不謹慎かなって」
本人も薄々気付いていたようで、深いため息とともにそんなことを口にした。ただの偶然だと言い切れないこともないのだが、書きにくくなってしまうのも仕方のないことだろう。
「事件は小説が書かれた後に起きてるんだよ。おまえが預言者でもない限り、実在の事件をネタにしたと思われることはないと思う。そもそも、ニュースにすらなってないし。でも――」
「小説の通りに人が消えたり死んだりしてるみたい、でしょ? まあ偶然なんだろうけど。小説書いてるとよくあるし。そっくりな事が現実世界でも起こること。それはわかってるんだけどさ…… 何て言うか、だんだんと、本当にこの町に殺人鬼がいるんじゃないかって気になって来るんだよ。疲れてんのかなー」
陸の声を聞きながら、私はボーリング場にいた2人の男と、事故に遭った学芸員の言葉を思い出していた。もし彼らが殺人鬼で、この町の人間を殺して回っているとしたら……しかし、いったい何のために?
「今公開してる分で、何人死んでるの?」
私は恐る恐る尋ねた。
「5人。5人目はため池で見つかる予定」
「まじか。全部で、何人死ぬんだっけ?」
「7~8人。まあ、多いよね」
その後の長い沈黙の末、暫くの間小説を非公開にして執筆するという方向で話はまとまった。大袈裟だが、仮に小説の内容通りに何かをしている人間がいたとしても、非公開モードで執筆していればその内容はログインした作者にしか把握できない。勝手にログインできる人間が身近にでもいない限り。
陸は独り暮らしだ。そういったことはまず考えられない。
「とにかく非公開にして、様子見るよ。福露塚に変なのがいて危ないって言うのは事実だし。――まあ、荒塚なら大丈夫そうだけど……お互い気を付けるってことで」
陸との通話を終えると、私の右隣の窓に、ふと違和感を感じた。視界の隅に、何か、いつもなら映らないものが映っているような気がする。いや、確実に誰かが、何かが窓の外にいるて、こちらを窺っている。直感でそう確信したのだ。数人の、ひそひそと何かを話す声がする。私の頭の中でだけ聞こえるのか、それとも本当に誰かが話しているのかはわからないが、あまりの気味悪さに全身がぴんと引き攣った。
右を向いて、何がいるか見るべきか? 違和感の正体、恐怖の元凶を、この目で確認するべきか? そんな風に考えたところで、肝心の身体の方は椅子に張り付いて全く動かなかった。




