戻りつつある感情
木戸さんがいなくなってからは特に福露の杜について話すこともなくなり、私たちはいつもの他愛のない会話を楽しんでいたが、時計の針が7時を回った頃、突然陽葵のスマホに電話が入り、彼女は急遽帰宅せねばならなくなった。
「私は帰るけど、瑠衣はどうする?」
「もうちょい残ろうかな。親からの電話?」
「ええと……うん。別に、大したことじゃないよ。また誘ってね」
陸と小説の話をしたかったこともあり、私は陽葵の車には乗らず、店に残ることにした。
夜の雨音は段々と激しさを増し、それがまたボーリング場で聞いた雨音とリンクする。そういった意味でもまだ家には帰りたくはなかった。あの一件について共有できる恐怖心を持っているのは陸だけなのだ。
「進んだ?」
険しい顔でパソコンとにらめっこをしている陸に背後から話しかけると、「うおっ」と声を上げて飛び上がった。
「じゅ、順調だよ。思ったより早く進んでる。4人目の死者も出たし」
「へえ。3人目からはどうやって殺したの? ごめん。まだ最新話まで読めてなくて」
SNSを覗くより陸の小説を読んでおけばよかったと少し後悔した。その方がよっぽど有意義だっただろう。
「自殺に見えるよう偽装した。もう一人は事故」
コーヒー並みに苦々しい顔で陸は言った。
「なんか、不謹慎というか、タイムリーだね」
「うん。思った。今までもこういうことはあったけど、何故か想像世界と現実世界がリンクしちゃう時ってあるんだよね。今5人目はどうしようか考え中なんだけど、どうにも気が進まなくて……」
「しょうがないよ。あんなもん見ちゃったんだし。お次はこれだもん。殺すのが嫌なら、どっかに監禁するとかでも良いんじゃない? 秘密の地下室とか登場させてさ」
「うーん。ちょっと考えてみる。今更だけどさ、この会話かなり物騒じゃない? 何も知らない人に通報されたらどうする?」
「そこはもう、安定の陸の父さんに何とかしてもらう方向で」
陸は私の小ボケを完全に無視して、暫くの間黙ってPC画面を見ていたが、何かに気付いたのかふいに「あっ」と声を上げた。
「新しく感想が来てる。ええと……うわっ。ゴミじゃねえか。ちくしょうめが!」
久々に陸の口が悪くなった。覗き込んでみると、感想欄にただ一言「しょうもな。こんなの中二病の陰キャしか読めないだろ」と書かれている。
「この前は物語と全然関係ない政治思想をだらだら書いてあるよくわかんねえ奴も来てたし、なんなんだよ」
「へえ。そこまで読まれるようになったんだ。やばいヤツに目を付けられるほど拡散力があるって認められたんだよ。ある意味喜ばしいことじゃん」
「シンプルにムカつくんだわ。感想欄は馬鹿共の遊び場じゃねえから」
「変に言い返さない方が良いよ。この手の輩は何て言うか、変態なんだよ。刺激すると余計に興奮する。下手に構うとスクショ撮られてSNSでいじめられるぞ」
まさか陸相手に経験者の立場から意見することになろうとは。
「わかってる。運営に報告するか、速やかに削除してブロックする。なんか大袈裟だけど、無視したまま残しておくと、割れ窓効果? で似たような輩を呼び寄せるって聞いたからな」
「消しときなよ。ただ、やりすぎると『言論統制』って言われるから、ほどほどにしときな」
陸がネット小説を書き始めるきっかけを作ったのは私だった。中学の頃、ちょっとした出来心で、小学生時代に書いたSF小説をブラッシュアップしてネット上に投稿した。今思えば稚拙な小説もどきだったが、何故かそれなりに読者が付き、250話ほど連載するに至った。感想やブックマークも数百件付いていたと思うが、そのうちの一つが陸のものだった。私が執筆に行き詰まると、大抵は陸がアイデアを出した。つまり、今はその時の恩返しをしているというわけだ。逆に邪魔していないといいのだが。
「荒塚はもう書かないの? 昔書いてた『ブレイン・デトネーション』だっけ? あれおもしろかった」
「その中二タイトル、ほんと恥ずかしいから。今のところ書く予定もないし」
「あれ、ツッコミどころ満載で面白かったのに。高校の校長先生が、朝礼で心温まるテーマでスピーチしたら脳内チップが爆発して死ぬところから物語が始まるんだよね」
「やめろ」
私は思わず声を荒げ、慌てて口を覆った。それでも陸は楽しそうに話を続ける。
「この前久々に読み返して、あれ? こんなオチだったっけ? って新鮮な気持ちで読めた。序盤で爆死したと思ってた校長が実は自我に目覚めたアンドロイドで、生徒を洗脳しようとしていたってオチだったんだよね。確か当時は賛否両論な感想が来て大変だったんじゃなかったっけ。僕的には面白かったけど」
「クソみたいなオチじゃんか。文章も幼稚だったろうし、未だになんであんなに人気が出たのか全くわからない」
「主人公のキャラが斬新だったんじゃないの? 違法カフェイン中毒で下痢を起こしててさ。そのせいで毎朝遅刻しそうになって、猛スピードでセグウェイを走らせるんだけど、結局毎回遅刻するから問題児扱いされてて。ラストで黒幕の校長を簀巻きにして海に沈めようとしたら、いきなり海から未確認生物が現れて校長を食べちゃうのも、ある意味斬新だった。そして僕がそのラストを引き継いで、『夜の海底から』ってホラー短編を書いて、見事に爆死したんだけど覚えてないの?」
「よく覚えてない……完全なる黒歴史じゃん。SFジャンルが過疎ってたにしても、なんでランキング入りしたのかますますわからない」
「実際、ランキングなんてそんなもんでしょ。クオリティがすべてじゃないし。読ませる力があったんだろうね」
くだらない話をしているうちにいつの間にか恐怖心は消え、ついでにコーヒーも冷め、店仕舞いの時間になっていた。
「おい、ガキども早く帰んな」
マスターに追い出されるようにして店の外に出ると、もう雨は止んでいた。雨上がりの冷たい空気がツンと鼻を刺す。
私は自宅のある海沿いへ向かって歩き、陸は駅の方へと歩いて行った。街の明かりがアスファルトの窪みにできた水たまりに映り、夜の町はいつもより明るく見えた。
漁港脇の道路にはヤシの木が立ち並び、風が吹くと固い葉がざわざわと音を立てて揺れ、私の顔面に容赦なく雨粒を叩きつけた。雨粒は額から眉毛を通過して目尻の窪みに留まり、瞬きと同時に頬を伝った。
その瞬間、何故か唐突に涙が込み上げてきて、デニムジャケットの袖口でごしごしと拭った。思えばここ数年の間に色々な事があったが、泣いたことはただの一度もなかった気がする。両親が不仲になってからは、死ぬまで厄年なのではないかと思ってしまうほど良くないことばかり起きる人生だったが、不思議と今、一番精神的に安定しているように思えた。
悪夢にうなされて飛び起きる。
友達に絶縁されてへこむ。
怖いものを見て不安になる。
自分の過去を振り返って後悔する。
気に入らないものにはとことん文句を言う。
ただ目を覚ますためにコーヒーを飲まない。
積み上げてきたものすべてが台無しになったはずなのに、これまでの人生で一番まともな生き方をしている気がした。そう考えると謎の自信が込み上げてきて、私は気持ち悪いほどうきうきした足取りで家へと帰った。それこそ通報されそうな動きだったに違いない。
「おかえり。誘拐されずに1人で帰ってきて偉いね!」
母は愛犬のポメラニアン、ポコを膝に乗せ、やかましいバラエティ番組を観ていた。何故そうもテレビばかり見ているのか、私には到底理解できない。
「何それ気持ち悪い」
やたらハイテンションの母に、私はいつもの調子で言い返した。
「ごめん。酔ってんのよ。ビールを飲みすぎちゃって」
滅多に酒を飲まない母がここまで顔を赤くしているのは本当に珍しいことだった。
「ねえ、大丈夫?」
「平気よ。そういう瑠衣ちゃんは? 最近どうなの。変な夢を見たり、声を聞いたりしてない?」
「その辺は相変わらずかな。でも、今はかなり調子がいいっていうか、私にしてはまともだなって思う。小学生の時並みにまとも」
「まあ、それはそうね。深夜徘徊もしなくなったし、お酒もほとんど飲まなくなった」
「は? 私がお酒飲まないのは元々でしょ」
「そうだった。……お父さんと間違えちゃった」
何とも言い難い不快感が沸き上がる。
「申し訳ないけど、あんなクソ野郎と間違われるのは不名誉」
「今頃どこで何してるのかしらねえ。ちゃんとお家があるといいんだけど。今頃どっかで段ボール被ってたらどうしよう」
母の言葉に、特に返す言葉も見つからず、私は黙り込んだ。テレビのやかましい音だけがリビングに響いている。機械的な笑い声と大袈裟な効果音が耳障りだ。仕方がないので2階へ上がろうとすると、今度は外から鼓膜を引き裂くようなブレーキ音と、何かが激しくぶつかるドスンッ! という音が轟いた。思わず悲鳴を上げてしまうほど大きな音だった。




