胸のダイヤル
一日の始めや会社で仕事に取りかかるとき、
「よし、きょうは頑張るゾ!」とか、
「○○時までにこの仕事を終わらせないとっ」
とか思い、意識して自分の力や集中力を上げようとしたり、逆に「きょうは疲れないようにセーブして……」などと思ったことは無いだろうか?
ある青年が、胸の真ん中に1から10までの数値が刻まれた「ダイヤル」を取り付けて会社に出勤した。そのダイヤルは中心がつまみやすく突起状になっていて、渋く銀色に輝いている。回すと「カチッ」っという手応えと音がする。目盛りの9から先は赤地だった。レッドゾーンと云うことらしい。
「それはなに?」
先輩の女性が青年に聞いた。
「僕の「出力調整つまみ」です。仕事によってダイヤルを回して力を加減しようと思いまして。これで心機一転して仕事をはじめようかと」
「へえ。それって効果あるの?」
先輩女性は、半笑いで疑い深い目をし青年の胸元を見た。
「ええ。昨日出かけたときに、中国の奥地で修行したというおじいさんがやっている露天で見つけたんです。効果は保証するって云われました」
「へえ、怪しいわねえ。おもしろそうではあるけど」
先輩女性は、まるで信じていない風だった。けれど青年は、微笑みながら自信ありげに云う。
「昨日、ウチで少し試しました。メモリの5が標準なんですが、そこからダイヤルの数値を上げると、こう、なんていうか体の中から力が湧き上がって来るんです。4とか3にすると、ゆったりしたペースになります」
その話を聞いた先輩女性は、彼がとても真剣に云うので、とりあえずそのダイヤルの効果が「単なる心の持ち様」と云うことであってもいいのでは無いかと解釈して、
「そぉ。じゃあ今日は忙しいから8くらいで仕事してちょうだい」
「わかりました。……えっと、8に回してもらえますか?」青年は、胸を突きだしてそう云ったので、先輩女性はちょっとおもしろがりながらカチカチとダイヤルの目盛りを8にしてやった。すると青年は、目盛りが5だった時より顔が少し紅潮し、胸を張って大股で歩き、明らかに俊敏に動くようになった。
「へぇ。ちゃんと効果があるみたいね。いいじゃない!」
先輩女性は昨日まで少し頼りなかった彼を頼もしく輝く瞳で見た。
それから青年は毎日そのダイヤルの目盛りに従って仕事をした。ダイヤルの目盛りをあげれば、それだけ間違いなく俊敏で積極的に仕事が出来たので、始めは半信半疑であったり、嘲笑していた他の同僚たちも、みんなが認めるようになった。しばらく経ったころには、
「自分も欲しいんだが、どこで、いくらで買ったんだい?」
自分も欲しいと云い出す人が後を絶たなかった。けれど、
「これを買った店は、しょっちゅう場所を変えていて、どこでいつ店を出すかは秘密だと言ってました。それに、このダイヤル自体も、そんなに沢山作れるものじゃ無いから、今はこのひとつしか無いんだと云われましたし」
それで青年の同僚たちは落胆してしまった。
彼はその後も日々、精力的に仕事をこなし、職場の要的な存在になり、リーダーになった。
ある日の朝のこと、青年が出社すると上司から言われた。
「大変なことになった。今日はとにかく忙しいぞ。ただでは終わりっこない仕事の量だ。
キミ。その胸のダイヤルだがね、目盛りを10にするとどうなるのだ?出来るか?」と聞かれた。
青年は、まだダイヤルの目盛り10。つまり赤地の部分。レッドゾーンにまでダイヤルを回したことは無かった。なので素直に、
「それはやったことがないので……わかりません」 と答えると、上司は、
「今日は、そこまであげてもらわないと、ダメかも知れない」と云うのだ。
「わかりました。最高値の10まで上げて見ます!」
そう云って、また先輩女性に胸を突きだし、
「ダイヤル、10まで回してもらえますか」と頼んだ。先輩女性は、「まかせて」といった素振りに宇宙ロケットの発射ボタンでも押すような口ぶりで、
「わかったわ。……いくわよぉ。点火ぁ~!」ダイヤルを一気に10にした。
すると青年は、とたんに顔を真っ赤にして鼻息荒く「ぐぉぉぉぉ」っと雄叫びを上げた。ダイヤルを回した女性も、10までダイヤルを回せと頼んだ上司も、青年の様子に大きな期待を感じる反面、何か不吉な感じが頭をよぎった瞬間だった、青年は体中のエネルギーが制御しきれないように辺りを走り回ったあげく、オフィスのドアを突き破ってどこかへ走り去り、二度と帰っては来なかった。