駅で待つ
駅はいつの間にか建て替えられ、駅舎もホームも新しくなっていた。防腐剤か新建材か何かの臭いを、まだ嗅ぎ取れる。
「駅がこんなキレイになってるなんてね」
私のすぐ横に立つ彼氏が言った。この臭いは気持ち悪いけど、その点には同意だ。
私と彼氏はホームに立ち、JRの特急列車を待っていた。足元には、指定席車両の乗車位置を示すラインが引かれ、二列に並んでいる。
碁盤目状に屋根や壁を走る、サビ一つ無い鉄骨。ホームの天窓からは、真夏の強烈な日光が降り注いでいるものの、紫外線カットのガラスのおかげで、日焼けの心配はなさそうだ。
さらに、どこもかしこも清潔そのもの。菓子袋の切れ端すら落ちていない。ひょっとすると、この嫌な臭いは、消毒薬や洗剤かも。掃除が済んだばかりだとすれば、ひとまず納得できる。ホームは屋外式だから、じきに臭いは消えるはず。まあその前に、鼻が慣れちゃうか、乗車してしまうけどね。
私と彼氏はこれから、瀬戸内海側を経て、四国の某温泉地へ向かうのだ。泊りがけの旅行なんて、ホントに久々のこと。
この旅行は、政府のGoToトラベルを活用している。私たち以外にも、旅行や帰省の人々が、ホームで列車の到着を待っていた。今か今かと、ウズウズする気持ちでいるはずだ。
ダイヤに遅れは出ていないけど、こういう状況では時間の流れが遅く感じるもの。
「そろそろ来るかな?」
自分で言っておきながら、このセリフは何度目かな?
「もうじき、もうじき来るよ」
彼氏もきっと、似たような気持ちになっただろうね。しつこいのは嫌われるから、気をつけなきゃいけない。
「暑いわね」
「駄目だよ! マスク取っちゃ!」
前に並ぶ老夫婦が、そんなやり取りをしている。ここは屋外で、熱中症の恐れがあるのにマジメな人。
乗ったら着けるつもりだけど、私も彼氏もノーマスクだ。新型コロナよりも熱中症のほうが、正直怖いからね。熱中症にも後遺症ぐらいある。
模範的なマスク姿の老夫婦は、チラリと私たちのほうを振り返った。一瞬だけど、嫌そうな表情を確かに浮かべていた。「マスク着けてよ」的なことを言いたいご様子。
年寄りとはいえ、失礼な人だね。今朝も平熱だし、喉の痛みはゼロ。必要な感染防止対策は取っている。
もし文句があるなら、国にどうぞ! 私たちはただ、経済と感染防止対策を平行させるという空気に応えているだけ。これ以上、若者に何を求める気なんだろう?
……ただ、私の祖父母は四人とも健在だ。彼氏のほうもきっとそう。なので、老夫婦に文句を言うつもりはない。幸い、向こうもそのつもりらしい。
私は右後ろを振り返り、壁際に置かれた、黒い薄型モニターへ目をやる。人と人との間に見えるモニター上には、直近のダイヤが表示され、これから乗る特急列車もそこにある。遅延の知らせは無く、代わりに感染対策の要求文が右から左へ流れていた。
「ん?」
視線を感じる。あのハーフパンツ姿の男の子だ。
モニター横に立つ、小学校低学年ぐらいの男の子が、私の顔をじっと見てきている。その子もノーマスクだし、私たちを咎める気ではないらしい。
……ただ無言で、私の顔を凝視してくるのだ。いやらしい視線でも、バカにするような視線でもないけど、気持ちがいいものじゃない。一番ピッタリな例え方だと、動物園で珍獣を眺めるような感じだね。
もちろん、私は人間様。承認欲求は時代相応に持ち合わせているけど、あの視線はいただけない。……私はショタコンじゃないし、男なら間に合ってる。
その子がロックオンを解除してくれたのは、気づいてから一分ほど経った頃。改札のほうから、母親らしき女性が歩いてきて、その子を呼ぶ。
その子が母親の元へ歩き出した途端、ほっと一息つく私。恐怖心からじゃないけど、安心感が湧き上がったのだ。懐かしい子供時代や初恋相手を連想したわけでもなく、不思議な感じがね。
……ところが今度は、母親のほうが私のほうを見てくる。その子が母親に何か吹きこんだらしい。怪訝そうな目つきで、明らかに私を視線に捉えている。
なんだ? 私の髪型や服装がおかしいのか? どこかにカラスの糞でも付いてるのか? ……いや、大丈夫だ。この嫌な臭いも、私からじゃない。
私が再び母親のほうを見たとき、彼女と男の子はそこにいなかった。「もしかして近くに!」と怖い予想をしたけど、それは外れる。歩き去る二人の背中が見えたからだ。
もしかすると私を、親戚や近所の誰かと勘違いしたのかもしれない。ただでさえ今は、周囲の人目が気になりがちな時期だからね。
「どうしたの?」
彼氏が私に言った。気をつけていたものの、落ち着かない様子を見せていたらしい。あの親子のせいだ……。
「いやいや別に、なんでもないよ!」
軽いウソをついた私。なにしろ、今ここで心配事や悩み事を打ち明けるなんて、野暮なものだからね。
これから旅行に出かけ、後世に残せるほど、明るく楽しい思い出をつくるんだからね! 今回のために、ゾゾで服をペアルックで買い揃えたほど。私たちの真っ白なTシャツは、頭上から届く日光で、さらに白く輝いている。
「あっ、きたよ」
朗報だ。彼氏が言った途端、私の視線は脊髄反射的に、線路の先へ向く。
陽炎がのぼる線路の向こうに、お待ちかねの特急列車が見えた。走行音と共に、その姿はだんだん大きくなる。
……なんか変だ。列車のパンダグラフが妙に目立ち、車体から伸びる数が多い。上部どころか、左右の両側からも、ワサワサと枝のように伸びている。
列車の先端部がホームに届くよりも前に、伸びるそれらがパンダグラフじゃないことは、もう把握できた……。
サビた鉄骨やガラス片が突き刺さる列車が、駅に入ってきたのだ。金属が軋む音、ガラスがチャラチャラ鳴る音、何かが噴き出す音。どれも鉄道を利用する上で、ほとんど聞かない類の音だ……。
耳障りな音をうるさく立てながら、スピードを緩やかに落とす特急列車。停電しているのか、運転席や車内は全然見えない。子供の頃に泣かされた、祖父母宅の長い廊下のような、非日常感に満ちた暗闇がそこにある……。
「じ、事故!! テロ!?」
自然とそう叫んだ私。
あんな特急を予約した覚えは無い。何かのイベントや冗談だとしても、私たち自身がアレに乗ろうとは思わない。彼氏の独断で決まったことだとすれば、別れ話のプロットを組み始めるところ。
……ん? あれ? 周りの人々は、何事も起きていないかの如く、列車を迎えている。トランクを持ち直す日焼けした青年、笑顔一杯の家族連れ。賑やかなホーム……。
「列にお並びになってお待ちください」
ホームでアナウンスを行なう駅員も、平然としている。
「どうしたの?」
静寂な耳の中を、彼氏の声が貫いた。よく響くけど、声のトーンはさっきと変わらない。
「だって、あの特急……」
ここで私の声帯が緊急停止。
彼氏の全身に、サビた鉄骨やガラス片が列車のように、数え切れないほど突き刺さっていたのだ……。急沸騰する恐怖心に、私は凍りつくしかなかった。あの男の子で湧いたそれなど、比較にならないほどに。
教科書通りなら、私がここで、マイクが拾えなくなるほどの悲鳴をあげるところだ。しかし、私はフリーズし、脳内で正常性バイアスを働かせつつ、恐ろしい姿の彼氏を眺めるしかなかった。
不思議と彼氏は、大量出血までは起こしていない。この姿のまま抱かれたくないけど、彼は原型を保ってるといえる。
「ハ、ハロウィンには、まだその、早いよ?」
正常性バイアスは、私にそんなセリフを吐かせた。勢いを増す恐怖心に、ゲロも吐きたい気分の中でだ。
「……ああ、そういえばそうだ。今は八月だもんな」
冷たい口調の返事。よく見れば、顔も冷たく生気が無い……。
ふと周りを見回すと、ホームにいた人々が皆、全身から鉄骨やガラス片を生やしている。アナウンス中の駅員も同様で、マイクのコードが鉄骨に引っ掛かっていた。
「グリーン席は一号車、指定席は二号車から四号車、自由席は五号車から六号車となっております」
言葉を発する度、喉元に刺さったガラス片が光を反射させる。
ああ、どうやら私は、悪夢を見ているらしい! 目覚めた後もしばらく、イライラした気分になるやつをね。
ハロウィンでもないのに、彼氏がこんなグロテスクなコスプレやメイクをするわけない。目覚めて、ラインかズームでビデオ通話をかければ、いつもの清々しい彼の顔を拝める!
「目覚めろ。目覚めろ。目覚めろ」
両目を閉じ、そんな言葉をブツブツ呟く私。このやり方で何度か、夢から現実に帰れた実績がある。
「うるさいね」
「喋るんなら、マスクしてほしいもんだ」
前の老夫婦が文句を言った。
つい反射的に、私は目を開け、老夫婦を睨んでしまう……。
「…………」
なぜか老夫婦は、鉄骨やガラス片を一つも生やしていない。老いぼれ具合はともかく、傷一つ負っていなかった。
その代わり、顔面すべてが白い布で覆われている……。ちょうど二枚のマスクを使い、顔を完璧にガードしている形なのだ。
彼氏も含め、他の人々より地味だけど、私に与える恐怖感は十分だ。そのため、目覚めの言葉をポロリと忘れてしまう。
「大きいの持つよ」
彼氏はそう言うと、私のキャリーバッグの取っ手を掴む。彼から飛び出た鉄骨が、バッグに傷をつけたけど、どうでもいいこと。
列車はいつの間にか停車していた。無数の鉄骨がガラス片が、列車の壊れっぷりを象徴しているが、停車位置は正確そのもの。
「それっ」
「よいしょっと」
乗車扉が開いた途端、老夫婦が我先に乗りこんでいく。ここは指定席車両なのに、まるで通勤電車に乗るような勢いを見せてくれた……。両目も布で覆われているのに、器用なもの。
「マスクしようね」
「う、うん」
彼氏は後ろポケットから黒マスクを取り出し、それで口元を覆う。ところが、耳にかけたゴム紐の片方が、ガラス片で切れてしまった。右耳に引っ掛かり、宙ぶらりんとなる黒マスク。
「ん? マスク無くした?」
自身のノーマスクに気づかない彼氏……。
「い、いや大丈夫、大丈夫、だよ」
本日二度目の軽いウソ。手を震わせながら、自分の黒マスクを着けた。
いったい、この悪夢はいつ終わるんだろ……。
「じゃあ行こう」
彼氏はそう言うと、私の右手を握り、乗車扉へ歩き出す。彼の鉄骨が、私の右肩に当たりかけた。どうせなら頭に当たり、目覚めさせてほしいところ。
「危ない!!」
そのとき、腹に衝撃を感じた。
「うぐっ!」
痛みに呻きながら、その場で尻餅をつく私。
ああ、これ以上ないほど不快な悪夢だね……。寝る前に何かやったかな?
「なんですかあ!?」
思わず高い声を張り上げた私。
声をかけた相手は彼氏じゃない。それどころか、彼氏自体が消失していた。キャラクターが突然消えるのは、夢の世界ではよくあること。
「危ないじゃないか!! 線路に頭でもぶつけたらどうする!!」
さすまたを構えた駅員の男が、すぐ近くに立っていた。彼には、鉄骨もガラス片も顔マスクも無い。五体満足の自然体だ。
それから、あの親子もすぐ近くにいて、また私をじっと見ている。……憐みがそこに感じられた。
再び周りを見回すと、ホームには私たち四人以外は誰もいなかった。彼氏はもちろん、老夫婦、旅行や帰省でいた人々、アナウンス中の駅員。
悪夢から抜け出せた? でもなんで、駅に一人?
「ここで何をやってるんだね? 入場券も買ってないでしょ?」
駅員が私に、冷たい口調で問い質す。
「幽霊に誘われてたんだよ!」
これは男の子の声。
「……どうだがね」
駅員はそれを信じたくない口調でいる。それは私も同様だった。
「やっぱりこの人はきっと、すぐそこの病院の、その、患者さんですよ」
今度は男の子の母親が言った。
「ああそうでしょうね。……まったく、今月でもう何人目だろう」
呆れ顔を浮かべながら、彼はあのモニターのほうを見る。
……いや、アレはモニターじゃない。石の名前は知らないけど、文字が刻まれた四角い石だ。黒く硬そうなそれが、壁際に鎮座していた。
「ああああああ!!」
私は勢いよく這いずり、その石に近寄る。いや、正しくは慰霊碑だ。ああ思い出したよ、思い出した。確かえっと、あれは五年前。
私を生き残らせた、鉄道事故の慰霊碑だ……。