センパイのご飯
「はいはいはい」
さっきまでの鉄火場の勢いそのままに玄関を開けようとして、センパイの悲鳴を思い出した。頭がしゅうっと冷えていく。鼓動だけが明白だ。ドアスコープをそっと覗く。
あすかセンパイが目を伏せ、立っていた。
「はあい」
鍵を開け、ゆっくりとドアを開く。ほのかなセンパイの匂いが、ふっと流れこんできた。
「こんばんは……」
ちょっとかすれた声に、ぐっと来る。両手で提げたチェックの布袋から、白ワインの瓶が覗いていた。
「どうぞ、上がってください」
奥へと促す。心臓が強く打っていたが、声は震えなかった。
「お邪魔します。これ、安物だけど」
布袋を渡してくれる。もらうとき、少し指がふれた。
「そんな……ありがたいです」
動揺を隠すため、そそくさと部屋に戻る。後ろからついてきたセンパイが声をあげた。
「すごいね……これ全部、春田君が作ったの?」
「いやあ、簡単なものばかりで。まあ、座ってください。ビールでいいですか?」
「うん」
冷蔵庫からビールの缶を出す。幸い、十分に冷えていた。冷凍庫からは、冷やしたグラスを取り出した。
「本格的なのね」
センパイは感心した様子だった。
「どうぞ」
ビールをセンパイのグラスに傾ける。両手でグラスを持って受ける姿が大人っぽく見えた。
「ついであげるね」
センパイが僕のグラスについでくれた。父の言葉を思い出し、急いで両手を添える。
「なあに、かしこまっちゃって」
おかしく見えるのか、センパイの頬がゆるむ。陰のあるところが気になるひとだけれど、笑顔はとびきりだった。
「じゃあ、乾杯しましょうか。ええと……」
「春田君の手料理に、かな」
グラスとグラスがチンと音を立てる。半分くらい空けて、机の上に置いた。
「センパイ、お土産ありがとうございました」
「ううん、実家でたくさん持たされたから……こんなに料理出してもらったら、釣り合わないね」
センパイがここにいることで十分すぎる。
「そんなことないですよ。食べてくれますか」
「そうだね。いただきます」
センパイが豚バラはちみつ焼きへと箸を伸ばす。いきなりメインディッシュだ。少し緊張する。豚肉の角切りが箸でつままれ、口へ運ばれていくのを凝視していた。
「んー!」
もぐもぐと口を動かしていたセンパイが声をあげた。ごくんと飲みこみ、驚いた顔で僕を見つめる。
「このお肉、甘いね。何使ったの?」
「はちみつを絡めたんです。甘いの嫌いだったですか?」
「そんなことないよ、おいしいよ」
歓喜が背骨を駆け上がった。自分が作ったものを、ひとにおいしいと言われることが、これほどの喜びをもたらすとは想像さえしていなかった。
チーズの磯辺巻きをつまむ。チーズとわさびの組み合わせは、意外なほどに合う。そして、ビールにも。グラスに残ったビールは、あっという間になくなってしまった。
「強いんだね」
センパイがビールを差し出す。拝むようにコップを構えた。今この瞬間の僕より幸せな男は、地球上に存在しないだろう。
「キャベツだけなのに、すごくおいしいよ。塩とレモンかな?」
手もみサラダを口にしたセンパイは、満足と喜びを浮かべていた。
いつしか、センパイのグラスも空になっていた。すかさずビールを差し出す。
「ありがと」
これが昔の小説によく書いてあった差しつ差されつと言うやつだろうか。語感から妄想が沸き上がる。決して股間からではない。
センパイとふたりきり。
いかんいかん。焦ってはいけない。僕たちはまだ何も手順を踏んでいない。それ以前だ。
しかし、酔いでうっすらと染まったセンパイは、どきりとするほど綺麗だった。
ビール缶が3本、床に転がっている。テーブルには、豚バラのハチミツ焼きを乗せた皿が空になり、そのほかの料理は少しずつ残っていた。
「今日はとっておきがあるんですよ」
酔いで少し指先がしびれてきたが、まだ大丈夫だ。すっかり小さくなった氷が浮かぶボウルから大吟醸の瓶を取り出し、タオルで水気を拭いた。
「え、何だろ」
とろんとした眼で、センパイは小瓶を見つめている。
「実家に帰ったときに飲ませてもらってですね、すごくおいしかったんですよ」
ぐい飲みをふたつ、戸棚から取り出す。こだわったものを揃えたかったけれど、先立つものがなかった。
栓を開けて、とくとくと透明な液体をそそぐ。ほのかに果実のかおりが散った。
「えっ……日本酒はちょっと、苦手……」
センパイが困った顔になる。僕は大吟醸が苦手なひとがいるとは思えなかった。
「たぶん、思ってるのとは違うと思いますよ。ちょっと味見してみてくださいよ」
杯に口をつける。実家で飲んだ霊山よりは、しっかりした味だった。意地悪な言い方をすれば、繊細さに欠けるというところか。それでも、喉に引っかかるような甘さの、安っぽい日本酒とは比べものにならない。
山紅葉を箸の先ですくい、舐める。辛い。酒が進みそうだが、大吟醸で辛さを流すのはもったいない。焼酎の水割りなんかにはよさそうだ。
センパイがおそるおそる、杯を口元に持っていき、ちびりと唇をつけた。眼が驚きに見開かれる。
「うそ……すっごく飲みやすい。なんだろう、すごく高級な……水?」
倒れそうになった。しかし、センパイはひと口、ふた口と飲んでいき、すぐにぐい飲みは乾いてしまった。
「大吟醸なんですよ。僕も実家で飲んで感動しました」
センパイがうるんだ眼で見上げ、濡れた唇をそっとひらく。
「ねえ、春田君……欲しいの。いい……?」
声までうるんでいた。しらふなら心臓が止まったかもしれない破壊力だった。
「もう一杯、ちょうだい……」
はいはい。僕は誤解なんかしない。杯に注がれていく大吟醸を、センパイは溢れる喜びをこらえきれないというふうで見つめていた。
表面張力でぎりぎり保った水面を、慎重に維持しながらセンパイは杯を持ち上げていく。ピンク色の唇に迎え入れ、喉をこくりこくりとうごめかせて、すぐに杯は空になった。
センパイは、テーブルにもたれるように肘をついた。かなり酒が回ってしまったようだ。そろそろ締めのカップスープリゾットを作ろうと、立ち上がったときだった。
「私ね、自炊、嫌いなんだあ……」
センパイが、ひとりごとのように語りだす。そういえば、そんなことを聞いたことがあった。
「お父さんとお母さんが共働きでね、いっつも私が弟や妹の晩ごはん作ってた。豚丼とかね。感謝なんかしてくれなかったよ。弟や妹はわがままばっかり。私だって子供だから、レパートリーなんかそんなにあるわけじゃない。なのに、もう飽きた、まずい、とかそんなこと言われて……」
センパイが自身のことを語ることなど、聞いたことがなかった。
「だから、自炊って嫌い。誰もおいしいって言ってくれないんだもの。私しか、食べるひといないから」
ああ、センパイは他人にご飯を作ってもらった経験が少ないのだ。だから、誘いに応じてこんなにも喜んで食べてくれたのかもしれない。
一世一代の戦機に投じるチャンスが、稲妻のように訪れたことを悟った。
「ぼ、僕は、センパイのご飯が食べたいです!」
「うん……」
センパイは、そう言ったきり、ゆっくりとまぶたを下げていき、テーブルに突っ伏して寝息を立て始めた。
僕の勇気は、空振りに終わったようだ。
まあいい。僕はセンパイの喜ぶ顔が見たくて、これからも料理を続け、おいしい酒を探していくだろう。そしていつかは、センパイの手料理が食べたいと言おう。
多少しびれた足を揉んで、後片付けを始める。
締めのカップスープリゾットは、今度のお楽しみだ。
センパイは、子供のように無防備な寝顔を見せていた。〈了〉