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クッキング・僕  作者: 龍淵灯
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幸せを追い求めよう

 夕方から、家族3人で出かけた。母も飲みたいというので、タクシーで向かう。10分ほどで到着した。味嘉は、いかにも鮨屋という感じのこじんまりとした店だった。

 父を先頭に、のれんをくぐる。


「いらっしゃい」


 30過ぎの、人の好さそうな大将がカウンターの中から声をかけてくる。回らない鮨屋で食べるのは初めてだった。


「じゃあ、塩握りを3人前頼むよ」


 どっかりと父はカウンターに腰を下ろし、僕と母が両脇に座る。塩握りと言っていたが、まさかおにぎりが出てくるのか。


「飲み物はどうしましょう?」

「そうだな、大吟醸を1合と猪口を3つくれ」


 僕の疑問をよそに、父と大将はやりとりをしていく。


「ねえ、大吟醸って何?」


 名前は何となく聞いたことがあったが、具体的にどういうものかは知らなかった。


「米を芯まで削って、それで作った日本酒だ。とにかく美味いぞ」


 父が待ちきれないといった笑みを浮かべる。よほど好きらしい。


「お待たせしました。今日の大吟醸は熊本県の霊山です」


 和服の老女がやってきた。捧げ持つ盆の上には、氷水の入ったガラスの器があり、その中にこれまたガラス製の優美な曲線をしたとっくりが浮かんでいる。

 ガラス切子のお猪口が僕たちの前に置かれていく。お猪口といっても、小さな湯呑みほどもあった。ぐい飲みというやつだろう。


「さあさ、どうぞ」


 母が父に酒をつぐ。父はとっくりを母から受け取って僕についでくれた。


「まあ家族のときはいいがな、先輩や上司から酒を受けるときは両手でもらうんだぞ」


 慌てて手を添える。父はそのまま母にもついでやった。


「では、信明の順調な学生生活を祝して、乾杯」


 大げさな物言いに顔が熱くなる。何か言ってやろうと思ったが、父はすでに盃に口をつけていた。やむ

を得ず、飲んでみる。

 さわやかに、甘い。

 驚いた。今まで飲んだことのある、喉にひっかかるような日本酒ではない。

 果実酒といってもよかった。口の中をふくよかな香りで満たして、あっという間に喉へ降りていく。


「これは……」


 父の方を見た。満足げに、盃を半分ほどまで空けている。


「すごいだろう」

「久しぶり。相変わらずおいしいわねえ」


 母もうっとりしている。正直、すごい。こんな酒は、今まで飲んだことがなかった。

 もうひと口、もうひと口と飲んでいくうちに、お猪口は空になっていた。


「初めて飲んだよ、こんなの」


 早くも、少し頭がぼうっとする。眼が、まだ少し残っているとっくりの方に行ってしまう。


「確かにうまいがな、むさぼるように飲むものじゃない。それに、飲みすぎるとせっかくの鮨の味が判らなくなる。続きは食後だ」


 そう言って、早くも空けた自分の盃に残りを注いでしまった。ずるい。


「今日は、いい鯛が入りましたんで」


 気持ちを見計らったかのように、大将が鮮やかな手つきで鮨を握っていく。完成した鮨に、粒子の細かな塩をすりこみ、レモンの切れ端を絞った。


「そのままでどうぞ」


 皿がわりに置いてある大きな笹の葉に、鯛の握りを乗せてくれた。白身に紅を刷いた鯛の身が、瑞々しく光っている。醤油をつけずに鮨を食べるのは初めてだったが、好奇心は抑えられなかった。

 手を伸ばして握りをつまむ。回転ずしよりよほどふんわりとしているのに、手にして崩れることはなかった。ひと口で放りこむ。


 未経験の涼やかさが口から鼻へ通り抜けた。塩もレモンも、かなり使ったように見えたのに、目立つほどの味を感じない。ひたすらに、鯛の旨みが際立っている。ときどき食べる、鯛の刺身とは次元が違っていた。いい素材と工夫で、これほどおいしくできるのだ。


「すごいね」


 誰にいうわけでもなく、つぶやいていた。


「ありがとうございます」


 大将が微笑む。照れも増長もない、確固たる自信がにじみ出ている笑みだった。


「最初からそんなに驚いてたら、帰るころには気絶しちまうぞ」


 父が、自分の手柄のように誇る。


「お父さん、仕事にかこつけて、こんなにおいしいものをちょくちょく食べてたのね。ずるいわあ」


 そう言いながらも、母も口福を楽しんでいるようだった。


「では、次に行きましょうか」


 大将が再び舞うような技で、ネタとシャリを組み合わせていく。

 そのあと眼の前に並んだもの。

 大トロの炙り。

 ふわふわの穴子。

 軍艦巻きにしないウニ。

 マグロの漬け。

 などなど。

 握りがすべて胃の中に入り、生まれて初めて味わう、食べ物での感動に陶然としていた。


「大将、霊山と海鞘(ほや)をくれ」

 父は僕の余韻も無視して、またあの大吟醸を頼んだ。ホヤとは何だろうか。

 すぐに、氷で冷やされたガラスのとっくりと、小鉢に入ったオレンジ色の、良く言えば鮮やかな、悪く言えば毒々しい塩辛のような物体が出された。


「信明も飲むか?」


 答える前に、切子の杯へ酒が注がれる。まあ、願ってもない。舌に染みこませるように、芳醇な液体を口に含む。初回の期待を裏切らない確かな味が広がった。

 おそるおそる、ひとつだけ橙の切れ端をつまむ。思い切って、ぱくりと食いついた。濃い潮の香りが、鼻へと突き抜ける。少し癖はあるが、嫌ではなかった。霊山をひと口飲む。何と言おうか、それは海のように豊かだった。


「それが美味いと思えるなら、立派な酒飲みになれるぞ」


 ため息をついた僕を見て、父が楽しそうに笑った。


「嫌ですよ、大酒飲みなんかになっちゃあ」


 そう言いながらも、母も幸せそうに飲んでいる。


「ただのアル中じゃない。美味い酒とつまみを、こだわりをもって探求していくことが人生を豊かにするんだ」


 こんなときでも、父の強情は変わらない。

 けれども今日、これだけのものを食べてみて、幸福の追求こそが人生を豊かにするという父の考えは、たぶん真理なのだと思った。

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