そして、元英雄と英雄は向かい合う
本作はとあるテンプレを用いた作者なりのテンプレ作品です。
見返せば見返すほどテンプレ通りな内容で、作者はとても満足しております。
ほんのひととき、読者様のお暇を潰せる物語となったのなら幸いです。
※R15・暴力表現ありはかなりガチめですのであしからず。
かつて、『英雄』と呼ばれた男がいた。
ある時は一般人だと難しい仕事を、鍛えた体一つで解決し。
またある時は危険地帯へ飛び込み、貴重な資源を人々にもたらし。
またまたある時は人を害する賊や魔物を、武器や魔法で打ち倒し。
冒険者として過酷な世界を生き抜き、多くの人々を救って賞賛を浴びたはずの男。
「――よぉ」
しかし、今の男には『英雄』の面影などカケラもない。
目には隈が浮かび頬は痩け、青白い顔には無精ひげが放置されている。
中年と呼べる年齢からすれば筋骨隆々で力強い肉体が、かろうじて『英雄』の名残を感じる程度。
大勢の人々に囲まれ、兵士に両脇を固められ、卑屈な笑みを浮かべる様は、もはやただの罪人だ。
「…………」
落ちぶれた『元英雄』を前に、感情が抜け落ちた表情で見つめるのは、一人の少女。
男が白髪交じりで短い黒髪なのに対し、少女は陽光を照り返す豊かな金髪を一つに結わえている。
荒んだ心からにじむ濁った黒目に、純粋な心からあふれる澄んだ赤目が突き刺さる。
土や泥などの汚れで黒ずみところどころ穴が開いたみすぼらしい着衣と、貴族の礼装と言われても違和感のない真っ白で清潔な衣服は、比べるのも失礼なほど対照的で。
無手のまま気怠げに背を丸める強面にも動じず、長剣を腰にぶら下げ堂々と豊かな胸を張る美貌は、まさしく絵画から現れた戦乙女と呼ぶに相応しい。
「今さら、俺に何のようだ?」
「決まってるでしょ」
重厚感がある固い靴音が土へ沈み込む。
とっさの攻撃にも使えるよう金属を仕込んだ少女のブーツが地面を叩き、男との距離が詰まる。
「私はあんたと――」
少女のか細い右腕が持ち上がり、剣ダコが潰れて分厚くなった手のひらが柄に触れた。
自然と移った男の視線が、少女の手の甲から袖の中へと続く痛々しい傷痕を捉える。
「決着をつけるためだけに――」
少女がわずかにうつむき、男の視界から血の色をした双眸が消える。
やや早足な歩調はそのままに、右手の剣へ体重をかけるように上半身が前へと傾く。
「――『英雄』になったんだから!!」
瞬間。
少女の姿が人々から消え失せ、次に見つけた時にはすでに男の眼前で剣を抜き放った後だった。
直後。
凄まじい剣圧が大気を揺るがし、遠く上空を漂っていた分厚い雲を円形にえぐり散らした。
『元英雄』と『英雄』。
あまりに暴力的な再会を見届けた人々は言葉を失い、誰かの唾を飲み込む音が、大きく響いた。
~~・~~・~~・~~・~~
時をさかのぼること十年前。
「……おい、ディクト。そろそろマジで帰れ」
本来ならとっくに店じまいをすませ、翌日の開店準備の後でぐっすり眠っていただろう時間をまるまる潰された酒場の店主は、不機嫌をむき出しに迷惑な客を睨みつけた。
「あ~? んだよ、まだ飲めるぞ、俺ぁ」
「テメェの話はしてねぇよ、こっちが迷惑だっつってんだ。長い付き合いなのをいいことに、何度も夜通し居座りやがって。おかげでこっちは慢性的な寝不足だっつの」
「つれねぇこというなよ、キースゥ~。故郷を離れてからずっと、一緒に冒険者やってさんざつるんだ仲じゃぁねぇかぁ~」
「何年前の話ししてんだよボケ! 確かに店を持てたのはテメェのおかげだし、若かった時分に『いつでも歓迎してやる』とは言ったがなぁ……物事には限度があんだよ!」
木製のカウンターで火照った頬を冷やし、空になった木製のコップをぼんやり眺めながらくだを巻く男――ディクトは昔なじみの店主――キースの怒鳴り声を聞き流す。
「その分、売り上げに貢献してやってんだろぉ~? 金ならあるんだ、文句言うなよ商売人~」
ごそごそと懐を探り、ディクトは大量の硬貨が入った袋を机に叩きつける。
「――ほぉ? 金をちらつかせりゃ俺の城で好き勝手振る舞えると本気で思ってんならいい度胸だ」
乱暴な態度と物言いに、キースは口の端をひくつかせながら額に浮かんだ青筋が切れる音を聞く。
「あ~? ――いでっ!? いでででででぇっ!?!?」
「金をもらったらもうテメェは客じゃねぇんだよ! さっさと出て行け!!」
ぼんやりと返事をした時には遅く、ディクトの太い首根っこにぶち切れたキースの五指が噛みついた。さらに、ディクトより一回り小柄なキースからは想像できない握力により、どんどん引きずられていく。
「ぐえっ!? ……ぁ、んのやろ――あでっ!?」
そのまま出口から店の外へと放り出され、首の後ろをさすりながら起きあがったディクトは重い感触を額に受け、もう一度背中を地面につける。
「しばらくウチの敷居をまたぐんじゃねぇぞ、ろくでなしが!!」
何が起こったか理解する前に、扉が勢いよく閉まる音とともにキースの罵声が浴びせられた。
「くっそ……誰が酒場を開くための資金を出してやったと思ってんだ、オラァ!」
今度は額をさすりながら再び上半身を持ち上げたディクトは、据わった目つきで『閉店』の札を見上げツバを飛ばす。
しばらく犬歯をむき出しにして低いうなり声を上げていたが、反応がないとわかると大きく舌打ちを残して立ち上がる。
そして、正確に眉間へ飛ばされた鈍器――中身がごっそり減った硬貨入りの袋を拾ってきびすを返した。
朝日はとっくに上っており、おおよそ昼との中間あたりに居座った日差しに目を細める。歩く度にふらふら揺れる赤らんだ顔と全身から漂う強烈な酒気とは裏腹に、足取りはしっかりしていてよどみがない。
「あんの馬鹿力め。ずいぶん前に冒険者を引退したってのに、『身体強化』は現役より上手くなってんじゃねぇのか、キースの野郎…………んぁ?」
悪態と賞賛を混ぜたような恨み節をこぼしつつ、通い慣れた家までの帰路をたどっていたディクトは、見慣れぬ物を見つけて足を止めた。
「――んだよ、行き倒れか」
興味を引かれたようにフラフラ近づくと、それはかろうじて服だとわかるボロをまとった人だった。汚れてくすんではいるが金とわかる髪色は平民だと珍しく、しかしそれ以外は特に目を引かれる特徴はない。
強いて挙げるなら、土や傷でぐちゃぐちゃになった手足が小さく、体格からしてどう見ても子どもであることだろうか。
「……ま、俺にゃ関係ねぇか――あ?」
じろじろと観察した後、ディクトは何事もなかったように立ち去ろうとして、また動きを止める。
視線を後ろに下げると、小さな抵抗を覚えた足に行き倒れの手が掴まっていた。
「……ぅ……け……」
「離せ」
か細い呼吸が聞こえるも、ディクトは何の装飾も施さない拒絶とともに足を動かして手を振り払った。
「た…………て……」
だが、またしても去ろうとしたディクトの耳に、かすれた声が届いた。
――たすけて
「――っ!」
冒険者として聞き慣れた、されど彼にとっては予想外な言葉に身を固くし、苛立たしげな表情で振り向く。
「……わかった。ちょうど行きつけの店に出禁食らってむしゃくしゃしてたところだ。俺に声かけたこと、後悔すんなよ、ガキ」
一転、誰が見てもわかる作り笑いを浮かべたディクトは、子どもの腹に手を回して小脇に抱える。そのまま、荷物を運ぶかのようにその場を後にした。
『元英雄』と『英雄』の邂逅。
冬の終わりを感じられる、日差しが暖かい日だった。
~~・~~・~~・~~・~~
一ヶ月後。
「……おせんたく、おわり、ました……」
「遅ぇ! 何ちんたらやってんだ!!」
「ひっ! ご、ごめ……なさ…………」
「次は掃除だ! 早くしねぇと日が暮れるぞ! さっさとやれ!」
「は、はぃ……」
最初よりは身綺麗になったが質素な格好は変わらない少女は、ディクトの威圧的なだみ声に萎縮しながら慌てて動き出す。
少女を家に連れ帰った後、ディクトは最低限の世話だけをして回復を待ってから、一切の雑事を少女に押しつけた。
洗濯や掃除を始め食材の買い出しなど力仕事を含む炊事はもちろん、果ては冒険者に必要な道具や武器・防具の手入れまで少女にやらせている。
「――あっ!」
すると、遠くから少女の息をのむ声がしてすぐ、何かが砕け散った音がディクトの鼓膜を震わせた。
「テメェ! また保存食用の壷割りやがったのか!?」
「ごっ、ごめ――」
「すぐ片づけろ! 余計な仕事増やしやがって、まだやること残ってんだろうが!」
「わか、り、ました……」
声を殺した嗚咽に混じって硬質な物同士がこすれる音が聞こえた後、やがてせわしない足音も遠のいてディクトは大きく舌打ちを漏らした。
「あのガキ、女ってのを差し引いてもひ弱すぎんだろうが……」
ディクトが拾った子どもの性別を知ったのは、あまりに汚らしい格好が目に余って服らしきボロをひん剥き、湯にひたした布で体を拭いてやったときだ。
4~5歳くらいの年齢に加え、乱雑な切り口の不格好な短髪とまともな脂肪などない痩せ細った肉体では、ひと目で男女の区別など難しかったため無理もない。
とはいえ、ディクトにとって男か女かなど関係なかっただろうことは、現在の扱いを見れば一目瞭然だ。
「……何度言ったらわかるんだ、オイ? 誰が家畜のエサを作れっつったぁ!?」
夕食の時間になっても、ディクトの大声は衰えない。
机に振り落とされた拳の振動と音も手伝い、少女は小刻みに体を震わせ必死に頭を下げる。
「ひぅっ! ……ご、……ごめん、なさぃ……。つ、つくりなおしま――」
「これ以上食材を無駄にする気か、あぁ?! もういい! それはテメェで処分しとけ!」
少女は小さな体を余計に縮こまらせ、かすれた喉で絞り出した謝罪も遮られる。
顔を床に向けたまま、部屋を離れたディクトの乱暴な足取りに恐怖を押さえ込む少女。
その後、力任せに閉まった扉にまた大きく体を震わせて、足の脱力に身を任せその場で尻餅をついた。
「…………ぐすっ」
男の機嫌を損ねないよう、声を殺してすすり泣く少女の視界はゆがみ、床に点々とこぼれた涙がシミを作る。
最初は泣き跡を残すことさえ怒られると慌てていたが、おおざっぱな性格なのか今のところ男が気づいた様子はない。
今後も安心とはいえないが一度あふれた涙は止めることができず、少女は感情が落ち着くまでしばらく座り込んでいた。
「……あむ」
やがて、すべて吐き出した少女は手をつけられずに残った夕食を口にする。
以前、『処分しろ』と言われて捨てようとしたら『俺の金で買ったもんを捨てるんじゃねぇ!』、と男から烈火のごとく怒鳴られたため、少女は残された料理はすべて自分で食べるようにしていた。
「――おいひくない」
喉奥が詰まったような鼻声で、少女は一般的な主食の芋を煮ただけの料理を胃へ流し込んでいく。
ところどころ土や皮が残って苦く、調味料を入れたはずなのに味がしない塊を細かく咀嚼しながら、大人一人分の芋を食べきった。
その後、調理器具や食器の片づけを終えた少女は男にあてがわれた粗末なベッドに潜り込み、薄いかけ布をかぶると小声で独り言をこぼす。
「……もう、やだよ」
殴られたくなくて身を丸め、怒鳴られたくなくて耳をふさぎ、現実を見たくなくて目をつむって。
少女の疲弊した意識は、いつも通り急速に落ちた。
『元英雄』と『英雄』の生活。
いまだ『英雄』に、名前はない。
~~・~~・~~・~~・~~
一年が過ぎた。
「ぎゃっ!?」
こぢんまりとした一軒家の庭先で、肩まで伸びた金髪の少女が地面に倒れて悲鳴を漏らす。
「チッ、この程度で転んでんじゃねぇぞ! たた突っ立ってることもできねぇのか!」
強かに打ち付けたお尻の痛みをなでてごまかしつつ、少女は熊のような巨体で見下ろす男・ディクトと一瞬目が合い、すぐにそらした。
次に網膜が焼き付けたのは、少女が先ほどまで握っていた地面を転がる木の棒で、自然と表情が不満げにしかめられる。
「……おとなのちからに、かないっこないじゃん」
「ほぉ? 口答えたぁいいご身分になったもんだな、ガキ?」
「…………」
独り言のつもりだったのだろう。
少女はディクトに小言をさらわれてさらに膨れっ面となり、反論を飲み込んで落ちた棒を拾って構える。
「そうだ、案山子はそのまま動くんじゃねぇぞ――!」
「ぅ、わっ!?!?」
言うが早いか、長さを除いて少女が持つ物と同じ得物を握るディクトの腕がブレる。
とっさに少女が頭をかばおうと細腕を掲げれば、か弱い握力で支える棒へ重い打撃が連続して降り注いだ。
「うぅ~、っ!? ――ごあっぅ!?!?」
目をつむって必死に堪え、容赦なく襲う理不尽が過ぎ去るのを待っていた少女。
だが、不意に訪れた胸を圧迫し貫くような衝撃にまぶたがこじ開けられ、吐き出さざるを得なかった空気が口から逃げ出した。
一瞬だけ少女の瞳が体に刺さる大人用のブーツを映せば、両足があっさりと地面から離れて浮き上がる。
時間差で背中に走った衝撃と同時、首が勢いよく後ろへ倒れて視界が急速に落下していく。
刹那に覚えた空中遊泳が止まった後、胸を貫く強力な疼痛と背中を染めていく鈍痛の板挟みに少女はうめく。
「……おいおい? 動くなっつったが、無防備でいろなんて言った覚えはねぇぞぉ?」
「ぃづ!? あがぁっ!!?」
全身を蝕む痛みが過ぎ去る前に、ディクトの嘲るような笑い声が物理的に少女の胸を押し込んだ。
蜘蛛の巣がごとく走る鋭い激痛は、さながら金槌で釘を打ち付けられたかのような、体験したことも体験したいとも思わない苦しさ。
上げれば痛みが増すだけだとわかってなお上がってしまう獣じみた咆哮を上げ、少女は痛覚から意識を逸らそうとしていた。
「――、――――――? ――――!?」
「あ……が……ぅ」
しかし、あまりにも弱い抵抗など長くは続かない。
おそらく罵声だろうディクトの声も、程なくして少女には『大きな音』としか認識できなくなる。
「 ! !!」
「ひゅ…… …… はっ…… …… 」
次第に音すら聞こえなくなり、狂いそうな痛みを訴えていた体はまるで水面を漂うように曖昧になっていく。
やがて、途切れ途切れな呼吸の代わりに鉄錆の臭いとひりつく苦みを伴う液体が喉を上り、色彩豊かだった少女の世界は外側から黒に覆われ狭まって――
「 ――ぶあっ!?!?」
――それらすべてを顔へぶちまけられた液体が吹っ飛ばし、息継ぎを思い出した少女は両目を開いた。
「……いつまで寝てんだ。さっさと飯作れ」
一番に少女が目にしたのは、上下逆さまになったディクトの不機嫌顔。
少しの間だけ状況を確認するように視線を動かした少女だが、ビショビショに濡れた体とディクトが手にぶら下げたバケツでおおよそ理解できた。
「……わざわざみずでおこさなくてもいいのに」
「グズグズすんな、ノロマ!」
湿ってぴっちり張り付いた平服の感覚に辟易しつつ、前髪から滴る水滴に唇を引き結んだ少女は、ディクトの怒声に急かされて立ち上がる。
――パキン
「ん?」
しぶしぶ歩き出した少女は、途中で何かが砕けるような軽い音を聞いた。
「なんだろ――わっ!?」
「いつまで濡れネズミでいるつもりだ? もし風邪引いても、テメェの仕事は変わんねぇんだぞ?」
「っぁ! ……あんたがやったくせに!」
が、少女が足下を確認する前にディクトから襟首を掴まれ、軽く持ち上げられていた。
そのまま野良猫でも扱うように無造作な手つきで放り出された少女は、たたらを踏みながら着地。
小声で文句をこぼしつつ家の玄関扉を押し開き、自室で着替えてから食事の準備にとりかかった。
『元英雄』と『英雄』の衝突。
いまだ『英雄』に、名前はない。
~~・~~・~~・~~・~~
二年が経った。
「(――もう、いやだ)」
苦み走った顔の少女から、かつてつぶやいた独り言が再びこぼれる。
時間はすでに夜となり、頼れる光は月と星くらいなもの。家の明かりがとうに消え暗幕が下りた室内で、さらに少女はかけ布が作る暗闇に身を潜めていた。
ディクトに命じられた案山子役は毎日のように続き、少女がベッドに戻る頃には常に体のどこかが悲鳴を上げていた。
日常的な家事には徐々に慣れてきた少女も、日に日に痣が増えていく体には見下ろす度に怒りと悔しさから手が震える。
それは己の弱さに対してか、己を嫌う周囲に対してか、己につきまとう理不尽に対してか。
何にせよ、少女にしかわからない真っ黒な汚泥が胸の内に積もり、破裂する限界にきているのは間違いない。
「(いつかぜったい、ここからにげてやる)」
きしむ体を抱きしめるようにベッドの中でうずくまる少女は、鋭い眼光に敵意をともし小さな吐息に気炎を混ぜる。
ただ、少女がすぐに逃亡を実行しないのには理由がある。
ディクトの家は近くの村からやや離れた位置にあり、動物や魔物が徘徊する森に囲まれているからだ。
これまでディクトとともに過ごしてきて、家の立地からきた油断か少女への監視が緩いことには気づいていた。ただ逃げるだけなら、ディクトは何の障害にもならないと判断できる。
問題は魔物だ。人と同等かそれ以上の魔力を含む動物を指し、ほとんどが普通の人よりも強い力を持っている。中には魔法を使う魔物もいるため、もし出会ってしまえば少女では抵抗も逃走も難しいだろう。
この家は少女にとって、完全なる陸の孤島なのだ――今は、まだ。
「(つよくなって、あいつよりずっとつよくなって、出てってやる)」
それでも少女の気持ちが奮い立つのは、嫌になる日常の中でも確かな成長を感じていたからだ。
ディクトから棒を振るわれるようになってからというもの、少女の体は急速にディクトからの暴力に適応していった。
まるで見えなかった棒の動きが追えるようになり、受けるだけで痺れた力を少しずつ押し返せるようになり、時々飛んできた棒以外の攻撃にも反応して防げるようになってきている。
とはいえ、すぐにディクトは力を強めてくるため、毎日ボロボロにされる結果に変化はない。
だが、少女は『ディクトの力』の変化に希望を見いだした。
どんどん強くなるディクトに勝てないのはすなわち、少女への手加減ができなくなっている証拠。
どれだけ時間がかかるかはわからないが、ディクトより強くなれば命令に従う必要はなくなり、必然的に周囲にいる魔物にも対抗できるはず。
そんな漠然とした淡い希望だけが、何も持たない少女の今を生きる原動力だった。
「……ぅ」
と、内心に渦巻くいろいろな感情によるものではない、生理的な理由から少女の体が震えた。
「おしっこ……」
まぶたが重くウトウトとし始めた時に襲ってきた衝動に従い、少女はベッドから抜け出すと寝ぼけ眼でトイレへと向かった。
同年代と比べて精神的に早熟な部分があるとはいえ、少女はまだ6~7歳の子ども。普通に生活するだけでも夜は眠くなるのに、日中ずっと動き回る生活が続けば眠気もより強くなる。
何とかトイレにはたどり着けたものの、用を足した後の足取りはかなり怪しく、少女は半分寝ているような状態で部屋へ戻ろうとする。
「――ふぁ~、ぁぅ」
あくびで舟をこぎつつ扉を開け、ほぼ床しか見えていない視界の中を手探りに近い様子で進んだ先、ベッドを見つけた少女はのっそりとかけ布の中へ潜り込んだ。
「…………ぅ~?」
しかし、しばらくして少女は違和感を覚えて小さくうなる。
ベッドから抜け出した時間はそう長くないが、それにしてはベッドが妙に温かい。
他にもベッドの感触がいつもより滑らかで肌触りがよく、妙に酸っぱい臭いが鼻をついた。
「……ぅ? ……ぁ?」
何より、一番の異変はベッドの狭さ。
かけ布の中を少女がもぞもぞと動いてすぐに、壁のようなものに突き当たったのだ。
少女が使っているベッドは部屋の隅に置かれていたため、壁に接するところは存在するがここまで距離が近くはなかった。少女の体よりも大きなベッドは、むしろとても広く感じていたくらいだ。
「――んがっ!」
「ぇ――」
ぼんやりする頭で壁にペチペチ触れていた少女だが、不意に動いた上にしゃべり出した『壁』に動きが固まる。
いきなり回転した壁を前に反応が遅れながら壁から逃げた少女は、頭上から聞こえたのが男のいびきだと理解して一気に頭が覚醒する。
「……ぁっ!?!?」
おそるおそる首を上げれば毎日怒鳴ってくる大嫌いな顔と対面し、少女は思わず出かけた悲鳴を押し殺す。
そしてようやく、少女は自分が寝ぼけて男の寝室に入ってしまったことを察した。
「に、にげ――っ?!」
「ズゴ~ォォッ! ――んむぅ」
慌ててベッドから脱出しようとした少女だが、地の底から響くようないびきが降ってきたと同時、体の上に覆い被さってきた太い腕に背中を押さえられ、退路を断たれてしまう。
「……ひっ、……っく!」
気づかれたと顔を青ざめた少女は喉をひきつらせ、次に降ってくるだろう罵声や暴力を想像して目をきつく引き絞った。
「……んだぁ? ねむれねぇのかぁ……マリア?」
「ぁ? ぇ??」
しかし、男の意識は夢の中にあるらしく、寝言で女性の名前を口にして少女の体を引き寄せた。
男から『ガキ』や『ノロマ』以外に呼ばれた覚えがなく、元々あった少女の名前も男に教えていない。
混乱に拍車がかかった少女だったが、何とか『マリア』が自分とは無関係の名前だと遅れて理解した。
「ほぉ、ら……こわく、ねぇぞぉ……」
ポン――ポン――
「ぁ……ぅ……」
ゆっくりと、穏やかなリズムで、あやすように少女の背を叩く感触は、どこまでも優しい。
あまりにも柔らかな手つきに、最初は体が強ばっていた少女も次第に緊張が解けていく。
「とうちゃんが、いてやっから、なぁ……」
「――っ、ぁ!」
だが、普段の男からかけ離れすぎた言葉がこぼれた瞬間、少女はまた大きく体を震わせた。
震えは一向に収まらず、少女はおずおずとのばした手で『布』をつかむと顔を『壁』に埋める。
「…………ぅ゛ん゛、っ!」
ポン――ポン――
あんなに怖かった男の腕が、今はひどく少女を安心させる。
我慢していた真っ黒な汚泥が胸の内からせり上がり、気づけば嗚咽となって『壁』を濡らしていく。
少女はわかっている。
『マリア』というのが、男の本当の子どもらしいということも。
自分のことを『マリア』だと勘違いしているだけであることも。
これから先、男が少女に向けてくれる言葉ではないということも。
すべてわかった上で、それでも少女は『壁』にすがった。
生まれて初めて触れた温かさを自ら手放すには、
少女はまだ、幼すぎたから…………
「…………ぅぇ?」
気づけば、少女はいつの間にかぐっすり眠っていて。
目を開けると、そこはいつも使っている自分のベッドの中だった。
「ん……、んぅ……」
窓から差し込む光に目をこすって体を起こした少女は、無意識に温もりを求めてベッドやかけ布を手でさする。
「ゆめ……?」
似ているようで違う、おそらく夢の中で感じた何かを懸命にたぐり寄せようと手を這わせ、少女はしばらくベッドから出ようとしなかった。
「いつまで寝てるつもりだ、ガキ! 早く起きやがれ!」
しかし、少女の頭に残っていた何かは耳を貫く不快な声に邪魔されて、微睡みの感覚ごとあっけなく消えていく。
知らず少女の顔はどんどん不機嫌に変化し、胸が焼けるような苛立ちとともにかけ布を取っ払った。
「…………」
「あ? やけに反抗的な面だな? ケンカ売ってんのか?」
「――ふんっ!」
その後、部屋を出てすぐ見ることになった男の姿に少女の視線は俄然鋭さを増し、あからさまに大きく鼻を鳴らして男から顔を背けた。
「…………ったく」
故に、肩をいからせ乱暴に床を踏み鳴らした少女が、物音に紛れたため息に気づくことはなかった。
『元英雄』と『英雄』の変化。
いまだ『英雄』に、名前はない。
~~・~~・~~・~~・~~
五年が流れた。
「らぁっ!!」
「はぁっ!!」
硬質な打撃音と火花が爆ぜ、男と少女は痺れる腕を握力で黙殺しながら両刃直剣を振り抜く。
「ぐ、っ!?」
「う、わっ!?」
交えたショートソードに力が伝達したのは同時、双方から送られた相手を倒そうとする威力もまた同じ。
大柄な男でさえ踏ん張りきれず後ずさった衝撃に、成長してなお小柄な少女は背後へ吹き飛ばされた。
「チッ! 生意気なクソガキだなぁ!!」
「ふんだ! いつまでもえばり散らしてるだけじゃ体がなまるよ、おっさん!!」
すぐに男が体勢を戻し追撃を行おうとした頃には、空中で体をひねって着地した少女が剣を構え直した後。
これ見よがしに舌打ちをする男だったが、もはや少女の顔には怯えなど微塵も存在しない。
「あぁ!? 調子に乗んなよタダ飯ぐらいが!!」
「そっちこそ毎日デカい顔しすぎ! たまには自分の世話くらい自分でしたら!?」
威勢良くツバを飛ばしあう一方、男も少女も冷静に相手を見極め迂闊に動こうとしない。
激しく口論を重ねながら、筋肉をわずかに動かし予備動作を臭わせるフェイントを互いに仕掛け、相手が下手を打つのを待ちつつ誘う。
鏡写しのようにそっくりな構えに違わず、両方とも相手の手の内は知り尽くしている。
その上、すでに実力はほとんど拮抗しており、身についた技量もまた同格。
故に、今の男と少女が刃を衝突させる時間の内、その大半を心理戦が占めていた。
「るっせぇんだよ! 俺が拾わなかったら野垂れ死んでた行き倒れが!!」
「口うるさいのはあんたでしょ!? ろくに家事もしないくせに注文はやたら細かくてねちっこいし!!」
握る直剣に汗がにじむ。
相手を捉える目がせわしなく動く。
誘いと隙を読み切ろうと思考が巡る。
いつしか自然と身についた粗野な口調や、挑発と本音が半分ずつの不平不満は思いつくまま垂れ流し。
勝負を決める一撃のため、精神を研ぎ澄まし肉体に力をみなぎらせる。
「あんま文句ばっかだと、てめぇが隠してる菓子ぜんぶ食うぞコラ!」
「あんま文句ばっかり言うなら、あんたのご飯の量を減らすからね!」
そして、最後は決まって互いのもっとも痛いところへ言葉の刃を突き入れ――
『――上等だ!!』
――短気を起こして今までの我慢を全部ぶち壊した感情的な刃を振るう。
「もっと肉増やせ!!」
「甘味は渡さない!!」
この日、都合三度目の逆上は本日三度目の食卓改善要求だった。
「っつうか最近俺が命令した買い物リスト無視してんだろてめぇ!!」
「ったり前でしょ芋と肉だけのご飯作れとか肉食獣の餌かっての!!」
「だったら食費の半分が毎回てめぇの菓子代に消えてんのは何だ無駄遣いすんな!!」
「正当な労働の対価よほとんど家でグータラしてるおっさんに言われたかないわ!!」
『……減らず口たたくなぁ!!』
男と少女のどっちもどっちな罵声と剣戟がぶつかり合う。
こうなると先読みや技など無関係な力勝負となるが、やはりどちらも引く様子はない。
聞くに堪えない言い争いとは異なり、まるで予定調和のような切り結びは剣舞のよう。
品性の欠片もない醜い主張が吐かれ、芸術性すら感じる美しい剣筋が同時に弾かれる。
以前は一方的だった鍛錬は、もはや達人同士のしょーもない喧嘩になっていた。
「しっ!」
「ふっ!」
そうしてまた二人の得物が勢いよく激突し、男と少女の間合いが一息で離れる。
「――そんなに気に入らないなら、あたしなんて追い出せばいいじゃんか!!」
素早く戦闘態勢に戻り、少女は次の攻撃までの間を埋めるつもりで叫んだ。
「……あ?」
おそらく、少女にとっては何気ない、本当に無意識から飛び出した言葉だったのだろう。
加えてほぼ毎日のように剣を交え、『訓練で見せる動きの癖』を知っていたからだろう。
些細だが一度も見たことがない、男の明らかな声と表情の変化に少女は息を呑んだ。
「な、によ……」
先ほどまで確かに宿っていた男の怒気が完全に消え去り、無機質な影を落とした双眸と仮面のような冷たい無表情を向けられて、少女は急速に気勢がしぼみ声が詰まる。
それでも男のフェイントを疑い視線を鋭くするも、完全に脱力して無防備にしか見えない構えだとわかって、言いようのない不安で流れた脂汗が気持ち悪く、妙に少女の気に障った。
「そうだな……何で俺ぁ気まぐれで拾ってきただけのガキをずっと家に置いてんだ?」
「……ぇ?」
何故かはわからない。
「っつうかよ、そういうてめぇはいつまでウチに居座る気だ? なぁ?」
「いつ、まで、って……?」
しかし、何かを致命的に間違えたような――
「すっとぼけんな、もう気づいてんだろ? てめぇがここに残る理由なんて、とっくにねぇってよぉ?」
「そ、れは……っ!」
それこそ、この家にきてすぐの頃は恐怖でしかなかった怒鳴り声の前兆――
「気づいてねぇとでも思ったのか? てめぇの剣は、俺から逃げるために鍛えたもんだろう?」
「ぅ……ぁ…………」
そう、まるで壷を割った直後のような感覚が、今さらになって少女の胸を冷たく締め上げ――
「――俺相手に手ぇ抜いて遊ぶ暇あったら、さっさとどこへなりとも行けばいいだろうが」
「ちがうっ!!!!」
男にだけは絶対に知られてはいけなかった『痛いところ』を抉られ、少女は反射的に叫んだ。
「あたしはまだあんたを倒せないんだ!! だから仕方なくここにいるんだ!! あたしを一番邪魔するあんたが、勝手なことを言うなぁ!!!!」
「なら殺れよ」
「ぁ……な、っ……!?!?」
感情のままに口にした少女はしかし、どこまでも静かな男の声で呼吸の仕方を忘れてしまう。
「わかってんだろ? 今の俺は隙だらけだ。どこに打ち込んでも倒せるぞ?」
「はっ……! はっ……! はっ……! はっ……!」
「おいおい、何でてめぇが隙だらけになってんだ? 足も切っ先も震えて逃げ腰か?」
「ひゅ……っ! っぐ……ぅ! ぅあ……ぁ! はぁ……っ!」
「俺から逃げたかったんだろ? それとも俺を追い出したかったのか? どっちにしろ、結果はそう変わんねぇだろ? ――ほら、てめぇがずっと欲しがってた『自由』は目の前だぞ?」
「ぃ! ……っが……ぅ!!」
乾いた笑みで容赦なく迫る男の追求に、混乱と恐怖で溺れる少女は反論さえ喉を通らない。
――違う
――そうじゃない
――本当に欲しかったものは、そんなものじゃない
声を大にして叫びたかった言葉は、どんなに頑張っても声にならなかった。
「……チッ、しゃーねぇなぁ」
「ぇ――」
しばらく戦意喪失したまま立ちすくみ、どちらもその場から動かなかったが。
男が観念したように剣を地面に突き刺し、ゆっくりとした歩調で少女の前に立った。
頭の中がぐちゃぐちゃだった少女の手にはとっくに剣などなく、呆然と正面の男を見上げて――
「――ほらよ」
「 ぇっ?」
――笑みさえなくなった男の表情に、少女は緩く浮かべかけた中途半端な笑みのまま固まった。
「俺が邪魔だったんだろ? だったら、もうてめぇの邪魔はしねぇ」
男が投げた袋は固く、重く、しかし小さな衝撃を伴って少女の胸を貫く。
「これは今まで働いた分の金……『正当な労働の対価』だ。もらえるだけありがたく思えよ?」
地面に落ちた硬貨がかち合うくぐもった音を無視して、男は淡々と告げる。
「これで晴れて、てめぇは用済みだ。よかったなぁ、長年の努力が実ってよぉ?」
口角がひきつったまま、足腰に力が抜けて尻餅をついた少女の横を通り過ぎて、男は玄関の扉を開く。
「――うるさいガキがいなくなって、俺も清々するぜ」
家の中へ姿を消す直前。
漏れ出た男の小さな呟きは、頭の中が真っ白に染まった少女の耳に、いやに大きく聞こえた。
「……ぃ……ぁ……っ!」
いつまでそうしていたか、少女にもわからない。
視界に映る地面と硬貨が覗く袋の輪郭がぼやけ始めた頃、力なくうつむいていた少女は勢いよく立ち上がった。
そうして、
地に刺さる剣も、
村へと続く道も、
袋一杯のお金も、
すべて無視して一目散に走った先は、
――男が消えた家の、閉ざされた玄関扉。
「――ごめんなさい!!」
突き破る勢いで扉へ体当たりした少女は、小さな両手で木の壁を殴った。
「もう生意気なこと言わないから! 黙ってお菓子買ったりしないから! ご飯ちゃんと作るから!」
いつしか男との鍛錬で使わなくなった『身体強化』を駆使すれば、簡単に壊せるような扉だ。
「あたしのいやなとこ、ぜんぶなおすから!! おそうじもおせんたくも、もっとがんばるから!! これからはあたし、なにされてももんくいわないから!!」
それなのに、何度も何度も懸命に拳を叩きつけてもびくともせず、少女の視界はさらにぼやける。
「っぐ、きにいらないなら、ひくっ! けんももたないからぁ!! ずずっ、にげたいなんて、げほっ! おもわないからぁ!! ぐすっ、おかねなんて、ふっぐ! いらないからぁ!!」
扉を叩いた手が赤く腫れ、涙でにじんだ目が熱く膨れ、地面にこぼれた滴が冷たく落ちた。
「だがら゛ぁ!! あだしを、すでな゛い゛でぐだざぃ!!!!」
すでに少女は、男を脅威だと思わなくなっていた。
「あだしどいっじょに゛!! そばに゛い゛でぐだざぃ!!!!」
今の少女には、男の存在が当たり前になっていた。
「あだしを゛!! ひどり゛に゛じな゛い゛でぐだざぃ!!!!」
元から少女は、男にお金なんて求めていなかった。
「――お゛どぉ゛ざぁ゛ん゛っ゛!!!!」
男の『家族』でいたかった。
「お゛ど、っ゛ぉ゛ざぁ゛ん゛っ゛!!!!」
男を『父』と思いたかった。
「……ぉ゛どぅ゛ざ、ぁ゛ん゛ぅ゛!!!!」
男の『娘』になりたかった。
「…………う゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!!!!」
少女の願いは――ただそれだけだったのだ。
『元英雄』と『英雄』の決別。
いまだ『英雄』は、誰でもない。
~~・~~・~~・~~・~~
別れから、しばらく。
「――表の札見ろ。もう店じまい……って、テメェか」
他の客がいなくなった酒場で片づけをしていたキースは、『閉店』の札を無視して店に入ってきた男を一度キツく睨み、しかしすぐに諦めたようなため息を吐く。
「しばらくぶりだとか、よく顔出せたなとか、体くらい拭いてこい臭ぇとか言いてぇことは山ほどあるが、まずこれだけは言っとく。――店が開いてる時間に来いよ常識だろうが」
「酒。一番強いやつ」
「聞けよ」
迷惑そうな表情と苛立ちをぶつけるキースだが、無視してカウンターに腰掛けた男に今度こそ額に青筋を浮かべる。
「あのなぁ、もう店終わってんだよ! そんなに飲みたきゃ、明日出直して――」
「今飲みてぇんだよ。金なら持ってる」
「――ッ!」
指の間接を不穏に鳴らしながら背後を狙ったキースは、男が取り出した布袋に舌打ちを漏らして手を引っ込める。
「……これっぽっちじゃ、キツい酒も美味い酒も出せねぇぞ」
「キツけりゃ何でもいい。よこせ」
「エラそうにすんな、貧乏人」
奪うように袋を取り上げたキースは、硬貨だけ抜き取って男の前に投げ返す。
カウンターの裏に回った後、さっき洗ったばかりのコップに並々と蒸留酒を注ぐ。
「テメェの手持ちじゃ、それ一杯分にしかなんねぇよ。さっさと飲んで、さっさと帰れ」
「ふん――」
キースが目の前に音を立てて置いたコップから鼻の奥を刺激する酒精の香りを感じ、男は緩慢な動作で口を付けた。
「ッ!? ゲホッ! ――んだ、こりゃ? どんな酒出しやがった?」
「要望通りのキツめな安酒だよ。――前までテメェがバカスカ飲んでたヤツに味は近ぇがな」
喉が焼ける強烈な感覚に男は敵意すら感じる視線を向けたが、キースがこれ見よがしにボトルを掲げると途端に目をそらす。
「相変わらず、客を客とも思わねぇ店主だな……」
「金のねぇ厄介者は客って呼ばねぇんだよ、ボケ」
愚痴をこぼしチビチビと飲み進める男の姿を、カウンターに片肘をついたキースが手で頭を支えて見下ろす。
「で? 辛気臭ぇ面ぶら下げて安酒かっくらってどうした? ギャンブルで大損でもしたか?」
「似たようなもんだ……有り金全部スっちまったから、また明日から仕事探しだよ面倒くせぇ」
「ほーう? そりゃまた景気のいいこった。金貨見せびらかしてデカい顔してたのが懐かしいぜ」
「うるせぇ。どうせあぶく銭だ、どう使おうが俺の勝手だろ」
ニヤニヤと面白がる笑みを浮かべるキースに不機嫌さを増す男は、ほとんど舐めるように酒を減らす。
「そんならもう少し、ウチに落としてくれてもよかったんじゃねぇか? 結構売り上げ減ったんだぞ?」
「出禁っつったのはテメェだろ。勝手なことほざきやがって」
「勝手はどっちだ、あぁ? 他の客がいる時に飲めねぇのかよ、図体だけの根暗野郎が」
「テメェこそ素面でウゼェ絡み方してんじゃねぇぞ、暴力頼りのエセ店主」
言葉がどんどん荒っぽくなっていくが、不思議とキースも男も声音は一定だった。
「たいていのことは暴力で黙らせてきたゴロツキに言われたかねぇな。また何かやらかしたんだろ?」
「別に……拾ってボコってたガキに逃げられてイラついてるだけだよ」
「拾うのは自由だがボコるなよ。正規の奴隷じゃねぇなら逃げられてもしゃーねぇぞ」
「どうせ気まぐれの暇つぶしだ。今どこで何してようが、俺にはもう関係ねぇしどうでもいい」
半分になった酒と半分ほど目を閉じた男の赤ら顔を見下ろし、キースは挑発気味に鼻で嘲う。
「何だ、もう酒が回ったのか? ずいぶんと大人しくなったじゃねぇか」
「だれが、よってるって、んだぁ? まだ、のめるぞ……おれはぁ」
「そりゃあ頼もしいな。カウンターに顔埋めて呂律も回らねぇ大酒飲みはテメェが初めてだよ」
「――バカにすんなぁ!! おらぁ、おれはなぁ、くにをすくってやった、えいゆうさまだぞぉ!!」
酔っぱらいの戯れ言でしかない叫びを前に、キースの表情はどこまでも冷めていた。
「ま~た始まったよ、面倒臭ぇ。どうせ出すなら武勇伝じゃなくて金出せタコ」
「あぁ~? いままで、さんざん、だしてやっただろうが……まだ、おれに、たかるきかぁ?」
「いつ俺がテメェにせびったって? 自棄になったテメェが押しつけただけだろうが」
「とびついたのはぁ、てめぇだろぉ! この、おんしらずめ!!」
カウンターを殴った拍子に、残りわずかな酒がコップの中で跳ねる。
すっかりできあがって汚いツバを飛ばした男に、キースは肩をすくめて呆れつつ店内清掃を始めた。
「恩着せがましいだけだろうが。あん時のテメェは『使わねぇからやる』っつってたぞ?」
「はっ! いまはみせやれてんだろぉがぁ! もんくあっかぁ!?」
「むしろねぇと思ったのか? ちょいちょい記憶を改竄するテメェの昔話には飽き飽きだ」
「うるせぇ! ……うるせぇ」
キースが一通り掃除を終え、いつしかいびきをかき始めた男のコップに、酒はなくなっていた。
「オラ、仕事あんだろ? さっさと帰れよ社会不適合者」
「んがっ! ……あぁ? ……おらぁ、……えいゆう、だぞぉ……」
「わかったわかった、自分語りの続きはテメェの家でやれ。じゃあな」
「…………あ? ……なんだぁ? ……ういてんぞぉ……?」
最後は意識が朦朧としている男の襟首をねじり上げ、扉まで引きずったキースは店の外へ投げ飛ばした。
「……ったく。一回くらいまともな酒をやりやがれってんだ」
無様に地面を転がる男に表情をゆがめたキースは、狭まる扉の隙間から嘆息を漏らす。
「この年齢で徹夜させんじゃねぇよ」
店内へ差し込む朝日から逃げるように扉が閉まり、『閉店』の札がカラカラと揺れた。
『元英雄』と『店主』の一幕。
いまだ『英雄』に、居場所はない。
~~・~~・~~・~~・~~
そうして至った、再会の時。
「……どうした?」
少女が示した力に驚愕と恐怖が人々に広がる中、静寂を破ったのはディクトの声だった。
「俺を殺すために捕まえたんじゃねぇのか?」
膨大な魔力が込められた少女の剣圧は、しかしディクトに少しも傷を付けていない。
間近で魔力の余波を浴びて意識を失った兵士は倒れているが、彼らにも直接的な傷はなかった。
「――本当、あんたはいっつもそう」
この場で発言を許されたもう一人は、やはり感情を押し殺した声でうつむく。
「私には言いたい放題ぶちまけるくせに、私の言うことはぜんぜん聞いてくれない」
「聞く必要がねぇだろ? 拾っただけのガキに指図される謂われはねぇ」
「それに、生きるために大事なことはたくさん教えてくれたのに、大事なことは何一つ言ってくれない」
「……頭でも打ったのか? テメェの体に残ってる傷も、ほとんど俺がこき使ってできたモンだろうが」
「――今だって、もう私の気持ちに気づいてるはずなのに、気づかないフリしてばっかり」
「何を言って――」
お互いに遠くへ響くほどの声量などないはずの会話は、何故か周囲の人々にも聞こえていた。
それは耳鳴りがしそうなくらいの沈黙によるものか、それとも少女が発する鈴が鳴るような声に確かな意志を感じるからか。
果たして理由はわからないまま、ゆっくりと上がる少女の顔が再び人目にさらされたとき。
ディクトは知らず息を呑み、声を詰まらせる。
「――お願い。……聞いて」
無表情を取り払った瞳は潤み、必死に眉を寄せて唇を振るわせる少女が、あまりに幼く弱々しかったから。
「私はあんたを嫌っても恨んでもないし、殺したいと思ったことなんて一度だってない」
数週間前、王都に出現した強大な魔物を一人で討伐し、『英雄』と讃えられた勇猛な少女の面影など、どこにもない。
「あんたの家を出た後、いろんな町の人に話を聞いてあんたのことを知ることができた」
数日前、一人の犠牲者も出さず国を救った『英雄』として王と謁見し、数多く提示された褒美をすべて断った勇壮さとは、似ても似つかない。
「だから私は、あんたなりに大切に育ててくれたって気づいてるし、本当に感謝してる」
この日、救国の『英雄』として王族の名の下に民衆や貴族へお披露目され、国内外に向けた政治的アピールに使われるはずだった少女は、もはやただの女の子でしかない。
「でも、あんたが最後に私を無視して突き放したことだけは、どうしても許せなかった」
少女は手にした剣を手放し、揺らめく足取りであと一歩を詰めて――
「だから、あんたと同じ『英雄』になった――私の方を、もう一度振り向いて欲しくて」
――男の胸に額を預け、剣圧の余波に負けて切れた髪紐も構わず、胴体に腕を回した。
「……やめろ。俺はテメェに感謝される覚えも、ましてや人の親を名乗る資格もねぇクズだ」
「十五年前、王都を襲ったドラゴンから人々を救った『悲劇の英雄』……それが、あんたなんでしょ?」
掴まる腕にされるがままでも拒絶を口にするディクトだが、少女の確信めいた問いに言葉が詰まる。
「一緒に暮らしてた『妻と娘』を守るため、あんたは一人でドラゴンに直接立ち向かった」
「――黙れ!」
それは、ディクトが背負う栄光にして悪業。
「でも、傷つく父親を見て衝動的に駆け寄った幼い娘と、娘を追いかけてきた妻に気づかなかった」
「黙れっつってんだろ!!」
戦闘は熾烈を極め、周囲に気を配る余裕などなかったディクトは敵しか見えていなかった。
「そのままあんたは、一番大切な『妻と娘』を戦闘に巻き込んだ――自分の力で『妻と娘』を傷つける、最悪の形で」
「――っ!?」
『身体強化』を限界まで引き上げたディクトの力はドラゴンに匹敵し――ただの一般人には災害に等しい暴威だった。
「その後、あんたは何とかドラゴンを倒せたけど『妻と娘』を殺した自分を許せず、拒否できない王族からの報奨金を持って逃げるように王都から姿を消した……それが、私が人から伝え聞いた話の全部」
「…………」
後悔か、怒りか、自己嫌悪か――少女は奥歯を噛みしめうつむくディクトの震える体をしっかり包み込む。
「それが、私を捨てた理由……親しい誰かを、また自分の手で殺すんじゃないかって、怖かったんでしょ?」
ディクトは黙したまま少女を見下ろし、肯定も否定もしない。
「でも私なら――あんたと同じ『英雄』に追いついた今の私なら、あんたの力で殺されたりしない」
隣に立てたと嘯く言葉とは裏腹に、成長した少女は頑なに体を離そうとしない。
「だから、お願い……聞かせて?」
しがみつく腕を不安そうに震わせ、服ごと握りしめた両手で懸命にすがる姿は、精悍さとはほど遠く。
「あの日の答えを、本当の気持ちを、あんたの口から聞かせてよ」
長い金髪を揺らして見せた顔はまるで小さな迷子のようで、いつか決別した表情と重なる。
「――お父さん」
そして、あの日喉が潰れるまで扉へ叫んでも届かなかった少女の声が。
過去の自責で潰れたディクトの心を揺さぶり、嘘で固めた殻を破った。
「……リリィ、ッ!」
瞬間、腕を広げたディクトは涙をあふれさせ、華奢な体をしっかり包み込んだ。
「リリィ――それが、私の名前?」
「妻が生きてりゃ、娘の妹になるはずだったんだ! 生まれてたら、ちょうど同じくらいの年齢で、ずっとお前に重ねてた――俺が、俺が殺しちまった……おれの、もうひとりのっ!!」
「……ありがとう。大切な人の名前で、私を呼んでくれて」
「――ぐ、ぅっ!! ふう゛ぅぅっ!!」
「あなたの娘でいい? ……リリィになっても、いい?」
「リ゛リ゛ィ゛!! ごめ゛ん゛な゛ぁ!! お゛れ゛、ずっど、ごめ゛ん゛な゛ぁ!!」
「私こそ、ずっと一人にしてごめんね、お父さん――ただいま」
「リ゛リ゛ィ゛……、リ゛リ゛ィ゛……!!」
遠いどこかに置いてきた『家族』の温もりに体をゆだね、長く冷えた心をゆっくり溶かしていく。
強く互いを引き寄せあう父親と娘は、人目もはばからず泣き崩れた。
『元英雄』と『英雄』の和解。
やっと『英雄』は、『娘』になれた。
~~・~~・~~・~~・~~
数ヶ月後。
「お父さんのバカァ! 大っ嫌い!!」
夜明けとともに上がったのは、『英雄』の大声と地響きだった。
「朝っぱらからうるせぇんだよ! 近所迷惑だバカ娘!!」
遅れて生じたすさまじい風圧が大気を揺らし、木々の枝で羽を休めていた鳥たちが一斉に飛び上がると、『元英雄』のだみ声と金属音が爆発する。
「――テメェら両方とも騒がしいわ脳筋どもが!! 親子喧嘩は時間考えろって何回言わせんだオラァ!?」
しばらく続いた罵り合いに『酒場の店主』が加わり、『常連客』と『新規客』に怒鳴り散らした。
「家族の問題だ、首突っ込むな!!」
「キースさんは関係ないでしょ!!」
「村全体の騒音問題だっつうの!! これ以上騒げばもっぺん全員分の署名集めて顔面ブン殴るぞ!!」
ディクトとリリィはお互い寝間着のまま真剣でつばぜり合い、下級の魔物なら戦意喪失しそうな眼光を乱入者へ向ける。
が、キースは一切怯まないどころか中指を立てた恫喝で返答。見知った相手ということ以上に、見飽きるほど見慣れた光景だということがキースの遠慮をなくしていた。
「いくら何でも数日おきに地震クラスのじゃれ合いしといて無関係とかありえねぇからな!? 今度はどんなくだらねぇことで武器持ち出しやがった!?」
「私のケーキをお父さんが勝手に食べたの!!」
「だから知らなかったっつってんだろうが!!」
「仕事のついでに行った隣国の町で自分へのご褒美に買ったのに、信じらんない!!」
「そもそもお前が酒控えろっつったのが原因だろ!! 口寂しいんだよこっちは!!」
「毎回クソどうでもいい理由でここらの地形変えてんじゃねぇ!! ディクトはもっとウチで金使えや!!」
前回よりも増えたクレーターに青筋を浮かべて叫ぶキースを無視し、リリィとディクトは剣と魔力とツバをぶつけ合って生じた衝撃で地面をめくりあげる。
「弁償しなさいよ! 銀貨3枚ね!!」
「ボってんじゃねぇ! 銀貨1枚!!」
「慰謝料込みだから当然でしょ! 銀貨2枚と銅貨80枚!!」
「俺もアレの売値知ってんだぞ! 銀貨1枚と銅貨15枚!!」
「朝起きて一瞬で消えたワクワク感を返せ! 銀貨2枚と銅貨70枚!!」
「そんなに大事ならもっと上手に隠しとけ! 銀貨1枚と銅貨30枚!!」
周囲を囲む木々や中央に建つ家が振動する中、リリィとディクトは刃と金額を刻む。
「せめて剣と魔力しまってから値段交渉しろや災害親子!!」
どんどん熱が入る不毛な争いは、キースが風圧で折れた巨木を両者の間に投げつけ止めた。
「~っ!! 今日の仕事で私の討伐数が上だったらお店のスイーツ三つだからね!!」
「あぁ、上等だ!! 逆に俺が討伐数を上回ったらキースんところで飲むからな!!」
「よっしゃディクト!! ウチの売り上げがかかってんだ死ぬ気でやれよテメェ!!」
そして、今日もリリィとディクトは同じ討伐依頼を受け、キースは夜を静かに過ごした。
『父親』と『娘』の日常。
いまだ『英雄』に、『喧嘩』は絶えない。
以上、『実は強いおっさんが幼女を拾って溺愛する』なろうテンプレでした!
いや~、我ながらテンプレ通り書けたのではないかと自惚れたりしております!(白目)
個人的には、前回書いた短編のおっさん×魔法少女ネタのリベンジができたと自負してます!(白目)
こんなにデレデレなおっさんを書いたのは初めてなので、皆様に引かれないか心配です!(充血白目)
さて、冗談はコレくらいにして。(おめめパチパチ涙補充)
今回のベースはマジで『溺愛義理父娘』系テンプレ(適切な省略名称かはさておき)です。
……よ、要素は拾ってましたよ? ストーリー展開のテンプレをえいやっ! と外しちゃっただけで。
ついでに目指したのが『読了後に読み返したくなる物語』でしょうか? ミステリーじゃないですが、二回目を読んだら味わいが変わる物語って割と好きなので。(書けるとは言っていない)
普通はデロデロに甘やかす類型の物語なのは重々承知していますが、かわいい子には旅をさせよ・獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす系の作者が書いたらこうなっちまいました。
褒めて伸ばすだけが子育てじゃない、叱って正すこともまた教育なんだ! が(子育て経験皆無な喪男の)持論ですなんかごめんなさい。
また、私が小説を書き始めた当初はよくやっていた『地の文=三人称神視点(ややリリィちゃん寄り)』にしてみたり、ちょっとだけライト文芸っぽい描写を意識してみたり(書けるとは言っていない)と、ぶっちゃけ完全な練習作品です。
やろうと思えば、短編用に端折った空白部分を埋めて長編にできなくもなさそうですが、描写にかなり気を遣った作品なので正直マジしんどいです。
ま、そんなに需要はないでしょうからいらぬ心配でしょう。思いつき小説なんてそんなもんです。
前半なんかおっさんがモロ悪役でしたからね。リリィちゃんをいじめる描写は本当に胸が痛みました。このツンデレさんめ。
この作品を通して、私が書いているのは本当にライトノベルなのか? という最近すっごい悩んでいる作者の迷走っぷりを感じていただけたら幸いです。