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空と絵筆と背嚢と  作者: 汚了雪玉
1/1

1 風孕む純白の<Ⅰ>

ドゥーンシャフト領内で沸き起こった技術革新(コロテージョル)によって何が失われたかは、〈カラム=コルネル給湯器〉の試作品設計の失敗及びそれにより発生した自身の研究施設における自損事故(552年上三月下七日)に着想を得たことに始まる、蒸気動力機関開発の競争の最中から問われてきたことであった。

 ある評論家はそれを人々の職縁関係だと言った。蒸気機関が産まれたことにより、その機関部を組み立てる人々が労働者として雇われることにもなって、職能の無かった移住人が生きる術を見出した。しかしその後、その生産効率が蒸気機関のアールファン全域普及を異常な速度で達成する手助けをすることと重なり、かえって需要が低迷。それによって解雇された労働者が溢れることとなって、以前のような「職人集団の地域」としてのドゥーンシャフトが消滅した、と言うのである。

 それに対して、ある職人はそれを苦労だと言った。確かにほんの五十数年前までは南に広がる〈エールゲン大草原〉の胸のすく爽やかな景観を拝むのにも、ドゥーンシャフトの中央市からでは馬で三日以上はかかったものである。道中、宿でも見つかればめっけものであったが、そんな幸運にはおいそれと巡り合えるものでは無く、野宿が旅の基本姿勢であった。しかし現在のように、40年前に登場した石炭と水による蒸気機関を搭載する輸送陸船「函導線」が敷かれてしばらく経ってからは、中央市からでも大草原にはおよそ三時間のうちには到着し、その沿線で栄える街には宿が無数に林立する。自ら足(或は尻)を痛めることで目的地に辿り着くこと、その経験が失われてしまったのだと、彼は主張するのだった。これは、生活の利便化という点で見ても数々のあてはまる事例があり決して無視できない論ではある。

 これまで立場の違う二人の、もっともな意見を引き合いに出したが、しかし私はいずれも漠然としたことのように思い、素直に頷くことはできない。人々の関係や目的達成までの過程。眼に見ることのできない、何か釈然としない事柄だ。そんな風に考えてみていると、私はいつも、いつかの昔、夜道ですれ違った親子の会話を思い出す。その時、手を引かれていた少年はこう言っていた。

「母さん、お星さまって減っちゃうんだね。いつか無くなっちゃうのかな」

 私はこれこそが、技術革新によって失われた判然たるかけがえのない物であり、また同時に、視認できない喪失物の象徴たるものであると思う。今後、私たちは数々のものを奪い、さらに発展していくことだろう。立ち止り振り返るべきことを諭そうとする私のような人間も数々現れ、次々と消えていくことも容易に想像がつく。いずれ人々がなんらかの苦節に極まった時、私たちのこの手紙を引き出しの奥から引っ掻き出して読み返すことになるだろう。

その時彼らの手元には、何が残っているのだろうか。


         ヒュルメスク・ヤ・プリル著『不透明な夜空と落とし物』より抜粋

1 風孕む純白の


大きく揺れて、傍らに置いた長椀の口から一筋、濃い茶色の液体がつたった。

相も変わらず酷い揺れで、どうも以前利用したときからその点で進歩は無いようだった。

函導線、あるいは輸送陸船と名付けられたこの鉄の塊は、蒸気機関によって得た推進力を糧に、灰色の煙を噴き上げながら風を切っている。かといって特別早いわけでも無く、友人の技師に聞いてみればその速度たるや馬とそう大差ないそうだ。

『利点と言えば、馬ほど休憩をこまめに取らなくていいことと、速度が一定なことくらいだ』

 煤まみれになりながら白い歯を見せて笑う彼の、そんな愚痴染みた台詞を思い出していた。

 草原から吹きこんでくる爽やかな風とは裏腹に、手前に腰を下ろす私の連れは、ぐったりと項垂れている。船酔いという症状は遥か昔から存在していたが、まさか陸船にまでも起こりうるものだとは誰も思わなかったのだろう。未知の病と勘違いされて、函線開業初期には運航反対運動まで起こったというのも聞いた。

「ゔぇええぇ……気持ち悪いぃ…」

「だから本は読むなって言ったでしょうが。降りた後は馬なり牛なりに乗ってくつもりだったのに、その調子じゃ無理そうだな」

「うぅゔ…すみませんんぅ…」

「わかったから、寝るか外眺めるかしてなさい」

 平生非常に健康的な肌をしているだけに、酔いにやられた彼女の顔色は死期に迫るかのような蒼白になりつつあった。見ているとこっちの気分まで悪くなってきそうだ。

 船内を見回してみる。と、まばらにいる乗客のほとんどが青ざめて天井を仰ぎ、あるいは窓から顔を出して項垂れていた。こうなってくると自分がおかしいのか心配になってくる。

視線を正面に戻すと、ユニが窓外に目を遣っていた。早くも顔色が戻ってきており、未だぐったりとしてはいるが、先程と打って変わってうっすらとした笑みさえを浮かべつつあった。私は丁度そこで、彼女が生まれて初めてこの瞬間、この美しいエールゲン大草原帯を目にするのだという事実に気が付いた。

「以前からお話には伺っていましたが、ここまでのものだとは思いませんでした…」

「天候にも恵まれたな。普段の行いさ」

「それ、誰のこと言ってます?」

「もちろん俺の話だ」

 彼女に倣い私も、四角い枠の外に広がる翠緑色の海を見遣った。

 いつか同じように陸船に乗って駆け抜けた頃と変わらず、瑞々しく朗らかな景色は、函が導線の継ぎ目に乗り上げたてる騒音さえも小気味良い調子に変えてくれる。それはあくまで個人の認識の問題にすぎないがそれ自体が重要なことであり、景観という自発的な働きかけを行わないものが、それを見る存在の一方的且つ仮想的な受動によって他者へと影響を及ぼすという点において、何十年も前から摂理学者たちが興味を持ち続けているものの一つであった。まあ小難しいことを言って何を伝えたいのかと言えば、要するに四公領(アールファン)以南から果てしなく広がるこのエールゲン大草原が、ある人間の一生をそのまま呑みこむような魅力をも兼ね備えているということである。

先生(シスイ)、この原っぱには膝高草(セトリ)しか生えてないんですか?」

「どうだったかな。ずっと前にトマクラから聞かされて以来だからうろ覚えだけど…確か、他にも自生してたはずだぞ。地陰瓜(アビクラマ)とか荒地春菊(カナレンスィスマ)―――あ、思い出した思い出した。その他に四種類くらいか。てかお前、原っぱって言い方どうよ」

「こんなに広いのに?四公領の2.5倍くらいあるんでしたよね」

「…膝高草がちっとばかし特殊なんだと。優占種だかなんだか…覚えて無いねぇ」

 植物学について知識が乏しい私には、ユニの健全な知的好奇心を満たしてやることはできなかった。まあ、自分が常に彼女の質問に対して満足させてやれる答えを有しているというような、妙な己惚れ自体持ち合わせてはいないのだが。

「あ」

 眼前を白いものが通り過ぎていくと同時に、ユニが小さく声を上げた。流れ込んでくる風とともに、一片の白い羽根が彼女の腿の上に舞い落ちる。

 きつい曲路にさしかかり、函は緩やかな速度へ。遥か広がり、うねる翠色の波の上に、大きく広がった純白の翼が目に痛いほどに映えた。地がこんもりと一部盛り上がった地点に、膝高草より一回りほど大きな梟が背を伸ばし、こちらを眺めている。

「ユニは初めて見るか?」

 丘梟(セルールメク)は、いまのところ他に確認されていない、草原帯に群れで生きる梟だ。寒帯の荒野に住む白梟とよく似た外見を有しており、餌も似通っている。日中にもよく活動し、好奇心旺盛な性質の為に人工物に強い興味を示す。それゆえに函導線との並翔をしばしば目にすることができるというのも、有名な話である。

「図鑑と寸分たがわずおんなじですねぇ!やっぱり、セノメルカ先生は天才だ…!」

「……画師志望のやつは示し合わせたように同じ感想を揃えてくるんだな。セノメルカと院時代にゲマインシャフト領海沿岸に(シジ)(マクマ)見に行った時も同じようなこと言ってた」

 呆れ顔で返す。

 それでもユニはひどく楽しそうだ。わずか床にとどかない足をバタバタと動かし、上機嫌でいる。

 既にエウルシオン領クルルイズリ駅から十一の駅、三百里ほどを通過。船旅も終わりを迎えようとしている。あと一時間半もすれば、目的の駅に停泊する。そんな状況下で、ユニは今度の船旅で最も活き活きとした表情を、幼さの残ったそのあどけない顔に浮かべていた。  

遥か以前に通過した、エウルシオン領の整備された林道、ドゥーンシャフトの活気づく工場地帯―――いずれも彼女の好奇心をかきたてるに十分な物であったと言えなくもなかったが、今、彼女の目の前に広がる圧倒的な自然は、それらとはかけ離れた次元で彼女を魅了しているのだろう。

―――それとも、かつて幼かった彼女が自身の深層に厳重な封をした、あの記憶を触発する情景となっているのか。

あるいはその両方か。

「先生、見てください!これこれ!」

 はっと我に返り、ぼやけた視界が鮮明に変わると――――目の前で丘梟が、じっとこちら睨めつけていた。

 予想外のことにわずかな驚嘆の声をあげ、体をのけ反らせるのと同時に、ユニの喜色露わな笑声が耳に飛び込んできた。

「お前……あんまり大人を揶揄(からか)うんじゃないよ」

「あはははは!…そんな反応すると思ってなかったので―――先生、いつも落ち着いてるから、さらっと流されちゃわないか心配でした」

「あれは見栄張ってんだよ…にしても、相変わらず凄いもんだな。一瞬見ただけなのに、よくもまあそこまで細かく描ける。しかも速筆」

「へへ……褒められるのは嬉しいです」

 にこにこと心の底から嬉しそうに笑みを浮かべる彼女は、傍らの肩掛け鞄に、丁寧に絵帳を仕舞い込んだ。普段彼女は絵筆を使うことが多いが、船内ということもあって、鉛筆を使うことにしたらしい―――続けて、左手に握っていたそれを鞄に入れた。

 彼女が視線を上げるのと同時に、私は茶の注がれた長椀を差し出す。ユニはそれを両手で受け取ると、そのまま口へと運んだ。気持ちの良い飲みっぷりで、一杯を一口で空にしてしまう。少し前まで青ざめていた人間には到底見えない。

 小腹が空いていた私は焼き菓子を食みつつ、小さな絵描き少女の微笑ましい様子を眺めていたのだった。

「―――――……あ!先生ずるいですよ、私にもください!」

「…お前にゃしばらくお預けだ」


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