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虚飾のアリス ‐不死の少年と白黒の吸血鬼‐  作者: 竜馬
第3章 誘蛾灯に魅入られし少女
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第3章:38 『黒い門』

「――彼、あなたに対して全くと言っていいほど敵意を抱いていませんでしたね」


「…………」


 ぶつ切りにされた意識が覚醒すると同時に、隣から声が聞こえた。

 シンゴはその声には応えず、ゆっくりと突っ伏していた机から顔を上げる。

 木の木目が遠ざかり、まるで新品かと疑うほど不自然に綺麗な黒板が視界に映り込む。

 黒板の上にある時計は狂い、窓から見える外は光が一切ない漆黒の暗闇だ。


 ――どうやら、またここに来てしまったらしい。


 それが意味するのは、たった一つしかない。

 脳裏に蘇る光景は、視界全てを埋め尽くすほどの圧倒的な白い死だ。


「力……貸しましょうか?」


「――ッ」


 再び隣からかけられた声の提案に対し、シンゴは奥歯が砕けんばかりに歯軋りをする。

 この校舎とは別の世界から引きずってきた感情が爆発し、その矛先が目の前にあった机に向けられた。


 ――キサラギ・シンゴは持て余した感情を、机を蹴飛ばす事で発散する。


 謂れの無い暴力を受けて吹き飛んだ机が目の前の椅子と机を巻き込んで倒れ、大きな音を立てる。

 シンゴは突きだした足を下げると、膝の上に両肘を預けて顔を伏せた。

 そして怒りに肩を震わせながら、穴が開くほど床のシミを睨み付けて歯を食い縛る。


「あいつだけは……捏迷歪ねつまいいがみだけは、絶対に許さねえ……ッ」


 無暗やたらに無意味な嘘を吐き、己が楽しむ事しか考えていないあの道化だけは、決して許してはいけない。

 ずっと騙し続け、シンゴ達が必死に足掻く様を、特等席で笑いを堪えながら傍観する。その悪辣非道を決して許してはいけない。


「――っ」


 ――そして何より、モプラ・テン・ストンプの運命を嘲笑うかのようなその卑劣な所業を、決して許してはいけない。


 奥歯を噛み締め、握り込んだ拳を震わせながら、シンゴは怒りを孕む熱い息を吐き出す。

 胸の奥で渦巻く怒りは既に上限を振り切っている。今までの苦労が全てあの男の手の平の上だと知った今、『相棒』と親しげに呼びながらシンゴを殺害したあの男を、もうシンゴは仲間だとは思わない。


 ――あれは、捏迷歪ねつまいいがみは、キサラギ・シンゴの敵だ。


「でも、力が及ばない」


「ああ」


「向こうは悪意を向けてはこない」


「ああ」


「それでも、あなたは挑むんですか?」


「ああ」


 まるでその問いは、シンゴの中で怒りの熱によって溶け、複雑に絡み合った感情の一つ一つを問いという形で提示し、本人に答えを述べさせる事でもつれた感情を紐解いていくかのようだった。


 ――絡み合った感情を解く作業は続く。


「あなたはどうしたいんですか?」


「あいつを叩きのめしたい」


「それは殺すという意味ですか?」


「違う。殺さない」


「それは甘さでは?」


「そうじゃない。罪を償わせる。死んで逃げるなんて卑怯な真似はさせねえ」


 屈服し、積み重ねた罪の重さを自覚させ、相応しい罰を受けさせる。

 それが、キサラギ・シンゴが捏迷歪に対して行う戦い――粛清だ。


「相手は本来ありえない複数の特殊魔法を操ります。そのカラクリは未だ不明。対してこちらは、悪意のない彼に対して『激情』で強化された肉体しか使えない」


 悪意がない――その言葉が指し示す意味はシンゴには分からないが、確かに奴の多種多様に及ぶ特殊魔法は厄介だ。

 シンゴをここに送り込んだあの確殺の熱線は、防ぐ手段など存在しないだろう。

 まだ幾つか特殊魔法を隠し持っている可能性だって、十分に考えられる。


 だとしても――、


「あいつに届く力があるなら、それで十分だ。――それに、俺は死なない」


 そう、キサラギ・シンゴは死なない。

 何度も、何度も何度も、何度も何度も何度も、苦痛と死を伴ったとしても、再び立ち上がる覚悟はある。


「それではいつまで経っても彼を叩きのめす事は不可能ですよ。それにどうやら彼は、あなたの“片翼”を持っている。見ましたよね? 彼はあなたのような不死も持ち合わせています」


 一度目は炎弾によって負った火傷で。二度目は賀茂龍我かものりゅうがの拳による頭部の破壊で、捏迷歪は命を落としている。

 しかし奴は、無傷で立ち上がり、再びあの薄ら笑いをシンゴに向けてきた。


 そして死の間際、シンゴの拳を防いだあの黒い炎で出来た翼。あれは間違いなく、シンゴの紅蓮の炎で出来た翼と関係がある。

 そこから推察できるのは、あの男もシンゴ同様に不死だという事だが――。


「簡単に死なねえならむしろ好都合だ。先に心が折れた方が負け……それだけだ」


「あなたの心は折れないと?」


「折れない――なんて言い切るのは、さすがに無理だと思う。でも、あいつより先には絶対に折れねえ」


 実際に交わす拳が互いの肉体を抉ろうとも、その生命活動を止めようとも、勝利は心を先に砕いた方が得る。

 シンゴがこれから臨もうとしている戦いは、いわば心の殴り合いだ。


「はっきり言って、圧倒的に不利です」


「引き下がる理由にはならねえ」


 そう、シンゴが立っている位置は、もう引き下がる事は不可能な場所だ。

 道は前にしか伸びておらず、シンゴはもう一歩目を踏み出す覚悟を決めている。

 その道の先がどこへ通じてようとも、どれだけ痛みと苦しみに苛まれようとも、後悔はその道の先にしか存在しない。


「……では、改めて聞きます。あなたは彼と戦う道を選ぶんですね?」


「戦う。あのへらへらした鼻っ柱をへし折って、モプラの前で土下座させる」


「本当に――」


「しつけえぞ。俺はやる。何度ここに来ようとも、何度も目を覚ます」


「もうあなたも気付いているとは思いますが、ここから出るには死ななければなりません。理屈はベルフさんにでも聞いてください。……一度死ねば、二度死ななければならない。その覚悟はあるんですね?」


「俺は死ぬ。何度でも、死んでやる」


「……決意は、固いようですね」


「ああ」


 シンゴがそう短く応じると、問いかける声が止まった。

 このタイミングで初めて、シンゴは隣に顔を向けた。

 そこには、真剣な面持ちでこちらを見据えるカワード・レッジ・ノウの姿がある。

 カワードはシンゴの決意と怒りを宿した瞳を真っ直ぐ受け止め、やがて深々と嘆息した。


「なんとも夢物語な話です。倒した後、彼が素直に謝るような性格とも思えないし、すぐに逃げ出すのも目に見えている。穴を挙げ出したらキリがない」


 でも――と、カワードは楽しげな、それでいてどこか艶のある笑みを浮かべると、シンゴを真っ直ぐ見返してきて。


「あなたは理屈より、その胸の内で渦巻く激情を取った。――そういう事ですね?」


 金髪をさらりと揺らして小首を傾げるカワードに、シンゴは無言の気迫で是の意を返す。

 それを受けたカワードは、優雅な所作で立ち上がり、どこか敬意を表した目でシンゴを見下ろすと、静かに瞑目した。


「いいでしょう。あなたの覚悟は伝わりました。……ですが、相性の問題もあるでしょうけど、やはり僕では分が悪い」


 その言葉の内容とは裏腹に、声音からは落胆の色は窺えない。淡々と、ただ真実を述べているだけのように感じられる。

 シンゴが沈黙してその先を待っていると、カワードは閉じていた瞼を持ち上げ、くるりと背を向けた。そしてそのまま、教室の出口へと歩いて行く。


「おい――」


「付いて来て下さい。これからあなたをイブリースの元まで案内します」


 遠ざかる背中にシンゴが声をかけようとした瞬間、カワードがこちらに顔だけを振り返らせて、シンゴの言葉に被せるようにそう告げた。

 イブリースと会わせる、というカワードの言葉を受け、目を見開くシンゴ。そんなシンゴに対し、カワードは魔性を宿した笑みを浮かべると、


「どうやらあなたは、今回もちゃんと資格を持ってきているようですしね」


 またあの『資格』という不可解な単語を出し、固まるシンゴに向かって顎をしゃくる事でついて来いと示すと、カワードは教室の扉を開けた。



――――――――――――――――――――



「ここは……」


 暗く静まり返った廊下を二人分の靴音を反響させながら進み、カワードに導かれてシンゴが辿り着いたのは、いつかの階段だった。

 非常ベルの赤いランプによって照らし出された階段は、言い知れぬ寒気を感じさせる。


 同時に、魂を軋ませるような圧迫感が下から押し寄せてくるのを感じ、シンゴは思わず喉を鳴らした。


 ――蘇るのは、あの忌まわしき狂乱の記憶だ。


 『影』に追われてここに辿り着いたシンゴは、際限なく募る不可解な怒りに狂い、やがて想像を絶する頭痛に見舞われ、最後には転げ落ちた踊り場で『影』に貪り食われた。

 今はあの時のような感情の蓄積はないが、それでも足が自然と震えてしまうのは仕方のない事だった。


「この階段の下にイブリースがいます」


「この下に……」


「怖いですか?」


 呟くシンゴに、カワードがちらりと視線を向けて尋ねてくる。

 怖い――そう、怖い。この下には絶対的な何かがいると、己とは次元がかけ離れた存在がいると、本能が危険を告げてくる。


 ――おそらくその正体こそが、カワードの言うイブリースという存在なのだろう。


「大丈夫ですよ。今のあなたは、謁見の資格をちゃんと持っています。以前みたいに呑まれる事はありません」


「資格……それって、一体なんの事だよ?」


 この男との会話で幾度もなく出てきた『資格』という単語。

 話しぶりから察するに、それがあればあの感情の蓄積現象は起こらず、イブリースとやらに会う事が出来るのだろう。


 だが、相変わらずその正体が不明だ。

 形のある物ならば、シンゴは一切心当たりがない。前回ここに来た時も、シンゴは資格を持っていたらしいが。


 しかし前々回は資格を持ってきていなかったらしく、シンゴはあの感情の蓄積現象によって正気を失った。

 今回と前回、そして前々回の違いがシンゴには全くと言っていいほど分からない。


 疑問に眉をひそめるシンゴに対し、カワードは尻込みするシンゴを導くように率先して階段に足を下ろすと、そこで足を止めて半身で振り返った。

 その顔に浮かぶのは、物分かりの悪い子供に向けるような優しげなものであり、それとはまた別の感慨も含む微笑で――。


「――怒り、ですよ」


 そう短く『資格』の正体を告げ、カワードは階段を下り始めた。



――――――――――――――――――――



「…………」


 何か所目とも知れぬ踊り場を曲がり、シンゴはその下に伸びる真っ暗な階段を深紅に染めた右目で見下ろす。

 最初の踊り場を曲がった時点で、灯りは一切届いていない。それだけなら、右目の吸血鬼の瞳に宿る暗視能力があるので不便はない。


 ――問題は、階段がいつまで経っても終わらない事にあった。


 曲がり角を曲がって下を覗き込み、階段が続いている事を示す踊り場を確認し、心の中で落胆と安堵のため息を吐いた回数は、十を超えた辺りから数えるのを止めている。

 この延々と続く階段は、あの果ての見えない無限廊下とどこか似ている。


「……おい」


「もう少しですよ」


「そればっかじゃねえか……」


 この暗闇の中でも転ばず先を歩くカワードの背中に、シンゴが声をかけた。しかし返ってきた言葉は、何度も聞いた同じ文句だ。

 一歩一歩、踏み外さないように右目の力で段差を確認して下りつつ、シンゴはため息を吐く。


 しかしそんな態度とは裏腹に、シンゴは確実に己が目的の場所へと近付いているのを感じていた。

 理由は、下れば下るほど密度を増していく、圧迫するような重い空気だ。


 感覚的には、肉食獣に自ら歩み寄って行く感じに近いだろうか。もしくは、水圧の高い深海に向けて潜って行くような感じか。

 どっちにしろ、あまり気分のいいものではないのは確かだ。


「――!」


 圧迫感に眩暈を覚え始めた頃、不意に前を歩くカワードが踊り場を曲がった所で立ち止まった。

 不審に思ってカワードが見詰める先を見てみると、階段の下が今までとは違う作りになっている事に気が付いた。


 階段は途中で途切れ、その先は荘厳な雰囲気を漂わせる物々しい扉――いや、黒い門のようなものが存在していた。

 両開きの構造となっているその黒い門は、まるで闇を凝縮したかのように黒一色で、初めシンゴは異空間にでも通じているのかと空目したほどだ。


「ここです」


 階段を下り終え、黒い門の前に立ったカワードが到着を告げる。


「――っ」


 いざ目の前に立つと、その門の隙間から滲み出る冷気のような、熱気のような、感覚があべこべになりそうな空気に肌を撫でられた。

 瞬間、シンゴの全身に駆け抜けた感覚を言葉にするのは難しい。

 心臓の脈動が加速し、呼吸も浅くなり、全身から嫌な汗が一気に噴き出す。


「ぅ……」


 ――この門の奥に行くのは、絶対にまずい。


「ここから先は一人で行ってください」


「――は!?」


 黒い門の異様な存在感に戦慄し、思わず後ずさりそうになったタイミングで、隣のカワードから信じられない言葉が飛び出した。

 目を見開いて動揺を顕にするシンゴに、カワードは門を見詰めたまま、


「この先にいるのは、『大罪の獣』です」


「大罪の……獣?」


 復唱しながら瞠目するシンゴに、カワードは視線だけを向けてくる。


「ぼくは前任者……それも、その残滓のようなものです。ここから先に踏み入る事が出来るのは、資格を有した契約者――つまり、キサラギ・シンゴさん。あなただけです」


「……一方的な契約だな、おい。訴えるぞ」


 動揺を掻き消そうと無理やり頬の筋肉を持ち上げ、軽口を吐き出す。

 そして、目の前の黒い門に意識を向けた所で、シンゴは眉を顰めて動きを止めた。


「なあ……これって、どうやって開けんだよ?」


「まずは、門に触れて下さい」


「こう――」


 ――最後まで言い切る事無く、持ち上げた指が門に触れた瞬間、キサラギ・シンゴの姿が忽然と消えた。


「――――」


 カワードは無言で黒い門に背を向けると、そのまま階段を上り始める。

 そしてふと途中で立ち止まると、振り返って黒い門を見た。その瞳からは、彼が何を考え、何を感じているのかは一切読み取れない。


 カワードが黒い門を見詰めていた時間は、およそ三秒にも満たなかった。

 黒い門から視線を切り、暗い階段の上を見上げると、カワードは小さく嘆息する。


「あんな中途半端な状態じゃ、次の段階に進むのは確実に不可能ですね」


 そんな不穏な言葉を残し、カワード・レッジ・ノウはその場を後にした――。


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