第3章:37 『黒いカーテン』
「シアの嘘を見抜く力……」
「ん?」
目の前に悪魔がいる事はもう分かった。その性根が名前の通りひん曲がっている事も。
かと言って、決定的なラインをシンゴが踏み越えるには、些か勇気が不足している。
その踏ん切りのために、シンゴは希望を見出すためではなく、希望を切り捨てて、その悪意を見据えるための質問を吐き出した。
耳に手を当てて聞き返してくる歪を見返しながら、シンゴは胸を掻きむしるように押さえ、己の奥底で脈動を始めるドス黒い何かを解き放つ準備を始める。
シンゴは瞳の奥にぐっと力を込めて、悪魔を睨み付けた。
「シアの嘘を見抜く力だよ! お前はあの場でノーミ・エコの質問に対して嘘を吐いただろうが! なのにシアは首を横に振った……矛盾してるつってんだよ!!」
「ああ、あれね。いやぁ、ぼくもあれは勝算があった訳じゃないんだぜ?」
「だったらどうして……! それとも、さっきのが嘘か!?」
「――ふふ」
「――っ。なに笑ってやがんだてめぇ!!」
くつくつと含み笑いをする歪に、シンゴが怒鳴り付けるように叫んだ。
そんなシンゴの怒声を浴びつつ、歪は「いやぁ」と笑いの衝動を堪えながら、
「相棒は本当に甘ちゃんなんだなぁと思ってさ」
「……いいから、答えろよ」
ぎろり、と睨み返す事で応じるシンゴに、歪は「へぇ」とどこか感心したような声を上げると、やがて感慨深く頷き、壁にもたれかかっているシアを指差した。
「これはぼくの憶測だけど、あそこでおねんねしてるシアきゅんの嘘を見抜く力……あれはたぶん、彼の振動を把握する特殊魔法の応用で、対象者の心音や声音の微細な差異でも読み取って、それで真偽を判別してたんだろうさ」
「振動を把握……? お前、なんでそんなの知ってんだよ」
「おっと」
慌てて口を両手で塞ぐ歪を見て、シンゴは察する。あの男は、シアの使う特殊魔法の詳細を知っていたのだ。そしておそらく、テラの特殊魔法の事も。
それはつまり、知っていてシンゴ達には黙っていたという事になる。
「――っ」
――どこまで人をおちょくれば気が済むのだろうか。
シンゴは脈動を速めるドス黒い何か――いや、『激情』の権威を意識しつつ、熱い吐息を吐き出す。
「もう、それはどうでもいい。そんな事より、なんでお前はシアの目から……いや、耳から逃れられたんだ?」
「んー……いまいちぼくも分からないけど、たぶんぼくが“嘘つき”だからかな」
「嘘つきだから……?」
理解に苦しむシンゴを見て、歪は親友に向ける親しげな笑みで「ほら」と指を立てると、
「日常的に嘘を吐いてれば、いちいちそんな事で動揺なんてしないだろ? だから、ぼくの心臓は清らかなリズムを奏でたままで、声に関しても動揺なんてなかった……そんなところだろうさ」
「…………そうかよ」
「あ、納得してくれた? いやぁ、自分で嘘つきなんて言ったけど、ぼくは必要な嘘しか吐かないんだぜ? 他人を思いやり、自分を犠牲にする崇高な嘘さ。だから、ぼくは何も悪い事なんてしていないし、むしろ相棒の無能が悪い」
「――ッ。言わせておけば……!」
「あ、龍我さん。虎ねえさんは元気?」
「――ッ!!」
急に会話をぶつ切りにして、歪が龍我へ質問を発した。
怒りを通り越して絶句するシンゴを横目に見てから、龍我は視線を歪に戻すと、
「あいつの事は知らねぇ。……そんな事より日向、お前はまだ奴を追ってるのか?」
「――――」
龍我の第三者を匂わせる問い返しに、しかし歪は無言の微笑を返すだけだ。
そんな歪の反応を受け、龍我は何やら痛みを堪えるように顔を歪めると、ゆるゆると首を振り視線を下げた。
「あいつが死んだのはお前だけの責任じゃない。俺にも……いや、俺にこそ責任がある」
「…………」
無言で応じる歪に、龍我は確固たる意志を秘めた瞳で顔を上げた。
「奴は……『大食』は俺がどうにかする。だからお前はこれ以上、罪を重ね――」
「龍我さんには無理だ」
「そんな事はねぇ――ッ!!」
歪の否定の言葉に、龍我が抑え込んでいた感情を爆発させた。
シンゴの耳でもはっきり聞き取れるほどの歯軋りをし、龍我は拳を震わせる。そんな龍我を歪はどこか見下すように見やり――、
「龍我さんには無理だ」
「――ッ」
同じセリフで否定され、龍我は反射的に足を前に踏み出すが、すぐに自重するかのように身体の力を抜いた。
シンゴはそんな二人のやり取りを受け、この二人のただならぬ過去の一端を垣間見たような気がした。
そこにはシンゴでは推し量れない重みがあり、想いがあるのだろう。
だが、それとこれとは話が別だ。歪のした事を許す気はないし、同情する気も全くない。
「そう、龍我さんじゃ力不足さ。あいつは『罪人』の中でも、文字通り次元が違う。それが分からない龍我さんじゃないはずだよね?」
「だが……!」
尚も食い下がろうとする龍我に、歪は深々と嘆息すると、突き放すような冷たい表情を浮かべた。
「あんた如きじゃ、数秒もこの世界に存在していられないよ。そんな駄々をこねる子供みたいな事言ってないで、大人しく蛇のように丸まっていてくれよ。それと、ぼくの邪魔はするな」
「……っ」
俯き、肩を震わせる龍我を横目に見ていると、声の調子を先ほどとは別物に変えた歪がシンゴに話を振ってきた。
「そうだ相棒。一つ、面白い事を教えてあげようか?」
「……あ?」
「やだなー。そんな怖い顔しなくても、さっきみたいな相棒の心臓によくない事じゃないって。信じてくれよ、ぼくは正直者なんだぜ?」
「どの口が……っ」
吐き捨て、警戒して目を細めるシンゴに、歪は口元に手を当てて笑いを堪えるように含み笑いを浮かべると、
「だって、心臓に悪いのは、どちらかと言えばウルトさんだぜ?」
「な……ウルトさん!?」
全く予想していなかった名前が出てきて、シンゴは驚愕に目を見開く。そしてすぐに、嫌な予感と想像が脳内を駆け抜けた。
ウルト関連で真っ先に想い浮かぶのは、子供達の事だ。
まさかとは思うが、この男――。
「お前……子供達に何しやがった!?」
牙を剥いて吠えるシンゴに、歪は「誤解だぜ相棒〜」と困り顔で両手を振る。
「何もしてないし、何もするつもりはないさ。ただ、ぼく達がウルトさんの元に集まっていた時に、ウルトさんが歴史上類を見ないほど危険な状況にあったんだぜー、って話をしておきかったのさ」
「……どういう意味だよ、それ?」
緊張で流れる汗を拭い、次に歪の口から語られる内容に身構えるシンゴ。
しかし、シンゴが予期していたような答えは返ってこなかった。いや、そもそも答えそのものが返ってこなかった。
「それは、ヒ・ミ・ツ、さ」
「お、お前……何が言いてえんだ……ッ」
満面の笑みでサムズアップを向けてくる歪に、シンゴは内心言い知れぬ焦りを感じていた。
話の根幹に触れようとした瞬間、全て有耶無耶にされる。それに加え、順調に会話が進んでいたかと思えば、急にリズムが百八十度も変化する。はっきり言って、非常にやり難い。
同時にシンゴは悟る。既に己は、捏迷歪の術中に完全にはまり込んでしまっているのだと。
今までシンゴ達を助けてくれた歪の特性のようなものが、今はシンゴに牙を剥いて来ているのだ。
――ペースは完全に、向こう側だ。
「ぼくは他人の楽しみまで奪うほど薄情じゃない。ぼくは新人に優しい、ホワイト上司な捏迷歪きゅんだからね」
怪しげな笑みを浮かべ、しゃあしゃあとのたまう歪。
そんな不真面目な態度を受け、シンゴは奥歯が砕けんばかりに歯軋りする。
その様子をニヤニヤとした笑みで見やりながら、歪は「それにしても」と肩を竦め、
「こうしてネタばらしした訳だけど、何か物足りないないんだよねぇ。やっぱりもう少し熟してからの方が断然よかったぜ。――でも」
腕を組んで首をひねっていた歪だったが、不意にニヤリと口角を持ち上げた。
そして、何やら思い出すように視線を宙に漂わせ、その笑みを深めていく。
「何笑ってやがんだよ……気色わりぃ」
「そりゃないぜ相棒! いやさ、ちょっと面白そうな事を思い付いちゃったんだよ」
「……何を」
「モプラちゃんとノーミ・エコ。騙されてるとも知らず、二人共ぼくの提示した虚構の希望を前に、凄くいい顔で笑ったんだ」
シンゴのセリフに被せるように、歪が恍惚の表情で言った。
「でも、やっぱり本人の前でぼくの口から言いたかったぜ。嘘でしたー、ってさ!」
「……やめ、ろ」
「ノーミ・エコはまだ可能性があるけど、モプラちゃんはもうダメだ。相棒にバレちゃった時点で決して叶わない夢になっちゃったからねぇ。あーあ、見たかったぜ。――絶望に堕ちる表情」
「やめろ――ッ!!」
歪の口から吐き出される一言一言に、シンゴの中でドス黒い脈動が激しさを増していく。
俯き、歯を食いしばりながら、シンゴは耳を両手で塞ぐ。
ここに来て嫌になったのだ。彼と――捏迷歪と敵対する事が。
これ以上先を聞いてしまえば、歯止めが効かなくなる。前には進みたくない。でも、後ろには絶対に戻る事は出来ないというジレンマ。
そう、道は前にしか続いていない。
このままいけば必ず、キサラギ・シンゴは捏迷歪と戦わなくてはならない。
あの憎たらしい顔面を殴り飛ばしたくて仕方ない衝動と、その一線を越える事に対しての躊躇。その二つがシンゴの中でせめぎ合い、心が激しく揺さぶられる。
そして皮肉な事に、そのせめぎ合いの余波が、『激情』の脈動をより強く、高みへと押し上げていく。
――ドグン、ドグン、ドグン、と。
疼くような痛みが、脈動に伴って波のように押し寄せてくる。
シンゴは荒い息を吐きながら、胸を押さえて苦悶の表情を浮かべる。
「おい、お前……」
隣から憂慮を含んだ声が聞こえるが、今は応じている余裕がない。
もう、自分で自分が分からなくなってきていた。捏迷歪を許さないと決めたのに、いざとなったら尻込みする。矛盾だらけだ。
でも、この矛盾は決して軽視してはいけないもののはずだ。
シンゴは苦渋の表情で、目の前に伸びる暗い道を拒み続ける。
そんなシンゴを見て、歪がどこか自嘲を含ませながら――笑った。
「ほんと、世の中ってのは騙されやすい奴ばっかで……ぼくはその能天気が、心の底から羨ましいよ」
――瞬間、シンゴの心音と、ドス黒い脈動が完全にリンクした。
「い……がみぃぃぃッッ!!!!」
「――!? よせッ!」
駆け出そうとしたシンゴの手を、龍我が咄嗟に捕まえた。
だが――、
「放せぇ――ッ!!」
「――っ!?」
憤激に歪む振り返ったシンゴの顔――その左目だけが紫紺に染まっており、片側を欠いた紫紺の瞳と視線がぶつかった瞬間、龍我が顔を引き攣らせながら硬直した。
その隙に龍我の手を振り払い、シンゴは真っ直ぐ歪へと駆け出す。
彼我の距離は五十メートルにも満たない。だが、瞬きにも満たない間に、シンゴの身体は歪のすぐ目の前にあった。
当の本人であるシンゴに、その異常な速力に対しての驚愕が見られない。それは、奥底から湧き出す激情に塗り潰されて意識していないからだ。
「――っ」
一瞬で目の前に現れたシンゴに瞠目する歪。
そんな情報さえ、シンゴの真っ赤に染まる意識は不要と判断して、意識外へと弾き出す。
キサラギ・シンゴはただ純粋に、煮え滾るようなその衝動に身を委ねるだけだ。
「ま、待って相棒――!?」
歪の慌てた叫びを無視し、シンゴはその激情を拳に乗せ、目の前にある顔面へと真っ直ぐ解き放った。
空気を穿ち、本来のキサラギ・シンゴのものとは一線を画する威力を有した拳が、対象へと吸い込まれるように伸び――
「なんちゃって」
「――!?」
不意に視界を覆うように広がった黒いカーテンが、シンゴの拳を受け止めた。
黒いカーテンが一気に翻り、シンゴは弾き飛ばされる。
後ろへ弾かれながら、シンゴは緩慢に流れる世界の中でそれらを見た。
翻った黒いカーテンが、寄り添うようにして歪の左肩に戻って行くのを。
黒いカーテンの奥から現れた歪が、シンゴへ照準を合わせるように人差し指を向ける姿を。
「いいぜ、喧嘩をしよう。――ぼくの“番”」
左肩に黒いカーテン――否、“黒い炎で出来た翼”を揺らめかせながら、捏迷歪は不気味なほどはっきりと通る声で詠唱した。
「『トランスフィックス・レイ』」
――次の瞬間、その指先から極大の白い熱線が放たれ、キサラギ・シンゴのへそから上を全て蒸発させた。




